地域教会のリーダーシップ

プロモート担当 鹿毛 愛喜

●生き方としてのリーダーシップ

海外宣教という働きにおいて海外宣教委員会がリーダーシップをもって進めていく役割と責任があることは確かである。しかし、同時に海外宣教委員会の役割と責任は、フェローシップ諸教会における海外宣教の働きに全面的に仕え、支援することにあると理解している。そのような意味では、海外宣教のリーダーシップは地域教会にあると言えるのである。聖書中において、ピリピ教会の宣教の関わりが思い起こされる。「ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。」(ピリピ4:15〜16)パウロの宣教を支えるために関わろうとしたピリピ教会は決して大きな群れではなかった。余裕があったから支援しようとしたのではなかった。彼らはパウロの宣教の必要に仕えるという点で「ほかにはありませんでした」と言われる程のリーダーシップを発揮した。リーダーシップに関する本の中で、「リーダーシップとは生き方である」という言葉を目にしたことがある。海外宣教におけるリーダーシップとは、全体を牽引していくことができる特定の教会がもつ特殊な賜物ではなく、宣教に関わる一つ、一つの地域教会の生き方そのものと考えることができるのではないだろうか。フェローシップ諸教会に目を向けるならば、宣教師を海外に派遣しようとしている教会がある。また、宣教師候補者を訓練している教会があり、海外からの宣教師を受け入れ育てている教会が幾つかあることは幸いなことである。これらの諸教会は、まさに実際的に海外宣教のリーダーシップを執っているのである。

●批判ではなく一致を生むリーダーシップ

今後の海外宣教の見通しは決して明るくはない。世界規模のパンデミックや世界情勢を考えれば、海外宣教における「今まで通り」が通用しない状況に直面している。そうであれば、諸教会の海外宣教における関わりにおいても、意識においても「今まで通り」を変えていかなければならないのではないか。もちろん、海外宣教委員会のあり方も例外ではない。そのために、今後の海外宣教の働きはこれまで以上に諸教会が一丸となって祈り合い、語り合い、重荷を分ち合い、取り組まなければならないように思われる。ある意味では、新たな海外宣教に対する取り組み、次世代の宣教師の育成を考えていく上では、これまでの取り組みに対する批判的な視点をもった再評価も必要となる。感情的な批判は健全なかたちで一致を生み出すリーダーシップにはならない。今、求められているのは地域教会において、どんなに情熱があったとしても分断を生み出すリーダーシップではなく、一致を生み出すリーダーシップでなければならないと思わされるのである。フェローシップ諸教会において、地域教会は宣教のためにキリストから派遣された群れであるとの確信は一致しているのではないだろうか。そして、フェローシップはこの宣教を目的とした協力関係という交わりを保ってきたのではないだろうか。特に、海外宣教という働きにおいて、変化の著しい世界の中で求められているのは、変化を受け入れ適用できる柔軟なリーダーシップではないだろうか。そして、折れない強いリーダーシップではなく、何度折れても回復を期待するリーダーシップではないだろうか。改めて確認したい。地域教会の海外宣教の関わりは「今まで通り」の継続で良いのだろうか。

●育成と派遣のリーダーシップ

では、実際にどのようなリーダーシップを地域教会が執っていくことができるのだろうか。地域教会において、海外宣教のために(実際には働き場を問わず)、宣教者の育成と派遣に注力するということではないだろうか。海外宣教のための祈りが地域教会の中で現在の宣教に対する献金というかたちで表され、年に数回の宣教集会というかたちで教会内における啓蒙がなされている。さらに一歩、海外宣教のための祈りが、地域教会において実際的に宣教者の育成と派遣ということに対する取り組みが求められている。もちろん、フェローシップにおいては、神学校が伝道者の養成機関である。それゆえ、国内、海外、無牧教会、後継を必要としている教会に伝道者を遣わすためにも、神学校に宣教者を育成し派遣できる教会形成を導く伝道者養成のリーダーシップを執っていただくことについて、これまで以上に期待されることは当然のことだろう。

宣教のために働き人を召すのは主である。しかし、常に一つの問いが心に残る。献身者不足は主がそのようにされているのだろうか、との問いである。もし、主が献身者を差し止めておられるのであれば、私たちはこの現状を受け止めなければならないだろうし、私たちが何かを成し得ることはない。しかし、収穫の主は、働き人を収穫の畑に送ろうとされているのではないだろうか。次世代の献身者が少ないと嘆かれる昨今、働き人を召し出す主の召しに思いを巡らす者である。私たちの教会に集う次世代が、主の召しを受け止め、応答できる備えがされているだろうか。教会が祈りと犠牲をもって次世代を育成し送り出す備えがされているだろうか。「地域教会のリーダーシップが今問われている」と、私自身が主から問われているのである。