過去の宣教メッセージ2024-02-21T19:25:45+09:00

過去の宣教メッセージ

次世代が宣教に燃えるには

仁戸名聖書バプテスト教会伝道師 小林 太秀

「主はヤコブのうちにさとしを置きイスラエルのうちにみおしえを定め私たちの先祖に命じてその子らに教えるようにされた。後の世代の者生まれてくる子らがこれを知りさらに彼らがその子らにまた語り告げるため。」詩篇78篇5~6節

後の世代の者を教えなさい

「後の世代の者を教えなさい」これは神がイスラエルの民に繰り返し命じられたことの一つです。またパウロもテモテに向かって「私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。」(Ⅱテモテ2:2)と言い、次なる働き人を育成するように言いました。ところでなぜ聖書は後の世代の者を教えていくことを重要なこととして教えているのでしょうか。その最大の理由は後の世代は自然には育っていかないからです。もし私達が何もしなくても後の世代の者が自動的に育っていくのなら、神はこれほどまでに繰り返して「後の世代の者を教えなさい」ということは言われなかったでしょう。もちろん「門前の小僧、習わぬ経を読む」ということも事実でしょう。私自身も牧師の子供として生まれ、日曜日は教会に行くなどといった生活習慣は自然と身に着いていきました。しかし自分自身の信仰の確立や献身について振り返った時、ジュニアキャンプや青少年のためのプログラムから大きな影響を受けたことを覚えています。それらは後の世代を教えるために“意識的に計画されたプログラム”でした。誰かが後の世代のためにキャンプなどを計画し、犠牲を払って奉仕してくださったので私は信仰的に大きく成長できました。

「後の世代は自動的には育たない」が真実であるなら、宣教に対する重荷も自動的には与えられないということになります。特に海外宣教は私達の日常にはありません。後の世代が宣教に燃やされていくには、海外宣教について知り、それを自分のこととして受け止めていくことができるような体験が必要となってきます。特に若い人々の信仰成長にとって宣教の重荷を持つことは大変重要です。なぜなら人生において最も重要で価値あるものは何か、ということがはっきりしていなければ、それほど重要でなく大した価値もないようなものに人生を費やすようになってしまうからです。この世には若い人の興味を惹きつける様々なものがあふれています。しかし私達の時間やお金には限度があるので、何に時間とお金を費やしていくか賢く取捨選択をしていかなければなりません。その際の取捨選択の基準は「自分にとって価値あると思えるかどうか」です。人は自分にとって価値があると思えるもののためなら喜んで時間とお金を費やしていくことができます。若い人は教会が真面目臭くて楽しくないから教会から離れていくのではありません。教会よりもこの世が提供してくれるものの方が自分にとって価値があり、優れたものだと思ってしまうから教会を離れてしまうのです。

福音宣教の働きの価値

「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3:16)とあるように、神様はイエス様をお与えになるほど失われた魂を救うことに価値を見出していました。イエス様はご自分の命を犠牲にしてまで人間を救おうとされました。神様の目から見て失われた魂を救うこと以上に重要で価値ある働きはないのです。そしてこの福音宣教という価値ある重要な働きを行うことができるのは救われたクリスチャン以外にいません。私達が他の人よりも先に救われたのはまだ救われていない人に福音を伝えていくためです。若い人が若い時に救われたのにも神様の計画と意味があります。若い人にはまだ多くの時間が残されています。その長い人生を福音宣教のために費やしていくことができるのは素晴らしい恵みだと思います。もし若い人が本当にこの福音宣教の働きの価値を見出すことができるなら、自ら進んで教会に通い、聖書を学び、奉仕をしていくようになるでしょう。またもっと神様の力と助けを求めて熱心に主を祈り求めるようになっていくでしょう。そして自分の進路を考えるにあたっても当然、宣教師や牧師という選択肢も含まれ、そのことについても祈るようになるでしょう。しかしもし若い人が福音宣教に価値を見出すことができないなら「教会生活は必要最低限にしておいて、世のことに沢山エネルギーを注ごう」ということになってしまうのではないでしょうか。若くして救われたという恵みを無駄にしてしまうのはなんと大きな損失でしょう。神様はその人を用いたいと願っておられて、その人を通して救われるはずの人がいたかもしれません。しかしそれを全く無視してしまっているのです。それはあたかも親切なサマリア人の例えに登場する祭司やレビ人のようなものです。彼らは聖書知識には精通していましたが、目の前に横たわっている死にかけの旅人を救おうとはしませんでした。「自分にはもっと他にやるべきことがある」と考えてしまったのがその一因でしょう。神様は彼らにこう問われるのではないでしょうか。「目の前にいる死にかけの人を救うこと以上にやるべき大切なこととは一体何なのか」と。命を救うことの価値や重要性が分かっていないと優先順位がおかしくなってしまうのです。これは失われた魂についても言えることではないでしょうか。

