宣教メッセージ2020-06-03T14:31:38+09:00

次世代が宣教に燃えるには

仁戸名聖書バプテスト教会伝道師 小林 太秀

「主はヤコブのうちにさとしを置きイスラエルのうちにみおしえを定め私たちの先祖に命じてその子らに教えるようにされた。後の世代の者生まれてくる子らがこれを知りさらに彼らがその子らにまた語り告げるため。」詩篇78篇5~6節

後の世代の者を教えなさい

「後の世代の者を教えなさい」これは神がイスラエルの民に繰り返し命じられたことの一つです。またパウロもテモテに向かって「私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。」(Ⅱテモテ2:2)と言い、次なる働き人を育成するように言いました。ところでなぜ聖書は後の世代の者を教えていくことを重要なこととして教えているのでしょうか。その最大の理由は後の世代は自然には育っていかないからです。もし私達が何もしなくても後の世代の者が自動的に育っていくのなら、神はこれほどまでに繰り返して「後の世代の者を教えなさい」ということは言われなかったでしょう。もちろん「門前の小僧、習わぬ経を読む」ということも事実でしょう。私自身も牧師の子供として生まれ、日曜日は教会に行くなどといった生活習慣は自然と身に着いていきました。しかし自分自身の信仰の確立や献身について振り返った時、ジュニアキャンプや青少年のためのプログラムから大きな影響を受けたことを覚えています。それらは後の世代を教えるために“意識的に計画されたプログラム”でした。誰かが後の世代のためにキャンプなどを計画し、犠牲を払って奉仕してくださったので私は信仰的に大きく成長できました。

「後の世代は自動的には育たない」が真実であるなら、宣教に対する重荷も自動的には与えられないということになります。特に海外宣教は私達の日常にはありません。後の世代が宣教に燃やされていくには、海外宣教について知り、それを自分のこととして受け止めていくことができるような体験が必要となってきます。特に若い人々の信仰成長にとって宣教の重荷を持つことは大変重要です。なぜなら人生において最も重要で価値あるものは何か、ということがはっきりしていなければ、それほど重要でなく大した価値もないようなものに人生を費やすようになってしまうからです。この世には若い人の興味を惹きつける様々なものがあふれています。しかし私達の時間やお金には限度があるので、何に時間とお金を費やしていくか賢く取捨選択をしていかなければなりません。その際の取捨選択の基準は「自分にとって価値あると思えるかどうか」です。人は自分にとって価値があると思えるもののためなら喜んで時間とお金を費やしていくことができます。若い人は教会が真面目臭くて楽しくないから教会から離れていくのではありません。教会よりもこの世が提供してくれるものの方が自分にとって価値があり、優れたものだと思ってしまうから教会を離れてしまうのです。

福音宣教の働きの価値

「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3:16)とあるように、神様はイエス様をお与えになるほど失われた魂を救うことに価値を見出していました。イエス様はご自分の命を犠牲にしてまで人間を救おうとされました。神様の目から見て失われた魂を救うこと以上に重要で価値ある働きはないのです。そしてこの福音宣教という価値ある重要な働きを行うことができるのは救われたクリスチャン以外にいません。私達が他の人よりも先に救われたのはまだ救われていない人に福音を伝えていくためです。若い人が若い時に救われたのにも神様の計画と意味があります。若い人にはまだ多くの時間が残されています。その長い人生を福音宣教のために費やしていくことができるのは素晴らしい恵みだと思います。もし若い人が本当にこの福音宣教の働きの価値を見出すことができるなら、自ら進んで教会に通い、聖書を学び、奉仕をしていくようになるでしょう。またもっと神様の力と助けを求めて熱心に主を祈り求めるようになっていくでしょう。そして自分の進路を考えるにあたっても当然、宣教師や牧師という選択肢も含まれ、そのことについても祈るようになるでしょう。しかしもし若い人が福音宣教に価値を見出すことができないなら「教会生活は必要最低限にしておいて、世のことに沢山エネルギーを注ごう」ということになってしまうのではないでしょうか。若くして救われたという恵みを無駄にしてしまうのはなんと大きな損失でしょう。神様はその人を用いたいと願っておられて、その人を通して救われるはずの人がいたかもしれません。しかしそれを全く無視してしまっているのです。それはあたかも親切なサマリア人の例えに登場する祭司やレビ人のようなものです。彼らは聖書知識には精通していましたが、目の前に横たわっている死にかけの旅人を救おうとはしませんでした。「自分にはもっと他にやるべきことがある」と考えてしまったのがその一因でしょう。神様は彼らにこう問われるのではないでしょうか。「目の前にいる死にかけの人を救うこと以上にやるべき大切なこととは一体何なのか」と。命を救うことの価値や重要性が分かっていないと優先順位がおかしくなってしまうのです。これは失われた魂についても言えることではないでしょうか。

若者が宣教に重荷を持つために

さて、後の世代が自動的には育たないのだとしたら、宣教に対する重荷が与えられるような若者向けのプログラムが必要になってきます。後の世代を育てることは主から与えられた私達の責務なのです。感謝なことにJBBFでは海外宣教委員会の発案により、青少年宣教キャンプが2008年より開始され1回も途切れることなく毎年夏に行われています。また諸教会でも若者が宣教に重荷を持つための様々なプログラムが行われていることでしょう。多くの人の献身的な奉仕によって宣教キャンプは支えられています。宣教キャンプに限らず次世代の育成には多くの労力と時間がかかります。これはすぐに結果を見ることができない困難な働きです。しかしすぐに結果が見えない困難な働きだからこそ、後回しにせず今から地道に取り組んでいく必要があるのです。そこで必要とされるのは主のため、次世代のために自らをささげる働き人です。未来のために今をささげる人が求められているのです。

今日をささげる

インドにあるコヒマという場所は第二次世界大戦中における激戦地の一つでした。各地から招集された兵士達は敵の手から祖国と愛する人を守るために必死に戦い、命を落としていきました。コヒマにはそこで命を落とした兵士4064名の墓が建てられており、その墓石には次の言葉が刻まれているそうです。「故郷に帰ったら家族に我々のことをこう伝えて欲しい。“あなた方の明日のために我々は今日を捧げた”と」。未来はこのような献身的な人達によって築かれていくのです。明日の宣教を担う次世代のために私達も今日をささげていこうではありませんか。

ペルシアの離散民

名古屋聖書バプテスト教会 上田 平安

「ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように。」ネヘミヤ記1:11

ペルシア帝国に離散していたユダヤ人

今から2500年前、ペルシア帝国がアジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸をまたにかけ、「史上初の世界帝国(阿部拓児氏の表現)」として君臨していました(エステル記1:1)。当時、かつてのイスラエルを含む地域は、アラム語で「アバル・ナハラ(エズラ記 5:3原典)」と呼ばれる行政区に編入されて国家的な独立を失い、ユダヤ人たちは各地に離散して生活していました(エステル記9:16)。というのも、紀元前587/586年に、バビロン王ネブカドネツァル軍の侵略によってエルサレムは既に陥落しており(第2列王記25:1-12)、イスラエルの地における王国の制度は、終焉(しゅうえん)を迎えていたからです。残虐な侵略者たちに降伏したユダヤ人たちや、その他の戦火をまぬがれた者たちも異国の地に捕え移され(第2列王記25:11-12)、ユダヤ人たちは祖国を失って離散民となってしまっていたのです。

ペルシア帝国における離散民の哀願

エルサレムを廃墟とし、多くのユダヤ人を捕らえ移したバビロニア帝国は崩壊し、メディアと合体したペルシア帝国が世界の覇権(はけん)を握りました(ダニエル書8:1-20)。ペルシアが世界を治めるその時代には、ユダヤの離散民が帝国の心臓部で活躍していました。若い時分にバビロン捕囚を経験し、バビロニア帝国からペルシア帝国へという時代の転換期を経験したダニエル(ダニエル書1:1-12:13)、ペルシア王アルタクセルクセスに献酌官という責任ある立場で仕えたハカルヤの子ネヘミヤ(ネヘミヤ記1:1、11)、クセルクセス王の寵愛(ちょうあい)を受けたエステル王妃(エステル記1:1-9:32)、クセルクセス王の次の位に就き偉大なる者と称えられたモルデカイ(エステル記10:1-3)をその例として挙げることができます。

ダニエル、ネヘミヤ、エステル、モルデカイに共通していたのは、同胞を思って哀(あいがん)したということでした。ユダヤ人たちの惨状を嘆き、その嘆きが哀願へとつながりました。廃墟となったエルサレムの方角に窓を開いて祈ることを良き習慣としていたダニエルは、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が70年であることを悟りました(ダニエル書6:10、9:2)。そして、彼は「追い散らされた先のあらゆる国々にいる、すべてのイスラエル(ダニエル書9:7)」のことに思いをはせ、深い悔い改めをもって、廃墟となったエルサレム神殿のすみやかな復興を神に哀願しました(ダニエル書9:1-19)。ネヘミヤもまた捕囚の生存者たちの困難と恥辱(ちじょく)を嘆き、城壁や城門が焼き払われたエルサレムを思って主に嘆きの祈りをささげ、アルタクセルクセス王に都の再建許可を願ったのです(ネヘミヤ記1:1-2:5)。さらに、ペルシア帝国全体に離散しているユダヤ人たちがジェノサイド(=集団虐殺)による民族消滅の危機に瀕(ひん)しているとき、モルデカイは帝都スサで粗布(あらぬの)をまとって嘆き、世界中のユダヤ人たちもまた悲劇の通達を知って、断食をしながら悲しみの声をあげました(エステル記4:1-3)。また、ペルシア帝国のすべての州において、ユダヤ人が老若男女すべて根絶やしにされる悪夢の日が迫る中、エステルは命を賭(と)して世界帝国の王クセルクセスにユダヤ人の助命を嘆願して聞き入れられたのです(エステル記7章)。嘆く力、哀願する力を主によって与えられた離散するユダヤ人の声が世界に鳴り響き、ついに天の神が動かれたのです。ペルシア帝国の時代、多くのユダヤ人たちが祖国に帰還し、エルサレムの神殿は再建され、民族的消滅をまぬがれ、エルサレムの城壁も建て直されるという奇蹟が起こりました。

「離散民化」する世界

ところで、ある宣教学者が21世紀の人口学的特徴は世界規模の「離散民化」にあり、それに応じて宣教のあり方も変化しつつあるという見解を提示しておられました。バビロン捕囚によって捕らえ移された人々が離散民としてペルシア帝国に生きていたことを学びましたが、現代では、人々が内戦、飢饉、宗教弾圧、政治的、経済的理由等によって空間的な移動を余儀なくされるという現象が、世界中で大規模に起きているのです。そして、多くの人々が祖国を離れて「離散民」として生きているという現実が、21世紀のひとつの特徴であると言われます。2000年の統計では移民の数が世界総人口の3%でしたが、2020年の統計ではさらに増加して3.6%になりました。

ペルシア語圏の離散民

かつてアケメネス朝ペルシアの主要な地域であったイランやアフガニスタンも、「離散民化」の歴史をもつ国々です。イランでは1979年にイラン革命が起こり多くの人々が祖国を離れました。同年、ソビエト連邦がアフガニスタンに侵攻して内戦が始まり、アフガニスタン全土で600万人が難民となりました。また、最近では2021年8月、駐留外国軍の撤退にともない、イスラム主義勢力のターリバーン(Ṭālibān)が復権して、数十万人規模の避難民が発生したことは記憶に新しいでしょう。名古屋市でもアフガニスタンの方々が事実上の難民として生活をしておられます。

私事ですが、ずいぶん前から、ペルシア語を話す人たちに特別な感情があります。近所にイラン人の家族が住んでおられたり、高校時代の親友がイランにルーツがあってペルシア語をよく教えてもらっていたのがその理由だと思います。2001年にアフガニスタン紛争が勃発してからは、イランだけでなく、ペルシア語(公式名称:ダリー語)話者が多く住んでいるアフガニスタンにも興味をもつようになりました。伝道者になってからは、主のお導きにより、公立の小学校などで、ペルシア語を話すイラン人やアフガニスタン人の日本語指導や生活支援をする機会も与えられ、ペルシア語圏の方々がさらに身近になりました。しかし、残念なことに、アフガニスタンやイランから来日された方々の中には、政治や宗教の理由で、国を離れざるをえなくなった事実上の難民も多く、「離散民」としての悲しみに共感したいという感情も芽生えています。

結語

祖国に帰ることができない方々の気持ちを理解することはできませんが、ひとりのアフガニスタン「難民」の児童が、ペルシア語訛りのたどたどしい英語で私に言った次の言葉を忘れることができません。”I am very lonely, sad, and angry.”(僕はとてもさびしいし、悲しいし、怒っている。)祖国を離れて生活せざるをえなくなった子どもたちのたましいの声を聞いた思いがしました。

名古屋聖書バプテスト教会には、祖国を離れざるをえなくなったペルシア語圏の方々が、時折、礼拝や特別行事に参加してくださいます。福音の種を少しずつまいています。まだ信仰告白をした方はおられないのですが、いつか、ペルシア帝国に住んでいたあのユダヤ人の離散民たちのように、異国の地で主に叫び求め、主に真の救いを哀願する者となれるようにと願います。世界中で離散民として暮らしておられる方々に、まことの幸(さち)がありますように。

行って、弟子として、教える

インドネシア派遣宣教師 広瀬 憲夫

広瀬先生

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイの福音書 28章19~20節

世界宣教の模範者に従う

「兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」(ピリピ3:17)

戦後まもなくの日本に、突然吹き始めた風に乗って、とでも言うように御霊に導かれて来てくださったラージャス宣教師ご夫妻は、外国人と身近に接したことがなかった田舎者の私にとっては、「世界」そのものでした。

私がイエス・キリストを信じて救われた調布バプテスト・テンプル(現 調布聖書バプテスト教会)で印象的だったのは、救われて間もない私に普通の青年教会員が熱く世界宣教を語ってくれたことです。そのような教会を建て上げるために、宣教スピリットを育てるために長年に渡って調布の教会、いえ、フェローシップと共に歩んで下さったラージャス師の存在そのものが、敵をも隣人とみて愛し、「行って」との御言葉に従って遠路はるばる出かけて実践する世界宣教とは何かを現していると思います。行ってなすべき世界宣教とは何でしょうか。

告知する働き

第一に、お一人の神が一つの世界、一つとなるべき人間を創造して下さって、神が人と共にいて下さることを実現するために贖いがなされたことを告知する働きです。祈りは、共におられる神との会話。それを実感させてくれたのがラージャス先生でした。

相談事に行くと必ず言われる言葉が、「兄弟、祈りましょう」。神こそが私の相談事を持っていくべきお方で、私の祈りを聞いてくださるお方だ、そして答えてくださるお方、ということを実践をもって示して下さったのです。そのようにして導かれている教会で行われている祈り会もまた、二人ずつのペアで祈りの人々を経験する貴重な機会でした。教会に行き始めた頃、「この人たちは本当に神様に語りかけている!」と感じさせられた事も記憶に深く焼き付けられています。「弟子としなさい」とは、神に額ずく人を育てる働きなのだと教えられたのでした。

教える働き

第二に、世界宣教とはイエス・キリストが命じられたすべてのことを、一点一画過たずに守るように教える働きです。その「すべて」を一言で言い表すなら、キリストが弟子たちを愛したように互いに愛し合うことです。この神の真理を頭で理解するだけではなく、それに従って行動を起こすほどに、何をすれば良いのかをはっきりとわかる説教をすることです。

日曜学校でどのように視聴覚教材を使うか神学校で学んだものですが、それを礼拝説教にも実践すべきことを、ラージャス先生の説教で目の当たりにさせられました。ある時、大きなタイヤを講壇の横に置いて、このタイヤを自動車にそのままはめて使えるかどうか会衆に問いかけたのです。パット見には全くわかりません。でも自動車をよく知っている人が近くに行って調べると、バランスを調整する小さなフックがない、とわかったのです。そのままで走り出したら危険だ、小さくても重要な一点が欠けては大事故につながる、という例話でした。

世界宣教は、慣れない外国語で伝えることが基本です。微に入り細に穿つ説明を言葉ですることはできない、と諦めざるを得ない状況で、それでもなんとかしてわかってもらって、主の命令を実行できる教会を育てなければならないのです。宣教師自身が何かをすることによってではなく、教会によって神の栄光が現されるように、できることはなんでもするのが宣教なのだ、と教えられたのでした。

神への信頼

そして、世界宣教の実践は、神への信頼の結果です。鼻から息をするものを信じるのではなく、主を信じることによってなされるのが世界宣教です。弟子を創り育てるにあたって、自分が指導したことで弟子が育つと思うのは明らかに間違いです。永遠の命を与えてくださるのが神ご自身であるのと同様、成長させてくださるのも神です。今自分の目の前にいる一人の信仰者が主の弟子であって、神の御霊に導かれていることを信じて、共に活動することが求められているのです。

イエス・キリストの弟子たちが二人ずつ遣わされてでかけたように、一緒に訪問し、一緒に個人伝道し、一緒に汗を流しながら御言葉を共有することで、弟子は育てられていきます。

救われて2年目に、献身し神学校に行きたいと表明した、信仰において全く未熟な若造を、ラージャス先生は、召されたという告白の言葉に詮索も疑義も出さず、「成長させてくださるのは神である」と、神に信頼して若輩者を神学校に推薦してくださいました。入学時に持っていた参考書は、それまで使っていたハーレーのハンドブックと、入学祝にプレゼントされた、教科書として使われるギリシャ語の文法書だけでした。その後、卒業して2年間の母教会でのインターン期間を経て、諸教会訪問させていただき、翌1990年12月にインドネシアへの渡航となったのでした。

共に学ぶ

現地の人達がそれまでどのような神の導きを受けてきていたのか、神はこの人たちに今何をしようとしておられるのか。現地入りしてからは、現地の人達と共に御言葉を学ぶ日々でした。その基本は、神が命を与え成長させてくださる、という確信であり、私も共に学ぶ一人に過ぎない弟子だ、という思いです。

宣教師として、言葉で神の真理を説明することが難しい地に出ていって、これまでの歩みを振り返り、つくづくと感じたことがあります。それは自分はいかに、実際に手取り足取り、宣教師の働き方を教えていただいていたか、ということです。

母教会から二人の青年が宣教地に2週間滞在していってくれました。「赤ん坊に戻った気分」という感想でした。言葉がわからず、右も左も分からない、ただ手を取ってもらってついていくだけだった、と。
私たちは、自分を取り巻く世界について、すでによく知っている、と思い違いをしてしまいがちです。そうではなく、御霊に導かれながら日々を歩むことを体得するのが、弟子としての歩みでしょう。世界宣教に関わることは、その実践の学びなのです。神が私たちに「行って」と命じられているのは、そこで神ご自身が教えてくださることを学び取れ、という目的があるからだと思わされます。

自ら覆いを被る愚かさを知る

桶川バイブル・バプテスト教会牧師 内島 隆

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。コリント人への手紙 第二 3章18節

主の御前における私達

ユダヤ教徒たちは、律法を守り行う自分の行いが救いに至る道だと思っていました。ところが、その思いこそが覆いとなり、あろうことか待ち望んでいたはずのキリストを、自らの手で十字架に着けてしまいました。

しかし、同じ罪人である私たちは、決して彼らをとがめることはできません。かつては「神などいない。生命は偶然の産物で進化した。」そう言って、仕事、収入、家庭、教養、健康、運勢など神ならぬものを拠り所として生きる偶像礼拝者でした。神を信じて律法を厳守しようとするユダヤ教徒たち以上に、罪の覆いのうちに閉ざされていました。

そんな私たちのためにも、キリストは人となって世にお生まれになり、その人生に寄り添い、ついに十字架の死と復活をもって私たちの罪を贖い、御国への道を開き、絶望とむなしさの覆いを取り除き新しい命、新しい人生をお与えくださいました。今日その恵は、キリストが父なる神のみもとからお遣わしくださっている神の聖霊によってもたらされています。

こうして私たちは、偶像ではなく真の神を礼拝する者とされ、鏡のように主の栄光を映し、世に向かって大いにイエス・キリストを証しする者とされました。

私の愚かさ

2018年に、ある国の地下教会を訪ねました。宣教師が昇天されて以後、捕縛を恐れることなく無牧の教会を守り続けている彼らの信仰に、励ましを得たいと思っていましたし、彼らは修養会を計画しており、御言葉の御用の依頼も受けておりました。とは言っても私は宣教師ではありません。しかも伝道者としての経験は桶川での12年だけ。加えて日本との通信手段が検閲されているため、あらかじめ打合せをすることが出来ません。現地へ行ってから準備するよりないという、じつに消極的な条件ばかり。しかしその一方で、休暇をとってまで準備をしてきた彼らの姿があっては、到底後ろを向く気にはなれません。宣教師がお使いになっていたデスクをお借りし、恐れつつ祈りつつ御言葉の準備をさせていただきました。

修養会の二日目、御言葉に様々な応答があるなかで、なんと一人の兄弟が献身したのです。夢を見ているのかと思いました。今まで私の働きを介してそんなことを言い出した人は一人もいません。どうしてこんなことが起きたのか、聖書に「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とありますように、聖霊なる主が彼をお召しになったからに他なりません。

そもそも私たちが授かっている御言葉には、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」とおっしゃるイエス様の御心が伴っているものであって、それを誰かが語るならば、聞き入れたあらゆる国の人々に、神の御業が現れるのは当然ではないでしょうか。

後にコロナ禍によって厳しい移動制限政策がなされる中、地下教会では、献身した兄弟が亡き宣教師が残したテキストを頼りに御言葉を取り次ぎ、教会を守るべく奮闘したそうです。私は「宣教師ではありませんから。」と自ら覆いをかぶっていました。それだけに「主と同じかたちに姿を変えられ」続けなければいけないことを痛感したのです。

福音宣教に励む教会へ

私たち夫婦が宣教地から帰って後、一人の兄弟が宣教地訪問をしたいと申し出ました。そこで、折々励ましを頂いている田村宣教師にお願いして、彼をインドネシアに派遣させていただきました。

帰国後、彼の報告によると、礼拝の折に救いの証をさせていただいたところ、一人の日本人求道者が、彼の証しを聞こうと出張先から飛行機で戻って来たのだそうです。

救いの証、それはイエス・キリストの福音そのものではありませんか。それを語る兄弟はもちろん宣教師ではありません。しかし、求道者に福音をもたらすことは、もとより主の御心です。福音書には、イエス様が行かれると大勢の群衆が集まってきたので、御言葉を語られたと記してあります。私たちはこの方と同じかたちに姿を変えられている過程にあります。そうであれば、兄弟が福音を語り、求道者が求めてやってきたのも、聖霊なる主の働きによることではないでしょうか。宣教師であれ、牧師であれ、信徒であれ、それぞれ与えられた奉仕の働きは違っても、授かっている御言葉と救い、そして御霊は同じです。与えられた御言葉の恵みは、自分だけに留まるものと思ってはいけません。あらゆる国の人々のためにも、主が恵みをもって私たちに託してくださっているのです。

