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ホーム2022-04-18T11:49:47+09:00

ようこそ

JBBF海外宣教のウェブサイトにお寄りくださった事を感謝いたします。海外宣教委員会の私たちは当ウェブサイトを通して、諸教会の皆様方に世界宣教をより身近に感じていただけたらと願っておりますので、大いにご活用下さい。また、皆様のご意見、ご要望などを参考にしながら、ウエブサイトの充実を目指しておりますので、よろしくお願いいたします。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 マタイ28章18〜20 節

次世代が宣教に燃えるには

仁戸名聖書バプテスト教会伝道師 小林 太秀

「主はヤコブのうちにさとしを置きイスラエルのうちにみおしえを定め私たちの先祖に命じてその子らに教えるようにされた。後の世代の者生まれてくる子らがこれを知りさらに彼らがその子らにまた語り告げるため。」詩篇78篇5~6節

後の世代の者を教えなさい

「後の世代の者を教えなさい」これは神がイスラエルの民に繰り返し命じられたことの一つです。またパウロもテモテに向かって「私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。」(Ⅱテモテ2:2)と言い、次なる働き人を育成するように言いました。ところでなぜ聖書は後の世代の者を教えていくことを重要なこととして教えているのでしょうか。その最大の理由は後の世代は自然には育っていかないからです。もし私達が何もしなくても後の世代の者が自動的に育っていくのなら、神はこれほどまでに繰り返して「後の世代の者を教えなさい」ということは言われなかったでしょう。もちろん「門前の小僧、習わぬ経を読む」ということも事実でしょう。私自身も牧師の子供として生まれ、日曜日は教会に行くなどといった生活習慣は自然と身に着いていきました。しかし自分自身の信仰の確立や献身について振り返った時、ジュニアキャンプや青少年のためのプログラムから大きな影響を受けたことを覚えています。それらは後の世代を教えるために“意識的に計画されたプログラム”でした。誰かが後の世代のためにキャンプなどを計画し、犠牲を払って奉仕してくださったので私は信仰的に大きく成長できました。

「後の世代は自動的には育たない」が真実であるなら、宣教に対する重荷も自動的には与えられないということになります。特に海外宣教は私達の日常にはありません。後の世代が宣教に燃やされていくには、海外宣教について知り、それを自分のこととして受け止めていくことができるような体験が必要となってきます。特に若い人々の信仰成長にとって宣教の重荷を持つことは大変重要です。なぜなら人生において最も重要で価値あるものは何か、ということがはっきりしていなければ、それほど重要でなく大した価値もないようなものに人生を費やすようになってしまうからです。この世には若い人の興味を惹きつける様々なものがあふれています。しかし私達の時間やお金には限度があるので、何に時間とお金を費やしていくか賢く取捨選択をしていかなければなりません。その際の取捨選択の基準は「自分にとって価値あると思えるかどうか」です。人は自分にとって価値があると思えるもののためなら喜んで時間とお金を費やしていくことができます。若い人は教会が真面目臭くて楽しくないから教会から離れていくのではありません。教会よりもこの世が提供してくれるものの方が自分にとって価値があり、優れたものだと思ってしまうから教会を離れてしまうのです。

福音宣教の働きの価値

「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3:16)とあるように、神様はイエス様をお与えになるほど失われた魂を救うことに価値を見出していました。イエス様はご自分の命を犠牲にしてまで人間を救おうとされました。神様の目から見て失われた魂を救うこと以上に重要で価値ある働きはないのです。そしてこの福音宣教という価値ある重要な働きを行うことができるのは救われたクリスチャン以外にいません。私達が他の人よりも先に救われたのはまだ救われていない人に福音を伝えていくためです。若い人が若い時に救われたのにも神様の計画と意味があります。若い人にはまだ多くの時間が残されています。その長い人生を福音宣教のために費やしていくことができるのは素晴らしい恵みだと思います。もし若い人が本当にこの福音宣教の働きの価値を見出すことができるなら、自ら進んで教会に通い、聖書を学び、奉仕をしていくようになるでしょう。またもっと神様の力と助けを求めて熱心に主を祈り求めるようになっていくでしょう。そして自分の進路を考えるにあたっても当然、宣教師や牧師という選択肢も含まれ、そのことについても祈るようになるでしょう。しかしもし若い人が福音宣教に価値を見出すことができないなら「教会生活は必要最低限にしておいて、世のことに沢山エネルギーを注ごう」ということになってしまうのではないでしょうか。若くして救われたという恵みを無駄にしてしまうのはなんと大きな損失でしょう。神様はその人を用いたいと願っておられて、その人を通して救われるはずの人がいたかもしれません。しかしそれを全く無視してしまっているのです。それはあたかも親切なサマリア人の例えに登場する祭司やレビ人のようなものです。彼らは聖書知識には精通していましたが、目の前に横たわっている死にかけの旅人を救おうとはしませんでした。「自分にはもっと他にやるべきことがある」と考えてしまったのがその一因でしょう。神様は彼らにこう問われるのではないでしょうか。「目の前にいる死にかけの人を救うこと以上にやるべき大切なこととは一体何なのか」と。命を救うことの価値や重要性が分かっていないと優先順位がおかしくなってしまうのです。これは失われた魂についても言えることではないでしょうか。

若者が宣教に重荷を持つために

さて、後の世代が自動的には育たないのだとしたら、宣教に対する重荷が与えられるような若者向けのプログラムが必要になってきます。後の世代を育てることは主から与えられた私達の責務なのです。感謝なことにJBBFでは海外宣教委員会の発案により、青少年宣教キャンプが2008年より開始され1回も途切れることなく毎年夏に行われています。また諸教会でも若者が宣教に重荷を持つための様々なプログラムが行われていることでしょう。多くの人の献身的な奉仕によって宣教キャンプは支えられています。宣教キャンプに限らず次世代の育成には多くの労力と時間がかかります。これはすぐに結果を見ることができない困難な働きです。しかしすぐに結果が見えない困難な働きだからこそ、後回しにせず今から地道に取り組んでいく必要があるのです。そこで必要とされるのは主のため、次世代のために自らをささげる働き人です。未来のために今をささげる人が求められているのです。

今日をささげる

インドにあるコヒマという場所は第二次世界大戦中における激戦地の一つでした。各地から招集された兵士達は敵の手から祖国と愛する人を守るために必死に戦い、命を落としていきました。コヒマにはそこで命を落とした兵士4064名の墓が建てられており、その墓石には次の言葉が刻まれているそうです。「故郷に帰ったら家族に我々のことをこう伝えて欲しい。“あなた方の明日のために我々は今日を捧げた”と」。未来はこのような献身的な人達によって築かれていくのです。明日の宣教を担う次世代のために私達も今日をささげていこうではありませんか。

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