真のフルタイム献身を目指して

岡崎聖書バプテスト教会牧師 疋田 健次

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」ローマ12:1

青年キャンプでの出来事

高校生のころからだったでしょうか。毎年5月に行われる青年フェロシップキャンプに参加するようになりました。キャンプに行くと、同じ世代のクリスチャンに会うことができます。それは私にとって、とても楽しいひと時でした。しかし、そんな楽しいキャンプのなかで、唯一、苦手な時間がありました。メッセージの後の招きの時間です。毎年毎年、講師の先生方は、決まってこのように言われます。「主のためにフルタイム献身の決心をする人はいませんか?」。

「フルタイム献身…」。この言葉は当時の私にとって、とても恐ろしい言葉でした。キャンプに参加する度に、この言葉が私の背中に重くのしかかってくるようでした。なぜなら私は、「牧師には、なりたくない!」と考えていたからです。そのような私が今、牧師として主と教会にお仕えさせていただいていることは、本当に不思議なことです。主のお取り扱いとしか言うことができません。

フルタイム献身への誤解

「フルタイム献身」という言葉は、牧師や宣教師などといった直接的に宣教の働きに携わる仕事に就くこと。あるいは、その道に進むこと…といった意味合いで用いられているかと思います。「フルタイム」という言葉を辞書で引くと、「全時間」「常時」「決まった勤務時間の全時間帯を働くこと」「常勤」と出てきます。ですから、職業(プロフェッショナル)として宣教の働きに携わること=フルタイム献身と呼ぶのは、正しいと言えるでしょう。

しかし、この言葉は、ある面において、誤解を生み出すことがあるのではないかと考えています。いや、私自身がまさに、長い間、誤解していた言葉なのです。
ここにありました。「牧師や宣教師になることがフルタイム献身ならば、それ以外の道に進むことはパートタイム献身なのだろう」。私はそのように考えていたのです。

「日曜日は教会に行って礼拝しているし、献金もしている。トラクト配布をすることもある。でも、他の日まで奉仕をすることはできない。私はフルタイム献身者ではないのだから」。さらに私は、次のように考えるようになっていきました。「伝道は牧師や宣教師がするもの。私の役割はサポートであって、直接的な働きは関係ない。私はフルタイム献身者ではないのだから」。私はフルタイム献身者ではないことを言い訳にして、自分自身を宣教の働きから遠ざけようとしていたのだと思います。しかしある時、この考えが間違っていることに気づかされたのです。

献身は誰に命じられているのか

そもそも聖書は、献身を「フルタイム」「パートタイム」というふうに分けているのでしょうか。あるいは、特別な人たちにだけ献身するよう命じているのでしょうか。ローマ12章1節には、このように書かれています。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」

これはまさに献身について教えている御言葉です。問題は、この御言葉が誰に向けて語られているかです。パウロは「兄弟たち!」と呼びかけています。牧師や監督、長老たちに呼びかけているのではありません。つまりパウロは、すべてのクリスチャンに対して、献身することを勧めているのです。

私自身も便宜上、フルタイム献身という言葉を使うことがあります。また、牧師や宣教師の道に進む人には、ある面において特別な献身が求められているということも事実でしょう。しかし、クリスチャンであるならば、たとえどのような道を歩むにしても、フルタイムの献身者であるべきだと聖書は教えているのではないでしょうか。

Ⅰコリント10章31節には、次のように書かれています。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」

真のフルタイム献身とは、その人が自分自身の人生のすべてをとおして、それこそ「食べること」や「飲むこと」などといった日常生活のほんの小さなことをとおしてさえ、主なる神様のご栄光をあらわしていくことなのだと思います。

全てのクリスチャンは伝道者として立てられている

昨年、発行された宣教クォータリーのなかで、信徒による宣教についてのメッセージが掲載されていました。使徒行伝のなかには、パウロやペテロといった使徒たちの宣教の働きが記されているだけでなく、普通の信徒たちによって町々に福音が宣べ伝えられていったことも記されている。そうした信徒たちの働きが各地の教会の基礎となっていった…と書かれていました。

これは、初代教会の時代だけの特別な出来事だったのでしょうか。現代の教会には当てはまらないのでしょうか。そうではありません。昔も今も、すべてのクリスチャンは、よみがえられたキリストの証し人であり、それぞれの場所において立てられた伝道者なのです。かつての私のような誤解があってはなりません。「伝道は牧師や宣教師だけの特別な働きで、自分とは関係ない」という誤解です。

私たちの人生は一人ひとり異なります。ある人は教師として、ある人は看護士として、ある人は大工として、ある人は営業マンとして、ある人は芸術家として…。他にもさまざまな職業や人生があるでしょう。これからどんな仕事に就こうかと考えている学生たちもいます。そのなかには将来、牧師や宣教師の道に進む人がいるのかもしれません(若い青年の皆さんはぜひ、このことについて真剣に祈ってください)。しかし、たとえどの道に進むにしても、私たちは皆、献身者であり、伝道者であることを覚えたいと思います。

教会の一人ひとりが、それぞれ立てられているところで、真のフルタイム献身者として歩んでいくとき、福音宣教の力はより豊かなものとなっていくのではないでしょうか。宣教とは、トラクトを配ること、訪問伝道や個人伝道をすること、伝道集会を行うことだけではありません。食べること、飲むことさえも、実は宣教につながっているのだと思います。究極的には、私たちの人生そのものが福音宣教のためにあると言えるでしょう。

なぜなら、私たちが救いに召されたのは、神様のご栄光をあらわすために生きる者となるためだからです。このことを覚え、教会全体が一丸となって、福音宣教の働きに与っていくことができれば幸いです。