これを機に私達は、通常の祈祷会とは別に宣教祈祷会を設け、宣教地から届けられる報告や、宣教地訪問によって得た情報を頼りに、国内外の宣教を覚えて定期的に祈ることを開始しました。

展望

昨年の桶川教会のクリスマス集会に、8名の新来会者と6名の再来者がありました。こんなことは今までになかったことで、身近にも求めている人々がいることを示されるクリスマスとなりました。

この2023年も私たちは福音宣教の働きに励み、再び覆いを被ることなく鏡のように主の栄光を映すものとして、聖霊なる主の御業にあずかり続けたいと思います。

主から託されている大きな働き

上越聖書バプテスト教会牧師 加治佐清也

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。ヨハネの福音書 14章12節

十字架にかかる前夜、イエス様は地上に残される弟子たちに最後のお話しをされました。その中でイエス様は、冒頭のみことばを語られました。信じる者には、主のお働きが託されています。私たち教会は、この時代にあって、どのような歩みを期待されているのでしょうか。あらためて、ともにみことばに耳を傾けてまいりましょう。

まことに、まことに

まずイエス様は「まことに、まことに」(アーメン、アーメン)と言われました。これからお話しすることがとても重要なことであることを示しています。その内容とは、主を信じる者、すなわち教会が、主のわざを行う、さらにそれ以上の大きなわざを行うということです。イエス様よりも大きな働きをするというのは、にわかには信じ難いかもしれませんが、「まことに、まことに」本当にそうなのだと、主は私たちに言われます。

教会の目的

このみことばで教えられていることは、教会には目的があるということです。すなわち教会とは、主イエス様のわざを行う集まりなのです。教会は自分自身が何者かをよく理解しておく必要があります。そうでなければ、教会は簡単に福祉団体や政治団体、単なる研究会やサークルなど世の集まりと変わらないものになってしまうからです。教会には独自の目的・使命があります。それは主イエスのわざを行うことです。

主イエスのわざ

では、主イエスのわざとは何でしょうか。それは第一に福音宣教です。聖書が示す救いの道を宣べ伝えることです。「神はキリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(Ⅱコリント5:18)。和解のメッセージを伝えることは、神と和解したすべての人の務めです。教会は世に遣わされた「キリストの使節」(同5:20)として、和解の福音を伝えます。「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4:12)とあるように、主イエスこそ唯一の救いの道であることを世に示していくのです。

第二に、イエス様が人々を愛し、慰め、あわれまれたように、教会もまた、神の愛と慰めとあわれみを、ことばだけでなく、行動を伴って、全生活を通して証しします。イエス様は「群衆を見て深くあわれまれ」ました(マタイ9:36)。彼らが「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた」からでした。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」とも言われました(同11:28)。疲れた人とは、赦しのない、裁き合い、競い合い、比べ合う、そういうパリサイ人らの教えに息苦しくなっていた人々であり、イエス様の思いは、そのような人々が福音によって心の癒やしを得ることでした。主の愛とあわれみは、福音宣教にしばしば伴いました。姦淫の現場をおさえられ、衆目にさらされ、言い逃れができない、誰かどう見ても罪深い女性を、イエス様はお赦しになりました。主は嫌われていた取税人ザアカイの友となりました。罪深い生活を送り、世間から孤立していたサマリアの女に声をかけ、救いに導きました。病苦や生活苦の中にあった盲人や病人をいやし、罪を赦しました。イエス様の人に対する優しさ、あわれみ、なぐさめの記事には事欠きません。このような愛とあわれみのわざを行うようにと、私たちも招かれているのです。

さらに大きなわざ

このように教会は、イエス様がなされた福音宣教とあわれみのわざを行うために世に遣わされていますが、それだけではありません。「さらに大きなわざ」をも行うのです。これはもちろん、私たちが質的な意味において、イエス様より大きな働きをするということではありません。教えや働きにおいて、私たちがイエス様を超えることなどできません。何よりイエス様のように十字架にかかって、よみがえり、救いの道を備えることなど絶対にできませんし、そんな資格もありません。

それでは「さらに大きな」とは、どういう意味なのでしょうか。それはさらに大きな時間と空間において、という意味です。イエス様が限られた時代と場所でなされた福音宣教とあわれみのわざを、教会は受け継いで、その後の長い歴史の中で、世界中の広大な地域で行っていくのです。その意味において、教会はイエス様よりも「さらに大きな」働きをしていきます。イエス様のなされたわざを、あらゆる時代、あらゆる地域において継承し、実行していくことにおいて、教会はイエスが地上におられた間になされた働きよりも大きな働きをしていくのです。

助け主である聖霊

このような偉大な働きを託されていることは、大変光栄なことですが、同時に果たして自分たちにそんなことができるだろうかとも思うでしょう。そういう気持ちに応えるかのように、イエス様はこう付け加えられています。「わたしが父のみもとに行くからです。」イエスが復活後、天に戻られました。だから、クリスチャンは、イエスの行うわざ、福音宣教と愛のわざを行うことができると言われるのです。でも、なぜイエス様がいなくなると、それができるのでしょうか。逆にイエス様がずっといてくださったほうが良いのではないでしょうか。

その答えはヨハネ16章7節にあります。「わたしが去っていくことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」すなわち、イエスが去っていくことによって、助け主である聖霊が来てくださるのです。聖霊はイエス様の代わりに来られる「もう一人の助け主」(ヨハネ14:16)であり、「イエスの御霊」(使徒16:7)です。ですからイエス様が弟子たちとずっとともにいてくださったように、主は御霊において、いつも私たちとともにいてくださいます。聖霊は信じる者に内住される助け主、慰め主、カウンセラーです。この方によってクリスチャンは内側から力づけられ、教えられ、慰められ、主のわざ、すなわち福音宣教とあわれみのわざをなすことができるのです。自分の力ではありません。聖霊なる神の助けによって、私たちの心は動かされ、みことばを伝え、真実な愛をもって慰めのわざを行うことができるのです。

主を信じる者、その集まりである教会は、主が地上で行われたわざを続けて行うように召されています。世の中は様々な出来事が起こり、色々な意見やことばが飛び交いますが、ヨハネ14章1節の御言葉にある通り、私たちは心騒がせることなく、神を信じ、主イエスを信じ、「まことに、まことに」大切な教会の使命と目的を見失わず、内なる聖霊の力と励ましをいただいて、主のわざをさらに大きく行ってまいりましょう。

あなたがたは世の光です

ハレルヤバプテスト教会牧師 谷井 涙賀

彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。使徒の働き11章26節

長引くコロナ禍とロシアによるウクライナ侵攻の長期化が世界中で波紋を広げ、私たちの暮らしはここ数年で急激に変化しました。教会は、共に集うこと、交わることを制限せざるを得ないというかつてない経験をしました。また、今までのように自由に集会を開いたり、教会に誘ったりすることを躊躇してしまう状況が続いています。このような中で教会は、またキリスト者はどのように人々に福音を語り、世界の救い主イエス・キリストを指し示すことができるのでしょうか。

すべては神の時の中で

使徒の働きにおいてルカは、「アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようなった。」と記録しています。ですから、キリスト者、クリスチャンと呼ばれるようになったのは2世紀初頭の頃、今から2000年程前のことです。エルサレムのキリスト教徒たちは、ステパノの殉教に始まる教会への激しい迫害のため、あらゆる地域に散らされて行きました(使徒8:1, 11:19)。私たちの主は、使徒の働き1章8節において「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」と約束されました。そして、みことばの通り、神の時の中で御手が動かされ、ローマ帝国による迫害という苦しみの経験さえ用いられて、福音がエルサレムから地理的にも拡大してゆくことに進展したのです。

私たちは「神の時」がいつなのか定かに知ることはできません。また神のご計画、神が取られる方法は私たちの考えるものとは異なります。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。−主のことば−天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8-9)。

しかし、一つ確かなことは「すべては神の時の中で神が最善に導かれる」ということです。なぜなら「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」とあるからです。神は私たちの日常に介入され、すべてのことを神の時の中で最善に導き、私たちに最も良いものを与えてくださるお方です。「神の時」の中で「今」を生かされていること、また「私たちとともに働いて万事益」としてくださることを信じて歩む必要があるのではないでしょうか。

いつもキリストを証する

離散したユダヤ人たちは、先々でキリストを証ししました。アンティオキアではギリシャ語を話す人たちにも福音を語ったので、多くの者が悔い改めて主に立ち返りました。彼らはいつもキリストを証ししていたので、「キリスト者」、クリスチャンと呼ばれるようになったのです。しかも、キリスト教の中心地エルサレムではなく、遠く離れたアンティオキアで初めて呼ばれるようになりました。キリストの弟子たちが迫害という凄まじい困難と試練に立ち向かう中で、たとい散らされても聖霊に励まされ力を得、忠実にキリストの福音を宣べ伝えた結果ということができるでしょう。

先日、ある方が私の車に付けてあるイクソスのステッカーを見て尋ねて来られました。「あの魚マークには何か意味があるんですか。他県を車で走っていた時も同じマークを見たので。」内心「良くぞ聞いてくださいました!」と思いつつ、「はい、あれは私がクリスチャンであることを表すもので、イエス・キリスト、神の子、救い主という意味があります」とお答えしました。また、他の方は私が牧師であることを知って過去に教会に通っていたこと、親戚がクリスチャンであることや聖書を読んだことがあることなどを話してくださいました。そして、最近教会に導かれ救われる魂も与えられたのです。ハレルヤ!その時私は思いました。私が何か特別なことをしたからではなく、どこかで忠実な「キリスト者」がキリストを証しし、教会が福音を語っていたからだと大変励まされました。

私たちは日本でクリスチャン人口が1%未満と聞く時、何を考え、何を思うのでしょうか。私たちは少数派で影響力が小さいと消極的になるでしょうか。そうではなく、今から2000年前にアンティオキアで初めてクリスチャンと呼ばれるようになり、キリストを証しした信仰の先輩たちを思い出し、クリスチャンであることを誇りとしたいのです。「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」(ローマ1:16)

私たちが毎日遣わされる場所は、主が私たちに与えてくださった宣教地です。そこで、「私はクリスチャンです。」「日曜日に教会に行っています。」と証しすることがどんなに素晴らしいことで大きな祝福をもたらすのか気付いておられますか。当時キリスト者と呼ばれた人たちも社会の中では少数派で、影響力は乏しかったでしょう。しかし、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」の約束のごとく、困難の中で聖霊に励まされて福音宣教の働きに前進したのです。1%の日本のクリスチャンが一人をキリストに導くことが出来たらクリスチャン人口は倍に、周囲の10人に影響を与えることが出来たら将来10%に増えて行くことでしょう。いつでもどこでもキリストを証ししましょう。

世の光として

キリストを証しすると言っても全く気負う必要はありません。「キリスト者」一人ひとりが遣わされたところで「世の光」として歩めばよいのです。主は「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることが出来ません。」と言われました。また続いて「明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。」とも言われました。忘れてはならないことは、この世界は罪の影響を受けて暗闇であり、まことの光を必要としているということです。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」と言われた救い主イエス様は、すべての人の希望の光です。光は暗闇の中で一層輝きを増します。世界的に喪失感と閉塞感が漂い、人々との交流が難しい時代にあって、キリスト者が世の光として輝く時、私たちの内にある救いの希望に目が留まらないはずはありません。月が太陽の光を反射して美しく闇夜を照らすように、キリスト者は世の光であるイエス様に照らされてこの世界で輝くことができるのです。山の上にある町、升の上にあって闇を照らす光とされていることを覚えましょう。

私は朝毎に数年前の全国聖会で教えられた9:38チャレンジの祈りをささげています。それは、マタイ福音書9章38節の「だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送って下さるように祈りなさい。」とのイエス様のご命令です。いつしかこの祈りは「主よ。今日も私をあなたを必要としている方のところに遣わして下さい。」との祈りに変えられました。主はキリスト者一人ひとりが収穫のための働き手となることを願っておられます。私たちのところにも働き手が遣わされ、福音を聞くことができました。主は私たちが祈り求める時、確かに応えてくださるのです。あなたも主に願いませんか。主はあなたを用いてくださるからです。

そこにも福音を知らせよう

大分聖書バプテスト教会牧師 中畑 道章

「イエスは彼らに言われた。『さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。』」マルコの福音書 1章38節

私たちの歩みは、ダメージが大きいためでしょうか、喜びよりも悲しみの方が多く、やがて悲しみのうちに歩みを終えざるを得ない、と思われる現実があります。しかし、イエス様がこの世においでになられたことは、私たちに大きな喜びをもたらしました。

福音がもたらすもの

預言者イザヤは、救い主を下記のように預言しました。

「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」(イザヤ42:3-4)

やがておいでになる救い主イエス様は、苦しんでいるものを慰め、悲しみに寄り添い、回復をもたらして下さいます。折れて朽ちていく葦のような失敗した者を、見捨てることなく、手を添えて立ち直りを助けて下さり、油が切れて消えかけたランプのようなものに、尽きることのない油を注いで、再び輝かせ、周囲に喜びをもたらす存在に整えて下さいます。救い主イエス様は、私たちの苦悩の原因である罪を除去し、神さまとの交わりを回復してくださいます。そのために十字架上での死を遂げ、三日目に復活なさいます。この福音を世界の人々が待ち望んでいます。

世界宣教

この責任を果たされるイエス様の姿をマルコは次のように記しています。

「イエスは彼らに言われた。『さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。』」(マルコ1:38)

前日の権威ある教えと奇跡で、イエス様の評判は町中に広まり、今日もまた、朝早くから人々は押し寄せてきます。大勢の人々が押しかけている中、福音を伝える良いチャンスと思われたのに、イエス様は、そこを去って、さらに福音を伝えようと、別の町、村に出かけられました。福音は、すべての人々に必要とされています。私たちの働きの場所は、福音を待っている所です。十字架の死と復活をもって切り開かれたイエス様の救いを、多くの人々に告げ知らせることが、私たちの働きです。約3年半のイエス様の伝道活動は、ほぼイスラエルの地でしたが、その後に継承される世界宣教の事業を、イエス様は、教会に託されました。

伝道の原動力

では、救われた私たちを伝道活動に駆り立てる原動力は、何でしょうか。それは「喜び」でしょう。「救われた喜び」「いやされた喜び」「神様に愛されている喜び」「祈りに応えられた喜び」です。

アンデレは、救い主イエス様にお会いした「喜び」を兄ペテロに告げます(ヨハネ1章)。サマリヤの女性は、「喜び」を町の人々に告げます(ヨハネ4章)。シロアムの地でいやされた盲人は、「開いた目の喜び」を人々に見せます(ヨハネ9章)。生まれつき足のなえた男性は、周囲の人々に歩いたり、はねたりし、神を賛美する姿を見せます(使徒の働き3章)。そしてパウロは「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる喜び」を証しします(Ⅱコリント5章)。いずれも、自分自身に起こった「喜びと変化」を周囲に示しました。信仰の生きた喜びが原動力です。

福音の進展

この喜びの福音は、どのように進展していくのでしょうか。まず自分の周囲です。次に周囲の人々から少し離れた人々に。さらに遠隔地に住む人々に、教会は、証しの兄姉を派遣してきました。更に、派遣した宣教師の周囲の人々へと進展しています。

「そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1章)。

最後に、復活されたイエス様は、「平安があなたがたにあるように。父が私を遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:21)とおっしゃいました。

救われた私たちは、尊い使命を受けています。この喜びの福音を何とか知らせたい。それが神様から託された使命ですから、福音を伝えます。周囲の人々にも、遠隔地の人々にも、そして遠くの国々の人々にも、です。

「行きて告げよあまねく いずこの民にも 心をば変えて 新たにせよと 新たにせよと 暗き闇もしばし 義の日なるイエスの 輝き世を照らす 明日は近し」(聖歌総合版551番)

大分聖書バプテスト教会の証し

まだ余白がありますので、当教会の沿革を通して、神様のお恵みを証します。

大分聖書バプテスト教会は、米国のバプテスト教会の「そこにも福音を知らせよう」の使命感のもとハウエル宣教師ご家族を大分に派遣して、産声をあげました。現牧師が牧会を引き継いだ時、当教会は大分市のほぼ中心地で伝道していましたが、借家であり建物を自由に改造し使用したい、という思いから、大分市のベッドタウンに移転し、その地を中心に伝道しました。中古の建物でしたが、米国BBCから借りたお金、前米国婦人宣教師の献金、教会員の献金で自分たちの教会を持ちました。大工出身のハウエル宣教師が中心になり、牧師と教会員がお手伝いする方法で、少し建て増しもしました。諸教会の先生をお招きし、伝道集会を何度も行いました。諸先生には、大変お世話になりました。

神様が備えてくださる

中古の建物でしたので、年々、痛みが激しくなり、台風の時は、横殴りの雨で壁から雨水がしみだしてきました。教会員も増えてきました。新築の教会を、もっと広い土地を、次の福音を伝える場所を求める祈りを兄姉と共に励みました。「売地がある」という情報を得ると見に行きました。何件も何件も探しました。

神様は不思議な方法で、未信者の地主兼建築業者を備えて下さいました。郊外の集落です。車で走るとまもなく、旧郡町です。教会員で積み蓄えた会堂献金、兄姉たちの個人的献金、前会堂の売却金、それでも不足していた金額は、未信者の建築業者が貸して下さいました。驚きました。神様のお働きです。隣接する旧郡町にも福音を伝えています。

現在地の野津原は、昔、戦国大名加藤清正の飛び地です。その影響で、高齢者を中心に、今も清正を尊び拝む偶像の強い町です。この神様が備えて下さった地、野津原を中心に、まことの光を照らし続けています。

「闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」(イザヤ9:2)

喜びの福音!

ハレルヤバプテスト教会宣教牧師・軽井沢グレースキャンプ場管理人 谷井 悟

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。エペソ人への紙2章8節

神は永遠になくならない喜びをすべての人に与えたいと願っておられます。救われて54年、伝道者として43年の恵みを覚え、大切なポイントと心して来たことを書かせていただきます。

永遠になくならない喜びをいただいた私

私は中学生になった頃、夜外に出て満天の星空を見上げながら、色々なことを思い巡らせました。宇宙の果てはどうなっているのか?ちっぽけな私・・・何のために生き、死んでいくのだろうか?死んだらどうなるのだろうか?ある朝、ラジオを付けると、美しい賛美と聖書からの短いメッセージを初めて耳にしました。「すべて重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい・・」(マタイ11:28)。1年間無料の聖書通信講座で聖書を学びました。唯一の創造主、天地の創造、人間と人間の罪、救い主イエス・キリスト、十字架と復活・・・。1年後、高2の春、高校生スプリングリトリートに参加し、罪人の私のために十字架に現わされた神の深い愛が心に迫りました。私は生涯この愛の中に生かして下さいと救い主イエス・キリストを信じ受け入れ救われました。私は神から、なくならない永遠に続く喜びを頂いたのです。

人の生きる喜びとは?

神は人を神のかたちに創造し、神と共に喜び楽しむ者として創造されました。人は神が創造された自然をよく管理しつつ、神と共に喜び楽しみ生きる者だったのです。

しかし、人にとっては、この素晴らしい喜びと感謝に溢れた時はほんのつかの間でした。神に背を向けて悪魔に従った人に罪が入り、罪によって死が入りました。その時から、人類は「暗黒と死の影とに住む者」となり迷い出、自分の道を歩む者となっているのです。しかし、神は罪のため死ぬ者となっている人類に救いをもたらす、壮大な計画をされ、救い主を世界に送ってくださったのです。神から迷い出た人類は21世紀の今、どうなっていますか?多くの人は神がくださる、なくならない喜びを無視しています。神を認めず、感謝もせず、あがめもしない多くの人々は不安と混乱と迷いの中にあります。生きる意味、希望を見出せず自殺する若者が増えています。眠れない者、うつ病に苦しむ者が溢れています。毎日特殊詐欺事件が起こり、高齢者の貯えをだまし取っています。破壊と悲惨は極みに達しようとしています。神がなくならない喜びを差し出しておられるのに・・・。

神の恵みによって救われる!

神は人間の生活に必要なすべてを与えてくださっているのです。「だれが神を離れて、食いかつ楽しむことのできる者があろうか。」(伝道の書2:25)神の恵みによって日々生かされていることを覚え、神に感謝し、神をほめたたえている人は何と幸いでしょうか!また、何よりも罪と死からの救いも神の恵みによって与えられることを知り、いただいている人はこの上もなく幸いです!

ところで、漢字の「恵」という字に救いの恵みが何であるかがよく現わされています。「十」=今から2000年前のエルサレムで神の御子イエス・キリストが私たちを罪から救うために身代わりとなって十字架で死なれました。「日」=御子イエス・キリストは墓に葬られ3日目の日曜日早朝死を打ち破りよみがえられました。「心」=私たちを罪から救うために十字架で死に3日目によみがえられた御子イエスキリストを私たちが心に信じ受け入れるなら私たちは「恵み」によって救われます。「あなたがたが救われたのは実に恵みにより信仰によるのです。」(エペソ2:8)〈個人伝道に用いられます〉実に人は神の恵みによって生きることができ、神の恵みによって救われるのです!!!

祝福か?呪いか?(申命記11:26-28)

人は神の命令に聞き従う時祝福を受け、神の命令に聞き従わないなら呪いを受けるということです。これは聖書全体が一貫して語っていることです。これは人類の歴史を学ぶならまさにその通りであることを知ることができます。私たちが神の祝福をいただく生涯を望むなら、ただ神のことばに聞き従うことです。神に聞き従わないなら、どんなに喜びに溢れていようとも、その喜びはやがて呪いとなるのです。それは現時点のことだけではなく、永遠という尺度の中での祝福と呪いです。今日、神は私たちの前に祝福と呪いを置かれているのです。

喜びをいただいたクリスチャンとは?

クリスチャンはなくならない喜びをいただいた者たちです。Ⅰテサロニケ1:9-10にテサロニケのクリスチャンがどのようであったかが記されています。彼らの姿に如何なる時代においても変わらぬクリスチャンの3つの特徴をあげることができます。1)偶像から神に立ち返って、2)生けるまことの神に仕えるようになり、3)やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになった者たちです。神に仕える・・・キリストの心を心とする時、クリスチャンの使命は全世界に福音を伝えることです。

福音の種を蒔かなければ!

種は不思議で、驚きに満ちています。あの小さな種に命があります。福音の種も同じです。蒔かなければ救われません。またなくならない喜びを得る人は起こされません。「福音は信じる者に救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)「朝のうちにあなたの種を蒔け。・・あなたは、あれか、これか、どこで成功するかわからない。」(伝道者の書11:6)

喜びの福音を次の世代へ!