若者が宣教に重荷を持つために

さて、後の世代が自動的には育たないのだとしたら、宣教に対する重荷が与えられるような若者向けのプログラムが必要になってきます。後の世代を育てることは主から与えられた私達の責務なのです。感謝なことにJBBFでは海外宣教委員会の発案により、青少年宣教キャンプが2008年より開始され1回も途切れることなく毎年夏に行われています。また諸教会でも若者が宣教に重荷を持つための様々なプログラムが行われていることでしょう。多くの人の献身的な奉仕によって宣教キャンプは支えられています。宣教キャンプに限らず次世代の育成には多くの労力と時間がかかります。これはすぐに結果を見ることができない困難な働きです。しかしすぐに結果が見えない困難な働きだからこそ、後回しにせず今から地道に取り組んでいく必要があるのです。そこで必要とされるのは主のため、次世代のために自らをささげる働き人です。未来のために今をささげる人が求められているのです。

今日をささげる

インドにあるコヒマという場所は第二次世界大戦中における激戦地の一つでした。各地から招集された兵士達は敵の手から祖国と愛する人を守るために必死に戦い、命を落としていきました。コヒマにはそこで命を落とした兵士4064名の墓が建てられており、その墓石には次の言葉が刻まれているそうです。「故郷に帰ったら家族に我々のことをこう伝えて欲しい。“あなた方の明日のために我々は今日を捧げた”と」。未来はこのような献身的な人達によって築かれていくのです。明日の宣教を担う次世代のために私達も今日をささげていこうではありませんか。

ペルシアの離散民

名古屋聖書バプテスト教会 上田 平安

「ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように。」ネヘミヤ記1:11

ペルシア帝国に離散していたユダヤ人

今から2500年前、ペルシア帝国がアジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸をまたにかけ、「史上初の世界帝国(阿部拓児氏の表現)」として君臨していました(エステル記1:1)。当時、かつてのイスラエルを含む地域は、アラム語で「アバル・ナハラ(エズラ記 5:3原典)」と呼ばれる行政区に編入されて国家的な独立を失い、ユダヤ人たちは各地に離散して生活していました(エステル記9:16)。というのも、紀元前587/586年に、バビロン王ネブカドネツァル軍の侵略によってエルサレムは既に陥落しており(第2列王記25:1-12)、イスラエルの地における王国の制度は、終焉(しゅうえん)を迎えていたからです。残虐な侵略者たちに降伏したユダヤ人たちや、その他の戦火をまぬがれた者たちも異国の地に捕え移され(第2列王記25:11-12)、ユダヤ人たちは祖国を失って離散民となってしまっていたのです。

ペルシア帝国における離散民の哀願

エルサレムを廃墟とし、多くのユダヤ人を捕らえ移したバビロニア帝国は崩壊し、メディアと合体したペルシア帝国が世界の覇権(はけん)を握りました(ダニエル書8:1-20)。ペルシアが世界を治めるその時代には、ユダヤの離散民が帝国の心臓部で活躍していました。若い時分にバビロン捕囚を経験し、バビロニア帝国からペルシア帝国へという時代の転換期を経験したダニエル(ダニエル書1:1-12:13)、ペルシア王アルタクセルクセスに献酌官という責任ある立場で仕えたハカルヤの子ネヘミヤ(ネヘミヤ記1:1、11)、クセルクセス王の寵愛(ちょうあい)を受けたエステル王妃(エステル記1:1-9:32)、クセルクセス王の次の位に就き偉大なる者と称えられたモルデカイ(エステル記10:1-3)をその例として挙げることができます。

