余ある霊的祝福

滝山聖書バプテスト教会牧師 テイ・エイケン

テイ・エイケン先生

「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」 ピリピ4章17節

第二次伝道旅行の時、神様からのはっきりとしたビジョンに従って、使徒パウロ達は海を渡ってマケドニアへ向かいます。それがヨーロッパ大陸への福音宣教の始まりでした。初めて訪れた地で、経済的にも乏しい中、どのようにして、パウロ達が福音伝道を数十年間続けられたのでしょうか?聖書によれば、それは、初代教会のクリスチャンたちの沢山の祈りと共に、惜しまない物質的なサポートがあったからだとのことでした。その中でピリピ教会は、常にその重荷を担って、パウロ達を支援していた教会でした。「テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。」(ピリピ4:16)。パウロの感謝の気持ちが込められた言葉でした。パウロたちはそれ以後、次々と福音伝道を進められ、ヨーロッパ全土へと広げていきます。「私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。」(ローマ15:19)。

言うまでもなく、昔も、今も、福音宣教を拡大するために、物質的なサポートがとても欠かせない奉仕です。昔よりも、むしろ現代のほうがもっと必要なのかも知れません。なぜなら、近年世界各地で物価が高騰している中、宣教師が現地での働きのコストがさらに高くなっているからです。そのため、宣教師たちは、時にはやむを得ず車を手放したり、子供の教育を犠牲したり、集会の場所をもっと狭いところに引っ越ししたりすることもあるでしょう。しかし、その一方で、サポートする側の日本にある諸教会は、教会自身の厳しい財政の中、海外宣教のために精一杯犠牲を払っている状況です。おそらく、このような状況の中で、教会から海外に宣教師を送り出すことはまず現実的に難しいことでしょう。また仮に、教会の中に海外宣教に重荷がある献身者がいたとしても、経済的なことを配慮して、奉仕の場を日本国内を優先するかもしれません。

このように、世界宣教を拡大する働きは厳しい現状の中にあります。しかし、主イエスの宣教大命令、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」ということは、常に私たちに、力と希望を与えるべきです。ですから、より多くの方々が世界宣教の働きに関わり、その恵みに与るために、献金など物質的な奉仕の霊的な意味を知ることがとても大事です。

そもそも、なぜ、祈りなど霊的な奉仕だけでは十分ではないのでしょうか?「神様は全知全能なるお方ですから、私たちが物のやり取りをしなくても、心を込めて祈れば、神様が奇跡でも起こして、何かをしてくれるのでは。」と、あるいは、「霊的なことは神の力で、物質的な物は人間的な力だ」と思う方もおられるかもしれません。

確かに、御心であれば、神様ご自身の御業で、烏を用いて人を養うことも、五つのパンと二匹の魚を用いて5000人への給食をなさることもできます。しかし、聖書は、人類の歴史の中での神のお働きは、その方法だけではないことが明らかです。もし、霊的なことだけが神様の力の現れであれば、使徒パウロが福音宣教の時に、諸教会の祈りだけで、すべてが満たされたはずです。しかし、現実にはパウロも、「飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(第二コリント11:27)とあります。これは何を意味しているのでしょうか?主の働きは、物質的な奉仕は、霊的な奉仕と同じように重要だということです。神様は、霊的なことも、物質的なことを用いて、御力を現わされるのです。「地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。海は主のもの。陸地も主の御手が造られた。」(詩篇95:4-5)とあるように、天にある霊的な物だけでなく、地上にある物質的な物も神様に造られて神様のものですから、神様がこれらの物を用いられて、ご計画を進められることは当然なことです。ですから、もし、私たちが神様の御心にかなった信仰生活をするのであれば、祈りなど霊的な奉仕と同じように、物質的な奉仕も大事にしなければなりません。

主の働きのために、物質的な支出によって、私たちの霊的な祝福が償わせられて手に余るとのことです。つまり、物質の支出は、私たちの霊的な黒字につながることです。これが神の経済学です。

実は、ピリピ教会の惜しまない贈り物は、そのままピリピ教会にとって、霊的な祝福になるのだと、パウロは言っています。「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」(ピリピ4:17)。この箇所から、神の御手にある霊的な帳簿が見えるのです。神の帳簿の計上方法は私たち普段のやり方とはかなり違います。私たちは家計簿をつけることがあると思いますが、家計簿を通して、家計の状況を分かりやすく把握することができます。支出が多いと余裕がなくなり、支出をうまく抑えれば貯金が増えます。しかし、神の御手にある霊的な帳簿の計上方法はそれと真逆です。主の働きのために、物質的な支出によって、私たちの霊的な祝福が償わせられて手に余るとのことです。つまり、物質の支出は、私たちの霊的な黒字につながることです。これが神の経済学です。つまり、尊い物質的な犠牲は、豊かな霊的祝福をもたらすことになるとのことです。それが私たちの実として霊的な帳簿に計上されるのです。ですから、パウロの喜びは、自分の必要が満たされたことにあったのではなく、ピリピ教会が神様から余りある霊的な祝福を受けることにあったことがわかります。

おそらく、私たちは自分の霊的帳簿に結ぶ実がたくさん計上されることを願っていると思います。そうであれば、私たちは自ら進んで、自分の力に応じて、世界宣教に関わるべきではないでしょうか。思えば、私たち一人一人が世界宣教の恩恵を受けたのです。世界宣教によって霊的なものを頂いたのですから、物質的な奉仕をもって、その収支を償わせる義務があります。本来は、私たちの持ち物はすべて、神様から与えられたものですから、神様の働きのために使うべきです。それは当然のことであるにもかかわらず、神様は私たちに豊かに祝福してくださるのです。これこそ恵みではないでしょうか。

パウロは、ピリピ教会の贈り物を神様への礼拝行為だとして、このように言っています。「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」(ピリピ4:18)。このように、私たちの尊い祈りが神様の御前に届くのと同じように、私たちの世界宣教のための尊いささげものも、香ばしい香りの供え物として、天にある神様の御座にまで届いて、神様が喜んで受け入れられるのです。