福音は驚くべき、素晴らしい神の力です。福音により、神から離れて暗黒と死の影に住む者となったすべての人に、神と共に喜び楽しみ永遠に生きることのできる新しい生命(永遠の命)が与えられるのです。初代教会の時から福音は次の世代へとバトンがつながれて来たのです。

1950年(私が生まれた年)、救い主イエス・キリストの大命令に心動かされた、21歳と19歳のアメリカの若い夫婦が日本に来ました。彼らの名はラバンとエバレン・ラージャスです。彼らはだだ、イエス・キリストの命令に従い、また約束を信じて導かれるままに日本に福音を伝えました。彼らは単純に、素直に、みことばに従いました。日本宣教71年・・・多くの救われる者が起こされ、献身者が起こされ、日本に世界に次の世代へ福音が宣べ伝えられています。彼らの歩みに神の真実の大きさが証されています。

彼は晩年キャンプ伝道を通して、日本人クリスチャン1%にチャレンジし、日本人クリスチャン99%を祈っていました。私はこの祈りのバトンを受け取り、99ミッションの祈りを展開したく祈っています。グレースキャンプ場は日本の救霊と献身のために、多くの犠牲が払われて与えられた所です。あなたも祈りに加わって下さいませんか。私は99ミッションの祈りをもって、永遠になくならない喜びを得させる福音を神の力(ダイナマイト)に頼り伝えます。さあ、共に永遠に続く喜びの福音を次の世代に伝えよう!

神の奥義の管理者としての宣教への関わり方

太田聖書バプテスト教会牧師 佐藤 一彦

人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。 コリント人への手紙 第一4章1〜2節

日本古来の伝統芸能や武道の世界では「奥義の伝授」として、その道の特別な技法、秘技などを選ばれた者に伝授する世界があります。そして、継承した者はそれを守り続け、新たに次の者に伝える責任を負うのです。聖書の中にも「奥義」という言葉が何度も使われており、神を信じる私たちこそ神の奥義を受け継ぎ、それを管理することが任せられている者なのです。この神の奥義とは同じ Ⅰコリント1:18に書かれています。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」それは、人の知識や知恵では想像も及ばず、人々の目には不思議に映り、人間の努力や善行などを一切必要としない神の一方的な恵による救いが神の奥義なのです。そしてそれを信じた者が神の奥義の管理者として、この十字架のことばを全世界に広めることが任されているのです。

聖霊なる神の力

しかし、神は無責任にその働きを私たちに丸投げにしたわけではありません。
その働きのために、聖霊なる神の力添えがあると約束してくださったのです。使徒の働き1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受け・・・わたしの証人となります。」ですから、この宣教の働きをするのに、ただ人間的な計画で一生懸命努力をして熱心に推し進める、或いは、人道的な同情心や責任感だけで宣教をするならば、神はお喜びになりません。なぜなら、宣教は神の一大計画なのですから、その主導権は神にあります。ですから神の御言葉が教える方法、聖霊の導きと力に私たちが忠実に従い宣教の働きに参加する時に、神は喜ばれ、それを祝福されるのです。

イエス様の模範

では神の教える宣教の方法とは具体的にどのようなものなのでしょうか?それを模範として示してくださったのはイエス様でした。1ペテロ2:21「このためにこそ、あなたがたは召されたのです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。」本来私たちは神の人知を超えた奥義である救いを理解することのできない者たちです。しかし、イエス様が私たちと同じ人となり、私たちの目線に立ち、人々が見て聞いて理解出来る普段使っている言葉や生活レベルに寄り添って福音を教えてくださったのです。ですから当時の多くの人が教えを理解し信じたのです。これは、円滑な人間関係コミュニケーションの取り方の基本的な方法と同じで、現代の私たちにとっても同様です。私たちが福音を伝えたい相手の目の高さ、その時代のコミュニケーション法や生活様式に沿ったアプローチをしなければ伝わりづらいでしょう。それは、普段私たちが政府の政策や対応が庶民感覚とかけ離れていて現実的でないと感じ、いつも後手後手になっていると批判しますが、それでは私たちの福音宣教の方法はどうでしょうか?もちろん宣べ伝える内容、イエス・キリストの十字架と復活そのものは決して変わらない人を救う真理ですが、それを人々に届ける伝達法が人々の持っているチャンネルと合っていなければ、届きづらい原因となるのではないでしょうか?

パウロの宣教

また、パウロも宣教する人々の当時の文化を理解しようと絶えず務めた人物でした。
1コリント9:19-23「・・・より多くの人を獲得するために・・・ユダヤ人のようになりました。・・・律法の下にある者のようになりました。・・・律法を持たない者のようになりました。・・・弱い者になりました。・・・。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。私は福音のためにあらゆることをしています。」このようにイエス様もパウロも、非本質的なことにこだわるのではなく、いかに人々に福音を伝えることができるのかにこだわり、相手を理解しようとされたのです。ならば、同じ働きを委ねられている私たちも同じように伝える人々のことを理解しなければなりません。また、それは宣教の働きに参加する教会に対しても同じです。どうしたら若い世代が積極的にこの働きに携わるよう励ましたら良いのか、それは彼らの置かれている生活環境の理解なしには前進しないでしょう。

忠実な管理者として

次に神の奥義の管理者として忠実さが要求されていますが、この忠実は何に対してなのでしょうか?
福音書の中にはタラントが与えられたしもべが忠実な管理者として、それを用いて増やし、主人の意図を正しく理解し実行したので主人に称賛されたとあります。もし、私たちの宣教が自分の考えや方法に固執し、「私と教会は昔からこうやってきたから、それを忠実にやり続ければ必ず祝福される」と自分を基準にスタイルを変えようとしないのであれば、それは主に対しての忠実さではありません。
2021年コロナ禍にある世界に私たちはどのように対応し、効果的に人々に福音を届けられるのか?
それは、過去の経験では追いつくことの出来ない、新しい取り組みや方法を模索し、人々にアプローチする必要があります。「何とかして、何人かでも救うためです。私は福音のためにあらゆることをしています。」このことへの忠実さが求められているのではないでしょうか?私たちは神の奥義の管理者として、心に掛けることは忠実に宣教の主である神の思いに対する理解を持つことです。英語で「理解する」はUnderstandです。これはUnderとStandの二語が合成されて出来た言葉です。私たちは相手を理解するために上に立つのではなく、相手より下(Under)に立つ(Stand)姿勢が必要なのです。これは、まさにイエス様がとられた態度でした。(ピリピ2:6-8)

あらゆる可能性を通して

私たちは教会を通して主の証人として私たちの地域の人々、関わる同胞に福音を伝えています。そして、この国から世界宣教実現のために、私たちの代表として遣わされた宣教師のために祈り、支援に関わっています。私たちはこの国に生まれ育ち、同じ日本人のことを理解していると思っていても、人々の心に届けるのが難しいとを知っています。であるならば、海外の異国の文化の中にいる宣教師たちは、その国の人々を理解するために、一から始める文化理解、人間関係、そして同時に行われる宣教活動にどれ程の祈りと時間が必要であるかを私たちはもっと理解しなければなりません。その上で、宣教師たちの宣教報告以外に、どれほど多くのお働きとご苦労があるかを知り尽くすことは出来ませんが、主が遣わされた宣教の奥義の管理者として先生たちを、これからも主にあって信頼し続け、祈りと最善の支援策を更に模索し続けながら、教会に仕えながら世界宣教の働きに参加する者も、或いは教会から遣わされて宣教に出て行く者も共に、神の奥義の管理者として聖霊様が導かれるあらゆる可能性を通して世界宣教に忠実であり続けましょう。

深いあわれみの心を

港北ニュータウン聖書バプテスト教会牧師 鹿毛 愛喜

また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。 マタイの福音書9章36節

3月に牧師職を引き継ぎ、新米牧師として歩み始めた矢先、新型コロナウイルス感染拡大に伴う様々な対応に迫られ、戸惑いの連続でした。牧師として招聘されてから今日まで、次の3つのことを思わされています。第一に、教会の主はキリストご自身であるということです。そして、第二に、教会に住んでおられる御霊によって兄姉を取り扱い、内的に造り変えることを通して、日毎に教会を建設されているということです。第三に、牧師交代は教会としての宣教の働き(国内、海外)の継承であるということです。新型コロナウイルスを経験し、私たちは一つの時代の分岐点に立たされていると言えるでしょう。宣教の働きにおいても大きな分岐点に立たされている中で、先立ってくださる宣教の主に「私たちはどのようにお仕えさせていただけば良いでしょうか」と祈らされるのです。

羊飼いのいない羊

今回、マタイの福音書9章35節から38節のみことばに着目したいと思います。大変よく知られた箇所です。イエス様ご自身のガリラヤ地方における伝道活動の中で、イエス様ご自身は人々をどのようにご覧になられたのでしょうか。「彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」(36節)羊飼いのいない羊の群れという表現は、旧約聖書に見られます。エゼキエル書34章では、牧者とされる権威をもった民の指導的立場にあった者たち(王、預言者、祭司ら)が、民を養わず、世話をせず、かえって自らを養うゆえに民を虐げる姿を、牧者不在の状態としているのです。羊にとって、最も深刻で危機的状態とはどのような状態でしょうか。「彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣餌食となった。こうして彼らは散らされた。」(エゼキエル書34章5節)牧者がいないという状態です。羊である民は、外敵に脅かされ、絶えず自らでは満たし得ない欠乏に苦しみ、傷つき弱り果て、養われないゆえに死んだも同然の瀕死の状態に陥るのです。羊にとって、羊飼いがいないということほど悲惨なことはありません。まさに、イエス様がご覧になられたイスラエルの民も、現代を生きるキリストから遠く離れている人々も羊飼いのいない羊なのです。羊飼いのいない羊が、真の羊飼いのもとに帰ることができるならば、羊はいのちを得ることになるのです。教会の目に、キリスト者一人、一人の目に、羊飼いのいない羊の群れが映っているでしょうか。日本のみならず、世界にも羊飼いのいない羊が今も倒れているのです。

イエス様の深いあわれみ

イエス様ご自身は、羊飼いのいない羊の群れを見て深くあわれまれた。見ることによって深いあわれみが生じるのです。私たちの教会は若い世代がこの世界との接点の中で自分の人生を祈り、世界における宣教の現状を知り、羊飼いのない羊を見ることができるように、という祈りからビジョントリップという取り組みを行っています。若い世代が、イエス様がご覧になっているこの世界を実際に見るためです。全ての若い世代が宣教師になるべきであるとは思いません。しかし、全ての若い世代がイエス様の深いあわれみに触れ、それを自らの心とし、派遣されている場所において羊のいのちのために生きることは大切なことではないでしょうか。教会はどのような動機で宣教の働きを担うべきでしょうか。しばしば、イエス様から「良くやった良い忠実なしもべだ」と言われるために、という言葉を聞くことがあります。もちろん、やがてイエス様の御前において、このように言われる教会、キリスト者であるならば素晴らしいことです。私も結果そうありたいと願います。しかし、宣教の働きを担う動機としては、非常に自分本位な動機のように思われないでしょうか。結局、私が称賛されることを求めているかのようです。教会は、イエス様の深いあわれみを動機として、宣教の働きを担うべきでしょう。イエス様の深いあわれみとは、口先だけのあわれみではありません。内臓まで揺り動かされる、激しく疼くほどの同情心です。その深いあわれみは、積極的な関わりを生む、実際に行動を起こさずにはいられなくなるほどのあわれみです。羊飼いのいない死に絶える羊に対して、いのちを得るように、いのちを差し出された真の牧者なるイエス様ご自身の姿に表される愛に他なりません。ある程度信仰歴が長いキリスト者であれば、命じられている福音宣教の緊急性、必要性は繰り返し教えられてきていますし、当然理解されていることでしょう。では、教会はどれほどこの深いあわれみの心によって宣教の働きに突き動かされているでしょうか。このイエス様の深いあわれみに触れることによって、国内において、そして世界へと広がりをもって宣教の働きは前進していくのではないでしょうか。羊飼いのいない羊をご覧になり深くあわれむイエス様の深いあわれみによって、教会は羊のいのちのために派遣されていることを忘れてはなりません。

働き手の派遣のために

深いあわれみの心から、イエス様は弟子たちに次のことを命じられました。「収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(38節)弟子たちに祈ることを命じられているのです。その理由は、「収穫は多いが、働き手が少ない」(37節)というイエス様がご覧になられている現実にあります。まず、私たちキリスト者、一人、一人が収穫のための働き手であることを自覚する必要があります。私たちは自分とは関係のないところで、「働き手を送ってください」と祈るのではありません。「働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われた弟子たちが、次の章ではイエス様によって遣わされているのです。収穫のための働き手のために祈る時に、私たちは自分自身がそのために派遣されている今日を生かされているということを再確認すべきなのです。また、教会が収穫のための働き手を送ってくださるように祈る祈りは、教会建設、教会教育に深く関わっている事柄であることを理解する必要があるように思います。収穫の主は、キリスト者を働き手として派遣される御心をおもちです。それゆえ、教会は完成を目指す歩みにおいて派遣する教会を建て上げ、派遣意識をもったキリスト者を、次世代を育んでいく必要があるのではないでしょうか。定期的に宣教の必要性を訴える集会をもつことも大切でしょう。しかし、教会が、キリスト者一人、一人が毎日派遣されているという意識をもって「働き手を送りたまえ」との祈りの中に、職場で、家庭で、学校で生きることの方がどれほど大切なことでしょうか。収穫という言葉は、魂の刈り取り、救いを必要としている魂のことを意味していると理解できるでしょう。同時に、旧約聖書においては、世の終わり(終末)の審判を指し、神のさばきを指しています。終わりの時に向かう今を生きる私たちは、悠長に終わりの時を待っていてはなりません。時は迫っているのです。それゆえ、熱心になって働き手の派遣のための祈りをささげるべきでしょう。「ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように」と。

主なる神様からの問い

インドネシア派遣宣教師 田村 成幸

田村先生

「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」 ローマ書8章18節

私達は、今世界中で何故こんな事が起きているのかと、誰かに問いたいと思っているかも知れません。世界の状況は非常事態で大変な事になっています。しかし、聖書や世界の歴史から見てもこれらの事は度々起きており、大変な事ではありますが特別な事ではありません。そして、実は、この様な中で、主なる神様が我々に問うておられる事があるのではないかと示されています。

全てのクリスチャンの「礼拝」に関する問い

まずは、全てのクリスチャンに対する「礼拝」に関する問いです。その事が大切なものなのかどうか、失って初めて分かると言われています。今まさに、これまであった礼拝の機会が失われており、いつ通常通りに戻れるのかどうか見通しが立ちません。これまで普通に礼拝出来る事がいかに大きな祝福であり恵みであったか、と言う事です。

多くの教会がどうやって礼拝するのか、どの場所でどういった形式でするのか頭を痛めています。これは、日本でもインドネシアでも同じ様な問題です。感謝な事は、使徒の時代では会堂のある場所に行かなければ礼拝出来ませんでしたが、今ではウエブサイトでメッセージを聞く事も出来ますし、ネット上で複数の方との交わりも可能になっています。

礼拝の形式も勿論大事なのですが、より大事な事は「礼拝そのもの」ではないか、と言う事です。
今まで当たり前のように行われて来た礼拝が、主の前に正しかったのか、主に喜ばれるものだったのか、主の御前で最上の事としてささげられて来たのか、礼拝よりも奉仕が優先されていないか、と言う問いです。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23-24)

何度もお聞きになっている通り、礼拝は、ささげる行為であって受ける行為ではありません。自分が教会に来るのは、神様から祝福され恵まれる為(受動的)なのか或いは、神様へ自分自身をささげる為(能動的)なのか、ベクトルが全く違う事にお気付きでしょうか。前者は、まことの礼拝がささげられた結果であって目的ではありません。そして、自分をささげる事が礼拝であり目的であるなら霊とまことによってささげられているか、と言う事も問われています。

そこには献身の思いも大事です。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

主が、私達の救いの為にご自身の命をおささげになったのですから、同様に私達も自分をささげる事こそがまことの礼拝である、と言う事です。

更に、イエス様の身代わりの十字架と復活によって救われた、と言う事実がより鮮明に覚えられるならば、時が良くても悪くても喜んで礼拝をおささげする事が出来るのではないでしょうか。これら全てを考えた時、果たして今までの自分の礼拝がどうだったのか自然と見えてくるのではないか、また今後どう臨めば良いのかも分かるのではないかと言う事です。

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか‐‐あなたがたがそれに不適格であれば別です。」(2コリント13:5)

全人類の「命」に関する問い

次に挙げられるのが、全世界の人々の「命」に関する問いです。今、全世界は非常事態で大変な状況です。多くの方が病に陥り亡くなっています。その様な中で考えさせられるのが「命」に関してです。我々が生きている時代に於いてこれ程までの危機はありませんでした。まさしく「命」の危機です。現在、医療機関、医療従事者の方々は不眠不休で働きを続けていますが、それが無ければ甚大な被害に至ります。命の為の素晴らしいお働きで心から感謝申し上げます。しかし、霊的な命の危機は、世界がどの様な状況下にあっても毎日多くの方が失われている状態で火急の時です。

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:26)

ですから、死によってもたらされる事は霊的に命が失われている事を覚えて下さい。救い主イエス・キリストを個人的な救い主として信じていない人は、それが例え全世界を手に入れたとしても永遠の滅びであり、天国への道は、イエス・キリストのみです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

この「命」の危機にあって、如何に魂に向き合うかが課題だと思いますが、現実は、思う様な状況になっていません。3密を避けよ、ソーシャル・ディスタンスを守れ、多くの人と集まるな等と、むしろ機会が減っており難しくなっています。また過去もそうであったように、未来に関しても、困難な時代に人々は主の元に来ないと言われており、却って主に反発するとあります。その様な苦難の中でも我々は全世界の為に祈る必要があります。祈らなければ事は始まらず、祈り無くして祝福も成功も勝利もありません。よって、外への行動が制限されているなら、今はより一層祈るべき時なのではないかと言う事です。祈りを積み重ねる事により、時が来れば多くの実を結ぶ事になり、また祈りと共に御言葉により自身の信仰と霊的成長にもつながります。そして、時が良くても悪くても感謝して主にお仕えする事が出来ます。教会に於ける二本柱は「礼拝」と「宣教」です。霊的にも世的にも困難な時代の中で、これらの事がより一層我々の肩にかかっています。

結論

故に、我々は、御言葉により信仰に立つ。御言葉により悔い改める。これらは全てのクリスチャンが出来る事です。そして、御言葉により自分の罪を悔い改め、主イエスキリストを救い主として信じて救われる事は、全世界の人々が出来る事です。これらの事を主は望んでおられるので、主の御心と御旨に沿った歩みをしたいものだと思うのではないでしょうか。皆様の上に、神様の豊かな祝福がありますようにお祈り申し上げます。

コロナ感染中でも圧倒的な勝利者

海外宣教委員長 バーゲット・マイケル

バーゲット先生

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」ローマ8章37節

諸教会の世界宣教への尊い献金と熱い祈りを心から感謝いたします。

聖書によると主を信じる私たちは、圧倒的な勝利者です。でも、それはこのようなコロナパンデミックの中あってもそうなのでしょうか。冒頭の聖句を中心にそのことについて考えてみましょう。

まず、この箇所の「これらすべてのことの中にあっても」は何を指しているのでしょうか。それは、その先に記されている御言葉です。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。」(ローマ 8:35-36)。コロナパンデミックはまさにこの「困難、苦しみ」と言えるのではないでしょうか。だとすれば、この御言葉により主を信じる私たちには圧倒的な勝利が保証されているのです。

では、この勝利とは何を指しているのでしょうか。例えば、クリスチャンはコロナに感染しないとでも約束しているのでしょうか。もちろんそれは違います。主を信じる私たちは、この世において様々な困難に会います。主ご自身もそうであったように、私たちも主の御足跡に従うなら同じ体験をします。コロナ感染もそのような事例の一つにすぎません。

それでは、この勝利は何を意味するのでしょうか。同じ章の12節前にその答えが記されているように思います。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ 8:29)。私たちは神のお取り扱いにより、キリストの御姿に変えられるという神の素晴らしい御計画があります。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ8:30)とあるように、このことは神の定めと召しから始まり、さらには義認(神の御前に義と認めれる)と、聖化(私たちが聖められ、キリストの姿に歩み寄る)へと進み、最終的に栄化(私たちがやがてキリストと同じようになる)に終わるのです。

主はこのコロナという困難をも用いてくださり、私たちをキリストに似る者へと変えようとしておられるのです。だからこそ、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)と記されているのです。この「益」とは平凡な問題のない生活を意味するのでしょうか。一般的にはそのように考えるかもしれませんが、違います。この「益」とは、キリストに似ることを意味しており、私たちの聖化と最終的な栄化を指しているのです。神が主を信じる一人一人をキリストの御姿に変えられていくのが天の御父の願いです。それが神の御計画であり、御約束でもあります。ですから、やがて主を信じる私たちすべてが必ずキリストに似る者とされるのです。

この御約束を聞くとどのように感じるでしょうか。「私がキリストに似る?いや、それは無理!あり得ない!」そう感じるかもしれません。しかし、そのような神のご計画を保証するのは私たちの努力ではないのです。このご計画を完成させ、保証されるのは神ご自身です。

「無理!」と感じる私たちのために主は次の御言葉を用意してくださいました。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ 8:31-32)。神が私たち信者の味方なのです。その証拠に「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」事実があるのです。十字架上のイエス様の死がこの約束の保証です。最愛のひとり子を私たちの救いのために犠牲にしてくださった程ですから、私たちの救いの御業が未完成な状態のままで投げ出すようなことは決してなさらない。むしろ、その救いを最後まで見届けてくださるのです。あの最終的な栄化(私たちがキリストの御姿に変えられる)まで私たちに恵みを施し、そのことを成し遂げるために働きかけ続けてくださるのです。

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ 8:38-39)とあるように、私たちを神の変わることのない愛から引き離すことのできるものは何一つないのです。コロナパンデミックを含めた何一つです。主にある私たちは圧倒的な勝利者となるのです。

コロナパンデミック以前の世界でも、毎日16万人ほどの人々が亡くなっていたのです。また、その多くが主を知らずに滅びていました。これが世界宣教の現状なのです。

コロナ感染拡大により、世界中の人々が頼りにしていたものが一つ一つ奪われているように思います。経済にしろ、健康にしろ、明日の保証は何一つありませんが、平凡な生活に慣れてしまった者はそのことをついつい忘れてしまいます。結局、神がいなくても問題なく生きていけるように勘違いしてしまうのです。私たちの周りにこのような方々が実に多くおります。主を知らずに滅び行く魂が実に多いのです。

コロナパンデミックで感染者数や死者数を毎日見るようになりました。コロナで亡くなった人々が35万人(5月末現在)とWHOが発表しています。本当に大変な数字であり、悲しい話です。しかし、平年の世界の死者数はなんと5800万人です。そう考えると現段階のコロナ死者数は平年の死者数の52時間分にすぎないのです。言い換えれば、コロナパンデミック以前の世界でも、毎日16万人ほどの人々が亡くなっていたのです。また、その多くが主を知らずに滅びていました。これが世界宣教の現状なのです。コロナ感染の中、不要不急の自粛の呼びかけをよく耳にします。確かに不要不急の自粛は必要だと思います。しかしながら、福音宣教は不要不急の一つではなく、むしろ何よりも必要であり、緊急性の高いものです。