ダニエル、ネヘミヤ、エステル、モルデカイに共通していたのは、同胞を思って哀(あいがん)したということでした。ユダヤ人たちの惨状を嘆き、その嘆きが哀願へとつながりました。廃墟となったエルサレムの方角に窓を開いて祈ることを良き習慣としていたダニエルは、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が70年であることを悟りました(ダニエル書6:10、9:2)。そして、彼は「追い散らされた先のあらゆる国々にいる、すべてのイスラエル(ダニエル書9:7)」のことに思いをはせ、深い悔い改めをもって、廃墟となったエルサレム神殿のすみやかな復興を神に哀願しました(ダニエル書9:1-19)。ネヘミヤもまた捕囚の生存者たちの困難と恥辱(ちじょく)を嘆き、城壁や城門が焼き払われたエルサレムを思って主に嘆きの祈りをささげ、アルタクセルクセス王に都の再建許可を願ったのです(ネヘミヤ記1:1-2:5)。さらに、ペルシア帝国全体に離散しているユダヤ人たちがジェノサイド(=集団虐殺)による民族消滅の危機に瀕(ひん)しているとき、モルデカイは帝都スサで粗布(あらぬの)をまとって嘆き、世界中のユダヤ人たちもまた悲劇の通達を知って、断食をしながら悲しみの声をあげました(エステル記4:1-3)。また、ペルシア帝国のすべての州において、ユダヤ人が老若男女すべて根絶やしにされる悪夢の日が迫る中、エステルは命を賭(と)して世界帝国の王クセルクセスにユダヤ人の助命を嘆願して聞き入れられたのです(エステル記7章)。嘆く力、哀願する力を主によって与えられた離散するユダヤ人の声が世界に鳴り響き、ついに天の神が動かれたのです。ペルシア帝国の時代、多くのユダヤ人たちが祖国に帰還し、エルサレムの神殿は再建され、民族的消滅をまぬがれ、エルサレムの城壁も建て直されるという奇蹟が起こりました。

「離散民化」する世界

ところで、ある宣教学者が21世紀の人口学的特徴は世界規模の「離散民化」にあり、それに応じて宣教のあり方も変化しつつあるという見解を提示しておられました。バビロン捕囚によって捕らえ移された人々が離散民としてペルシア帝国に生きていたことを学びましたが、現代では、人々が内戦、飢饉、宗教弾圧、政治的、経済的理由等によって空間的な移動を余儀なくされるという現象が、世界中で大規模に起きているのです。そして、多くの人々が祖国を離れて「離散民」として生きているという現実が、21世紀のひとつの特徴であると言われます。2000年の統計では移民の数が世界総人口の3%でしたが、2020年の統計ではさらに増加して3.6%になりました。

ペルシア語圏の離散民

かつてアケメネス朝ペルシアの主要な地域であったイランやアフガニスタンも、「離散民化」の歴史をもつ国々です。イランでは1979年にイラン革命が起こり多くの人々が祖国を離れました。同年、ソビエト連邦がアフガニスタンに侵攻して内戦が始まり、アフガニスタン全土で600万人が難民となりました。また、最近では2021年8月、駐留外国軍の撤退にともない、イスラム主義勢力のターリバーン(Ṭālibān)が復権して、数十万人規模の避難民が発生したことは記憶に新しいでしょう。名古屋市でもアフガニスタンの方々が事実上の難民として生活をしておられます。

私事ですが、ずいぶん前から、ペルシア語を話す人たちに特別な感情があります。近所にイラン人の家族が住んでおられたり、高校時代の親友がイランにルーツがあってペルシア語をよく教えてもらっていたのがその理由だと思います。2001年にアフガニスタン紛争が勃発してからは、イランだけでなく、ペルシア語(公式名称:ダリー語)話者が多く住んでいるアフガニスタンにも興味をもつようになりました。伝道者になってからは、主のお導きにより、公立の小学校などで、ペルシア語を話すイラン人やアフガニスタン人の日本語指導や生活支援をする機会も与えられ、ペルシア語圏の方々がさらに身近になりました。しかし、残念なことに、アフガニスタンやイランから来日された方々の中には、政治や宗教の理由で、国を離れざるをえなくなった事実上の難民も多く、「離散民」としての悲しみに共感したいという感情も芽生えています。

結語

祖国に帰ることができない方々の気持ちを理解することはできませんが、ひとりのアフガニスタン「難民」の児童が、ペルシア語訛りのたどたどしい英語で私に言った次の言葉を忘れることができません。”I am very lonely, sad, and angry.”(僕はとてもさびしいし、悲しいし、怒っている。)祖国を離れて生活せざるをえなくなった子どもたちのたましいの声を聞いた思いがしました。

名古屋聖書バプテスト教会には、祖国を離れざるをえなくなったペルシア語圏の方々が、時折、礼拝や特別行事に参加してくださいます。福音の種を少しずつまいています。まだ信仰告白をした方はおられないのですが、いつか、ペルシア帝国に住んでいたあのユダヤ人の離散民たちのように、異国の地で主に叫び求め、主に真の救いを哀願する者となれるようにと願います。世界中で離散民として暮らしておられる方々に、まことの幸(さち)がありますように。

