異邦人・異民族伝道と教会

〜文化の違いを超えて出て行くときに気づかされたこと〜

インドネシア派遣宣教師 広瀬 憲夫

「また、こうも言われています。『異邦人よ。主の民とともに喜べ。』さらにまた、『すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。』ローマ15章10〜11節

異民族との向き合い方

世界中の「難民」問題で関係者はそれぞれに難しい対応を迫られています。私たちの近隣にもミャンマーからロヒンギャ族難民が押し寄せてきていて、いくつかの難民キャンプが作られているそうです。
難民到着後、この9月、スタバッ伝道所の近くのモスクから、拡声器を通して周辺住民にも聞こえるように伝えられた説教が、「帰って闘え!」でした。この説教者の個人的な見解でしょうが、今の時代、違う民族、違う文化、違う宗教の人々の間の対立が、ますます深くなってきていることが肌で感じられる言葉です。
そのような状況の中で、私たちは異民族に対してどうするようにと主から命令を受けているのでしょうか。

旧約聖書において、「主の民」(ローマ15:10)とは割礼を受けてアブラハム契約に入った者であり、「異邦人」は、それ以外の割礼を受けていないすべての人々を指しています。パウロの手紙ではそれを受けて、「すべての異邦人」「もろもろの国民」も福音によって主をほめるようになることをビジョンとしているのです。
使徒時代のローマ帝国同様、インドネシアも多民族国家です。インドネシアで隣人は、共通語としてインドネシア語を話すことができても、多くの場合、日常ではそれぞれの民族語で会話をする、さまざまな民族です。その数はインドネシア全体で、300以上とも700以上とも言われます。インドネシアにおいて、隣人への伝道は、本来なら異民族への伝道のはずです。

民族の違いによる障壁

ここで障壁になるのが、その民族の違いでした。北スマトラ州では、一般に「キリスト教=バタック民族宗教」と思われるほどに、バタック民族教会が多く存在します。バタック・トバ族の場合、国勢調査の統計上、95パーセントがキリスト教。そして、私たちの教会でも、メンバーの9割はバタック族です。そのため日常の交流も伝道の相手も、バタック族が多くなります。バタック民族教会はプロテスタントを標榜しているにもかかわらず、救いは善行によるとする教理なので、彼らへの伝道は「信じるだけで救われる」というところに力が入ってしまいます。

実は、宣教地に来た最初のうちは彼らが何をどのように信じているかに、あまり注意を払っていませんでした。イエス・キリストを信じると言うのは、私たちにとってはなによりもまず贖いを個人的に受け入れ信じることです。それに対し、「彼らは贖い信仰50%プラス善行50%としていて、信じるだけでは救われないと考えている」と私たちは考えていたのです。
けれども、「信じた、救われた」はずの人々のその後の成長がどうもはっきりしない。そのうちに少しわかってきたのが、彼らの言う「キリストを信じた」とは、数ある宗教の中からキリスト教を選んだことであり、数ある神々の中からキリストを選んだ、生まれながらの家の宗教がキリスト教だった、ということにすぎなかったわけです。バタック民族教会で十戒や使徒信条を毎週のように唱和してもキリストの死が「自分のため」という自覚はなかったのです。

贖いの理解が不十分なままに「イエスは主である」と信じて告白し(させ)ても、信仰生活はせいぜい律法主義にしかなりません。加えて、年長者を尊重することが何よりも重要とされる部族社会の伝統の中で、年長者の権威に強制力を持たせる権威付けのための聖書の教えにとどまってしまいがちです。ですから、そのような状態の人々に、「信じるだけで救われる」という点だけを強調して伝えても、実は、空を打つような拳闘をしていたに過ぎなかったと言えます。

他宗教の異民族に福音を伝える際には、もちろん、「信じるだけで救われる」というところだけを強調するような「伝道」はしません。そこは、自分でも無意識に、相手によって伝え方を変えていたわけです。

特定の民族文化が教会の習慣となってしまう

教会メンバーが「隣人」に証しをするにも、バタック人への伝道がどうしても多くなり、「異民族」、すなわち他民族、他宗教の人々への伝道は二の次になってしまいがちになります。さらに、教会内のさまざまな行事、話し合いのやり方、等々、気づかぬままにバタック民族文化が濃厚になってしまいます。教会内の雰囲気が、多数派であるバタック民族の色になるのは、仕方ないことかもしれません。けれども、まさにこのことが「異民族」伝道の障壁になっているように考えられるのです。
地域に根ざす教会として地域での証しに励むとき、周辺の人々を区別することはあってはなりません。しかも、宣教の大命令は、「すべての国民」を目指すように明記されているのです。そこで、私たちは教会のあり方の原点、教会の宣教の原点を考える必要があると気づかされました。教会の宣教原理の第一歩を、同胞に向けるのか異民族に向けるのか、ということです。「出て行って、すべての国民を弟子とし」との命令を聞くとき、どこに目標を置くべきでしょうか。どのような教会を目指していくべきでしょうか。

教会本来のあるべき姿を取り戻すには

バタック民族が多数になってしまっている私たちの教会の状況の中に自分を置いている時、このことには気がつきませんでした。いつも付き合っている人たちが、御言葉を語る対象になり、その友人、家族がおもな伝道の対象となる。
そこをあえて、自覚的に異邦人、異民族と接触し、伝道することに心を向けることから、他者の理解を深める機会も与えられてくることになり、さらには、教会でなされるべき教え、特に青年に対する指導が、異民族どうしの集まりとして学ぶべき聖書の教えを追及することから始まることになるのではないでしょうか。
このように、異邦人・異民族伝道が、必然的に、教会本来のあるべき姿、本質を明らかにしてくれるように思われるのです。

教会の本質に触れる話し合いへの招き

今年の6月、東アジア宣教師O師にビンジェイに来ていただいた折、教役者の交流の必要性を強く感じ、雑談の中から、「各国の伝道者が集まって交流会を開こう」、という計画が持ち上がりました。互いの宣教地のために祈りあい、理解しあい、さらにはやがて宣教師を送り出すための力を得るための交わりを目的とする集いです。東アジア内地から、何名かの若い伝道者が、メダンに来ることが可能かもしれません。それに合わせて、日本の伝道者の皆さんにも、ぜひ、積極的に、この交わりに参加していただきたいと思います。東アジアの参加者と忌憚なく語り合うためにも、特に若い伝道者の皆さんにお願いしたいと思います。期日は、2018年5月14日(月)から18日(金)まで。場所はメダン、ビンジェイ。

ここで、教会の本質に触れる話し合いが進められ、地の果てにまで出て行き異民族の隣人となって福音を伝える教会がますます力強く成長することを、心から期待しています。