主から託されている大きな働き

上越聖書バプテスト教会牧師 加治佐清也

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。ヨハネの福音書 14章12節

十字架にかかる前夜、イエス様は地上に残される弟子たちに最後のお話しをされました。その中でイエス様は、冒頭のみことばを語られました。信じる者には、主のお働きが託されています。私たち教会は、この時代にあって、どのような歩みを期待されているのでしょうか。あらためて、ともにみことばに耳を傾けてまいりましょう。

まことに、まことに

まずイエス様は「まことに、まことに」(アーメン、アーメン)と言われました。これからお話しすることがとても重要なことであることを示しています。その内容とは、主を信じる者、すなわち教会が、主のわざを行う、さらにそれ以上の大きなわざを行うということです。イエス様よりも大きな働きをするというのは、にわかには信じ難いかもしれませんが、「まことに、まことに」本当にそうなのだと、主は私たちに言われます。

教会の目的

このみことばで教えられていることは、教会には目的があるということです。すなわち教会とは、主イエス様のわざを行う集まりなのです。教会は自分自身が何者かをよく理解しておく必要があります。そうでなければ、教会は簡単に福祉団体や政治団体、単なる研究会やサークルなど世の集まりと変わらないものになってしまうからです。教会には独自の目的・使命があります。それは主イエスのわざを行うことです。

主イエスのわざ

では、主イエスのわざとは何でしょうか。それは第一に福音宣教です。聖書が示す救いの道を宣べ伝えることです。「神はキリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(Ⅱコリント5:18)。和解のメッセージを伝えることは、神と和解したすべての人の務めです。教会は世に遣わされた「キリストの使節」(同5:20)として、和解の福音を伝えます。「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4:12)とあるように、主イエスこそ唯一の救いの道であることを世に示していくのです。

第二に、イエス様が人々を愛し、慰め、あわれまれたように、教会もまた、神の愛と慰めとあわれみを、ことばだけでなく、行動を伴って、全生活を通して証しします。イエス様は「群衆を見て深くあわれまれ」ました(マタイ9:36)。彼らが「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた」からでした。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」とも言われました(同11:28)。疲れた人とは、赦しのない、裁き合い、競い合い、比べ合う、そういうパリサイ人らの教えに息苦しくなっていた人々であり、イエス様の思いは、そのような人々が福音によって心の癒やしを得ることでした。主の愛とあわれみは、福音宣教にしばしば伴いました。姦淫の現場をおさえられ、衆目にさらされ、言い逃れができない、誰かどう見ても罪深い女性を、イエス様はお赦しになりました。主は嫌われていた取税人ザアカイの友となりました。罪深い生活を送り、世間から孤立していたサマリアの女に声をかけ、救いに導きました。病苦や生活苦の中にあった盲人や病人をいやし、罪を赦しました。イエス様の人に対する優しさ、あわれみ、なぐさめの記事には事欠きません。このような愛とあわれみのわざを行うようにと、私たちも招かれているのです。

さらに大きなわざ

このように教会は、イエス様がなされた福音宣教とあわれみのわざを行うために世に遣わされていますが、それだけではありません。「さらに大きなわざ」をも行うのです。これはもちろん、私たちが質的な意味において、イエス様より大きな働きをするということではありません。教えや働きにおいて、私たちがイエス様を超えることなどできません。何よりイエス様のように十字架にかかって、よみがえり、救いの道を備えることなど絶対にできませんし、そんな資格もありません。

それでは「さらに大きな」とは、どういう意味なのでしょうか。それはさらに大きな時間と空間において、という意味です。イエス様が限られた時代と場所でなされた福音宣教とあわれみのわざを、教会は受け継いで、その後の長い歴史の中で、世界中の広大な地域で行っていくのです。その意味において、教会はイエス様よりも「さらに大きな」働きをしていきます。イエス様のなされたわざを、あらゆる時代、あらゆる地域において継承し、実行していくことにおいて、教会はイエスが地上におられた間になされた働きよりも大きな働きをしていくのです。

助け主である聖霊

このような偉大な働きを託されていることは、大変光栄なことですが、同時に果たして自分たちにそんなことができるだろうかとも思うでしょう。そういう気持ちに応えるかのように、イエス様はこう付け加えられています。「わたしが父のみもとに行くからです。」イエスが復活後、天に戻られました。だから、クリスチャンは、イエスの行うわざ、福音宣教と愛のわざを行うことができると言われるのです。でも、なぜイエス様がいなくなると、それができるのでしょうか。逆にイエス様がずっといてくださったほうが良いのではないでしょうか。

その答えはヨハネ16章7節にあります。「わたしが去っていくことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」すなわち、イエスが去っていくことによって、助け主である聖霊が来てくださるのです。聖霊はイエス様の代わりに来られる「もう一人の助け主」(ヨハネ14:16)であり、「イエスの御霊」(使徒16:7)です。ですからイエス様が弟子たちとずっとともにいてくださったように、主は御霊において、いつも私たちとともにいてくださいます。聖霊は信じる者に内住される助け主、慰め主、カウンセラーです。この方によってクリスチャンは内側から力づけられ、教えられ、慰められ、主のわざ、すなわち福音宣教とあわれみのわざをなすことができるのです。自分の力ではありません。聖霊なる神の助けによって、私たちの心は動かされ、みことばを伝え、真実な愛をもって慰めのわざを行うことができるのです。

主を信じる者、その集まりである教会は、主が地上で行われたわざを続けて行うように召されています。世の中は様々な出来事が起こり、色々な意見やことばが飛び交いますが、ヨハネ14章1節の御言葉にある通り、私たちは心騒がせることなく、神を信じ、主イエスを信じ、「まことに、まことに」大切な教会の使命と目的を見失わず、内なる聖霊の力と励ましをいただいて、主のわざをさらに大きく行ってまいりましょう。