行って、弟子として、教える

インドネシア派遣宣教師 広瀬 憲夫

広瀬先生

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイの福音書 28章19~20節

世界宣教の模範者に従う

「兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」(ピリピ3:17)

戦後まもなくの日本に、突然吹き始めた風に乗って、とでも言うように御霊に導かれて来てくださったラージャス宣教師ご夫妻は、外国人と身近に接したことがなかった田舎者の私にとっては、「世界」そのものでした。

私がイエス・キリストを信じて救われた調布バプテスト・テンプル(現 調布聖書バプテスト教会)で印象的だったのは、救われて間もない私に普通の青年教会員が熱く世界宣教を語ってくれたことです。そのような教会を建て上げるために、宣教スピリットを育てるために長年に渡って調布の教会、いえ、フェローシップと共に歩んで下さったラージャス師の存在そのものが、敵をも隣人とみて愛し、「行って」との御言葉に従って遠路はるばる出かけて実践する世界宣教とは何かを現していると思います。行ってなすべき世界宣教とは何でしょうか。

告知する働き

第一に、お一人の神が一つの世界、一つとなるべき人間を創造して下さって、神が人と共にいて下さることを実現するために贖いがなされたことを告知する働きです。祈りは、共におられる神との会話。それを実感させてくれたのがラージャス先生でした。

相談事に行くと必ず言われる言葉が、「兄弟、祈りましょう」。神こそが私の相談事を持っていくべきお方で、私の祈りを聞いてくださるお方だ、そして答えてくださるお方、ということを実践をもって示して下さったのです。そのようにして導かれている教会で行われている祈り会もまた、二人ずつのペアで祈りの人々を経験する貴重な機会でした。教会に行き始めた頃、「この人たちは本当に神様に語りかけている!」と感じさせられた事も記憶に深く焼き付けられています。「弟子としなさい」とは、神に額ずく人を育てる働きなのだと教えられたのでした。

教える働き

第二に、世界宣教とはイエス・キリストが命じられたすべてのことを、一点一画過たずに守るように教える働きです。その「すべて」を一言で言い表すなら、キリストが弟子たちを愛したように互いに愛し合うことです。この神の真理を頭で理解するだけではなく、それに従って行動を起こすほどに、何をすれば良いのかをはっきりとわかる説教をすることです。

日曜学校でどのように視聴覚教材を使うか神学校で学んだものですが、それを礼拝説教にも実践すべきことを、ラージャス先生の説教で目の当たりにさせられました。ある時、大きなタイヤを講壇の横に置いて、このタイヤを自動車にそのままはめて使えるかどうか会衆に問いかけたのです。パット見には全くわかりません。でも自動車をよく知っている人が近くに行って調べると、バランスを調整する小さなフックがない、とわかったのです。そのままで走り出したら危険だ、小さくても重要な一点が欠けては大事故につながる、という例話でした。

世界宣教は、慣れない外国語で伝えることが基本です。微に入り細に穿つ説明を言葉ですることはできない、と諦めざるを得ない状況で、それでもなんとかしてわかってもらって、主の命令を実行できる教会を育てなければならないのです。宣教師自身が何かをすることによってではなく、教会によって神の栄光が現されるように、できることはなんでもするのが宣教なのだ、と教えられたのでした。

神への信頼

そして、世界宣教の実践は、神への信頼の結果です。鼻から息をするものを信じるのではなく、主を信じることによってなされるのが世界宣教です。弟子を創り育てるにあたって、自分が指導したことで弟子が育つと思うのは明らかに間違いです。永遠の命を与えてくださるのが神ご自身であるのと同様、成長させてくださるのも神です。今自分の目の前にいる一人の信仰者が主の弟子であって、神の御霊に導かれていることを信じて、共に活動することが求められているのです。

イエス・キリストの弟子たちが二人ずつ遣わされてでかけたように、一緒に訪問し、一緒に個人伝道し、一緒に汗を流しながら御言葉を共有することで、弟子は育てられていきます。

救われて2年目に、献身し神学校に行きたいと表明した、信仰において全く未熟な若造を、ラージャス先生は、召されたという告白の言葉に詮索も疑義も出さず、「成長させてくださるのは神である」と、神に信頼して若輩者を神学校に推薦してくださいました。入学時に持っていた参考書は、それまで使っていたハーレーのハンドブックと、入学祝にプレゼントされた、教科書として使われるギリシャ語の文法書だけでした。その後、卒業して2年間の母教会でのインターン期間を経て、諸教会訪問させていただき、翌1990年12月にインドネシアへの渡航となったのでした。

