ピリピ教会の目線

佐倉聖書バプテスト教会牧師 奥村 明郎

okumura

今年の第91回箱根駅伝で青山大が優勝しました。第1回大会から出場しているチームながら、初優勝でした。例年にない驚きをもって話題を独占しています。その理由は初優勝ながら、新記録で最も速く走り、完全優勝したからです。一時は廃部になろうかという時もあったほどに部員の意識は落ちていたそうです。その意識を変えたのが現監督だったのです。監督は部員の目線を変えるために力を注ぎ、練習も工夫し、14年で頂点に立ったのです。

その目線はまだ予選で敗れ、本選(正月に箱根駅伝に出場できるチームは20チームだけ)に出られない時から、本選に出場し、優勝する事を意識させてあらゆる努力をしていたのです。

目線(目標)をどこに置くかによって、意識が変化し、積極的に練習に励むようになっていったそうです。

パウロの目線

伝道者パウロはイエス・キリストの御計画、すなわち福音を広める事(全世界に福音が語られる)が必ずイエス・キリストの日までに完成することを確信していたのです。2000年も昔の世界です。パウロの目に入っていた世界はどこまでだったでしょうか。21世紀の今日の地球全体が入っていたとは考えにくいのですが、少なくともパウロが知っていた世界はローマ帝国の支配範囲は見えていたでしょう。彼はイスパニア(ローマ15:23 編集者注・スペインのこと)まで行こうとしていたのです。

しかしパウロの目線は自分が見えている範囲だけでなく、イエス・キリストが語られた「全世界、造られた全てに」という信仰による目線を持っていたのです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)

ピリピ教会の目線

パウロは、自分自身の目線はピリピ教会にも主によって与えられていることを喜びました。「あなた方が最初の日から、今日まで福音を広めることに、あずかってきたことを感謝しています(ピリピ1:5)」

ピリピ教会はパウロがヨーロッパに渡って最初に福音を語った町でした。(使徒16:12)まだまだ小さな群れだったと思われます。しかし彼らは遠く離れたパウロ、しかも囚人として捕えられていたパウロのために心を配り、祈り、援助し、彼を助けるために伝道者エパフロデトを遠いローマに派遣したのです。地理的に見ればヨーロッパの東の果てであるピリピから、西の果てであるローマに常に目は向けられていたのです。これは、キリストにある信仰によらなければ持つことはできないでしょう。

パウロの証しによればピリピ教会と同じ様な援助をしてくれた教会は他はになかったと告白しています。(ピリピ4:15)ピリピ教会の志はパウロの志と一致していたのです。すなわち、同じところを見ていたのです。

私達の教会の目線

箱根駅伝は10人でタスキをつないで走ります。それぞれの困難さは違うけれども10人が一致して同じ目線を持ちながら自分の役割りを果たすのです。一人でも立ち止まってしまうとそこで終わりなのです。そこには、互いの確信が必要です。彼らも同じ思いで走ってくれると信じるのです。パウロは「完成」を確信していました。しかし、自分一人で完成できないことも知っていました。パウロは教会に同じ志を与えて下さることを信じて、自分の役目を果たそうとしたのです。「自分の走るべき道のり」を知っていました。

佐倉教会は小さな群れですが、同じ目線をもって自分お役目を果たそうと歩んできました。入江宣教師を派遣したとき、わずか6人の群れでした。会堂も弑さな借家でした。経済も小さな規模でした。このような状況で宣教師を派遣するのですから、これから継続して支援できるだろうか不安がありました。しかし、この働きは主が導いて下さったのなら、完成してくださると信じて自分の役目を果たそうと歩んでまいりました。

主は支えて下さいました。教会内でも様々な議論がありました。しかし、主は実際、目に見える形で励まして下さいました。会堂が与えられ、牧師館も備えられ、墓地を持ち、昨年11月には宗教法人の認可を受ける所まで整えて下さいました。そして千葉ニュータウン開拓伝道所を出し、献身者をお起こし、伝道の最前線に遣わして下さっています。御言葉の約束通り、福音を広げて下さっているのです。

私達佐倉教会はパウロの見ていた完成を同じ様に見させて頂き、先人からタスキを受け、次の走者にタスキを渡すためにひたすら前を見て走り続けたいと願っています。

平和の器

主よ 私をあなたの器とし憎しみしかないところに
愛の種子を蒔かせて下さい
痛みしかないところに 赦しを
疑いしかないところに 信仰を
絶望しかないところに 喜びを
どうかみなぎらせて下さい

慰められることを願うのではなく
慰める者となりますように
理解されることではなく 理解することを
愛されることではなく 愛することを
心から求める者となりますように

私たちは与えることにおいて受けるのです
赦すときにみずからも赦されるのです
そして死において永遠の生命に目覚めるのです

―フランチェスコの祈り ― 「祈りの花束」より