「これにむかって叫べ」

横浜聖書バプテスト教会牧師 長江 忠司

『アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」』ヨナ書1章1~2節

宣教の働きに召され用いられるのは整えられた立派な人物であると考えがちです。しかし、全てがそうとは限らないことがヨナ書を見るとわかります。

主はふさわしくないヨナを召された

主はヨナに、ニネベに行って神のみことばを伝えるようにと命じられました。ニネベは当時大きな勢力を誇っていたアッシリヤの都市で、主に対する悪巧み、略奪、残虐行為、偶像礼拝、淫行、呪術という邪悪で残酷な人々の住む町であったとナホム書に記されています。

ヨナからすれば、「どうしてそんな悪い町の人々を救う必要がありますか」と言いたかったのでしょう。もしくは、「そんな町に行くなら、自分も何をされるかわからない」と恐れたのかもしれません。それで彼は主の御顔を避けて逃れようとしたのです。

ヨナほどにあけすけで、自分の思いに固執する人は、聖書にあまり出てこないのではないでしょうか。この後も、ニネベの人が悔い改めた時に神に対して怒りました。非常に扱いにくい預言者だったのです。仮に企業であれば、彼のような社員は真っ先に外されることでしょう。自己中心的で、上司の言いつけを無視する。怒る。文句ばかりを言う。主は全知なるお方ですので、ヨナがそのような頑なな人物であることをご存知でした。しかも主は他に幾らでも従順な預言者を立てることができたのです。にもかかわらず、主は相応しくないヨナを選び用いようとされたのです。

私達も同じではないでしょうか。私達も選ばれるに相応しくない者でした。神の前に同じように自己中心的で頑なで不従順な者でした。しかし主はそんな私達を愛し選んで下さいました。十字架の死と復活により、私達を救いへと導いて下さったのです。そして私達をも、主の働きの為に用いようとして下さっているのです。

『しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。』1コリント1章27~28節

『「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」』ヨナ3章2節

主はヨナに特別な使命を与えられました。彼は主が言われた通り、「あと40日すると、ニネベは滅ぼされる」と伝えたのです。そうした所、民は悔い改めました。主は彼らの悔い改めの心をご覧になられて、わざわいを思い直されたのです。ニネベの民はヨナを通して語られた主のおことばによって悔い改め、滅びから免れることができたのです。

今も神を無視して滅びに向かっている魂が大勢おられます。その彼らが救われる方法はただ1つだけです。福音のおことばを信じることを通してのみ、救いをいただくことができるのです。

そして主がヨナにおことばを伝える使命を与えられたように、主は救われた私達にその使命を与えて下さっています。出て行って福音を宣べ伝える宣教の使命が与えられているのです。それは教会に与えられている使命であり、同時に全てのクリスチャンに与えられている使命でもあります。そして、主はあなたにも個人的に御声を掛けておられることを知って頂きたいのです。

ヨナの間違っていた点

1・利己主義に陥った

自分が救われているなら、他の人は滅んでしまっても別に構わないという考え方です。仮に彼がニネベの民の一人だったとしたら、喜んで伝えに行ったことでしょう。しかし、自分とは異なる民であり、ひどい民であり、遠く離れている民なので、自分には関係ないと考えたのです。私たちも同じように考えてはいないでしょうか。自分が救われているからいい。他の地域や国のことは自分には関係ない。もしそうだとしたら、ヨナと同じ過ちを犯していることになります。

2・自分が受けた神の恵みを覚えていなかった

彼ほど頑なで扱いにくい人物は少なかったでしょう。そんな彼が選ばれること自体、不思議なことでした。しかし彼は選ばれ用いられようとしていたのです。彼はそんな神の恵みを覚えていませんでした。自分こそさばかれて当然であったことを自覚していなかったのです。

私達は自分が受けた神の恵みを覚えているでしょうか。その恵みを覚えるならば、主に対する感謝が溢れ、主が託して下さった宣教の使命を果たそうという思いが与えられるのです。

3・神の愛のまなざしを理解していなかった

『また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。』マタイの福音書9章36節

イエス様は群衆を見られて、魂が弱り果てているのを知り深い憐みを持たれました。主はニネベの民に対しても、同様の眼差しで見つめておられました。そして今も、主は私達の周りや全世界の魂を同様に深い憐みをもって見つめ、救いたいと願われています。その為に、私達救われた者に宣教の働きを託して下さっているのです。どんなに愚かで神から離れている民であっても、主が造られた魂です。全ての民が主の愛の対象にあるのです。

私達もこの3つの点で間違わないことが大切です。あらためて自分自身の眼差しを点検しましょう。ヨナの様に利己主義と裁く目をもって魂を見つめてはいないだろうか。

そうではなく、私達も見つめて頂いたように、イエス様のような愛と憐みに満ちた眼差しで魂を見つめましょう。そして主の御声に耳を傾けましょう。

主はかつてヨナに語られたように私達にも語られています。「これに向かって叫べ。」相応しくない者ですが、主はそんな私達を遣わし用いようとされているのです。与えられている生涯は一回限りであり二回はありません。御顔を避けないで、宣教の為に立ち上がる者でありましょう。