共に学ぶ

現地の人達がそれまでどのような神の導きを受けてきていたのか、神はこの人たちに今何をしようとしておられるのか。現地入りしてからは、現地の人達と共に御言葉を学ぶ日々でした。その基本は、神が命を与え成長させてくださる、という確信であり、私も共に学ぶ一人に過ぎない弟子だ、という思いです。

宣教師として、言葉で神の真理を説明することが難しい地に出ていって、これまでの歩みを振り返り、つくづくと感じたことがあります。それは自分はいかに、実際に手取り足取り、宣教師の働き方を教えていただいていたか、ということです。

母教会から二人の青年が宣教地に2週間滞在していってくれました。「赤ん坊に戻った気分」という感想でした。言葉がわからず、右も左も分からない、ただ手を取ってもらってついていくだけだった、と。
私たちは、自分を取り巻く世界について、すでによく知っている、と思い違いをしてしまいがちです。そうではなく、御霊に導かれながら日々を歩むことを体得するのが、弟子としての歩みでしょう。世界宣教に関わることは、その実践の学びなのです。神が私たちに「行って」と命じられているのは、そこで神ご自身が教えてくださることを学び取れ、という目的があるからだと思わされます。

自ら覆いを被る愚かさを知る

桶川バイブル・バプテスト教会牧師 内島 隆

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。コリント人への手紙 第二 3章18節

主の御前における私達

ユダヤ教徒たちは、律法を守り行う自分の行いが救いに至る道だと思っていました。ところが、その思いこそが覆いとなり、あろうことか待ち望んでいたはずのキリストを、自らの手で十字架に着けてしまいました。

しかし、同じ罪人である私たちは、決して彼らをとがめることはできません。かつては「神などいない。生命は偶然の産物で進化した。」そう言って、仕事、収入、家庭、教養、健康、運勢など神ならぬものを拠り所として生きる偶像礼拝者でした。神を信じて律法を厳守しようとするユダヤ教徒たち以上に、罪の覆いのうちに閉ざされていました。

そんな私たちのためにも、キリストは人となって世にお生まれになり、その人生に寄り添い、ついに十字架の死と復活をもって私たちの罪を贖い、御国への道を開き、絶望とむなしさの覆いを取り除き新しい命、新しい人生をお与えくださいました。今日その恵は、キリストが父なる神のみもとからお遣わしくださっている神の聖霊によってもたらされています。

こうして私たちは、偶像ではなく真の神を礼拝する者とされ、鏡のように主の栄光を映し、世に向かって大いにイエス・キリストを証しする者とされました。

私の愚かさ

2018年に、ある国の地下教会を訪ねました。宣教師が昇天されて以後、捕縛を恐れることなく無牧の教会を守り続けている彼らの信仰に、励ましを得たいと思っていましたし、彼らは修養会を計画しており、御言葉の御用の依頼も受けておりました。とは言っても私は宣教師ではありません。しかも伝道者としての経験は桶川での12年だけ。加えて日本との通信手段が検閲されているため、あらかじめ打合せをすることが出来ません。現地へ行ってから準備するよりないという、じつに消極的な条件ばかり。しかしその一方で、休暇をとってまで準備をしてきた彼らの姿があっては、到底後ろを向く気にはなれません。宣教師がお使いになっていたデスクをお借りし、恐れつつ祈りつつ御言葉の準備をさせていただきました。

修養会の二日目、御言葉に様々な応答があるなかで、なんと一人の兄弟が献身したのです。夢を見ているのかと思いました。今まで私の働きを介してそんなことを言い出した人は一人もいません。どうしてこんなことが起きたのか、聖書に「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とありますように、聖霊なる主が彼をお召しになったからに他なりません。

そもそも私たちが授かっている御言葉には、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」とおっしゃるイエス様の御心が伴っているものであって、それを誰かが語るならば、聞き入れたあらゆる国の人々に、神の御業が現れるのは当然ではないでしょうか。

後にコロナ禍によって厳しい移動制限政策がなされる中、地下教会では、献身した兄弟が亡き宣教師が残したテキストを頼りに御言葉を取り次ぎ、教会を守るべく奮闘したそうです。私は「宣教師ではありませんから。」と自ら覆いをかぶっていました。それだけに「主と同じかたちに姿を変えられ」続けなければいけないことを痛感したのです。