コロナ感染により、私たちの日常生活が様々な面で大きく変わりました。コロナ感染の恐怖に囚われている人も少なくありません。また、その気持ちもわからないわけでもありません。気を付けないと、この恐怖に主を信じる者もすくんでしまいます。しかし、今、世の中が必要とするのは麻痺したクリスチャンではなく、主を仰ぎ見つつ、ひたすら福音宣教に励み続けるクリスチャンなのです。主にあって、私たちは圧倒的な勝利者となれるのですから、コロナパンデミックの中にあっても主に頼りつつ、福音宣教の御業に最善を尽くして励んで行きましょう。

救霊の愛を受け継いでいく

栢下献先生

札幌聖書バプテスト教会牧師 栢下 献

「すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。』と言って彼の右手を取って立たせた。」 使徒の働き3章6‐7節

冒頭のみことばは、ペテロとヨハネが神殿の「美しの門」の前で、生れつき足の不自由の男と出会った時に語った言葉です。ペテロたちは、主イエスと共に3年半を過ごし、その救霊のわざをすぐ側で見てきました。目の前の一人に目を留め関わるお姿、罪人たちや弱者を見捨てずに助ける主の愛を、幾度となく見て来ました。弱かった彼らですが、主の復活と昇天の後、聖霊に導かれて大胆に伝道を始めました。その時、弟子たちは主イエスと同じ目線をもって宣教を受け継いでいったのです。

失われた魂への関心

ペテロとヨハネたちは「毎日、心を一つにして宮に集まり」(2:46)とありますので、日常的にこの男のそばを通り過ぎていたかもしれません。しかしこの時彼らは、自分たちに施しを求める男を注意深く見つめました。その必要を強く覚えたのです。宣教は、自分の目の前にいる人、助けを求めている人々に関心を持つことから始まります。宣教は、救われて変えられた感謝と主の命令への応答によりますが、次にその思いは、目の前の一人の魂への関心に向かって行きます。羊飼いもなく弱り果てて倒れているような群衆を「主は深くあわれんで」(マタイ9:36)くださいました。ですから主に御手によって立ち上がった私たちも、同じように、身近にいる方々に目を向け、主イエスの御名を語るべきです。倒れていた人が立ち上がって、主を賛美する人生、礼拝する人生に変えられるのを見ることは、何と嬉しいことでしょうか。

私にあるものをあげよう

この時、ペテロたちは「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」と言って、彼の右手をとって立たせました。ペテロとヨハネ自身には、この男の求める金銀や足の問題を解決する力がありませんでしたが、「私にあるものを、あげよう」とイエス・キリストを指し示したのです。私たちには、全ての人の根本的な痛みと悲しみに十分に応える力はありません。命の問題や深い悩みに答える知恵も持っていません。辛い現実を前に励ましの言葉もない時があります。しかし、助けられない自分自身を知りながら、なおもペテロたちのように、キリストこそ人生を変え、生きる力を与えられるお方だと宣言できるのです。この「私にあるものをあげよう」という言葉こそ、教会の宣教の言葉です。またすべてのクリスチャンが共有できる救霊愛の一言、伝えるべき大切な言葉です。

救霊の愛を受け継いでいく

使徒たちのこのような働きと初代教会が始めた福音宣教は、今に至るまで途切れることなくつながり、世界中に広がり続けています。ペテロとヨハネが救霊の思いで差し出した手は、日本でも、全世界の宣教地でも、今も変わらず必要とされています。ですから、救いを頂いた者全てが、日常生活の中でこの愛の行為を受け継いでいくことが大切です。

私が神学生の頃、帰国されていた宣教師の先生に、効果的な伝道方法は何かお聞きしたことがありました。その先生は、『私の国では十分な聖書もなく、伝道の学びもありませんが、信じて救われた方はすぐに、家族、友人、知人にイエス様のことを話し出します。そしてそれが続いて行くのです。』と笑顔で答えてくださいました。それは人の思いを超えた神様のみわざです。しかし宣教師の救霊の愛が、救われた信徒たちに素直に受け継がれているのだと思います。たとえ魅力的な伝道プログラムや時間をかけた準備がされても、そこに救霊の愛がなければ、それは一時の満足だけで終わるのでしょう。

宣教師の思いと一つの地方教会の魂への真剣な祈りと支援があったからこそ、年月を経て、私もまたその思いを受け継ぐことができたのです。

私たちのフェローシップも、福音だけを携えて海を渡られた、数組の宣教師家族の熱い救霊の思いから始まりました。宣教師ご夫妻の日本への思いと犠牲は、主に豊かに用いられ、多くの伝道者が起こされ、今では北海道から九州、沖縄、さらに海外にまで宣教は広がっています。このフェローシップの群れが保たれ、前進してきた一つの理由は、諸教会が主イエスの命じられた宣教を大切に受け継いできたことにあります。

私自身は、牧師家庭に生れ育ち、福音を身近に聞いて信仰が与えられました。しかし、お寺に囲まれた京都で生まれ育った父は、大学生の時に初めて天幕集会で福音に触れました。仏教家庭に育ち仏壇に手を合わせる中で、真の神を知って大きな衝撃を受け、メッセージを聴いてキリストの救いを受け入れました。一人の宣教師の日本人を愛する救霊の叫びが、一人の青年を救いに導いたのです。その後、初期の名古屋教会で伝道奉仕をする中で、牧師と教会全体の救霊の愛に押し出されて伝道者へと導かれました。宣教師の思いと一つの地方教会の魂への真剣な祈りと支援があったからこそ、年月を経て、私もまたその思いを受け継ぐことができたのです。京都、名古屋、千葉を通って宣教のバトンは受けた私は、札幌で福音宣教にたずさわる恵みに与っています。すべて主のなされる御業は不思議です。最初は小さな点から始まったとしても、つながって線になり、やがて面となって発展していくのです。どの時代にあっても、先に救われたキリスト者とその教会が福音を途切れさせず、「わたしにあるものをあげよう」とキリストを証し、救霊を受け継いで行くならば、どんな宣教も点から線、さらに面へと進展しくのだと信じます。

たとえ今、わずかな点しかなく、将来の線や面への展開や道筋が見えない状況でも、ペテロたちのように目の前の一人と向き合い、手を差し出そうと思います。

宣教の実である私たちには、救霊の愛を保ち続け、主のお建てくださった地域教会を、次の世代にしっかりと引き継いで行く責任があります。教会が新しい実を結び、点が線になるよう、次の世代まで福音宣教をつなげていく使命があるのです。

教会に集まる小中学生たちに福音を伝える時に、「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」(エペソ5:16)。の御言葉を覚えます。だからこそ、「主のみこころ」(同17節)を正しく知り、私たちに与えられたどんな小さな機会も、十分生かすよう祈り求めています。今はまだ小中学生の子供たちも、将来、福音を固く握って、救霊の愛を受け継いでいく時が来ることを、私は主に期待して待ち望んでいます。たとえ小さくても、主のための尊い宣教の働きに携わせていただけるのです。すべてのクリスチャンが、目の前にいる誰かの右手をとって立たせる事が出来ます。

さらに、地方教会の足元の宣教を見つめながらも、それだけで終わりにせず、フェローシップ全体が次の世代にどのようにバトンをつないでいくのか、点で終わらせずに展開していくにはどうすればよいのかを、福音を受け継いだ者として、祈って行きたいと思います。

「…さらに地の果てまで」!

調布聖書バプテスト教会名誉牧師 ラバン・ラージャス

ラージャス先生

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」 使徒1章8節

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)

宣教クォータリーにメッセージを執筆させていただけることは大きな喜びです。世界宣教はバイブル・バプテストの要です。BBFIではDNAとも言います。JBBFの草創期に私は関わらせていただきました。そしてこの70年間の祝福に感謝します。完全数である7の10倍です!お約束通りに、主は私とずっとともに歩んでくださいました!主よ、感謝します!

聖書には多くの偉大な人物、大事件が記されています。しかしイエス・キリストが死に勝利し、墓を征服してよみがえられたという福音ほど素晴らしい出来事はありません。

この出来事が世界中のすべての人に伝えられるべきです。だからこそイエス様は大命令をお与えになったのです。「地の果てにまで、すべての人に伝えよ!」これこそ、天に上げられ、父なる神の右の座に戻るときの主の最後のご命令でした。イエス様は世界中のすべての人に対してご自分のところに来て救われるように心から招いておられるのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」(Ⅰヨハネ2:2)

五旬節にエルサレムに集まっていたユダヤ人たちに、主は聖霊の証印と力を約束されました。その日、3000人が救われ、五旬節以前に建てられた教会に加えられたのです!この超自然的な力は今日の私たちの働きのための力でもあります!父、子、聖霊からなる三位一体のすべてが働かれたのです。

主の弟子たちは皆ユダヤ人で、アブラハムの時代からずっと、自分たちが一番であり神のご計画の中心であることを当然だと考えていました。五旬節の出来事の後もそのような考えを持っていたことでしょう。「天国はユダヤ人だけのものだ」ときっと彼らは考えていたのです。なぜなら、「さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった。」(使徒11:19)によると、彼らは五旬節からずっと後になってもユダヤ人にしかみことばを語っていませんでした。

これは大きな問題でした

主がサウル(後のパウロ)にお現れになり、異邦人に対する使徒とするために彼を立ち上がらせてくださったとき、このユダヤ人たちの間違った考えを正そうと主はすでに働いておられたのです。その後主はペテロに(頑固なリーダ)きよくない物(異邦人を表しているようです)が天から降りて来るという幻を3度見せられました。これらの物は四隅(地の果てを表すようです!)を吊るされた敷布に入れられていました。そして主はペテロに「立ち上がり、屠って食べなさい!」と命じられたのです。神様はペテロの考えを変えてくださり、すぐにペテロは異邦人に対してみことばを語り始めたのです。

次に主は、不思議な方法でペテロと百人隊長コルネリオを出会わせてくださり、その後サウル(パウロと改名しました)にも働いてくださり、異邦人に福音が宣べ伝えられるようにしてくださいました。これら一連の出来事が私たちの霊的なルーツなのです! 4000年もの間続いた内向きな「ユダヤ人のみ」という文化を、神様ははっきりと変えてくださったのです!今日、神が教会に求めておられるのは、外に向かって地の果てまで出て行くことです!これが主の祝福をいただく方法です。

私たちは若い人たちに、主にフルタイムでお仕えすることの素晴らしさとその豊かな報いをよく伝えなければなりません!
私たちも同じ問題を抱えていませんか?

ここ10年の間、教会数は増えていません。多くの教会ではバプテスマ式より、お葬式が多いのです。私たちは後ろ向きに進んでいます!このことに懸念を抱く人はいるでしょうか?なぜもっと多くの人が主の働きのために献身し、神学校に入学しないのでしょうか?

これは深刻な霊的問題であると私は申し上げます。神学校のカリキュラムから宣教学のコースが削減されたと聞いています。ひとこと言わせていただきます。神学校の創始者の一人としてその権利はあると思います。神学校に宣教学のコースを増やし、牧師と宣教師の職務を重視すべきです。パウロはローマ11:13でそうしました。その結果福音は広がり、異邦人すなわち皆さんと私に届いたのです!私たちは若い人たちに、主にフルタイムでお仕えすることの素晴らしさとその豊かな報いをよく伝えなければなりません!

宣教をあるべき形でしっかりと重要視し強調していくことが、祝福の秘訣です!私は70年間の日本での宣教でこのことを体験してきました!主に従ったことに対して1000倍もご褒美をいただいてきました!フルタイムで主にお仕えすることには大きな報いがあります!

カナラップ先生はマタイ9:38を引用し、働き手が起こされるよう毎日午前、午後9時38分に祈りましょうと呼びかけられました。私たちはこれを実行に移すでしょうか?私は働き手が与えられるよう祈るために携帯のアラームを午前と午後9時38分に合わせました。

私に加わってくださいませんか?このメッセージを皆さんへの愛をもって書いています。私たちがこのことに心を砕いていることを神様が見られ、喜んでくださるようにしましょう。主は答えてくださいます!

私は次のことをチャレンジします:

 毎日午前と午後9時38分に働き手が起こされるよう祈りましょう。神様は聞いてくださいます。

 救われていない友人や家族の救いのためにも祈りましょう。

 教会にリバイバルが起こされるよう祈りましょう。

 語る勇気が与えられ、主の証人となることができるよう求めましょう。

 主は聞いておられます!

「だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:38)

余ある霊的祝福

滝山聖書バプテスト教会牧師 テイ・エイケン

テイ・エイケン先生

「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」 ピリピ4章17節

第二次伝道旅行の時、神様からのはっきりとしたビジョンに従って、使徒パウロ達は海を渡ってマケドニアへ向かいます。それがヨーロッパ大陸への福音宣教の始まりでした。初めて訪れた地で、経済的にも乏しい中、どのようにして、パウロ達が福音伝道を数十年間続けられたのでしょうか?聖書によれば、それは、初代教会のクリスチャンたちの沢山の祈りと共に、惜しまない物質的なサポートがあったからだとのことでした。その中でピリピ教会は、常にその重荷を担って、パウロ達を支援していた教会でした。「テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。」(ピリピ4:16)。パウロの感謝の気持ちが込められた言葉でした。パウロたちはそれ以後、次々と福音伝道を進められ、ヨーロッパ全土へと広げていきます。「私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。」(ローマ15:19)。

言うまでもなく、昔も、今も、福音宣教を拡大するために、物質的なサポートがとても欠かせない奉仕です。昔よりも、むしろ現代のほうがもっと必要なのかも知れません。なぜなら、近年世界各地で物価が高騰している中、宣教師が現地での働きのコストがさらに高くなっているからです。そのため、宣教師たちは、時にはやむを得ず車を手放したり、子供の教育を犠牲したり、集会の場所をもっと狭いところに引っ越ししたりすることもあるでしょう。しかし、その一方で、サポートする側の日本にある諸教会は、教会自身の厳しい財政の中、海外宣教のために精一杯犠牲を払っている状況です。おそらく、このような状況の中で、教会から海外に宣教師を送り出すことはまず現実的に難しいことでしょう。また仮に、教会の中に海外宣教に重荷がある献身者がいたとしても、経済的なことを配慮して、奉仕の場を日本国内を優先するかもしれません。

このように、世界宣教を拡大する働きは厳しい現状の中にあります。しかし、主イエスの宣教大命令、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」ということは、常に私たちに、力と希望を与えるべきです。ですから、より多くの方々が世界宣教の働きに関わり、その恵みに与るために、献金など物質的な奉仕の霊的な意味を知ることがとても大事です。

そもそも、なぜ、祈りなど霊的な奉仕だけでは十分ではないのでしょうか?「神様は全知全能なるお方ですから、私たちが物のやり取りをしなくても、心を込めて祈れば、神様が奇跡でも起こして、何かをしてくれるのでは。」と、あるいは、「霊的なことは神の力で、物質的な物は人間的な力だ」と思う方もおられるかもしれません。

確かに、御心であれば、神様ご自身の御業で、烏を用いて人を養うことも、五つのパンと二匹の魚を用いて5000人への給食をなさることもできます。しかし、聖書は、人類の歴史の中での神のお働きは、その方法だけではないことが明らかです。もし、霊的なことだけが神様の力の現れであれば、使徒パウロが福音宣教の時に、諸教会の祈りだけで、すべてが満たされたはずです。しかし、現実にはパウロも、「飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(第二コリント11:27)とあります。これは何を意味しているのでしょうか?主の働きは、物質的な奉仕は、霊的な奉仕と同じように重要だということです。神様は、霊的なことも、物質的なことを用いて、御力を現わされるのです。「地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。海は主のもの。陸地も主の御手が造られた。」(詩篇95:4-5)とあるように、天にある霊的な物だけでなく、地上にある物質的な物も神様に造られて神様のものですから、神様がこれらの物を用いられて、ご計画を進められることは当然なことです。ですから、もし、私たちが神様の御心にかなった信仰生活をするのであれば、祈りなど霊的な奉仕と同じように、物質的な奉仕も大事にしなければなりません。

主の働きのために、物質的な支出によって、私たちの霊的な祝福が償わせられて手に余るとのことです。つまり、物質の支出は、私たちの霊的な黒字につながることです。これが神の経済学です。

実は、ピリピ教会の惜しまない贈り物は、そのままピリピ教会にとって、霊的な祝福になるのだと、パウロは言っています。「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」(ピリピ4:17)。この箇所から、神の御手にある霊的な帳簿が見えるのです。神の帳簿の計上方法は私たち普段のやり方とはかなり違います。私たちは家計簿をつけることがあると思いますが、家計簿を通して、家計の状況を分かりやすく把握することができます。支出が多いと余裕がなくなり、支出をうまく抑えれば貯金が増えます。しかし、神の御手にある霊的な帳簿の計上方法はそれと真逆です。主の働きのために、物質的な支出によって、私たちの霊的な祝福が償わせられて手に余るとのことです。つまり、物質の支出は、私たちの霊的な黒字につながることです。これが神の経済学です。つまり、尊い物質的な犠牲は、豊かな霊的祝福をもたらすことになるとのことです。それが私たちの実として霊的な帳簿に計上されるのです。ですから、パウロの喜びは、自分の必要が満たされたことにあったのではなく、ピリピ教会が神様から余りある霊的な祝福を受けることにあったことがわかります。

おそらく、私たちは自分の霊的帳簿に結ぶ実がたくさん計上されることを願っていると思います。そうであれば、私たちは自ら進んで、自分の力に応じて、世界宣教に関わるべきではないでしょうか。思えば、私たち一人一人が世界宣教の恩恵を受けたのです。世界宣教によって霊的なものを頂いたのですから、物質的な奉仕をもって、その収支を償わせる義務があります。本来は、私たちの持ち物はすべて、神様から与えられたものですから、神様の働きのために使うべきです。それは当然のことであるにもかかわらず、神様は私たちに豊かに祝福してくださるのです。これこそ恵みではないでしょうか。

パウロは、ピリピ教会の贈り物を神様への礼拝行為だとして、このように言っています。「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」(ピリピ4:18)。このように、私たちの尊い祈りが神様の御前に届くのと同じように、私たちの世界宣教のための尊いささげものも、香ばしい香りの供え物として、天にある神様の御座にまで届いて、神様が喜んで受け入れられるのです。

神は全ての人の救いを待っておられる

港北ニュータウン聖書バプテスト教会牧師 鹿毛独歩

「すると、再び声があって、彼にこう言った。『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。』」使徒の働き10章15節

聖霊行伝

「使徒の働き」は、初代教会の宣教の歴史です。主イエスの昇天の後、聖霊がこの世界に降られ、全世界への福音宣教の力となられた歴史でもあります。それゆえに「聖霊行伝」とも言われたのです。聖霊なる神は、五旬節(ペンテコステ)の日、それまで恐れおののいていた弟子たちに降られました。その多くはガリラヤの田舎の出身でありました。その日、弟子たちは習ったこともない外国の言葉で、キリストの福音を証しし始めたのです。それは突然の大事件でした。人々はこの不思議な出来事に驚き「いったいこれはどうしたことか」と互いに話し合ったのです。

キリスト教信仰による魂の救いは、人の理性では計り知ることができない大きな驚くべき出来事です。人の心、生活、生き方、価値観さえも変えてしまう出来事だからです。それまで自分中心で常に損得勘定で行動していた人が、キリストを信じた時から、ただ神の愛によって生きることを選択するようになるのです。私たちは、ここに聖霊の豊かな働きを見るのです。しかし、多くの人々は「一時的な感情に酔っているのだ」「洗脳され、騙されているのだ」「それこそ損な生き方ではないか」と批判します。
神は、キリストによって人が最も必要としている「罪の赦し」と「永遠のいのち」の祝福を約束してくださいました。これこそ、神が全人類に与えられた最高の賜物(贈り物)です。しかし、人の心はかたくなで、聖書のみことばを知ろうとも、受け入れようともしません。そして、むなしい偶像に対しては、伝統、習俗として何のためらいもなく膝をかがめるのです。聖霊は、このような様々な文化の中から、キリストの教会をお立てになりました。教会は、キリストの福音を宣べ伝える神の福音の砦です。

教会は、このすばらしいキリストの福音を伝え続ける使命があります。しかし、時々、目の前の働きの忙しさの中で、神の命令と神のみこころを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。それは、神の救いの福音は、全世界の人々に提供されているということ、また、福音宣教の大命令は全世界に出て行くことが求められているということです。

ペテロへの幻は、彼らユダヤ人たちが持っていた古い律法的な価値観を打ち破る神のチャレンジでした。ペテロは幻の中で、これまで律法の中で「きよくない動物、汚れているとされた動物」が敷布に包まれ、天から降りてくるのを見たのです。そして、天から「ペテロ、さあ、ほふって食べなさい。」との声がしました。彼は「主よ。それはできません。私は、まだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」それは旧約聖書の神の定めだったからです。しかし、神は言われました。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」

神のみこころが変わったのでしょうか。神のみこころは決して変わってはいないのです。神はアブラハムに天の星を見上げさせ「あなたの子孫はこのようになる。」と語られました。また、預言者ヨナを敵国ニネベに遣わし、「わたしはこの大きな町ニネベを惜しまないでいられようか、そこには、右も左もわきまえない12万以上の人間と数多くの家畜がいるではないか。」と仰せられたのです。南ユダ王国を滅ぼしたバビロニアにおいてもダニエルを通して、神はご自身の栄光を現されました。神はすべての創造主であり、すべての造られた者を愛し、あわれんでおられるのです。

神の御子イエス・キリストによって神の救いのみわざは完成しました。そして、神は、イスラエルを通して、全世界にキリストの救いを明らかにされたのです。ハドソン・テーラーが中国の奥地に宣教をした時、救われた中国人は彼に尋ねました。「この福音が、イギリスに伝えられてから何年になるのですか。」ハドソン・テーラーは「数百年前になります。」と答えると、彼は言いました。「何ということです。この福音を数百年も前に知っていながら、今やっと伝えに来るなんて。私の父は20年以上も真理を求めていました。そして、見出せずに死にました。ああ、なぜ、もっと早く来て下さらなかったのです。」

国際社会の中で大きな経済力を持つ日本は、世界各地にビジネスマンを送り出し、メイド・イン・ジャパンの製品を世界へと輸出しています。しかし、「どれほど福音のために、人を送り出し、犠牲を払っていますか。」と問われるならば、私たちの手の中には、乏しいささげ物しかないのです。ペテロは、神のおことばを聞きながらも「主よ。それはできません。」と神の命令を拒みました。私たちも、その働きの乏しいことの理由をいくつも挙げることはできるでしょう。「教会がまだ小さいですから」「日本にはまだ救われていない人が多くいますから」「働き人がいませんから」。この幻が三回も繰り返し繰り返し示された時、ペテロは神がこの福音を異邦人にも宣べ伝えることを良しとされていることを知ったのです。

