あなたがたは世の光です

ハレルヤバプテスト教会牧師 谷井 涙賀

彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。使徒の働き11章26節

長引くコロナ禍とロシアによるウクライナ侵攻の長期化が世界中で波紋を広げ、私たちの暮らしはここ数年で急激に変化しました。教会は、共に集うこと、交わることを制限せざるを得ないというかつてない経験をしました。また、今までのように自由に集会を開いたり、教会に誘ったりすることを躊躇してしまう状況が続いています。このような中で教会は、またキリスト者はどのように人々に福音を語り、世界の救い主イエス・キリストを指し示すことができるのでしょうか。

すべては神の時の中で

使徒の働きにおいてルカは、「アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようなった。」と記録しています。ですから、キリスト者、クリスチャンと呼ばれるようになったのは2世紀初頭の頃、今から2000年程前のことです。エルサレムのキリスト教徒たちは、ステパノの殉教に始まる教会への激しい迫害のため、あらゆる地域に散らされて行きました(使徒8:1, 11:19)。私たちの主は、使徒の働き1章8節において「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」と約束されました。そして、みことばの通り、神の時の中で御手が動かされ、ローマ帝国による迫害という苦しみの経験さえ用いられて、福音がエルサレムから地理的にも拡大してゆくことに進展したのです。

私たちは「神の時」がいつなのか定かに知ることはできません。また神のご計画、神が取られる方法は私たちの考えるものとは異なります。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。−主のことば−天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8-9)。

しかし、一つ確かなことは「すべては神の時の中で神が最善に導かれる」ということです。なぜなら「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」とあるからです。神は私たちの日常に介入され、すべてのことを神の時の中で最善に導き、私たちに最も良いものを与えてくださるお方です。「神の時」の中で「今」を生かされていること、また「私たちとともに働いて万事益」としてくださることを信じて歩む必要があるのではないでしょうか。

いつもキリストを証する

離散したユダヤ人たちは、先々でキリストを証ししました。アンティオキアではギリシャ語を話す人たちにも福音を語ったので、多くの者が悔い改めて主に立ち返りました。彼らはいつもキリストを証ししていたので、「キリスト者」、クリスチャンと呼ばれるようになったのです。しかも、キリスト教の中心地エルサレムではなく、遠く離れたアンティオキアで初めて呼ばれるようになりました。キリストの弟子たちが迫害という凄まじい困難と試練に立ち向かう中で、たとい散らされても聖霊に励まされ力を得、忠実にキリストの福音を宣べ伝えた結果ということができるでしょう。

先日、ある方が私の車に付けてあるイクソスのステッカーを見て尋ねて来られました。「あの魚マークには何か意味があるんですか。他県を車で走っていた時も同じマークを見たので。」内心「良くぞ聞いてくださいました!」と思いつつ、「はい、あれは私がクリスチャンであることを表すもので、イエス・キリスト、神の子、救い主という意味があります」とお答えしました。また、他の方は私が牧師であることを知って過去に教会に通っていたこと、親戚がクリスチャンであることや聖書を読んだことがあることなどを話してくださいました。そして、最近教会に導かれ救われる魂も与えられたのです。ハレルヤ!その時私は思いました。私が何か特別なことをしたからではなく、どこかで忠実な「キリスト者」がキリストを証しし、教会が福音を語っていたからだと大変励まされました。

私たちは日本でクリスチャン人口が1%未満と聞く時、何を考え、何を思うのでしょうか。私たちは少数派で影響力が小さいと消極的になるでしょうか。そうではなく、今から2000年前にアンティオキアで初めてクリスチャンと呼ばれるようになり、キリストを証しした信仰の先輩たちを思い出し、クリスチャンであることを誇りとしたいのです。「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」(ローマ1:16)

私たちが毎日遣わされる場所は、主が私たちに与えてくださった宣教地です。そこで、「私はクリスチャンです。」「日曜日に教会に行っています。」と証しすることがどんなに素晴らしいことで大きな祝福をもたらすのか気付いておられますか。当時キリスト者と呼ばれた人たちも社会の中では少数派で、影響力は乏しかったでしょう。しかし、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」の約束のごとく、困難の中で聖霊に励まされて福音宣教の働きに前進したのです。1%の日本のクリスチャンが一人をキリストに導くことが出来たらクリスチャン人口は倍に、周囲の10人に影響を与えることが出来たら将来10%に増えて行くことでしょう。いつでもどこでもキリストを証ししましょう。

世の光として

キリストを証しすると言っても全く気負う必要はありません。「キリスト者」一人ひとりが遣わされたところで「世の光」として歩めばよいのです。主は「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることが出来ません。」と言われました。また続いて「明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。」とも言われました。忘れてはならないことは、この世界は罪の影響を受けて暗闇であり、まことの光を必要としているということです。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」と言われた救い主イエス様は、すべての人の希望の光です。光は暗闇の中で一層輝きを増します。世界的に喪失感と閉塞感が漂い、人々との交流が難しい時代にあって、キリスト者が世の光として輝く時、私たちの内にある救いの希望に目が留まらないはずはありません。月が太陽の光を反射して美しく闇夜を照らすように、キリスト者は世の光であるイエス様に照らされてこの世界で輝くことができるのです。山の上にある町、升の上にあって闇を照らす光とされていることを覚えましょう。

私は朝毎に数年前の全国聖会で教えられた9:38チャレンジの祈りをささげています。それは、マタイ福音書9章38節の「だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送って下さるように祈りなさい。」とのイエス様のご命令です。いつしかこの祈りは「主よ。今日も私をあなたを必要としている方のところに遣わして下さい。」との祈りに変えられました。主はキリスト者一人ひとりが収穫のための働き手となることを願っておられます。私たちのところにも働き手が遣わされ、福音を聞くことができました。主は私たちが祈り求める時、確かに応えてくださるのです。あなたも主に願いませんか。主はあなたを用いてくださるからです。