福音宣教に励む教会へ

私たち夫婦が宣教地から帰って後、一人の兄弟が宣教地訪問をしたいと申し出ました。そこで、折々励ましを頂いている田村宣教師にお願いして、彼をインドネシアに派遣させていただきました。

帰国後、彼の報告によると、礼拝の折に救いの証をさせていただいたところ、一人の日本人求道者が、彼の証しを聞こうと出張先から飛行機で戻って来たのだそうです。

救いの証、それはイエス・キリストの福音そのものではありませんか。それを語る兄弟はもちろん宣教師ではありません。しかし、求道者に福音をもたらすことは、もとより主の御心です。福音書には、イエス様が行かれると大勢の群衆が集まってきたので、御言葉を語られたと記してあります。私たちはこの方と同じかたちに姿を変えられている過程にあります。そうであれば、兄弟が福音を語り、求道者が求めてやってきたのも、聖霊なる主の働きによることではないでしょうか。宣教師であれ、牧師であれ、信徒であれ、それぞれ与えられた奉仕の働きは違っても、授かっている御言葉と救い、そして御霊は同じです。与えられた御言葉の恵みは、自分だけに留まるものと思ってはいけません。あらゆる国の人々のためにも、主が恵みをもって私たちに託してくださっているのです。

これを機に私達は、通常の祈祷会とは別に宣教祈祷会を設け、宣教地から届けられる報告や、宣教地訪問によって得た情報を頼りに、国内外の宣教を覚えて定期的に祈ることを開始しました。

展望

昨年の桶川教会のクリスマス集会に、8名の新来会者と6名の再来者がありました。こんなことは今までになかったことで、身近にも求めている人々がいることを示されるクリスマスとなりました。

この2023年も私たちは福音宣教の働きに励み、再び覆いを被ることなく鏡のように主の栄光を映すものとして、聖霊なる主の御業にあずかり続けたいと思います。

主から託されている大きな働き

上越聖書バプテスト教会牧師 加治佐清也

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。ヨハネの福音書 14章12節

十字架にかかる前夜、イエス様は地上に残される弟子たちに最後のお話しをされました。その中でイエス様は、冒頭のみことばを語られました。信じる者には、主のお働きが託されています。私たち教会は、この時代にあって、どのような歩みを期待されているのでしょうか。あらためて、ともにみことばに耳を傾けてまいりましょう。

まことに、まことに

まずイエス様は「まことに、まことに」(アーメン、アーメン)と言われました。これからお話しすることがとても重要なことであることを示しています。その内容とは、主を信じる者、すなわち教会が、主のわざを行う、さらにそれ以上の大きなわざを行うということです。イエス様よりも大きな働きをするというのは、にわかには信じ難いかもしれませんが、「まことに、まことに」本当にそうなのだと、主は私たちに言われます。

教会の目的

このみことばで教えられていることは、教会には目的があるということです。すなわち教会とは、主イエス様のわざを行う集まりなのです。教会は自分自身が何者かをよく理解しておく必要があります。そうでなければ、教会は簡単に福祉団体や政治団体、単なる研究会やサークルなど世の集まりと変わらないものになってしまうからです。教会には独自の目的・使命があります。それは主イエスのわざを行うことです。

主イエスのわざ

では、主イエスのわざとは何でしょうか。それは第一に福音宣教です。聖書が示す救いの道を宣べ伝えることです。「神はキリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(Ⅱコリント5:18)。和解のメッセージを伝えることは、神と和解したすべての人の務めです。教会は世に遣わされた「キリストの使節」(同5:20)として、和解の福音を伝えます。「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4:12)とあるように、主イエスこそ唯一の救いの道であることを世に示していくのです。

第二に、イエス様が人々を愛し、慰め、あわれまれたように、教会もまた、神の愛と慰めとあわれみを、ことばだけでなく、行動を伴って、全生活を通して証しします。イエス様は「群衆を見て深くあわれまれ」ました(マタイ9:36)。彼らが「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた」からでした。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」とも言われました(同11:28)。疲れた人とは、赦しのない、裁き合い、競い合い、比べ合う、そういうパリサイ人らの教えに息苦しくなっていた人々であり、イエス様の思いは、そのような人々が福音によって心の癒やしを得ることでした。主の愛とあわれみは、福音宣教にしばしば伴いました。姦淫の現場をおさえられ、衆目にさらされ、言い逃れができない、誰かどう見ても罪深い女性を、イエス様はお赦しになりました。主は嫌われていた取税人ザアカイの友となりました。罪深い生活を送り、世間から孤立していたサマリアの女に声をかけ、救いに導きました。病苦や生活苦の中にあった盲人や病人をいやし、罪を赦しました。イエス様の人に対する優しさ、あわれみ、なぐさめの記事には事欠きません。このような愛とあわれみのわざを行うようにと、私たちも招かれているのです。

