宣教の力は「復活信仰」

太田聖書バプテスト教会牧師 佐藤 一彦

「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるからです。」1コリント15章12〜19節

キリスト教のイメージ 十字架

皆さん今年のイースター復活祭はいかがだったでしょうか?きっと祝福された事と思います。
最近は日本でも随分と「イースター」という言葉が浸透しつつあります(教会発信でないのが残念ですが)
しかし、どれだけの人が、それがイエス様の復活と繋がって理解されているでしょうか?

一般にキリスト教のイメージと言えば「十字架」を多くの人々が思い起こすことでしょう。確かに教会には必ずイエス様の十字架がシンボルとして飾られています。
正当な学者たちや多くの人々はイエス様が約2000年前この地球に存在していた歴史的人物であり、偉大な教師であり、奇蹟を行い、冒涜罪のために十字架で死んだことを否定していません。
そして、更に十字架の死の意味も、私たちの罪の身代わりに死んでくださり、それを信じる時に罪の重荷から解放される。この辺りまでなら、強く全否定する人はそう多くはありません。誰かが自分の命を投げ出して愛する者のために死ぬ・・・なんという美談でしょう。そのような物語や出来事は今まで歴史の中でたくさんあったことでしょう。この事実を多くの人々は信仰がなくても理解できますし、感動を与えるでしょう。しかし、それとイエス様の死とを同等に置くことは出来ません。

ある日本人宗教観アンケートで、様々な宗教の中で実はキリスト教に対する好意層が増えているという結果が出ています。結婚式はキリスト教式の教会が60%、信仰を持つとすればキリスト教が実は一番多く約30%、そしてキリスト教は好しい宗教だと答えた人が23%。このようにクリスチャンは「まじめで、信頼でき、暖かい。」と良いイメーシがあるのに、どうして未だ日本はクリスチャン人口1%の壁が破れないのでしょうか?きっとキリスト教は好ましいと思っている人々の中には、キリスト教をある種のブランドイメージで見ているのだと思います。十字架(デザインとしての形)、教会堂(素敵な外観)、愛の宗教(寛容さ)、イエス様(あるいはマリヤ様)の人物像(アイドル的存在)などが他の宗教に比べて受け入れやすいのではないでしょうか?きっとイエス様の十字架の死でさえ、最高の人間愛的な視点で見るならば好ましいのでしょう。

復活信仰がなければ信仰をもてない

しかし、私たちは知っています。それだけでは決して信仰を持つには至らないのです。イエス様の十字架に感動し、ある程度理解することは信仰が無くてもできるかもしれませんが、問題はイエス様が死んで3日目に甦ったという復活の事実を認めることだけは、信仰がなければどうしても受け入れることはできません。
なぜなら復活という真理は、人々が好む世の中の道徳、ヒューマニズムの許容範囲を遙かに超えるからです。このイエス様の復活こそ、信仰を必要とする核の部分であり、揺るぎない確信の土台となるのです。私たちの信仰は復活信仰なのです。

「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」
1コリント15章14節

パウロは15章で「イエス様の復活は事実であり、イエス様の十字架を信じた者は、すべて罪赦され、信仰によって義とされ、神の子とされます(十字架の力)。しかし、それだけではなく永遠の命が与えられ、最後にはイエス様と同じように復活の体に甦らされ、主イエス様と共に全ての祝福を得て、神の御国で永遠に生きるには復活の信仰が必要である。」と説明し、単なる地上での幸せ論ではなく、その遙か向こう側の天的な領域にまで達する祝福があることを、空想上の虚しい希望ではなく、イエス様が実際に死からの復活をもって人類に示されたのです。

しかし、パウロはこの大切な福音の真理を未信者でなく、教会に対して確認しているのです。信者でありながら、復活はあるかもしれないし、もしかしたらないかもしれないと曖昧な理解だけで終わってしまっているのであれば、それはとても惨めな人たちですと言うのです(19節)。
皆さんはどうお考えでしょうか。「復活はあれば儲けもの、無ければないでも、素敵な宗教だからいいや」と言う程度で信仰されているのでしょうか?
私はかつてウガンダの宣教師でした。現地の人々の生活は大変貧しく、物質的な豊かさを経験できる希望はほとんどありません。毎日が自給自足、或いは「無い」という生活を過ごしています。宣教師はその人々に十字架の赦しと復活という希望を伝え、多くの人々が信仰を持ちイエス様を信じ救われ、教会生活が始まります。だからといって彼らの生活水準が上がることも無く、相変わらず貧しいままです。彼らの生活を何とか少しでも助けたいと宣教師も必死になりますが、出来ることには限界があるとすぐに気づきますし、現地の彼らもそれを知っています。しかし、それでも彼らは感謝をもって教会に来て主を賛美します。なぜなら彼らは地上での生活向上に期待しているのではなく、天上の豊かさを楽しみにしているからです。彼らは復活があれば儲けもの、無くてもいいやという信仰ではなく、地上での生活(貧しい生活)が終わったら、やがて復活して天国へ行き、主にある豊かさを頂くことが必ず出来るのだという希望をもって信仰生活を過ごしているのです。

復活への期待

しかし、私たち日本では、ほぼ全ての人がある程度の生活レベルの保証があります。それに満足していないかもしれませんが、社会やシステムがそれを支援してくれますし、生活をより快適に便利にするハード面でも様々な工夫が充実しています。そのような状況の中で、復活後の天の御国にしか私の本当の幸せ、解決は無いのだという期待感をどれだけの人が抱いているでしょうか?
「イエス様に復活があった事は信じているが、私にも同じ事が起こるのかは分からないけれど、毎日神様を信じて平穏に過ごせているし、教会での交わりも素晴らしいし、いいじゃないですか!」という人の宣教には、地上での幸せな生き方を勧める宣教であって、人々の魂を揺り動かすほどの霊的宣教ではなく「私たちの宣教は実質のないものになり」(14節)得てしまいます。

私たちがイエス様の復活を信じるのは、それが「キリスト教の教えのひとつだから」だとか「もし本当なら、それは素晴らしい」と復活を客観的に見る程度のものでもなく、私たちの人生そのものに影響を与え、基盤となり、日々の生活に力を与えるものなのです。復活の事実を、遠い世界のこととしてではなく、私たちにとって意味のある、力のあるものとして生かすことが「復活の信仰」なのです。この信仰の証しを先輩のクリスチャンたちは世界に宣教してきました。それは過去の事実と現在の生活、そして将来の希望を繋ぎ合わせて人々を変える力があります。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(20節)あなたは「復活」をあなた自身の希望としてとらえ、信仰しておられますか?それを人々に宣教していますか?