聖霊は、私たちに信仰の気づきを与えてくださいます。キリストの福音の宣教は、神の最大の願いであるということです。神はすべての滅び行く民をあわれみ、全世界への福音宣教の時、恵みの時を今もなお延ばしておられるということです。

考えてみるならば、日本の宣教も、世界宣教の大きなビジョンによって祈られ、遣わされた宣教師たちによって福音の種が撒かれてきたはずです。神は世界宣教の働きの中で、私たちを召し出し、それぞれのところに遣わしておられるのです。それが海外であるか、日本国内であるかという違いがあるだけです。神にとって、その一人の魂の重さは同じです。
救いを求める魂の叫びを聞きながら、共に祈り、まだ福音を知らずに滅びに向かう魂の救いのために仕える者となりましょう。

数年前、台湾に行かせていただいた時、台湾人の牧師夫人が「私の親は日本語世代であり、自分の親でありながら、日本語で福音を伝えることができません。日本から福音の働き人を送ってください。」その叫びは、今も私の心に響いているのです。

真のフルタイム献身を目指して

岡崎聖書バプテスト教会牧師 疋田 健次

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」ローマ12:1

青年キャンプでの出来事

高校生のころからだったでしょうか。毎年5月に行われる青年フェロシップキャンプに参加するようになりました。キャンプに行くと、同じ世代のクリスチャンに会うことができます。それは私にとって、とても楽しいひと時でした。しかし、そんな楽しいキャンプのなかで、唯一、苦手な時間がありました。メッセージの後の招きの時間です。毎年毎年、講師の先生方は、決まってこのように言われます。「主のためにフルタイム献身の決心をする人はいませんか?」。

「フルタイム献身…」。この言葉は当時の私にとって、とても恐ろしい言葉でした。キャンプに参加する度に、この言葉が私の背中に重くのしかかってくるようでした。なぜなら私は、「牧師には、なりたくない!」と考えていたからです。そのような私が今、牧師として主と教会にお仕えさせていただいていることは、本当に不思議なことです。主のお取り扱いとしか言うことができません。

フルタイム献身への誤解

「フルタイム献身」という言葉は、牧師や宣教師などといった直接的に宣教の働きに携わる仕事に就くこと。あるいは、その道に進むこと…といった意味合いで用いられているかと思います。「フルタイム」という言葉を辞書で引くと、「全時間」「常時」「決まった勤務時間の全時間帯を働くこと」「常勤」と出てきます。ですから、職業(プロフェッショナル)として宣教の働きに携わること=フルタイム献身と呼ぶのは、正しいと言えるでしょう。

しかし、この言葉は、ある面において、誤解を生み出すことがあるのではないかと考えています。いや、私自身がまさに、長い間、誤解していた言葉なのです。
ここにありました。「牧師や宣教師になることがフルタイム献身ならば、それ以外の道に進むことはパートタイム献身なのだろう」。私はそのように考えていたのです。

「日曜日は教会に行って礼拝しているし、献金もしている。トラクト配布をすることもある。でも、他の日まで奉仕をすることはできない。私はフルタイム献身者ではないのだから」。さらに私は、次のように考えるようになっていきました。「伝道は牧師や宣教師がするもの。私の役割はサポートであって、直接的な働きは関係ない。私はフルタイム献身者ではないのだから」。私はフルタイム献身者ではないことを言い訳にして、自分自身を宣教の働きから遠ざけようとしていたのだと思います。しかしある時、この考えが間違っていることに気づかされたのです。

献身は誰に命じられているのか

そもそも聖書は、献身を「フルタイム」「パートタイム」というふうに分けているのでしょうか。あるいは、特別な人たちにだけ献身するよう命じているのでしょうか。ローマ12章1節には、このように書かれています。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」

これはまさに献身について教えている御言葉です。問題は、この御言葉が誰に向けて語られているかです。パウロは「兄弟たち!」と呼びかけています。牧師や監督、長老たちに呼びかけているのではありません。つまりパウロは、すべてのクリスチャンに対して、献身することを勧めているのです。

私自身も便宜上、フルタイム献身という言葉を使うことがあります。また、牧師や宣教師の道に進む人には、ある面において特別な献身が求められているということも事実でしょう。しかし、クリスチャンであるならば、たとえどのような道を歩むにしても、フルタイムの献身者であるべきだと聖書は教えているのではないでしょうか。

Ⅰコリント10章31節には、次のように書かれています。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」

真のフルタイム献身とは、その人が自分自身の人生のすべてをとおして、それこそ「食べること」や「飲むこと」などといった日常生活のほんの小さなことをとおしてさえ、主なる神様のご栄光をあらわしていくことなのだと思います。

全てのクリスチャンは伝道者として立てられている

昨年、発行された宣教クォータリーのなかで、信徒による宣教についてのメッセージが掲載されていました。使徒行伝のなかには、パウロやペテロといった使徒たちの宣教の働きが記されているだけでなく、普通の信徒たちによって町々に福音が宣べ伝えられていったことも記されている。そうした信徒たちの働きが各地の教会の基礎となっていった…と書かれていました。

これは、初代教会の時代だけの特別な出来事だったのでしょうか。現代の教会には当てはまらないのでしょうか。そうではありません。昔も今も、すべてのクリスチャンは、よみがえられたキリストの証し人であり、それぞれの場所において立てられた伝道者なのです。かつての私のような誤解があってはなりません。「伝道は牧師や宣教師だけの特別な働きで、自分とは関係ない」という誤解です。

私たちの人生は一人ひとり異なります。ある人は教師として、ある人は看護士として、ある人は大工として、ある人は営業マンとして、ある人は芸術家として…。他にもさまざまな職業や人生があるでしょう。これからどんな仕事に就こうかと考えている学生たちもいます。そのなかには将来、牧師や宣教師の道に進む人がいるのかもしれません(若い青年の皆さんはぜひ、このことについて真剣に祈ってください)。しかし、たとえどの道に進むにしても、私たちは皆、献身者であり、伝道者であることを覚えたいと思います。

教会の一人ひとりが、それぞれ立てられているところで、真のフルタイム献身者として歩んでいくとき、福音宣教の力はより豊かなものとなっていくのではないでしょうか。宣教とは、トラクトを配ること、訪問伝道や個人伝道をすること、伝道集会を行うことだけではありません。食べること、飲むことさえも、実は宣教につながっているのだと思います。究極的には、私たちの人生そのものが福音宣教のためにあると言えるでしょう。

なぜなら、私たちが救いに召されたのは、神様のご栄光をあらわすために生きる者となるためだからです。このことを覚え、教会全体が一丸となって、福音宣教の働きに与っていくことができれば幸いです。

I Have No Man

小倉聖書バプテスト教会牧師 ケネス・ボード

「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」ヨハネの福音書5章7節

キリストは、38年もの間病気にかかっている人に会いました。キリストは彼に聞きました。「よくなりたいか。」7節に書いてあるその人の返事はとても悲しい返事です。「池の中に私を入れてくれる人がいません。」もし私は聖書に書いてある最も悲しい言葉のリストを作ったら、私はその病人の言葉をそのリストに入れます。「私を入れてくれる人がいません。」

英語の聖書に「I have no man.」と書いてあります。この箇所を読むたびに、私は聞きたくなります。「彼の親はどこですか。もう死んでいるでしょうか。」あるいは、「彼の兄弟はどこですか。いなかったでしょうか。」また、「彼を助けてくれる友達は一人もいませんか。」「I have no man.」と答えた彼は、なんとかわいそうな人であったでしょう!

新聞に、この人に似ている女性についての記事がありました。かなり年をとっている彼女は一人で住んでいました。彼女はよく近所の方達の助けに頼りました。ある日、彼女は死にました。数日後、彼女の状態を調べに行った人は彼女の死体を見つけました。警察が調べに来たとき、彼らは彼女の日記を見つけました。その日記の終わりのほうに同じ言葉がすべてのページに書いてありました。

「Today no one came.」 (今日だれも来なかった。) ヨハネの5章の男性の言葉「I have no man.」と新聞の記事の女性の言葉「Today no one came.」が日本とほかの国々にいる多くの人々の状態を表していると思いませんか。
彼らの街に伝道に熱心な教会がありませんから、彼らの魂に関心を持つ人がいません。昨日だれも彼らの町に福音を述べ伝えに来ませんでした。今日もだれも彼らの町に福音を述べ伝えに来ません。明日もだれも彼らの町に福音を述べ伝えに来ません。

キリストがこんな人たちを見たとき、彼は「彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)英語の聖書は「compassion」という言葉を使っています。英和辞書によると、「compassion」は哀れみと同情です。
しかし、「compassion」の本当の意味はもっと深い意味です。人たちの状態を見て、彼らをかわいそうに思うことと彼らを助けてあげたい気持ちを持つことです。
私たちはよく宣教師たちの経済的な必要を強調しますが、もし私たちが「I have no man.」と嘆いているたましいの声を心で聞いたら、私たちは彼らをかわいそうに思って、彼らを助けるためにできるだけのことをするでしょう。海外宣教の最も大切な必要は「money」 ではなくて、「compassion」です。問題は、私たちの財布にお金がありますかという事ではありません。私たちの心に「compassion」がありますかという問題です。なぜなら、私たちが福音を伝える宣教師がいない町に住んでいる数多くの魂をかわいそうに思って、彼らを助けたい心を持つようになるとき、私たちは喜んで財布を開けて、海外宣教のための献金を捧げるからです。

神様を知らない人に福音を

北九州聖書バプテスト教会牧師 三宅 宏昭

『ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』 ローマ1章15~17節

異文化と福音

昨今では神学校で学ぶ学生もクリスチャンホーム、牧師家庭で生まれ育った兄弟姉妹がほとんどとなっており、教会の働き方がこの数十年の間でずいぶん変化していることを感じさせられます。とはいえ教会に第一の使命として命じられている福音宣教は、神様を知らず救われていない人々に神様の御言葉を伝える働きであり、クリスチャン達の間での働きとは全く違って、まさに神様を知らないがゆえに平然と神様を侮る人々に向けて証しをすることです。福音を宣べ伝えるクリスチャンにとっても、福音を聞く人々にとっても、まったく異質な文化や言葉と出会う経験になることは避けられません。

私自身、家に仏壇や神棚があり、子供の頃から仏教には触れても聖書には触れたことは無いところで育ち、青年時代に聖書と神様に接したので、驚きと戸惑いは大きなものでした。その頃、私はきっとこの世界のどこかに真理と呼び得るものはあるのだろうと思っていましたが、それがどこにあるかは分からずに過ごしていました。真理があるなら、世の不条理、不公正、罪悪の勝利にも解決がなされるに違いないと期待していたのですが、それを見出せずにいたのです。
聖書との出会い
私の聖書との出会いは、無料で配布された小さな新約聖書によってでした。一度も読んだことが無かったけれども「聖書」という気高い名前の故に一目置いていた聖書を手にした私は早速それを開いてみました。
しかし聖書はちょっと読んだからといって理解できるような代物ではありません。ただ神様の憐れみをいただきました。聖書に書かれている裁きについての御言葉、そしてイエス・キリストが裁きを行なう方だという御言葉を読み、その点はすっきりと心に入りました。

「全人類について裁きを行なうとはっきり宣言されている。ならばイエス・キリストは確かに神であり、裁き主に違いない。私の望んでいた真理は確かにあった」と納得できたのです。それ以来、イエス・キリストは私にとって敬うべき神、裁き主として存在感を持つようになりました。もちろんその当時、私はイエス様を救い主と信じていたわけではないので、救われてはいません。私は自分の醜さ汚さには気づいていたので、自分もまた裁きを受けて地獄に落とされるものと認識していましたが、それでも納得できるから良いと思っていたのです。おそらくイエス様との出会い方としては、私の場合は少し奇妙な道筋だったのだろうと思います。

それから数年が経ち、私は自分の罪についての意識が強くなって「きっとこの罪の解決の道としての救いは教会にあるだろう」と思い立ち、教会を訪ねました。教会で聖書を開いて、イエス・キリストの福音を丁寧に何度も時間をかけて説明し教えてくれた牧師の恩は忘れることができません。

福音を聞くことと、信じることの違い

人が福音を聞くことと、信じて受け入れることとの間には大きな距離があります。人は1回、福音を聞けば聖書の教えていることが分かり、罪を悔い改め、喜んでイエス・キリストを信じることができる、という者ばかりではありません。
私にとってイエス・キリストの十字架は大き過ぎました。私は以前聖書を読んで、イエス・キリストが神であること、正義をもって全ての人を裁く裁き主であると知り、この点は受け入れていました。イエス・キリストは天の高き所におられる、栄光に輝く聖なる神であって、この方を直接見上げることにも恐れを感じるほど特別な方だと思っていました。

そのイエス・キリストを自分の罪のために十字架にかけて殺した、と言われて簡単に納得できるものではありません。私は自分の罪だけでも重くて苦しいほどなのに、その上にイエス・キリストの死まで自分の責任として負えるかと考えると、とてもではないけれど十字架は重すぎました。この恐れについて私は自分では解決できませんでした。
ところが神様は私に解決を与えて下さいました。私が一人でイエス・キリストの十字架について考えていた時、『完了した』(ヨハネ19:30)というたったひと言の御言葉を神様は私の心に浮かび上がらせ、教えて下さいました。今さら私が恐れたり悩んだりしても無意味なこと、イエス・キリストの十字架による救いの御わざは既に成し遂げられ完成されているのだと。この御言葉によって私は神様に対して抵抗していた心を砕かれてひれ伏し、イエス・キリストを私の救い主、私の主として信じました。こうしてようやく私も救われました。

救いにいたるまでの道のり

神様を知らないで生きて来た人間が聖書の御言葉に触れ、神様を知り、救い主イエス・キリストを信じるということは簡単なことではありません。聖書を手にしてからも何年もかかる、そういう場合もあるのです。福音を宣べ伝えるとは、そういう人々、或いは更に難しい事情を持つ人々の間に聖書の御言葉を携えて行くということです。福音を伝えている間にも一人の人が福音に耳を傾けたり、反発したり、離れたり、戻ってきたり、という紆余曲折を経ることもあります。

福音宣教は神様の御わざ

まして海外宣教の場合、異なる言語、異なる文化を持つ人々の中に福音を宣べ伝えに行くのですから、その働きの複雑さと困難さは想像を越えます。ただ福音宣教と人の救いは、人間の力による働きではなく、神様の御わざです。人の心を開いて信仰に導くのは神様の恵みなのです。ですから福音を宣べ伝える者は、神様のお働きに従う者として遣わされ、神様に用いていただきます。

まだ神様を知らず、救われていない人々が世界に数多く残されていることを覚えて、日本でも海外でも、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えていきましょう。

小さな教会の宣教

枚方聖書バプテスト教会牧師 當麻 眞平

アンテオケの教会のように

「そこで一同は、断食と祈りをして、手をふたりの上においた後、出発させた」(使徒13:3)。アンテオケの教会は、聖霊の導きでサウロを宣教に送り出しましたが、その時のアンテオケの教会はどのような状態だったでしょうか。宣教を始めるにふさわしい、十分に成長していた教会だったのでしょうか。アンテオケの教会は、ステパノのことで起った迫害のために散らされた人々が伝道して始まった教会です(参照、使徒11:19−21)。まだまだ始まったばかりの教会ではなかったでしょうか、しかし彼らはパウロ達を宣教に送り出しました。

枚方で開拓伝道を始めてから、もうすぐ40年になります。小さな教会です。会堂は与えられていますが、土地の取得や建物の建築のために多額の費用がかかり、経済的に苦しい時代が長く続きました。今まで教会を継続することができたのは、主の守りと祝福があったこと、そしてしっかりした目標を持っていたからと信じています。それは世界宣教に参加することです。枚方の教会は、母教会から送り出され、多くの姉妹教会に支えられて開拓が始まりました。人々が集まり、救われる人も起こされ、教会としての形が見えてきました。

アンテオケの教会はどうだったでしょうか。アンテオケにまで進んできた「散らされた人々」は主イエスを宣べ伝えました。「そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった」(使徒1:19−21)とあるように、アンテオケに教会が出来たのです。しばらくしてアンテオケの教会は、聖霊に導かれてパウロとバルナバを宣教に送り出しました。アンテオケの教会と同様に、私たちも、パウロとバルナバはいませんが、信仰約束宣教献金と祈りをもって参加することに決め、すぐに開始しました。

開拓伝道開始と同時に世界宣教に参加

枚方教会は、開拓を始めてすぐに世界宣教の働きに参加しました。その時教会は、母教会や姉妹教会から祈りと献金の支援を受けている最中でしたが、「宣教の大命令」を実行しない教会はあり得ないと思っていました。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として・・・」(使徒28:19)。これは第一に世界宣教をせよと示すものと考えます。もちろん、開拓伝道ですから、足元の伝道が最優先です。地元の伝道をせずして信徒を得ることは出来ません。この足元の伝道は、当然行うものであって、必然的に行います。では、世界宣教はいつ始めるのが最善でしょうか。教会が成長して自立し、教会員も十分に確保できた時が世界宣教を始める時でしょうか。私は、開拓伝道を始めた時こそが、世界宣教を始める時であると信じています。教会が成長してから始めようとしても、かえって色々な必要や問題が教会内にあって、外に出て行く教会の力である世界宣教は、しづらくなるのではないでしょうか。しかし、開拓期から始めているなら、世界宣教は教会の働きの一つとして定着するので、教会が経済的に苦しくなっても、何か問題が起こっても、世界宣教に捧げることは当然のこととして継続が可能です。それは足元の伝道をやり続けるのと同じことです。

教会と世界宣教

私は、この小さな教会が今も維持できているのは、礼拝を行い、伝道を続け、同時に世界宣教に参加しているからと信じています。つまり、主の宣教の大命令を守ってきたことで、教会は主の恵みをうけて守られているのです。私たちは教会の成長を願う時、私たちの思いは内側に向かいがちです。設備のため、伝道のために力もお金も必要ですから、外に出すことは無駄遣いに思えます。海外宣教は大切ですが、教会が第一でしょうとなるのです。しかし、主の命令は、第一に「あなたがたは行って」宣教することです。教会の成長のために、外に向かうことは決して損失ではなく、海外宣教は教会の力の源泉となるものです。流れ出ますが、枯れることはありません。宣教は、教会の力であり守りであると思います。教会はつねに一致して守られます。宣教をやめて、その力を教会のために使うなら当座は繁栄があるかもしれません。しかし、教会の基礎は緩み、亀裂もおこり、いつしか教会は傾いてしまうことでしょう。宣教は、教会の霊的な恵みです。

信徒と世界宣教

普通の教会の普通の信徒の働きは、世界宣教にどれほど貢献しているでしょうか。使徒行伝には、多くの聖徒の働きが記されています。使徒たちの働きは特に興味深いものです。その中でもパウロの働きはとくに素晴らしいものです。海外宣教をしている宣教師の働きには、心躍らせるものがあります。普通の信徒の働きと比べることは出来ません。しかし、使徒行伝において、最も注目しなければならない宣教師たちがいますが、ほとんど注目されません。彼らは、実際は使徒でも伝道者ではなく、普通の信徒たちです。
ステパノが殉教し天に召された後、「エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った」(使徒8:1)のです。「さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた」のです。その中にいたピリポはサマリヤに下っていき、人々にキリストを宣べはじめると、彼らはピリポの話に耳を傾けます。その結果、サマリヤの人々は神の言を受け入れたのです。そしてエルサレムにいる使徒たちは、ペテロとヨハネをそこに遣わして、主イエスを信じた人々にバプテスマを施したのです。これらの名もなき信徒たちは、エルサレムを追い出された人々ですが、福音を町々に宣べ伝えた宣教師です。彼らの働きが各地の教会の基礎となったのです。

一人の信徒の働きは、ある意味でわずかな献金と祈りであるかもしれませんが、その働きの一つ一つが集って世界宣教を動かすのではないでしょうか。その一つ一つは、目立たなくても、なくてはならない働きなのです。宣教の地を訪問し伝道を助けることもなく、ただ宣教報告を聞いて、祈るだけかもしれませんが、その小さな働きがなければ、大きな世界宣教の働きは始まらず、また継続できないのです。世界宣教は本当に大切です。宣教師の先生方の犠牲に心から感謝します。そして、その働きを支えている信徒の働きにも心から感謝します。続けて世界宣教のために祈り、またささげましょう。

異邦人・異民族伝道と教会

〜文化の違いを超えて出て行くときに気づかされたこと〜

インドネシア派遣宣教師 広瀬 憲夫

「また、こうも言われています。『異邦人よ。主の民とともに喜べ。』さらにまた、『すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。』ローマ15章10〜11節

異民族との向き合い方

世界中の「難民」問題で関係者はそれぞれに難しい対応を迫られています。私たちの近隣にもミャンマーからロヒンギャ族難民が押し寄せてきていて、いくつかの難民キャンプが作られているそうです。
難民到着後、この9月、スタバッ伝道所の近くのモスクから、拡声器を通して周辺住民にも聞こえるように伝えられた説教が、「帰って闘え!」でした。この説教者の個人的な見解でしょうが、今の時代、違う民族、違う文化、違う宗教の人々の間の対立が、ますます深くなってきていることが肌で感じられる言葉です。
そのような状況の中で、私たちは異民族に対してどうするようにと主から命令を受けているのでしょうか。

旧約聖書において、「主の民」(ローマ15:10)とは割礼を受けてアブラハム契約に入った者であり、「異邦人」は、それ以外の割礼を受けていないすべての人々を指しています。パウロの手紙ではそれを受けて、「すべての異邦人」「もろもろの国民」も福音によって主をほめるようになることをビジョンとしているのです。
使徒時代のローマ帝国同様、インドネシアも多民族国家です。インドネシアで隣人は、共通語としてインドネシア語を話すことができても、多くの場合、日常ではそれぞれの民族語で会話をする、さまざまな民族です。その数はインドネシア全体で、300以上とも700以上とも言われます。インドネシアにおいて、隣人への伝道は、本来なら異民族への伝道のはずです。

民族の違いによる障壁

ここで障壁になるのが、その民族の違いでした。北スマトラ州では、一般に「キリスト教=バタック民族宗教」と思われるほどに、バタック民族教会が多く存在します。バタック・トバ族の場合、国勢調査の統計上、95パーセントがキリスト教。そして、私たちの教会でも、メンバーの9割はバタック族です。そのため日常の交流も伝道の相手も、バタック族が多くなります。バタック民族教会はプロテスタントを標榜しているにもかかわらず、救いは善行によるとする教理なので、彼らへの伝道は「信じるだけで救われる」というところに力が入ってしまいます。

実は、宣教地に来た最初のうちは彼らが何をどのように信じているかに、あまり注意を払っていませんでした。イエス・キリストを信じると言うのは、私たちにとってはなによりもまず贖いを個人的に受け入れ信じることです。それに対し、「彼らは贖い信仰50%プラス善行50%としていて、信じるだけでは救われないと考えている」と私たちは考えていたのです。
けれども、「信じた、救われた」はずの人々のその後の成長がどうもはっきりしない。そのうちに少しわかってきたのが、彼らの言う「キリストを信じた」とは、数ある宗教の中からキリスト教を選んだことであり、数ある神々の中からキリストを選んだ、生まれながらの家の宗教がキリスト教だった、ということにすぎなかったわけです。バタック民族教会で十戒や使徒信条を毎週のように唱和してもキリストの死が「自分のため」という自覚はなかったのです。