さらに大きなわざ

このように教会は、イエス様がなされた福音宣教とあわれみのわざを行うために世に遣わされていますが、それだけではありません。「さらに大きなわざ」をも行うのです。これはもちろん、私たちが質的な意味において、イエス様より大きな働きをするということではありません。教えや働きにおいて、私たちがイエス様を超えることなどできません。何よりイエス様のように十字架にかかって、よみがえり、救いの道を備えることなど絶対にできませんし、そんな資格もありません。

それでは「さらに大きな」とは、どういう意味なのでしょうか。それはさらに大きな時間と空間において、という意味です。イエス様が限られた時代と場所でなされた福音宣教とあわれみのわざを、教会は受け継いで、その後の長い歴史の中で、世界中の広大な地域で行っていくのです。その意味において、教会はイエス様よりも「さらに大きな」働きをしていきます。イエス様のなされたわざを、あらゆる時代、あらゆる地域において継承し、実行していくことにおいて、教会はイエスが地上におられた間になされた働きよりも大きな働きをしていくのです。

助け主である聖霊

このような偉大な働きを託されていることは、大変光栄なことですが、同時に果たして自分たちにそんなことができるだろうかとも思うでしょう。そういう気持ちに応えるかのように、イエス様はこう付け加えられています。「わたしが父のみもとに行くからです。」イエスが復活後、天に戻られました。だから、クリスチャンは、イエスの行うわざ、福音宣教と愛のわざを行うことができると言われるのです。でも、なぜイエス様がいなくなると、それができるのでしょうか。逆にイエス様がずっといてくださったほうが良いのではないでしょうか。

その答えはヨハネ16章7節にあります。「わたしが去っていくことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」すなわち、イエスが去っていくことによって、助け主である聖霊が来てくださるのです。聖霊はイエス様の代わりに来られる「もう一人の助け主」(ヨハネ14:16)であり、「イエスの御霊」(使徒16:7)です。ですからイエス様が弟子たちとずっとともにいてくださったように、主は御霊において、いつも私たちとともにいてくださいます。聖霊は信じる者に内住される助け主、慰め主、カウンセラーです。この方によってクリスチャンは内側から力づけられ、教えられ、慰められ、主のわざ、すなわち福音宣教とあわれみのわざをなすことができるのです。自分の力ではありません。聖霊なる神の助けによって、私たちの心は動かされ、みことばを伝え、真実な愛をもって慰めのわざを行うことができるのです。

主を信じる者、その集まりである教会は、主が地上で行われたわざを続けて行うように召されています。世の中は様々な出来事が起こり、色々な意見やことばが飛び交いますが、ヨハネ14章1節の御言葉にある通り、私たちは心騒がせることなく、神を信じ、主イエスを信じ、「まことに、まことに」大切な教会の使命と目的を見失わず、内なる聖霊の力と励ましをいただいて、主のわざをさらに大きく行ってまいりましょう。

あなたがたは世の光です

ハレルヤバプテスト教会牧師 谷井 涙賀

彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。使徒の働き11章26節

長引くコロナ禍とロシアによるウクライナ侵攻の長期化が世界中で波紋を広げ、私たちの暮らしはここ数年で急激に変化しました。教会は、共に集うこと、交わることを制限せざるを得ないというかつてない経験をしました。また、今までのように自由に集会を開いたり、教会に誘ったりすることを躊躇してしまう状況が続いています。このような中で教会は、またキリスト者はどのように人々に福音を語り、世界の救い主イエス・キリストを指し示すことができるのでしょうか。

すべては神の時の中で

使徒の働きにおいてルカは、「アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようなった。」と記録しています。ですから、キリスト者、クリスチャンと呼ばれるようになったのは2世紀初頭の頃、今から2000年程前のことです。エルサレムのキリスト教徒たちは、ステパノの殉教に始まる教会への激しい迫害のため、あらゆる地域に散らされて行きました(使徒8:1, 11:19)。私たちの主は、使徒の働き1章8節において「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」と約束されました。そして、みことばの通り、神の時の中で御手が動かされ、ローマ帝国による迫害という苦しみの経験さえ用いられて、福音がエルサレムから地理的にも拡大してゆくことに進展したのです。

私たちは「神の時」がいつなのか定かに知ることはできません。また神のご計画、神が取られる方法は私たちの考えるものとは異なります。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。−主のことば−天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8-9)。

