神の奥義の管理者としての宣教への関わり方

太田聖書バプテスト教会牧師 佐藤 一彦

人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。 コリント人への手紙 第一4章1〜2節

日本古来の伝統芸能や武道の世界では「奥義の伝授」として、その道の特別な技法、秘技などを選ばれた者に伝授する世界があります。そして、継承した者はそれを守り続け、新たに次の者に伝える責任を負うのです。聖書の中にも「奥義」という言葉が何度も使われており、神を信じる私たちこそ神の奥義を受け継ぎ、それを管理することが任せられている者なのです。この神の奥義とは同じ Ⅰコリント1:18に書かれています。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」それは、人の知識や知恵では想像も及ばず、人々の目には不思議に映り、人間の努力や善行などを一切必要としない神の一方的な恵による救いが神の奥義なのです。そしてそれを信じた者が神の奥義の管理者として、この十字架のことばを全世界に広めることが任されているのです。

聖霊なる神の力

しかし、神は無責任にその働きを私たちに丸投げにしたわけではありません。
その働きのために、聖霊なる神の力添えがあると約束してくださったのです。使徒の働き1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受け・・・わたしの証人となります。」ですから、この宣教の働きをするのに、ただ人間的な計画で一生懸命努力をして熱心に推し進める、或いは、人道的な同情心や責任感だけで宣教をするならば、神はお喜びになりません。なぜなら、宣教は神の一大計画なのですから、その主導権は神にあります。ですから神の御言葉が教える方法、聖霊の導きと力に私たちが忠実に従い宣教の働きに参加する時に、神は喜ばれ、それを祝福されるのです。

イエス様の模範

では神の教える宣教の方法とは具体的にどのようなものなのでしょうか?それを模範として示してくださったのはイエス様でした。1ペテロ2:21「このためにこそ、あなたがたは召されたのです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。」本来私たちは神の人知を超えた奥義である救いを理解することのできない者たちです。しかし、イエス様が私たちと同じ人となり、私たちの目線に立ち、人々が見て聞いて理解出来る普段使っている言葉や生活レベルに寄り添って福音を教えてくださったのです。ですから当時の多くの人が教えを理解し信じたのです。これは、円滑な人間関係コミュニケーションの取り方の基本的な方法と同じで、現代の私たちにとっても同様です。私たちが福音を伝えたい相手の目の高さ、その時代のコミュニケーション法や生活様式に沿ったアプローチをしなければ伝わりづらいでしょう。それは、普段私たちが政府の政策や対応が庶民感覚とかけ離れていて現実的でないと感じ、いつも後手後手になっていると批判しますが、それでは私たちの福音宣教の方法はどうでしょうか?もちろん宣べ伝える内容、イエス・キリストの十字架と復活そのものは決して変わらない人を救う真理ですが、それを人々に届ける伝達法が人々の持っているチャンネルと合っていなければ、届きづらい原因となるのではないでしょうか?

パウロの宣教

また、パウロも宣教する人々の当時の文化を理解しようと絶えず務めた人物でした。
1コリント9:19-23「・・・より多くの人を獲得するために・・・ユダヤ人のようになりました。・・・律法の下にある者のようになりました。・・・律法を持たない者のようになりました。・・・弱い者になりました。・・・。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。私は福音のためにあらゆることをしています。」このようにイエス様もパウロも、非本質的なことにこだわるのではなく、いかに人々に福音を伝えることができるのかにこだわり、相手を理解しようとされたのです。ならば、同じ働きを委ねられている私たちも同じように伝える人々のことを理解しなければなりません。また、それは宣教の働きに参加する教会に対しても同じです。どうしたら若い世代が積極的にこの働きに携わるよう励ましたら良いのか、それは彼らの置かれている生活環境の理解なしには前進しないでしょう。

忠実な管理者として

次に神の奥義の管理者として忠実さが要求されていますが、この忠実は何に対してなのでしょうか?
福音書の中にはタラントが与えられたしもべが忠実な管理者として、それを用いて増やし、主人の意図を正しく理解し実行したので主人に称賛されたとあります。もし、私たちの宣教が自分の考えや方法に固執し、「私と教会は昔からこうやってきたから、それを忠実にやり続ければ必ず祝福される」と自分を基準にスタイルを変えようとしないのであれば、それは主に対しての忠実さではありません。
2021年コロナ禍にある世界に私たちはどのように対応し、効果的に人々に福音を届けられるのか?
それは、過去の経験では追いつくことの出来ない、新しい取り組みや方法を模索し、人々にアプローチする必要があります。「何とかして、何人かでも救うためです。私は福音のためにあらゆることをしています。」このことへの忠実さが求められているのではないでしょうか?私たちは神の奥義の管理者として、心に掛けることは忠実に宣教の主である神の思いに対する理解を持つことです。英語で「理解する」はUnderstandです。これはUnderとStandの二語が合成されて出来た言葉です。私たちは相手を理解するために上に立つのではなく、相手より下(Under)に立つ(Stand)姿勢が必要なのです。これは、まさにイエス様がとられた態度でした。(ピリピ2:6-8)

あらゆる可能性を通して

私たちは教会を通して主の証人として私たちの地域の人々、関わる同胞に福音を伝えています。そして、この国から世界宣教実現のために、私たちの代表として遣わされた宣教師のために祈り、支援に関わっています。私たちはこの国に生まれ育ち、同じ日本人のことを理解していると思っていても、人々の心に届けるのが難しいとを知っています。であるならば、海外の異国の文化の中にいる宣教師たちは、その国の人々を理解するために、一から始める文化理解、人間関係、そして同時に行われる宣教活動にどれ程の祈りと時間が必要であるかを私たちはもっと理解しなければなりません。その上で、宣教師たちの宣教報告以外に、どれほど多くのお働きとご苦労があるかを知り尽くすことは出来ませんが、主が遣わされた宣教の奥義の管理者として先生たちを、これからも主にあって信頼し続け、祈りと最善の支援策を更に模索し続けながら、教会に仕えながら世界宣教の働きに参加する者も、或いは教会から遣わされて宣教に出て行く者も共に、神の奥義の管理者として聖霊様が導かれるあらゆる可能性を通して世界宣教に忠実であり続けましょう。