贖いの理解が不十分なままに「イエスは主である」と信じて告白し(させ)ても、信仰生活はせいぜい律法主義にしかなりません。加えて、年長者を尊重することが何よりも重要とされる部族社会の伝統の中で、年長者の権威に強制力を持たせる権威付けのための聖書の教えにとどまってしまいがちです。ですから、そのような状態の人々に、「信じるだけで救われる」という点だけを強調して伝えても、実は、空を打つような拳闘をしていたに過ぎなかったと言えます。

他宗教の異民族に福音を伝える際には、もちろん、「信じるだけで救われる」というところだけを強調するような「伝道」はしません。そこは、自分でも無意識に、相手によって伝え方を変えていたわけです。

特定の民族文化が教会の習慣となってしまう

教会メンバーが「隣人」に証しをするにも、バタック人への伝道がどうしても多くなり、「異民族」、すなわち他民族、他宗教の人々への伝道は二の次になってしまいがちになります。さらに、教会内のさまざまな行事、話し合いのやり方、等々、気づかぬままにバタック民族文化が濃厚になってしまいます。教会内の雰囲気が、多数派であるバタック民族の色になるのは、仕方ないことかもしれません。けれども、まさにこのことが「異民族」伝道の障壁になっているように考えられるのです。
地域に根ざす教会として地域での証しに励むとき、周辺の人々を区別することはあってはなりません。しかも、宣教の大命令は、「すべての国民」を目指すように明記されているのです。そこで、私たちは教会のあり方の原点、教会の宣教の原点を考える必要があると気づかされました。教会の宣教原理の第一歩を、同胞に向けるのか異民族に向けるのか、ということです。「出て行って、すべての国民を弟子とし」との命令を聞くとき、どこに目標を置くべきでしょうか。どのような教会を目指していくべきでしょうか。

教会本来のあるべき姿を取り戻すには

バタック民族が多数になってしまっている私たちの教会の状況の中に自分を置いている時、このことには気がつきませんでした。いつも付き合っている人たちが、御言葉を語る対象になり、その友人、家族がおもな伝道の対象となる。
そこをあえて、自覚的に異邦人、異民族と接触し、伝道することに心を向けることから、他者の理解を深める機会も与えられてくることになり、さらには、教会でなされるべき教え、特に青年に対する指導が、異民族どうしの集まりとして学ぶべき聖書の教えを追及することから始まることになるのではないでしょうか。
このように、異邦人・異民族伝道が、必然的に、教会本来のあるべき姿、本質を明らかにしてくれるように思われるのです。

教会の本質に触れる話し合いへの招き

今年の6月、東アジア宣教師O師にビンジェイに来ていただいた折、教役者の交流の必要性を強く感じ、雑談の中から、「各国の伝道者が集まって交流会を開こう」、という計画が持ち上がりました。互いの宣教地のために祈りあい、理解しあい、さらにはやがて宣教師を送り出すための力を得るための交わりを目的とする集いです。東アジア内地から、何名かの若い伝道者が、メダンに来ることが可能かもしれません。それに合わせて、日本の伝道者の皆さんにも、ぜひ、積極的に、この交わりに参加していただきたいと思います。東アジアの参加者と忌憚なく語り合うためにも、特に若い伝道者の皆さんにお願いしたいと思います。期日は、2018年5月14日(月)から18日(金)まで。場所はメダン、ビンジェイ。

ここで、教会の本質に触れる話し合いが進められ、地の果てにまで出て行き異民族の隣人となって福音を伝える教会がますます力強く成長することを、心から期待しています。

宣教の力は「復活信仰」

太田聖書バプテスト教会牧師 佐藤 一彦

「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるからです。」1コリント15章12〜19節

キリスト教のイメージ 十字架

皆さん今年のイースター復活祭はいかがだったでしょうか?きっと祝福された事と思います。
最近は日本でも随分と「イースター」という言葉が浸透しつつあります(教会発信でないのが残念ですが)
しかし、どれだけの人が、それがイエス様の復活と繋がって理解されているでしょうか?

一般にキリスト教のイメージと言えば「十字架」を多くの人々が思い起こすことでしょう。確かに教会には必ずイエス様の十字架がシンボルとして飾られています。
正当な学者たちや多くの人々はイエス様が約2000年前この地球に存在していた歴史的人物であり、偉大な教師であり、奇蹟を行い、冒涜罪のために十字架で死んだことを否定していません。
そして、更に十字架の死の意味も、私たちの罪の身代わりに死んでくださり、それを信じる時に罪の重荷から解放される。この辺りまでなら、強く全否定する人はそう多くはありません。誰かが自分の命を投げ出して愛する者のために死ぬ・・・なんという美談でしょう。そのような物語や出来事は今まで歴史の中でたくさんあったことでしょう。この事実を多くの人々は信仰がなくても理解できますし、感動を与えるでしょう。しかし、それとイエス様の死とを同等に置くことは出来ません。

ある日本人宗教観アンケートで、様々な宗教の中で実はキリスト教に対する好意層が増えているという結果が出ています。結婚式はキリスト教式の教会が60%、信仰を持つとすればキリスト教が実は一番多く約30%、そしてキリスト教は好しい宗教だと答えた人が23%。このようにクリスチャンは「まじめで、信頼でき、暖かい。」と良いイメーシがあるのに、どうして未だ日本はクリスチャン人口1%の壁が破れないのでしょうか?きっとキリスト教は好ましいと思っている人々の中には、キリスト教をある種のブランドイメージで見ているのだと思います。十字架(デザインとしての形)、教会堂(素敵な外観)、愛の宗教(寛容さ)、イエス様(あるいはマリヤ様)の人物像(アイドル的存在)などが他の宗教に比べて受け入れやすいのではないでしょうか?きっとイエス様の十字架の死でさえ、最高の人間愛的な視点で見るならば好ましいのでしょう。

復活信仰がなければ信仰をもてない

しかし、私たちは知っています。それだけでは決して信仰を持つには至らないのです。イエス様の十字架に感動し、ある程度理解することは信仰が無くてもできるかもしれませんが、問題はイエス様が死んで3日目に甦ったという復活の事実を認めることだけは、信仰がなければどうしても受け入れることはできません。
なぜなら復活という真理は、人々が好む世の中の道徳、ヒューマニズムの許容範囲を遙かに超えるからです。このイエス様の復活こそ、信仰を必要とする核の部分であり、揺るぎない確信の土台となるのです。私たちの信仰は復活信仰なのです。

「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」
1コリント15章14節

パウロは15章で「イエス様の復活は事実であり、イエス様の十字架を信じた者は、すべて罪赦され、信仰によって義とされ、神の子とされます(十字架の力)。しかし、それだけではなく永遠の命が与えられ、最後にはイエス様と同じように復活の体に甦らされ、主イエス様と共に全ての祝福を得て、神の御国で永遠に生きるには復活の信仰が必要である。」と説明し、単なる地上での幸せ論ではなく、その遙か向こう側の天的な領域にまで達する祝福があることを、空想上の虚しい希望ではなく、イエス様が実際に死からの復活をもって人類に示されたのです。

しかし、パウロはこの大切な福音の真理を未信者でなく、教会に対して確認しているのです。信者でありながら、復活はあるかもしれないし、もしかしたらないかもしれないと曖昧な理解だけで終わってしまっているのであれば、それはとても惨めな人たちですと言うのです(19節)。
皆さんはどうお考えでしょうか。「復活はあれば儲けもの、無ければないでも、素敵な宗教だからいいや」と言う程度で信仰されているのでしょうか?
私はかつてウガンダの宣教師でした。現地の人々の生活は大変貧しく、物質的な豊かさを経験できる希望はほとんどありません。毎日が自給自足、或いは「無い」という生活を過ごしています。宣教師はその人々に十字架の赦しと復活という希望を伝え、多くの人々が信仰を持ちイエス様を信じ救われ、教会生活が始まります。だからといって彼らの生活水準が上がることも無く、相変わらず貧しいままです。彼らの生活を何とか少しでも助けたいと宣教師も必死になりますが、出来ることには限界があるとすぐに気づきますし、現地の彼らもそれを知っています。しかし、それでも彼らは感謝をもって教会に来て主を賛美します。なぜなら彼らは地上での生活向上に期待しているのではなく、天上の豊かさを楽しみにしているからです。彼らは復活があれば儲けもの、無くてもいいやという信仰ではなく、地上での生活(貧しい生活)が終わったら、やがて復活して天国へ行き、主にある豊かさを頂くことが必ず出来るのだという希望をもって信仰生活を過ごしているのです。

復活への期待

しかし、私たち日本では、ほぼ全ての人がある程度の生活レベルの保証があります。それに満足していないかもしれませんが、社会やシステムがそれを支援してくれますし、生活をより快適に便利にするハード面でも様々な工夫が充実しています。そのような状況の中で、復活後の天の御国にしか私の本当の幸せ、解決は無いのだという期待感をどれだけの人が抱いているでしょうか?
「イエス様に復活があった事は信じているが、私にも同じ事が起こるのかは分からないけれど、毎日神様を信じて平穏に過ごせているし、教会での交わりも素晴らしいし、いいじゃないですか!」という人の宣教には、地上での幸せな生き方を勧める宣教であって、人々の魂を揺り動かすほどの霊的宣教ではなく「私たちの宣教は実質のないものになり」(14節)得てしまいます。

私たちがイエス様の復活を信じるのは、それが「キリスト教の教えのひとつだから」だとか「もし本当なら、それは素晴らしい」と復活を客観的に見る程度のものでもなく、私たちの人生そのものに影響を与え、基盤となり、日々の生活に力を与えるものなのです。復活の事実を、遠い世界のこととしてではなく、私たちにとって意味のある、力のあるものとして生かすことが「復活の信仰」なのです。この信仰の証しを先輩のクリスチャンたちは世界に宣教してきました。それは過去の事実と現在の生活、そして将来の希望を繋ぎ合わせて人々を変える力があります。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(20節)あなたは「復活」をあなた自身の希望としてとらえ、信仰しておられますか?それを人々に宣教していますか?

「これにむかって叫べ」

横浜聖書バプテスト教会牧師 長江 忠司

『アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」』ヨナ書1章1~2節

宣教の働きに召され用いられるのは整えられた立派な人物であると考えがちです。しかし、全てがそうとは限らないことがヨナ書を見るとわかります。

主はふさわしくないヨナを召された

主はヨナに、ニネベに行って神のみことばを伝えるようにと命じられました。ニネベは当時大きな勢力を誇っていたアッシリヤの都市で、主に対する悪巧み、略奪、残虐行為、偶像礼拝、淫行、呪術という邪悪で残酷な人々の住む町であったとナホム書に記されています。

ヨナからすれば、「どうしてそんな悪い町の人々を救う必要がありますか」と言いたかったのでしょう。もしくは、「そんな町に行くなら、自分も何をされるかわからない」と恐れたのかもしれません。それで彼は主の御顔を避けて逃れようとしたのです。

ヨナほどにあけすけで、自分の思いに固執する人は、聖書にあまり出てこないのではないでしょうか。この後も、ニネベの人が悔い改めた時に神に対して怒りました。非常に扱いにくい預言者だったのです。仮に企業であれば、彼のような社員は真っ先に外されることでしょう。自己中心的で、上司の言いつけを無視する。怒る。文句ばかりを言う。主は全知なるお方ですので、ヨナがそのような頑なな人物であることをご存知でした。しかも主は他に幾らでも従順な預言者を立てることができたのです。にもかかわらず、主は相応しくないヨナを選び用いようとされたのです。

私達も同じではないでしょうか。私達も選ばれるに相応しくない者でした。神の前に同じように自己中心的で頑なで不従順な者でした。しかし主はそんな私達を愛し選んで下さいました。十字架の死と復活により、私達を救いへと導いて下さったのです。そして私達をも、主の働きの為に用いようとして下さっているのです。

『しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。』1コリント1章27~28節

『「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」』ヨナ3章2節

主はヨナに特別な使命を与えられました。彼は主が言われた通り、「あと40日すると、ニネベは滅ぼされる」と伝えたのです。そうした所、民は悔い改めました。主は彼らの悔い改めの心をご覧になられて、わざわいを思い直されたのです。ニネベの民はヨナを通して語られた主のおことばによって悔い改め、滅びから免れることができたのです。

今も神を無視して滅びに向かっている魂が大勢おられます。その彼らが救われる方法はただ1つだけです。福音のおことばを信じることを通してのみ、救いをいただくことができるのです。

そして主がヨナにおことばを伝える使命を与えられたように、主は救われた私達にその使命を与えて下さっています。出て行って福音を宣べ伝える宣教の使命が与えられているのです。それは教会に与えられている使命であり、同時に全てのクリスチャンに与えられている使命でもあります。そして、主はあなたにも個人的に御声を掛けておられることを知って頂きたいのです。

ヨナの間違っていた点

1・利己主義に陥った

自分が救われているなら、他の人は滅んでしまっても別に構わないという考え方です。仮に彼がニネベの民の一人だったとしたら、喜んで伝えに行ったことでしょう。しかし、自分とは異なる民であり、ひどい民であり、遠く離れている民なので、自分には関係ないと考えたのです。私たちも同じように考えてはいないでしょうか。自分が救われているからいい。他の地域や国のことは自分には関係ない。もしそうだとしたら、ヨナと同じ過ちを犯していることになります。

2・自分が受けた神の恵みを覚えていなかった

彼ほど頑なで扱いにくい人物は少なかったでしょう。そんな彼が選ばれること自体、不思議なことでした。しかし彼は選ばれ用いられようとしていたのです。彼はそんな神の恵みを覚えていませんでした。自分こそさばかれて当然であったことを自覚していなかったのです。

私達は自分が受けた神の恵みを覚えているでしょうか。その恵みを覚えるならば、主に対する感謝が溢れ、主が託して下さった宣教の使命を果たそうという思いが与えられるのです。

3・神の愛のまなざしを理解していなかった

『また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。』マタイの福音書9章36節

イエス様は群衆を見られて、魂が弱り果てているのを知り深い憐みを持たれました。主はニネベの民に対しても、同様の眼差しで見つめておられました。そして今も、主は私達の周りや全世界の魂を同様に深い憐みをもって見つめ、救いたいと願われています。その為に、私達救われた者に宣教の働きを託して下さっているのです。どんなに愚かで神から離れている民であっても、主が造られた魂です。全ての民が主の愛の対象にあるのです。

私達もこの3つの点で間違わないことが大切です。あらためて自分自身の眼差しを点検しましょう。ヨナの様に利己主義と裁く目をもって魂を見つめてはいないだろうか。

そうではなく、私達も見つめて頂いたように、イエス様のような愛と憐みに満ちた眼差しで魂を見つめましょう。そして主の御声に耳を傾けましょう。

主はかつてヨナに語られたように私達にも語られています。「これに向かって叫べ。」相応しくない者ですが、主はそんな私達を遣わし用いようとされているのです。与えられている生涯は一回限りであり二回はありません。御顔を避けないで、宣教の為に立ち上がる者でありましょう。

目を上げて前を見なさい

調布バプテストテンプル協力牧師 所 悠

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「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出そう。」伝道者の書11章1節

私が、今、ここにこうして立っていることができるのはなぜでしょうか?それは今から66年前に、テキサス生まれ、テキサス育ちの宣教師夫妻が、30日間、貨物船に乗って太平洋を渡り、この福音をたずさえて私たちの国に来て下さったからです。この場にその宣教師がおられます。ラバーン・ラージャス先生、どうぞお立ち下さい。

「目をあげて畑を見なさい。」サマリヤの町スカルで、主は弟子たちにそう命じられました。しかし、その時、目を上げて畑を見たのは、弟子たちでしたか?いいえ。弟子達は買ってきたランチを食べることだけしか考えていませんでした。では誰が目を上げたのでしょうか?誰が畑を見たのでしょう?サマリヤの女自身です。主のおことばによって彼女の霊の目が開かれたのです。彼女は「水桶」をその場に放り出しました。水桶は彼女にとっていのちの次に大事なものの筈です。ところがそれをそこに置いたまま、町に向かって走り出しました。そして町の人々に「来て、見て下さい!」「来て、見てください」と、弟子のピリポが叫んだように、メシヤの到来を告げ知らせたのです。

彼女はイエス様とお会いして、後ろを見る人生 (backward) から前を見る人生 (forward) に変えられました。サマリヤはイエスさまにとって大切な宣教地でした。しかし弟子たちにとっては、残念ながら、ガリラヤに行くための通過点にすぎなかったのです。

私たちは、今、宣教の視野を出来る限り広げなければならないのではないでしょうか。世界中に広がる主の畑を360度の視野で見渡そうではありませんか。主はアブラハムに「さあ、目を上げて、あなたがいるところから北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう」(創世記13:14)とお命じになりました。それは「宣教の大命令」の予表です。主にとって宣教地でない場所は世界中、どこにもありません!

私の長男は、今、Cカントリーの一つの町にJBBFの宣教師として遣わされています。私は、彼にこの集会に来るように誘いました。しかし、彼の返事はこうでした。「この国には56の民族があります。漢民族はその中の最大の民族です。しかし、ほかにも55の少数民族があります。漢民族にはすでに福音が伝わっています。しかし、いくつかの少数民族は、福音が全く届いていない福音未踏達地域なのです。」彼はさらに続けて言いました。「私たちは丁度その時期に、まだ福音が全く伝えられていない少数民族の地域をリサーチのため訪ねたいと願っています。どうぞお祈りください。」

カナンの地を見渡したアブラハムは、ロトが選んだソドムとゴモラに住む人々のためにも祈りました。「神さま、あなたの義とはどのようなものですか」とチャレンジしました。(創世記18:23-25)

主は何と答えましたか?(創世記18:26)「もしソドムで、わたしが50人の正しい者を町の中にみつけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」アブラハムは言いました。「では正しい人が45人いたら?40人いたら?30人いたら?20人いたら、そしてもしや10人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その10人のために。」

アフリカのウガンダに遣わされていた宣教師はJBBFの宣教クォータリーの中で次のように書いています。「アブラハムがソドムのために執り成しの祈りを切に願っている姿は、世界宣教の働き、即ち、宣教地で働く宣教師と宣教師を遣わす国の働きの姿を表わしているように思えます。私たち宣教師は、ソドムとゴモラの町のような、罪深い国々で宣教しています。そして、今や、主のさばきの日は間近です。そのようななかで、私たちは正義を為しているでしょうか。裁きに会うのは彼らの罪の責任です。しかし、それをただだまって見過ごしているのであれば、私たちの正義も問われるのです。」

世界人口は、推定で72億9900万人を超えました。間もなく73億です。1年で7000万人増えています。もしも今、世界の人口を10人で代表してもらい、「イエスとは誰ですか?」という質問に答えてもらうとしたら一体どんな答えが返ってくるでしょうか?10人は次の4つのグループに分かれます。第1のグループからは「イエス様は私の主であり、救い主です」という答えが返ってきます。10人のうちの一人(世界人口の10%)はイエスさまを信じ、従っている人たちです。第2のグループの人々は「彼は、良い教師ですね。でも、私は私のやり方で行きます」と答えます。10人のうちの2人(20%)は、自分たちのことを、クリスチャンというかもしれませんが、彼らがイエスさまに従っているかどうかは疑問です。第3のグループの人々は「え、イエスさまですか?いいえ要りません!」と答えます。4人の人(40%)は何らかの方法で福音に接しているかもしれませんが、彼らはイエスさまを受け入れていないか、または、イエスさまに従おうとしていません。第4のグループからは、「イエスさまですか?それは誰ですか?知りません」との答えが返ってきます。3人の人たち(30%)は実際、福音に接したことが一度もないのです。

宣教の大命令を真に宣教の大命令として実践していくためには、これからのBBFIの宣教地は、これまでの第3グループに加えて「イエスって誰のこと?知りませんよ」という世界人口の30%を占める第4のグループに焦点を当てなければならないのではないでしょうか。30%とは約20億人です。彼らに福音を伝える人は誰もいません。彼らが福音に接するための、いかなるリソースも持ちません。そればかりではありません。彼らはキリストの福音宣教に激しく抵抗しています。彼らは「来なくていいよ!」「来ないでくれ!」と叫んでいるのです。

私たちの目の前の現実は厳しさを増しています。サタンは大きく働いています。宣教師の入国を許可しない国は1974年には32か国でしたが、2000年には77か国に増えました。2015年にはさらにどれだけ増えるでしょう?入国を許可している国もきびしい条件を付けるようになっています。宣教は閉ざされつつあるように見えます。兄弟姉妹の皆様、だからこそ、だからこそ!目を上げて前方を見ましょう。主はフィラデルフィアの教会に何と約束しておられますか!黙示録3:8で主は言われます。「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれにも閉じられることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」「主よ、この「あなた」というところに、どうぞ、ここに集っているすべての主の僕たちの名前をあてはめさせてください。BBFIに属するすべての国のすべての教会の名前をあてはめさせて下さい!」

宣教の働きは宣教師だけでは出来ません。世界宣教の働きを凧揚げにたとえて見ましょう。凧は誰ですか?BBFIの宣教師たちです。でもだれかが凧を上げようとしなければ凧はあがりません。それは誰ですか?BBFIに属する地方教会です。そして凧が高く、遠く上がるためには丈夫で切れない、長い糸が必要です。それは教会の祈りとささげものです。でも、もし風が吹かなかったら、凧は上がりません。風は聖霊なる神のお働きです。

みんなが力を合わせて、今、各国の宣教地に揚がっているBBFIの凧をひとつも落とさないように、糸が切れてどこかにとんでいかないようにするためには何が必要でしょうか?そして、もっと多くの凧をもっと遠くまで上げるために何が必要でしょうか?

キーワードは4つあります。第一に、全世界規模のパートナーシップです。第二に、全世界的な連帯の努力です。第三は、互いに力を合わせる精神です。そして第四は、世界規模の共同事業への協力です!そして、そのために今一番必要なのは、お互いの間の情報の共有ではないでしょうか!

しかし、360度の世界宣教にチャレンジするために、私はもう一つアピールしたいことがあります。それは、使徒パウロを助けた「アクラとプリスキラたち」のような働きがBBFIの中で広がることへのヴィジョンです。パウロはローマ人への手紙16章で、「プリスキラとアクラ」から始まって、「オルンパおよびその人たちと一緒にいるすべての聖徒たち」まで、30組以上の信徒同労者たちの名前をあげて、感謝しています。今や政治の世界、経済の世界はグローバル化の一途をたどっています。BBFIの諸教会から、世界宣教の現場で、宣教師を助け、生活を共にしながら奉仕する、アクラとプリスキラたちが起こされるように祈ろうではありませんか。

さあ,皆さん!前を見ましょう!皆さんの目に何が見えますか?黙示録22章20節でイエスさまは何と仰っていますか? 聖書66巻の最後のおことばです。「これらのことを証しする方がこう言われる。しかり、わたしは直ぐに来る。」そうです。主は約束しておられます。「しかり、わたしはすぐに来る。」では、私たちは何とお答えするのでしょう。「アーメン、主イエスよ、来て下さい。」そうです。御一緒に叫びましょう!「アーメン、主イエスよ、来てください。」さあ、皆さん、前を見ましょう。そしてBBFIに集う世界中の仲間たちが手を携え、心を一つにして、宣教の大命令を実現するために共に前進しようではありませんか。 Let’s Go Forward! アーメン!