しかし、一つ確かなことは「すべては神の時の中で神が最善に導かれる」ということです。なぜなら「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」とあるからです。神は私たちの日常に介入され、すべてのことを神の時の中で最善に導き、私たちに最も良いものを与えてくださるお方です。「神の時」の中で「今」を生かされていること、また「私たちとともに働いて万事益」としてくださることを信じて歩む必要があるのではないでしょうか。

いつもキリストを証する

離散したユダヤ人たちは、先々でキリストを証ししました。アンティオキアではギリシャ語を話す人たちにも福音を語ったので、多くの者が悔い改めて主に立ち返りました。彼らはいつもキリストを証ししていたので、「キリスト者」、クリスチャンと呼ばれるようになったのです。しかも、キリスト教の中心地エルサレムではなく、遠く離れたアンティオキアで初めて呼ばれるようになりました。キリストの弟子たちが迫害という凄まじい困難と試練に立ち向かう中で、たとい散らされても聖霊に励まされ力を得、忠実にキリストの福音を宣べ伝えた結果ということができるでしょう。

先日、ある方が私の車に付けてあるイクソスのステッカーを見て尋ねて来られました。「あの魚マークには何か意味があるんですか。他県を車で走っていた時も同じマークを見たので。」内心「良くぞ聞いてくださいました!」と思いつつ、「はい、あれは私がクリスチャンであることを表すもので、イエス・キリスト、神の子、救い主という意味があります」とお答えしました。また、他の方は私が牧師であることを知って過去に教会に通っていたこと、親戚がクリスチャンであることや聖書を読んだことがあることなどを話してくださいました。そして、最近教会に導かれ救われる魂も与えられたのです。ハレルヤ!その時私は思いました。私が何か特別なことをしたからではなく、どこかで忠実な「キリスト者」がキリストを証しし、教会が福音を語っていたからだと大変励まされました。

私たちは日本でクリスチャン人口が1%未満と聞く時、何を考え、何を思うのでしょうか。私たちは少数派で影響力が小さいと消極的になるでしょうか。そうではなく、今から2000年前にアンティオキアで初めてクリスチャンと呼ばれるようになり、キリストを証しした信仰の先輩たちを思い出し、クリスチャンであることを誇りとしたいのです。「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」(ローマ1:16)

私たちが毎日遣わされる場所は、主が私たちに与えてくださった宣教地です。そこで、「私はクリスチャンです。」「日曜日に教会に行っています。」と証しすることがどんなに素晴らしいことで大きな祝福をもたらすのか気付いておられますか。当時キリスト者と呼ばれた人たちも社会の中では少数派で、影響力は乏しかったでしょう。しかし、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」の約束のごとく、困難の中で聖霊に励まされて福音宣教の働きに前進したのです。1%の日本のクリスチャンが一人をキリストに導くことが出来たらクリスチャン人口は倍に、周囲の10人に影響を与えることが出来たら将来10%に増えて行くことでしょう。いつでもどこでもキリストを証ししましょう。

世の光として

キリストを証しすると言っても全く気負う必要はありません。「キリスト者」一人ひとりが遣わされたところで「世の光」として歩めばよいのです。主は「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることが出来ません。」と言われました。また続いて「明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。」とも言われました。忘れてはならないことは、この世界は罪の影響を受けて暗闇であり、まことの光を必要としているということです。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」と言われた救い主イエス様は、すべての人の希望の光です。光は暗闇の中で一層輝きを増します。世界的に喪失感と閉塞感が漂い、人々との交流が難しい時代にあって、キリスト者が世の光として輝く時、私たちの内にある救いの希望に目が留まらないはずはありません。月が太陽の光を反射して美しく闇夜を照らすように、キリスト者は世の光であるイエス様に照らされてこの世界で輝くことができるのです。山の上にある町、升の上にあって闇を照らす光とされていることを覚えましょう。

私は朝毎に数年前の全国聖会で教えられた9:38チャレンジの祈りをささげています。それは、マタイ福音書9章38節の「だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送って下さるように祈りなさい。」とのイエス様のご命令です。いつしかこの祈りは「主よ。今日も私をあなたを必要としている方のところに遣わして下さい。」との祈りに変えられました。主はキリスト者一人ひとりが収穫のための働き手となることを願っておられます。私たちのところにも働き手が遣わされ、福音を聞くことができました。主は私たちが祈り求める時、確かに応えてくださるのです。あなたも主に願いませんか。主はあなたを用いてくださるからです。

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