ペルシアの離散民

名古屋聖書バプテスト教会 上田 平安

「ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように。」ネヘミヤ記1:11

ペルシア帝国に離散していたユダヤ人

今から2500年前、ペルシア帝国がアジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸をまたにかけ、「史上初の世界帝国(阿部拓児氏の表現)」として君臨していました(エステル記1:1)。当時、かつてのイスラエルを含む地域は、アラム語で「アバル・ナハラ(エズラ記 5:3原典)」と呼ばれる行政区に編入されて国家的な独立を失い、ユダヤ人たちは各地に離散して生活していました(エステル記9:16)。というのも、紀元前587/586年に、バビロン王ネブカドネツァル軍の侵略によってエルサレムは既に陥落しており(第2列王記25:1-12)、イスラエルの地における王国の制度は、終焉(しゅうえん)を迎えていたからです。残虐な侵略者たちに降伏したユダヤ人たちや、その他の戦火をまぬがれた者たちも異国の地に捕え移され(第2列王記25:11-12)、ユダヤ人たちは祖国を失って離散民となってしまっていたのです。

ペルシア帝国における離散民の哀願

エルサレムを廃墟とし、多くのユダヤ人を捕らえ移したバビロニア帝国は崩壊し、メディアと合体したペルシア帝国が世界の覇権(はけん)を握りました(ダニエル書8:1-20)。ペルシアが世界を治めるその時代には、ユダヤの離散民が帝国の心臓部で活躍していました。若い時分にバビロン捕囚を経験し、バビロニア帝国からペルシア帝国へという時代の転換期を経験したダニエル(ダニエル書1:1-12:13)、ペルシア王アルタクセルクセスに献酌官という責任ある立場で仕えたハカルヤの子ネヘミヤ(ネヘミヤ記1:1、11)、クセルクセス王の寵愛(ちょうあい)を受けたエステル王妃(エステル記1:1-9:32)、クセルクセス王の次の位に就き偉大なる者と称えられたモルデカイ(エステル記10:1-3)をその例として挙げることができます。

ダニエル、ネヘミヤ、エステル、モルデカイに共通していたのは、同胞を思って哀(あいがん)したということでした。ユダヤ人たちの惨状を嘆き、その嘆きが哀願へとつながりました。廃墟となったエルサレムの方角に窓を開いて祈ることを良き習慣としていたダニエルは、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が70年であることを悟りました(ダニエル書6:10、9:2)。そして、彼は「追い散らされた先のあらゆる国々にいる、すべてのイスラエル(ダニエル書9:7)」のことに思いをはせ、深い悔い改めをもって、廃墟となったエルサレム神殿のすみやかな復興を神に哀願しました(ダニエル書9:1-19)。ネヘミヤもまた捕囚の生存者たちの困難と恥辱(ちじょく)を嘆き、城壁や城門が焼き払われたエルサレムを思って主に嘆きの祈りをささげ、アルタクセルクセス王に都の再建許可を願ったのです(ネヘミヤ記1:1-2:5)。さらに、ペルシア帝国全体に離散しているユダヤ人たちがジェノサイド(=集団虐殺)による民族消滅の危機に瀕(ひん)しているとき、モルデカイは帝都スサで粗布(あらぬの)をまとって嘆き、世界中のユダヤ人たちもまた悲劇の通達を知って、断食をしながら悲しみの声をあげました(エステル記4:1-3)。また、ペルシア帝国のすべての州において、ユダヤ人が老若男女すべて根絶やしにされる悪夢の日が迫る中、エステルは命を賭(と)して世界帝国の王クセルクセスにユダヤ人の助命を嘆願して聞き入れられたのです(エステル記7章)。嘆く力、哀願する力を主によって与えられた離散するユダヤ人の声が世界に鳴り響き、ついに天の神が動かれたのです。ペルシア帝国の時代、多くのユダヤ人たちが祖国に帰還し、エルサレムの神殿は再建され、民族的消滅をまぬがれ、エルサレムの城壁も建て直されるという奇蹟が起こりました。

「離散民化」する世界

ところで、ある宣教学者が21世紀の人口学的特徴は世界規模の「離散民化」にあり、それに応じて宣教のあり方も変化しつつあるという見解を提示しておられました。バビロン捕囚によって捕らえ移された人々が離散民としてペルシア帝国に生きていたことを学びましたが、現代では、人々が内戦、飢饉、宗教弾圧、政治的、経済的理由等によって空間的な移動を余儀なくされるという現象が、世界中で大規模に起きているのです。そして、多くの人々が祖国を離れて「離散民」として生きているという現実が、21世紀のひとつの特徴であると言われます。2000年の統計では移民の数が世界総人口の3%でしたが、2020年の統計ではさらに増加して3.6%になりました。

ペルシア語圏の離散民

かつてアケメネス朝ペルシアの主要な地域であったイランやアフガニスタンも、「離散民化」の歴史をもつ国々です。イランでは1979年にイラン革命が起こり多くの人々が祖国を離れました。同年、ソビエト連邦がアフガニスタンに侵攻して内戦が始まり、アフガニスタン全土で600万人が難民となりました。また、最近では2021年8月、駐留外国軍の撤退にともない、イスラム主義勢力のターリバーン(Ṭālibān)が復権して、数十万人規模の避難民が発生したことは記憶に新しいでしょう。名古屋市でもアフガニスタンの方々が事実上の難民として生活をしておられます。

私事ですが、ずいぶん前から、ペルシア語を話す人たちに特別な感情があります。近所にイラン人の家族が住んでおられたり、高校時代の親友がイランにルーツがあってペルシア語をよく教えてもらっていたのがその理由だと思います。2001年にアフガニスタン紛争が勃発してからは、イランだけでなく、ペルシア語(公式名称:ダリー語)話者が多く住んでいるアフガニスタンにも興味をもつようになりました。伝道者になってからは、主のお導きにより、公立の小学校などで、ペルシア語を話すイラン人やアフガニスタン人の日本語指導や生活支援をする機会も与えられ、ペルシア語圏の方々がさらに身近になりました。しかし、残念なことに、アフガニスタンやイランから来日された方々の中には、政治や宗教の理由で、国を離れざるをえなくなった事実上の難民も多く、「離散民」としての悲しみに共感したいという感情も芽生えています。

結語

祖国に帰ることができない方々の気持ちを理解することはできませんが、ひとりのアフガニスタン「難民」の児童が、ペルシア語訛りのたどたどしい英語で私に言った次の言葉を忘れることができません。”I am very lonely, sad, and angry.”(僕はとてもさびしいし、悲しいし、怒っている。)祖国を離れて生活せざるをえなくなった子どもたちのたましいの声を聞いた思いがしました。

名古屋聖書バプテスト教会には、祖国を離れざるをえなくなったペルシア語圏の方々が、時折、礼拝や特別行事に参加してくださいます。福音の種を少しずつまいています。まだ信仰告白をした方はおられないのですが、いつか、ペルシア帝国に住んでいたあのユダヤ人の離散民たちのように、異国の地で主に叫び求め、主に真の救いを哀願する者となれるようにと願います。世界中で離散民として暮らしておられる方々に、まことの幸(さち)がありますように。