グローバル・ミーティング2016でのメッセージの抜粋

フェローシップの目的とは?

若葉聖書バプテスト教会牧師 ジェームズ スミス

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2014年9月、アメリカBBFIの理事長が「BBFIとは何のためのものか?」と言うメッセージをされました。それに応えてあるJBBFの牧師はJBBFメーリング・リストを通して次のように聞いたのです。「『JBBFは何のためのものか?』ということを議論する事は、皆の参考になるのではないでしょうか。」

私は答えを待ちましたが、私の知る限りでは誰も答えてくれませんでした。私は、私達JBBF諸教会と牧師と宣教師の交わりは何の為のものなのかということを知ることは重要だと思いますので、この質問に答えてみたいと思います。

若葉教会の証し

私はまだ若いだけでなく、ある面では日本に来たばかりの者であり、実はこのことを説教したくはないのですが、私の経験と知恵の足らない所はお許しを求めつつ、神様がどのように私の心に働かれて、この質問にある一つの答えを与えて下さったかを分かち合いたく思います。</p >

私が若葉聖書バプテスト教会の2016年のテーマを祈って考えていた時に、去年の10月までの神の御言葉を中心にするべきだと示されました。私の教会は、基本的な真理を中心にすることを通して教会の霊的基礎を強く建てるという5年間ビジョンを持っています。

祈ることが去年のテーマでしたので、今年は聖書の学びにフォーカスをあてようと考えました。しかし、去年の10月に他に何か違うことが必要だと気付きました。若葉教会には交わりをテーマにする必要があると思ったのです。実は、若葉教会は交わりが欠如しているわけではありません。「もう交わりを止めて、また聖歌隊練習をし始めましょう」と言わなければならない時がよくあります。

沢山交わることは良いことだと思いますが、古い教会員と一緒にもっともっと深く交わる必要がある新来者と新しいメンバーが何人もいるのです。だから、交わりというテーマを祈り始めました。

交わりのしるしとして手を差し伸べる

祈っていた時、私がまだ霊的に幼かった時に母教会の先生から何回も言われたフレーズを思い出しました。そのムリス師のフレーズは次のようでした。「交わりの右手を差し出しましょう。」

特に集会の最後の招きで誰かがイエス様を救い主として信じて前に出て来た時や、教会メンバーになることを承認された時には、集会の後でムリス師はその人が教会員の皆の前に来るように勧めました。そして、教会のメンバーは皆並んで、一人ずつその人の右手を握手しながらお祝いの言葉を伝えました。

このフレーズを思い出した時、「このことは、交わることを強調するのに素晴らしいテーマではないだろうか。このフレーズは聖書にはないのだろうか」と思いました。

聖書を調べたら、ガラテヤ人への手紙2章9節が見つかりました。

「そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。」

私は「素晴らしい!このテーマの聖書箇所がちゃんとあるんだ」と思いました。確かにこの節を過去に何度か読んだことがありましたが、今までこの御言葉の真理とムリス師の適用とを繋げることが出来ないでいたのです。

使徒達の交わり

それで、ガラテヤ2章9節を詳しく学びました。この箇所の5人の間の交わりを表した握手は、それぞれが異なる場所であっても、福音を宣べ伝える奉仕を協力して行う為にとても重要だったのです。

使徒ヤコブとケパ(ペテロ)とヨハネは続けてユダヤ人に福音を宣べ伝えることになり、パウロとバルナバは続けて異邦人に福音を広める奉仕をすることになりました。ヤコブとペテロとヨハネがパウロとバルナバに交わりの右手を差し出したことは、パウロとバルナバが福音を宣べ伝える奉仕に神様から導かれたことを賛成して承認した事と、互いに協力することを約束しあった事を意味しました。

この5人はそれぞれが出発した後、どこに行ってもレーザーのようなフォーカスを持って福音を宣べ伝え、教会を開拓し続けました。そして必要な時は互いに助けあったのです。

交わりの目的

このことを理解した時、私は、若葉教会は教会員が互いに交わる事よりもっと深い目的が必要であることに気付きました。つまり、私達が互いに交わることとお互いをキリストにある兄姉として受け入れることは、単に皆が楽しい気持ちになる為だけではありません。福音を宣べ伝える為に協力して働くという最終的な目的の為に交わりに加わるのです。

私の牧師のムリス師が教会員の皆に「交わりの右手を差し出そう」と言ったのは、それを教える為でした。相手の右手を握手することは、このことを意味しました。

「私達カルバリー・バプテスト教会の兄姉は、あなたが自分の罪からの救い主イエス様を信じて救われたことと、この教会のメンバーに神様から導かれたこととを認め、あなたをこの教会を通して福音を宣べ伝える同労者として受け入れます。」

福音宣教のための交わり

このように、私達JBBFの牧師と宣教師は、ヤコブとペテロとヨハネとパウロとバルナバと同じように、私達が神様に救われてそれぞれの奉仕に召されたことを互いに確認するために、また福音を宣べ伝える奉仕に一緒に協力するように契約するために交わりに加わっているのです。

1950年にアメリカBBFIの創始者達はあるテキサス州のホテルの中に集い、同じような趣旨でBBFIを始めました。そして、創始者達はレーザー光線のようなフォーカス(熱烈な目的意識)を持って、どこに行っても福音を宣べ伝え、教会を開拓し、宣教師を送り出し続けました。これらの宣教師達も同じような交わりであるフェローシップをそれぞれの国内の牧師と一緒に始め、そのようにしてJBBFも始められたのでした。

私達のフェローシップの交わり

私のチャレンジ、伝えたい結論はこれです。今こそ私達JBBFは何のためのものであったかを思い出すべきです。私たちのフェロシップの目的は、イエス・キリストの福音を広める為に協力し合うことです。

私達は創立者達と同じようなレーザー光線のようなフォーカス(熱烈な目的意識)を持ちましょう。

そして、日本でも世界中でもどこに行っても福音を広める働きをし、教会を開拓し始めるために更に協力しあうための交わりをしましょう。

その目的を覚えて、今まで以上に熱心に協力していこうではありませんか。

宣教の拡大のために

名古屋聖書バプテスト教会牧師 上田 廣行

上田廣行先生

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえて励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」ヘブル書10章25節

前回の春号の巻頭説教で6人の群れで宣教師の派遣教会となった証に感銘を受けました。わずかのパン種が大きくパンを膨らまします。小さくともそこに活力が内包されているからです。わずかの人、わずかの群れが、宣教を拡大させて行く、そこには神の力と命があることがわかりました。膨らまないパンへの警告でもありました。

広がる祈り

宣教は人に向かい、礼拝は神に向かうものだと、分離させるよりも、礼拝は宣教への動力であり、宣教へと押しやるものであると考えます。たとえば、毎週の礼拝において代表が祈りをします。

大切な祈りの場で何を祈るか。求道者の救い、家族や友人の救い、地域の人々、名古屋、愛知県、他府県の開拓伝道所、そして沖縄から北海道に至る日本の諸教会の伝道の働きの拡大を祈ります。海を渡りアジアに派遣されている宣教師たちの国々を祈ります。福音の門戸を閉ざしている北朝鮮は、アジアの痛みなので祈り続けています。最後には遠くアフリカの宣教地を覚えて祈ります。その祈りに聖徒たちがアーメンをもって答える時、世界宣教拡大への一致が育まれて行きます。

この祈りは、主のビジョンを共有し、教会に託された大切な使命を確認し続けて行くものです。これは欠けてはならない事と考えます。祈りには広がりが求められています。1891年に、不信仰者のラフカデオハーン(小泉八雲)が米国から島根県松江に来て住み、日本文化を広めます。

まったく同じ年に同じ松江に、英国人宣教師が来て移り住みます。主の御名を広めるために、その弟子たちに月曜日の過ごし方を指導しています。各地域のために名前を挙げて祈るように。そこには、私の生まれ故郷、木次(きすき)の名があげられています。宣教拡大のためには、祈りにおける広がりが大切であることを知っていたのです。あれから100有余年がたち、ここに救を受けた一人がいます。

ひとりの祈りの人が言った言葉を思い起こします。「祈りは世界旅行です。」派遣されている宣教師のために祈ることで、思いは、世界をかけ巡ったわけです。一度、来会された宣教師の家族全員の名前を憶えていて、たびたび祈るのを聞きました。誰がこの方の抜けた穴を埋めるかが問われました。

福音を広める祈り

「天にいます。私たちの父よ。」主の教えられた祈りは、私たちのちっぽけな世界観を広げます。我らの父は天の御国の主です。栄光の御座につき、御使いたちは、絶えることなく「聖なるかな・聖なるかな・聖なるかな」と、賛美を捧げています。真白い衣を来た数多き星のごとき聖徒たちがいて、御座に向かい霊的礼拝を捧げています。そこには、不従順なものや反抗的で罪を犯すものはいません。神の御心に喜んで従うものたちの国で、そこが我らのあこがれの世界です。

目を転じて、地上を見ると罪に満ちた世界があります。天の御使いの軍勢も、「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)と願わずにおれない世界です。

神はこの現実の世界を愛されました。御子イエスをこの世界に送り、人の間に住まわせられました。御子は、十字架において我らの罪の贖いの代価として命をささげ。血を注ぎ出して犠牲となられました。神は、このイエスを死者の中から甦らせられました。ここに福音があります。贖いを通して神と和解し、信じた者には永遠の命が与えられます。天の御国の民となり、偉大なる神を天の父とお呼びする特権に与ります。

この福音を広め、悔い改めて御子イエスを信じ、神と和解せよと語る人が必要です。キリスト者は、その使命を与えられました。「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(Ⅱコリント5:18)まるで天の御国の大使のようです。「御名があがめられますように。御国が来ますように。」いずれも、福音宣教を隅に置いては、考えられない祈りです。

祈りの一致

「わたしたち」と呼び合う兄弟姉妹と、心を合わせて祈ることが求められています。新約聖書「使徒の働き」には、世界宣教開始の前に、心を一つにして祈る聖徒たちの姿を見出します。約束の聖霊が来られて、一人一人の上にとどまり、弟子たちは聖霊に満たされました。一つの福音を宣教するために、一つとなりました。霊的一致を聖霊が授けられました。

宣教の前進と拡大のために一致が必要です。その一致とは、真理に互いに立っていることで初めて成り立ちます。聖霊は真理の御霊とも呼ばれています。私たちの宣教協力関係も、真理に互いに立っていることにあります。主の道を外れて行くならば、互いの協力関係は壊れて行きます。(1ヨハネ8)

祈りの場から宣教へ

異邦人世界の最初の教会で、かつ最初の宣教師バルナバとパウロを派遣したのはアンテオケ教会です。聖霊が「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかさせない。」(使徒13:2) そう告げられた時というのは、「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、」(使徒13:2)と説明されています。礼拝において主の召しが語られます。礼拝において手を置き、働き場へと祈り、送り出します。

やがて、バルナバとサウロは伝道の派遣の旅路を終えて戻って来て宣教報告集会を開きます。(使徒14:26-27)主の聖徒たちの集い、主への礼拝の場こそが、召しと派遣と帰還とがなされる世界宣教の砦となっています。そのような場が、教会でありたいと願います。

宣教と賛美

旧約聖書で、世界中に御名を広める気概に満ちていたのは、ダビデ、アサフ、ソロモンの時代です。この時代は、礼拝がもっとも盛んであった時です。シオンから世界にむかって賛美の歌声が響き渡りました。栄光の主にふさわしい、心からの賛美が捧げられました。

詩篇の中に、あらゆる国民が主をあがめるようにとの歌が、数多くあります。「すべての国々の民よ。手を叩け。喜びの声をあげて神に叫べ。」(詩篇14:1) 「すべての国々の民よ。これを聞け。世界に住む者よ、耳を傾けよ。」(詩篇49) 賛美と世界宣教とは密接に結び付いていました。世界宣教をテーマにした賛美の歌が今も生まれています。

宣教の拡大のために

JBBFの交わりの豊かさのひとつのしるしは、共に集まる特色ある集会の数々です。全国聖会、ジュニアキャンプ、青年キャンプ、宣教大会、国内開拓セミナー、神学校でのプログラム、海外での諸集会、その他にもたくさんあります。共に集まることの大切さを知っています。

終末の時代には、あらゆる良い習慣が損なわれる傾向にあります。主の集会に集うことは、良い習慣です。そこで、救いを受け、献身し、派遣され、主の御業を聞く幸いな場です。

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえて励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」ヘブル10:25

この問題をどうしよう

アガペー聖書バプテスト教会宣教師 マイケル・バーゲット

Burgett

世界宣教には問題がつきもの

世界宣教には問題がつきもの。忠実に主に仕え、福音宣教に励もうとすればするほど問題に直面します。イエス様の場合も、パウロの場合もそうでした。現代もそうです。しかし、肝心なのがそれらの問題をどう考えるか、どう取り組むかです。

パウロも世界宣教に取組中、様々な問題に直面しました。今回の箇所の背景がそのような問題の一覧です。「・・・牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」(Ⅱコリント11:23-28)と、パウロのあげた多くの深刻な問題を考えると、驚きませんか。パウロがこれほどまでに大変な問題に直面しつつも、なぜ福音宣教を更に前進できたのかと、疑問に思いませんか。

その秘訣がそれに続くパウロの問題への考え方、取り組み方にあるように思います。これらの多くの問題を紹介した後、「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」とパウロが言っています。

でもなぜ、パウロは自分の弱さを誇りにしているのでしょうか。その答えが次の章にみられると思います。

パウロが自分の弱さを誇りにしている理由

「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Ⅱコリント12:9,10)

弱さそのものを変に誇る者もいますが、「誇る者は、主を誇りなさい。」(Ⅱコリント10:17)とも言っているので、パウロは決して自分の弱さそのものを誇りにしているのではありません。むしろ自分の弱さを自覚することによって与えられる主の力を誇りにしているのです。世界宣教前進には主の力が必要不可欠です。だからこそ、パウロがこれらの問題に甘んじたのではないでしょうか。

問題を通して主が働いて下さる

世界宣教には問題がつきものです。これが主の御旨であり、ご計画です。これらの問題を通して主が働いてくださるのです。でも、私たちは荒野のイスラエルの民のように問題と直面するとき、主に頼るより、つぶやいてしまいがちです。しばしば、問題そのものに心が奪われ、主を仰ぎ見る事をすっかり忘れてしまいます。しかし、パウロは違います。直面する問題を世界宣教の妨げとは考えていません。いや、むしろ、これらの問題を通して、自分自身の弱さをより自覚し、主からの力を更に求める機会としているのです。これこそがパウロの福音宣教の前進の秘訣の一つではないでしょうか。

パウロがピリピの町でむち打たれ、獄に入れられても、賛美をして夜を過ごします。そのような中、主が大いに働かれ、獄吏とその家族が救いにあずかり、パウロが釈放されました。主は問題を通して私たちに宣教の機会を与えようとして下さるのです。確かに世界宣教に問題はつきものです。 しかし、それで悩み、落ち込んではなりません。いやむしろ、福音宣教の前進のため、主が備えた貴重な機会としてとらえるべきです。聖書を読んでも、教会史を学んでも、世界宣教の更なる前進のときとは、案外問題の多いときです。

世界宣教は人の力によるものではない

でも、しばしば福音宣教前進の秘訣を勘違いします。近年、世の信頼や好意をえる事が宣教前進の秘訣と勘違いする人も少なくありません。世の信頼と好意をえようとするのは大きな罠です。パウロの時代もその罠に陥った偽教師も少なくありませんでした。この箇所もそのような偽教師へのパウロの反論です。この偽教師は高慢で、パウロの弱さを軽んじています。しかし、世界宣教は人の力に寄るものではないとパウロは確信しています。

「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」(Ⅱコリント10:4)

とあるように、世界宣教を前進するには神の力が必要不可欠です。だからこそ、「『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』」(使徒1:8)。と主が世界宣教に必要な力を私たちに約束して下さいました。

しかしながら、時として私たちは高慢になり、自分の弱さを忘れ、自分の努力により、福音宣教を前進させようとします。だからこそ主が私たちに弱さを思い知らせるため、様々な問題をお与えになるのです。

不信仰なつぶやきはやめよう

いつの時代も私たちの手に及ばない問題を主が備えて下さるのです。現代もそうです。どの教会、伝道所も、どの牧師、伝道師、宣教師も、どの兄弟、姉妹もが問題を抱えています。しかし、私たちがその問題をどうするかが真の問題です。問題についてつぶやくのか、それとも主に感謝しつつ、助けを求め、主の力を得るのかが問われているのです。その選択次第で、後の結果が大きく変わります。「◯◯兄が教会を去った」、「伝道が思うように行かない」、「献金が足りない」、「奉仕者が少ない」、「病気で苦しんでいる」、「人に裏切られた」等々、福音宣教には問題がつきもの。確かに私たちは弱い。このような大変な問題の中、パンクしそうです。でも、主は今も御座に座しておられます。主がこの問題をも許され、用いようとしておられるのです。不信仰なつぶやきを止めよう!

むしろ、パウロと一緒に

「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Ⅱコリント12:9,10)

と言おうではありませんか。心からそのように言えるようになれば、主は私たちを益々祝福し、世界宣教が尚も前進するに違いありません。

上記のメッセージを誤解しないで下さい。著者が読者を見下して、書いているのではありません。著者自身の経験から書いたものです。残念ながら著者も時として直面する問題についてつぶやいたり、自らの力で宣教を前進させようとします。著者にも必要なメッセージでしたので、そのようにご理解下さるよう、お願いします。

ピリピ教会の目線

佐倉聖書バプテスト教会牧師 奥村 明郎

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今年の第91回箱根駅伝で青山大が優勝しました。第1回大会から出場しているチームながら、初優勝でした。例年にない驚きをもって話題を独占しています。その理由は初優勝ながら、新記録で最も速く走り、完全優勝したからです。一時は廃部になろうかという時もあったほどに部員の意識は落ちていたそうです。その意識を変えたのが現監督だったのです。監督は部員の目線を変えるために力を注ぎ、練習も工夫し、14年で頂点に立ったのです。

その目線はまだ予選で敗れ、本選(正月に箱根駅伝に出場できるチームは20チームだけ)に出られない時から、本選に出場し、優勝する事を意識させてあらゆる努力をしていたのです。

目線(目標)をどこに置くかによって、意識が変化し、積極的に練習に励むようになっていったそうです。

パウロの目線

伝道者パウロはイエス・キリストの御計画、すなわち福音を広める事(全世界に福音が語られる)が必ずイエス・キリストの日までに完成することを確信していたのです。2000年も昔の世界です。パウロの目に入っていた世界はどこまでだったでしょうか。21世紀の今日の地球全体が入っていたとは考えにくいのですが、少なくともパウロが知っていた世界はローマ帝国の支配範囲は見えていたでしょう。彼はイスパニア(ローマ15:23 編集者注・スペインのこと)まで行こうとしていたのです。

しかしパウロの目線は自分が見えている範囲だけでなく、イエス・キリストが語られた「全世界、造られた全てに」という信仰による目線を持っていたのです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)

ピリピ教会の目線

パウロは、自分自身の目線はピリピ教会にも主によって与えられていることを喜びました。「あなた方が最初の日から、今日まで福音を広めることに、あずかってきたことを感謝しています(ピリピ1:5)」

ピリピ教会はパウロがヨーロッパに渡って最初に福音を語った町でした。(使徒16:12)まだまだ小さな群れだったと思われます。しかし彼らは遠く離れたパウロ、しかも囚人として捕えられていたパウロのために心を配り、祈り、援助し、彼を助けるために伝道者エパフロデトを遠いローマに派遣したのです。地理的に見ればヨーロッパの東の果てであるピリピから、西の果てであるローマに常に目は向けられていたのです。これは、キリストにある信仰によらなければ持つことはできないでしょう。

パウロの証しによればピリピ教会と同じ様な援助をしてくれた教会は他はになかったと告白しています。(ピリピ4:15)ピリピ教会の志はパウロの志と一致していたのです。すなわち、同じところを見ていたのです。

私達の教会の目線

箱根駅伝は10人でタスキをつないで走ります。それぞれの困難さは違うけれども10人が一致して同じ目線を持ちながら自分の役割りを果たすのです。一人でも立ち止まってしまうとそこで終わりなのです。そこには、互いの確信が必要です。彼らも同じ思いで走ってくれると信じるのです。パウロは「完成」を確信していました。しかし、自分一人で完成できないことも知っていました。パウロは教会に同じ志を与えて下さることを信じて、自分の役目を果たそうとしたのです。「自分の走るべき道のり」を知っていました。

佐倉教会は小さな群れですが、同じ目線をもって自分お役目を果たそうと歩んできました。入江宣教師を派遣したとき、わずか6人の群れでした。会堂も弑さな借家でした。経済も小さな規模でした。このような状況で宣教師を派遣するのですから、これから継続して支援できるだろうか不安がありました。しかし、この働きは主が導いて下さったのなら、完成してくださると信じて自分の役目を果たそうと歩んでまいりました。

主は支えて下さいました。教会内でも様々な議論がありました。しかし、主は実際、目に見える形で励まして下さいました。会堂が与えられ、牧師館も備えられ、墓地を持ち、昨年11月には宗教法人の認可を受ける所まで整えて下さいました。そして千葉ニュータウン開拓伝道所を出し、献身者をお起こし、伝道の最前線に遣わして下さっています。御言葉の約束通り、福音を広げて下さっているのです。

私達佐倉教会はパウロの見ていた完成を同じ様に見させて頂き、先人からタスキを受け、次の走者にタスキを渡すためにひたすら前を見て走り続けたいと願っています。

平和の器

主よ 私をあなたの器とし憎しみしかないところに
愛の種子を蒔かせて下さい
痛みしかないところに 赦しを
疑いしかないところに 信仰を
絶望しかないところに 喜びを
どうかみなぎらせて下さい

慰められることを願うのではなく
慰める者となりますように
理解されることではなく 理解することを
愛されることではなく 愛することを
心から求める者となりますように

私たちは与えることにおいて受けるのです
赦すときにみずからも赦されるのです
そして死において永遠の生命に目覚めるのです

―フランチェスコの祈り ― 「祈りの花束」より

次の旅に送り出す責務

平塚聖書バプテスト教会牧師  三谷 浩司

mitani

「愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行なっているいろいろなことは、真実な行ないです。彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました。あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです。彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。」 第3ヨハネの手紙5〜8節

