北九州聖書バプテスト教会牧師 三宅 宏昭

『ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』 ローマ1章15~17節

異文化と福音

昨今では神学校で学ぶ学生もクリスチャンホーム、牧師家庭で生まれ育った兄弟姉妹がほとんどとなっており、教会の働き方がこの数十年の間でずいぶん変化していることを感じさせられます。とはいえ教会に第一の使命として命じられている福音宣教は、神様を知らず救われていない人々に神様の御言葉を伝える働きであり、クリスチャン達の間での働きとは全く違って、まさに神様を知らないがゆえに平然と神様を侮る人々に向けて証しをすることです。福音を宣べ伝えるクリスチャンにとっても、福音を聞く人々にとっても、まったく異質な文化や言葉と出会う経験になることは避けられません。

私自身、家に仏壇や神棚があり、子供の頃から仏教には触れても聖書には触れたことは無いところで育ち、青年時代に聖書と神様に接したので、驚きと戸惑いは大きなものでした。その頃、私はきっとこの世界のどこかに真理と呼び得るものはあるのだろうと思っていましたが、それがどこにあるかは分からずに過ごしていました。真理があるなら、世の不条理、不公正、罪悪の勝利にも解決がなされるに違いないと期待していたのですが、それを見出せずにいたのです。
聖書との出会い
私の聖書との出会いは、無料で配布された小さな新約聖書によってでした。一度も読んだことが無かったけれども「聖書」という気高い名前の故に一目置いていた聖書を手にした私は早速それを開いてみました。
しかし聖書はちょっと読んだからといって理解できるような代物ではありません。ただ神様の憐れみをいただきました。聖書に書かれている裁きについての御言葉、そしてイエス・キリストが裁きを行なう方だという御言葉を読み、その点はすっきりと心に入りました。

「全人類について裁きを行なうとはっきり宣言されている。ならばイエス・キリストは確かに神であり、裁き主に違いない。私の望んでいた真理は確かにあった」と納得できたのです。それ以来、イエス・キリストは私にとって敬うべき神、裁き主として存在感を持つようになりました。もちろんその当時、私はイエス様を救い主と信じていたわけではないので、救われてはいません。私は自分の醜さ汚さには気づいていたので、自分もまた裁きを受けて地獄に落とされるものと認識していましたが、それでも納得できるから良いと思っていたのです。おそらくイエス様との出会い方としては、私の場合は少し奇妙な道筋だったのだろうと思います。

それから数年が経ち、私は自分の罪についての意識が強くなって「きっとこの罪の解決の道としての救いは教会にあるだろう」と思い立ち、教会を訪ねました。教会で聖書を開いて、イエス・キリストの福音を丁寧に何度も時間をかけて説明し教えてくれた牧師の恩は忘れることができません。

福音を聞くことと、信じることの違い

人が福音を聞くことと、信じて受け入れることとの間には大きな距離があります。人は1回、福音を聞けば聖書の教えていることが分かり、罪を悔い改め、喜んでイエス・キリストを信じることができる、という者ばかりではありません。
私にとってイエス・キリストの十字架は大き過ぎました。私は以前聖書を読んで、イエス・キリストが神であること、正義をもって全ての人を裁く裁き主であると知り、この点は受け入れていました。イエス・キリストは天の高き所におられる、栄光に輝く聖なる神であって、この方を直接見上げることにも恐れを感じるほど特別な方だと思っていました。

そのイエス・キリストを自分の罪のために十字架にかけて殺した、と言われて簡単に納得できるものではありません。私は自分の罪だけでも重くて苦しいほどなのに、その上にイエス・キリストの死まで自分の責任として負えるかと考えると、とてもではないけれど十字架は重すぎました。この恐れについて私は自分では解決できませんでした。
ところが神様は私に解決を与えて下さいました。私が一人でイエス・キリストの十字架について考えていた時、『完了した』(ヨハネ19:30)というたったひと言の御言葉を神様は私の心に浮かび上がらせ、教えて下さいました。今さら私が恐れたり悩んだりしても無意味なこと、イエス・キリストの十字架による救いの御わざは既に成し遂げられ完成されているのだと。この御言葉によって私は神様に対して抵抗していた心を砕かれてひれ伏し、イエス・キリストを私の救い主、私の主として信じました。こうしてようやく私も救われました。

救いにいたるまでの道のり

神様を知らないで生きて来た人間が聖書の御言葉に触れ、神様を知り、救い主イエス・キリストを信じるということは簡単なことではありません。聖書を手にしてからも何年もかかる、そういう場合もあるのです。福音を宣べ伝えるとは、そういう人々、或いは更に難しい事情を持つ人々の間に聖書の御言葉を携えて行くということです。福音を伝えている間にも一人の人が福音に耳を傾けたり、反発したり、離れたり、戻ってきたり、という紆余曲折を経ることもあります。

福音宣教は神様の御わざ

まして海外宣教の場合、異なる言語、異なる文化を持つ人々の中に福音を宣べ伝えに行くのですから、その働きの複雑さと困難さは想像を越えます。ただ福音宣教と人の救いは、人間の力による働きではなく、神様の御わざです。人の心を開いて信仰に導くのは神様の恵みなのです。ですから福音を宣べ伝える者は、神様のお働きに従う者として遣わされ、神様に用いていただきます。

まだ神様を知らず、救われていない人々が世界に数多く残されていることを覚えて、日本でも海外でも、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えていきましょう。