行って、弟子として、教える

インドネシア派遣宣教師 広瀬 憲夫

広瀬先生

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイの福音書 28章19~20節

世界宣教の模範者に従う

「兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」(ピリピ3:17)

戦後まもなくの日本に、突然吹き始めた風に乗って、とでも言うように御霊に導かれて来てくださったラージャス宣教師ご夫妻は、外国人と身近に接したことがなかった田舎者の私にとっては、「世界」そのものでした。

私がイエス・キリストを信じて救われた調布バプテスト・テンプル(現 調布聖書バプテスト教会)で印象的だったのは、救われて間もない私に普通の青年教会員が熱く世界宣教を語ってくれたことです。そのような教会を建て上げるために、宣教スピリットを育てるために長年に渡って調布の教会、いえ、フェローシップと共に歩んで下さったラージャス師の存在そのものが、敵をも隣人とみて愛し、「行って」との御言葉に従って遠路はるばる出かけて実践する世界宣教とは何かを現していると思います。行ってなすべき世界宣教とは何でしょうか。

告知する働き

第一に、お一人の神が一つの世界、一つとなるべき人間を創造して下さって、神が人と共にいて下さることを実現するために贖いがなされたことを告知する働きです。祈りは、共におられる神との会話。それを実感させてくれたのがラージャス先生でした。

相談事に行くと必ず言われる言葉が、「兄弟、祈りましょう」。神こそが私の相談事を持っていくべきお方で、私の祈りを聞いてくださるお方だ、そして答えてくださるお方、ということを実践をもって示して下さったのです。そのようにして導かれている教会で行われている祈り会もまた、二人ずつのペアで祈りの人々を経験する貴重な機会でした。教会に行き始めた頃、「この人たちは本当に神様に語りかけている!」と感じさせられた事も記憶に深く焼き付けられています。「弟子としなさい」とは、神に額ずく人を育てる働きなのだと教えられたのでした。

教える働き

第二に、世界宣教とはイエス・キリストが命じられたすべてのことを、一点一画過たずに守るように教える働きです。その「すべて」を一言で言い表すなら、キリストが弟子たちを愛したように互いに愛し合うことです。この神の真理を頭で理解するだけではなく、それに従って行動を起こすほどに、何をすれば良いのかをはっきりとわかる説教をすることです。

日曜学校でどのように視聴覚教材を使うか神学校で学んだものですが、それを礼拝説教にも実践すべきことを、ラージャス先生の説教で目の当たりにさせられました。ある時、大きなタイヤを講壇の横に置いて、このタイヤを自動車にそのままはめて使えるかどうか会衆に問いかけたのです。パット見には全くわかりません。でも自動車をよく知っている人が近くに行って調べると、バランスを調整する小さなフックがない、とわかったのです。そのままで走り出したら危険だ、小さくても重要な一点が欠けては大事故につながる、という例話でした。

世界宣教は、慣れない外国語で伝えることが基本です。微に入り細に穿つ説明を言葉ですることはできない、と諦めざるを得ない状況で、それでもなんとかしてわかってもらって、主の命令を実行できる教会を育てなければならないのです。宣教師自身が何かをすることによってではなく、教会によって神の栄光が現されるように、できることはなんでもするのが宣教なのだ、と教えられたのでした。

神への信頼

そして、世界宣教の実践は、神への信頼の結果です。鼻から息をするものを信じるのではなく、主を信じることによってなされるのが世界宣教です。弟子を創り育てるにあたって、自分が指導したことで弟子が育つと思うのは明らかに間違いです。永遠の命を与えてくださるのが神ご自身であるのと同様、成長させてくださるのも神です。今自分の目の前にいる一人の信仰者が主の弟子であって、神の御霊に導かれていることを信じて、共に活動することが求められているのです。

イエス・キリストの弟子たちが二人ずつ遣わされてでかけたように、一緒に訪問し、一緒に個人伝道し、一緒に汗を流しながら御言葉を共有することで、弟子は育てられていきます。

救われて2年目に、献身し神学校に行きたいと表明した、信仰において全く未熟な若造を、ラージャス先生は、召されたという告白の言葉に詮索も疑義も出さず、「成長させてくださるのは神である」と、神に信頼して若輩者を神学校に推薦してくださいました。入学時に持っていた参考書は、それまで使っていたハーレーのハンドブックと、入学祝にプレゼントされた、教科書として使われるギリシャ語の文法書だけでした。その後、卒業して2年間の母教会でのインターン期間を経て、諸教会訪問させていただき、翌1990年12月にインドネシアへの渡航となったのでした。

共に学ぶ

現地の人達がそれまでどのような神の導きを受けてきていたのか、神はこの人たちに今何をしようとしておられるのか。現地入りしてからは、現地の人達と共に御言葉を学ぶ日々でした。その基本は、神が命を与え成長させてくださる、という確信であり、私も共に学ぶ一人に過ぎない弟子だ、という思いです。

宣教師として、言葉で神の真理を説明することが難しい地に出ていって、これまでの歩みを振り返り、つくづくと感じたことがあります。それは自分はいかに、実際に手取り足取り、宣教師の働き方を教えていただいていたか、ということです。

母教会から二人の青年が宣教地に2週間滞在していってくれました。「赤ん坊に戻った気分」という感想でした。言葉がわからず、右も左も分からない、ただ手を取ってもらってついていくだけだった、と。
私たちは、自分を取り巻く世界について、すでによく知っている、と思い違いをしてしまいがちです。そうではなく、御霊に導かれながら日々を歩むことを体得するのが、弟子としての歩みでしょう。世界宣教に関わることは、その実践の学びなのです。神が私たちに「行って」と命じられているのは、そこで神ご自身が教えてくださることを学び取れ、という目的があるからだと思わされます。