JBBFの宣教師は、概ね4年に一度「ファーロー」すなわち宣教報告および祈りと支援の要請のための諸教会訪問のために本国に帰国することが海外宣教規約で決められています。しかしファーローの目的はそれだけでなく、宣教師および宣教師家族の健康管理と休息という大切な目的があるのです。

宣教師の困難

海外宣教地での生活は、「宣教ハンドブック」にも掲載されているように、日本にいる私たちには分かりにくい多くの困難があります。

まず第一に、生活環境の違いです。宣教地の気候・食べ物・臭い・騒音等により、身体的にも精神的にも相当な負担がかかります。

インドネシアのように一年中暑い国や、反対にロシアのように冬は極寒になる国では、健康管理が非常に難しいです。食べ物の味付けの違いで美味しく食べられないとか、衛生面において安心して食べられないこともあります。発展途上国では生ごみや汚物が散乱して、ひどい臭気が漂っている地域もあります。イスラム教国ではモスクから「コーラン」の朗読がスピーカーから大音量で流れてきます。私たちはそうした地域に旅行で数日間滞在しただけで、うんざりしてしまうものですが、宣教師は何年もそこに留まって生活し続けなければならないのです。

第二に、言葉や思考や常識の違いです。現地の人と意思疎通が取りにくいことや、日本では考えられない慣習や良識の大きな差はかなりのストレスになります。

たとえば、日本人は時間に割と正確ですが、ウガンダのように時間にルーズなところもあります。「ボランボラン(急がないでゆっくり)」と言って、礼拝開始時間になってもほとんど人が集って来ず、30分以上遅れて礼拝が始まることなど日常茶飯事だそうです。きっと私の性格だったらイライラして我慢できないと思います。

また以前インドネシアの入江宣教師から、教会の備品を信徒が勝手に持ち帰ることが良くあると聞きました。それは、持てる者は持たざる者に分け与えるのは当然だという考え方があるからだそうです。

第三に、経済的な問題です。宣教師は現地でアルバイトすることはできないため、すべて諸教会からのサポートに拠り頼んでいます。まさに「異邦人からは何も受けていません」です。

しかし毎月のようにサポート額の増減や為替の変動があるため、経済管理が非常に大変です。この2年間で20%以上円安になりましたが、サラリーマン的に考えると20%の減収は死活問題です。それに医療制度の違い、食料品や生活必需品の外国人価格などで、思わぬ出費を強いられることもあります。

実際、かつての円高の時に経済的な問題で日本から本国に戻ったアメリカ人宣教師もいたと聞きます。

第四に、子弟の教育の問題です。宣教地ではよほどの大都市でないと日本人学校がないケースが多く、もしあったとしても学費がとても高いです。ホームスクールという方法もありますが、おもに勉強を教える立場になる宣教師夫人は、そのために週日は毎日数時間を消費する上に家事と宣教の働きもあるため、その負担の大きさは計り知れません。

宣教師およびその家族は、そうした多くの様々な身体的・精神的な負担による疲れや経済的な不安を抱えつつファーローのために一時帰国していることを、受け入れる教会は良く理解しなければなりません。

ガイオのもてなし

そしてガイオのように、キリストの御名のために出て行った宣教師たちを「神にふさわしいしかた」で次の宣教の旅に送り出さなければなりません。

当時の宣教師(あるいは巡回伝道者)は、パウロが「幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(第二コリント11:26-27)と証しているように、非常に困難な中で宣教の働きをしていました。ガイオはそのような宣教師たちの労苦を良く知っていたので、「いろいろなこと」を行なって彼らをもてなしたのです。

それがどのようなもてなしかは記されていませんが、きっと、彼らのために美味しくて栄養価があり体に良い食事を用意したり、ぐっすり眠れるように細やかな宿泊の配慮をしたり、気分転換できるような楽しいイベントに連れて行ったり、時には彼らの抱えている悩みや苦しみをじっくり聞いて重荷を少しでも軽くさせたりしたことでしょう。そうしたガイオの愛のこもったもてなしは、その兄弟たちが他の教会の集まりであかしせずにはいられないほどの、忘れがたく感謝に満ちあふれるものでした。おそらく彼は、自分も宣教地にいるような気持ちで彼らを思いやり(ヘブル13:3)、キリストの愛と真実をもって誠心誠意もてなしたに違いありません。

宣教師も私たちと同じ弱さをもった人間ですから、身体的・精神的な疲れや経済的な心配から、「もう宣教地に戻りたくない」とファーロー中に思う時もあるでしょう。

しかし、そんな状態のまま宣教地に旅立つならば、疲れ果ててリタイアする危険性が高くなります。ですからファーローを受け入れる教会は、ガイオがしたように宣教師が身体的にも精神的に十分な休息を取って霊的な力を充足できるように愛と思いやりをもってもてなし、また経済的な不安を抱えずに次の宣教の旅に出られるように必要を満たすことにより(テトス3:13)、ファーローに来訪した宣教師が「よし、また宣教地に行くぞ!」と思うことができるように力づけ、励ます責任と義務があるのです。

そして、その責務を果たすことにより、私たちは真理であるキリストの福音を宣べ伝えるために全世界に出て行く宣教師たちの「同労者」すなわち「ともに行って働く者」となる恵みにあずかることができるのです。

祭司の王国

すずらん聖書バプテスト教会牧師 エバンズ・トニー

evans「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」出エジプト記19:5-6

シナイ山で与えられたみことば

こ のみことばが与えられた時、イスラエルはシナイ山に到着していて、400年途切れていた神との関係が改められようとしていました。彼らはアブラハム、イサ ク、ヤコブを通して特別な契約をいただいていたわけではありますが、400年のエジプトでの生活によって、それに対する意識が薄くなっていました。天の神 よりもエジプトの偶像を日々見ていたでしょうから、彼らの『信仰』は、どれだけこの世に染まっていたことでしょう。

出エジプトであらわされた神の力

エジプトを出る前に、彼らの信仰が大きく試されました。モーセとパロとの間のやり取りが続く中で、天の神に対する信仰と大きな疑問が交互に続く状態でした。各災害がくることによって、エジプトの神々の無力さがはっきりと証明されました。

最後に、過ぎ越しの時、モーセを通して語られた神の言葉に従うことによって、天の神に対する信仰が徹底されました。子羊の血、そこだけに救いがあったのです。

他にも奇跡的なエジプトからの解放、紅海の横断、エジプト軍の全滅、シナイ山までの様々な試練もありました。

一つ一つを通して、神の愛、忠実や全能がはっきりと見せられました。

そして今、契約によって神は彼らの生き方を整えるだけでなく、一つの使命を与えようとされています。

イスラエルに与えられた使命

その使命とは?

祭司の王国になること、聖なる民となることでした。十戒を始め、与えられた律法は彼らに聖さを定義するものでした。神様の心、罪、贖い、和解、その他に多くの大事な概念が示されました。

「祭司の王国」の意味とは

しかし、祭司の王国とはどういう意味でしょうか。祭司とは、人と神の間の仲介の役を果たす人のことです。祭司職に任命されたアロンを含むレビ族は、他の十一部族と神との間の仲介を務めました。

同じように祭司の王国とは、全イスラエル人が祭司役を務めることによって、神のことが他の国民に伝えられる、という意味ではないでしょうか。

この使命を果たすために、まず彼らは自分を聖く保ちながら、自分の置かれた場所で、神に与えられた仕事を成し遂げるべきでした。すなわち、彼らの目の前にあるカナンの地に入り、そこの土地を征服し、そして初めて神の素晴らしさを伝え始めることができたでしょう。

しかし彼らは失敗してしまいます。完全な征服もできず、聖さも保てず、結局は自分と神様との間の関係が十分に構築できませんでした。基礎の部分で失敗したのですから、祭司の王国の役目が彼らの意識から消えたのも驚くようなことではありません。結果として彼らは自分たちの周りにいる敵に圧倒され、国内の一致や敵からくる攻撃に対処することだけが存在の目的になってしまい、外の必要に対する働きかけがほとんどできませんでした。

ダビデは詩篇で祭司の王国としての務めを謳っていた

しかし詩篇を見ると、イスラエルに与えられていたこの使命に関する様々なことをダビデはよく理解していたことがわかります。

①地獄の恐ろしさを。「悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も。」(詩編9:17)

②自分たちが得ている祝福によって、他の国々が神の救いを知るべきことを。「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。セラ それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。」(詩編67:1-2)

③神のご計画はイスラエルだけでなく、すべての国々まで至るものだと。 「 彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。」(詩編72:17)

残念なことに、ダビデの信仰とビジョンが後の世代に引き継がれることはなく、祭司の王国の働きは果たされませんでした。

エゼキエル書を読むと、「彼ら(もしくはおまえたち)は、わたしが主であることを知ろう。」のようなことばが70回以上繰り返されます。

神の切なる願いとは

神の切なる願いは、ご自分が神として知られ、神として崇められることでしたが、イスラエルはそのことに対する意識も失い、それに伴う使命も失っていました。

ですから何も驚くことではないのです。神様が、古い皮袋であるイスラエルに、新しいぶどう酒であるご聖霊を入れようとしなかったことは―(マタイ9:17)

また、神が異なった舌により、信じないイスラエルに語り、また裁かれたことは―(Iコリント14:21-22)

さらに、イスラエルに与えられた祭司の王国の責任が、今度は教会に移されたことは―(Iペテロ2:9)

この終わりの日にこそ、私たちはイスラエルの失敗から学び、自分に与えられた使命を果たそうではありませんか!

祭司の務めを自分の存在の意義として力強く握り、私たちにとってのエルサレムとユダヤ(日本)から始まり、サマリヤ(アジア)や地の果てにまで、福音の光を明るく輝かせようではありませんか!

働き手を送っていただく祈り

横浜聖書バプテスト教会宣教牧師 山宮 利忠

yamamiya「そのとき弟子たちに言われた。収穫は多いが働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」  マタイ9章36〜38節

「あなたがたは、「刈り入れ時が来るまでに、未だ四か月ある」と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて刈り入れるばかりになっています」  ヨハネ4章35節

交わりのある諸教会が、世代の交代の時期を迎え、確かに働き手としての伝道者の少なさを痛感させられている時であり、各地で「働き手を送ってください」という声を聞く事が多くなりました。海外に遣わされた宣教師からも、「もっと多くの宣教師を送り出してください。」という願いや、現地の教会の牧会を委ねる牧師の必要があって、その養成のためにご苦労されている現状をお聞きします。

今後、ますます福音宣教の為、主のお体なる教会の養いの為に仕える牧会者としての働き手の必要が増すことになるでしょう。

主は、ここに働き手が少ないと言う事と、畑は既に刈り入れる時が来ているという、二つの重要な点を指摘しておいでです。

第一に、畑は既に色づいて刈り入れるばかりになっている。

働き手を送り出していただく為に、「収穫は多い」と言う主のおことばに、しっかり耳を傾ける必要があります。

確かに、巷を見れば数え切れない群集が滅びに向かって突進している姿を目にし、それとは逆に救われる魂の少なさが目立ちます。しかし、畑は既に色づいて刈り入れるばかりになっていると言う認識が、私にあったかと言うとそうではありませんでした。

実を結ばない現状に、疲れ果て、収穫の少なさに落胆が先立ち、収穫の少なさに多くの理由をつけては自らを納得させようとする自分がありました。

主の御目からご覧になれば、魂は、救いの必要が既に満ちて色づき、救いを待っている多くの魂があることになります。

パウロは、堕落の町コリントにおいて、その伝道の困難さの故に「弱く、おそれおののいていた」(1コリント2:3)時、主は、「恐れないで、語り続けなさい。黙っていてはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、私の民がたくさんいるから。」(使徒18:9)と励まされました。主の約束の中に「この町には、わたしの民が多くいる。」と言うお言葉はなんと大きな励ましになるお言葉でしょうか。私の見る目では、救われるものが少なく、事実、救われるものは、少ないのです。しかし、刈り取らない魂が多くあると、主はおっしゃるのです。

収穫の主から見れば、刈り取られない穂は、やがて腐って役立たないばかりか、害になり、漁る魚が沢山いながら取り入れない魚が沢山あれば、なんと主のみ心を痛めることでしょう。

実を結ばない現状に、疲れ果て、収穫の少なさに落胆が先立ち、収穫の少なさに多くの理由をつけては自らを納得させようとする自分がありました。主の御目からご覧になれば、魂は、救いの必要が既に満ちて色づき、救いを待っている多くの魂があることになります。・・・願わくは、主のお声を聞いて、収穫の畑に遣わされる者が多く、召し出され、主の御心に従う方が起こされますように。

私は、静岡県の清水で子供の頃過ごしました。清水港は貿易港であると共に、漁港でもあり、私の近所には漁師の方が多く、威勢の良い声が毎晩のように聞こえてきたものです。特に漁の多い大漁の時には、その威勢は、際立って大きいものでした。しかし,漁がない時の彼らは、一声も発することなく、真に静かなもので、「ああ、今日は、漁がなかったのだな。」と、すぐに判ったものです。天候にも左右され、漁の場所にも左右されるのでしょう。しかし、漁がなければ、彼らの死活問題なのです。なんとしても魚をとらなければなりません。

人を漁どる漁師とされた伝道者が、漁をする事をもって喜びとし又、生きる糧を得る事が出来ます。刈り入れるばかりになっている畑、多くの魚が群れている海、そこに必要なのは、この主のおことばでありましょう。未だ早い、ここは魚がいない、少ない、難しいと言えば、主のおことばに反する事になります。

私は、畑が色ずいていることは感じていても、収穫は、多いという強い確信をもって主に御仕えしてきたかと問われると、真に怪しいものです。私の目には収穫は少ないと見えても、主の御目には多いのです。収穫の多さを信じて働くことこそが、御心にかなった働き方なのでしょう。

第二に、働き人が少ないのです。

主の働きと、魂の刈り入れのための働くにつく人が少ないと、主は仰います。収穫は多く、刈り入れるものも多いのに刈り取る仕事をする人がいないということは、大問題です。

私は、これまでの牧会で、働き人を送ってくださいと真剣に祈ってきただろうかと振り返ってみると、そうではなかったなと、反省せざるをえません。

もちろん献身者の召しは人が与える事の出来ないものです。さらに、献身者の指導は、多くの時間と手間と犠牲が必要となります。いきおい、真剣に働き人を送ってください、私の教会から働き人を起こしてください、と祈ることが消極的になります。

主が働き人を起こしてくださるのであれば、主がお守りくださると信じる事こそが、私のあるべきあり方なのでしょう。主が責任を持ってくださると信じる事は知っていてもなかなか出来なかったのが現実でした。伝道者の働きの困難さを知れば知るほど、働き人を送って下さいと祈ることが難しくなったと言うわけです。

涙を流して出て行く、泣きながら束を抱えて出て行くことばかりに心を捉えられて、喜び、叫びながら帰ってくることへの強い思いと信仰が必要でした。また、喜び叫びながら帰ってくる働き人の姿と模範を多く見てこなかったことも、その原因の一つかもしれません。

「涙と共に種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ,喜び叫びながら帰ってくる。」(詩篇126:5)

第三に、祈ることです。

魂を主の御元にお導きする事のために、私達のできることは、まず、祈ることだと主は仰います。遣わしてください、と祈ることの中に、私の教会から誰かをと言う事だけではなく、わたくしも刈り入れの畑に遣わしてくださいと、祈る聖徒が一人でも多く必要ではありませんか。もしあなたが、主のおことばを受けて、多くの刈り入れが待っている、はや色づいて刈り入れるばかりだと言う事を信じる事ができれば、真剣に祈らねばなりません。誰かではなく私も刈り入れの畑に遣わしてください、と祈る必要があります。

「私は、だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。と言っておられる主の声を聞いたので、言った。ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6:8)

願わくは、主のお声を聞いて、収穫の畑に遣わされる者が多く、召し出され、主の御心に従う方が起こされますように。

太田聖書バプテスト教会牧師 能 吉雄

no1. 私が初めて「海外宣教」について知り学んだのは神学生の3年の時で、一年早く卒業された丸山一郎師が教鞭をとって下さいました。主の大命令はすべての教会・すべての教役者・すべての信徒に対するもので、教会の大小に係わらず、その義務・責任・命令から逃れる事が出来ない事を知らされました。今考えると、神学校における海外宣教教育がどんなに大切か、しみじみと感じさせられます。

2. その頃は、数名のアメリカからの宣教師が熱心に活動しておられましたが、なぜ宣教師が日本におられ、どのような動機で、どのような目的で活動しておられるのか、またその支援体制がどうなっているのか全くと言ってよいほど知りませんでした。ましてや、この群れには海外宣教委員会もなければ、日本人の宣教師もおられず、自分とどんな関わりがあるのかもつかめておりませんでした。「海外宣教」がどんな意味があるのかを悟るにはまだまだ時間と訓練が必要でした。

3. この未知な海外宣教に対して理解が余りにも不十分であっても、海外宣教が主によって与えられた生涯の自分の責任として捉える事が出来たのは、自分の「信仰の質の変化」が大きな要因であったと思っております。信徒時代から神学校に入学して一年の夏休みまでの間、私はローマ7:14-24、特に「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである」・「私はなんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死の体から、私を救ってくれるだろうか」との自覚に苦しんでおりました。と言うのも、イエス様がマルコ7:20-23「人の心から悪しき思いが出てくる…」と言われた罪の自覚は小学生の時からあり、神学校に入ってからはますます罪の自覚が増し加わり、ひたすら十字架の主を仰ぎ見るばかりでした。「おお主よ!お赦しください。もう一度、頑張ります」の連続。「信仰とは苦しむものなり」。当時の母教会の牧師に告げた心の内でした。個々の罪が問題なのではない。私自身がいけないのだ。しかし、この問題に対して根本的な解決の時がやってきました。Ⅱコリント4:10~11に触れた時、大きなショックを受けました。これらの罪に対してどうしようもない私であるからこそ、栄光の主は私の心の中に宿り、私の新しい命となっておられるのだと悟らされた事です。栄光の主の命は私の命そのもの。その時から「私が頑張ります」と自分の力で何かをやるのではなく、「やらせて頂く」と言う自覚に変化しました。もはや自分の無力さ・愚かさに悩むのではなく、こんな私だからこそ、栄光の主は私の内側に宿って下さるのだという大きく意識の変化がありました。この時から「信仰とは喜び・やすらぎ・恵みなり」となったのです。その結果、主の権威は自然な形で私の中に形つくられてきました。個々の罪の自覚しかなかった頃とは比較のしようがないくらい、主への信頼は深められていきました。この観点から私の海外宣教を見つめなおしてみると、主の大命令は、私の理解の深さや体験と関係なく、当然な主のみ心として私の内に定着しておりました。

主の大命令にあるように目を外に、特に海外宣教に向けるようにしましょう!そこにおのずから「終末の時代」にもかかわらず活力に満ちる教会の残される道が開かれていくと確信します。

4. 海外宣教が主により私に課せられた生涯の私の使命としてゆるぎなく自覚された事の次の大きな要素は、副牧師時代の10年間の個人伝道・訪問伝道の徹底的な訓練を受けた事でした。魂を捕らえた時の喜び・感動は「水汲みし僕は知れり」でした。この魂の収穫の喜びと共に苦しさ・辛さ・悲しさ・困難さ・辱め・孤独感を数知れず体験した事でした。この体験が国内開拓ばかりか宣教師の異国での苦労の如何ばかりかを肌で感じ取るものとなりました。

5. 太田教会の会堂には私が牧師として就任して以来、掲げておりますスローガンがあります。「私達の教会の最高の働きは世界の宣教である」。これはカナダ・トロントの故オスワルド・スミス師の言葉です。主の大命令の精神を的確に表現しているものとして、私の生涯の座右の銘として受け入れると共に、牧会の基本姿勢としております。このスローガンを掲げるに当たり、海外宣教に関わる一つの大切な決断を経験しました。主の大命令に応答するために、私は具体的にどうすべきなのかという点でした。すべての教会・すべての信徒は、誰しもこの大命令と向き合わなければならないのだけれど、私はどうすべきなのだろうかと問われた事です。この大命令に対して二種類の応答があります。一つは、私自身が宣教師として出て行くという点で、この事は長い間の祈りの課題でした。そして得た答えは国内に留まる事でした。その代わり私が国内に留まるのは、自分の好みに関係なく海外で労する宣教師を経済的にも霊的にも支援する事でした。その働きを誠実に取り組む教会を養い育て、かつ私に替わって出て行く宣教師を育てる事。これが国内に留まる私の責務であると確信しました。この決断がスローガンを掲げた理由です。それ故、就任して間もない頃、開拓伝道以上に困難な状況の中にあって教会会計が赤字になった時に牧師給を削っても宣教師への約束献金を護り続ける事の出来た理由でした。後程、教会会計が満たされるようになってから補填させてもらいましたが。その重荷の延長線上に娘の献身がありました。

6. 最後に取り組んだのが、教会として宣教師の働きに対する「執成しの祈り」を継続させる事でした。当初、諸集会の中の数々の祈りの中に、宣教師の事も加えさせて頂いておりましたが、宣教師の数が増し加わるに従い、それが困難である事に気がつきました。JBBFの海外宣教委員会に出席したおり、祈りのグループを作る事の大切さを知らされ、教会内において「MPBの時間」を設ける事にしました。毎月第4主の日の午後の礼拝を海外宣教の祝福を求める時としました。幸いにも教会内に宣教委員会がありましたので、委員達が協力分担して毎月の宣教師からの報告を整理し、祈りの表としてまとめ、口頭による補則説明を加えながら、宣教師の現状をなるべく詳しく理解出来るように心を尽してくれました。その忠実な労苦により、教会としての海外の情熱を育て、継続させると共に、信徒たちはその報告の裏に秘められた苦しみや問題点にも思いを馳せるようになりました。この祈りの形が出来てから早や20年以上になりますが、今も教会としての海外宣教への情熱の原動力となっております。

7. これらの事柄を顧みて、海外宣教がキリスト教界全体でいよいよ盛んとなるためには、自分の神体験が如何なる深みのものであるかをもう一度考え、栄光の主が自分の命であることを一人一人が自覚する事ではないでしょうか。ガラテヤ2:19,20は、私の体験・証しだと自覚する処から主のみ心へのゆるぎない服従と忠誠が養われていくのではないでしょうか。そして教会の中に個人伝道・訪問伝道の何であるかを体験しなおす処から、海外宣教への情熱は新たにされてくるのではないでしょうか。これらは教会の若返りと成長・信仰の伝承そのものへと波及していくと確信しております。

諸教会の皆さま!これからの祖国は、様々な混乱の時代へと巻き込まれていくと思われます。北朝イスラエルのように偶像崇拝がますます盛んになり、福音宣教の困難は度を増していく事が予測されます。だからこそ明確な聖書信仰を確立し、個々の教会・信徒が「私は自分の救い主を知っている」と告白し、主の大命令にあるように目を外に、特に海外宣教に向けるようにしましょう!そこにおのずから「終末の時代」にもかかわらず活力に満ちる教会の残される道が開かれていくと確信します。

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