良い知らせを伝える人の足は美しく立派

立川聖書バプテスト教会牧師 井口 拓志

「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」イザヤ52章7節

なぜ、良い知らせを伝える人の足は美しいのでしょう。口語訳聖書は、「…なんと麗しいことだろう。」と訳しています。「山々の上にあって」とあるので、「美しくて立派」という意味の「麗しい」のほうがぴったりかもしれません。良い知らせとは、「平和」「幸い」「救い」そして「あなたの神は王であられる」ことです。このような良い知らせを伝える人の足が美しく立派だと預言者イザヤは告げるのです。

預言者ナホムも、アッシリア帝国の都ニネベの滅亡を預言する中で、「見よ。良い知らせを伝える人の足が、平和を告げ知らせる人の足が山々の上にある…」(ナホム1:15)と預言しています。ここでは「美しい」ということばを使っていませんが、活動期が重なる二人が共有していた預言のことばかもしれません。

「良い知らせ」は、それを伝える人がいなければ何も始まりません。その伝える人が「足」に例えられています。また、良い知らせを伝える人は、神に遣わされる者でなければなりません。そして、神に遣わされた者は、伝えるべきことを、神の意図したとおりに伝えなければなりません。そこには、遣わす神と遣わされる者とのかかわりにおける美しさが見られます。

良い知らせを伝える人の足の美しさを、伝える内容から考えるとどうでしょうか?

預言者イザヤは、「あなたの神は王であられる」ことが良い知らせであると述べています。52章全体をみると、それは「主がシオン(エルサレム)に戻られる」(8)ことであり、「無割礼の汚れた者(異邦人)がもう二度とあなた(聖なる都エルサレム)の中に入って来ない」状態のことでもあります。神が王としてシオンに戻られるので、異邦人支配は二度とないということです。しかし歴史を見ると、そのような時はありません。イスラエルはバビロン以後、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、さらにその後も異邦人勢力の支配を受け続けています。イザヤと同時期の預言者にミカがいます。彼の預言を合わせて見ると、良い知らせの「あなたの神は王であられる」時がいつなのか見えて来ます。「わたしは足を引きずる者を、残りの者とし、遠く移された者を、強い国民とする。主であるわたしが、シオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる」(ミカ4:7)ミカは、主が永遠に王となると預言しており、それがいつなのかということを、「その終わりの日」(同4:1)、もしくは「その日」(同4:6)と預言しています。その日は、これから後のことであり、メシアが永遠の王となるメシア(千年)王国の時です。まさに良い知らせであり、それを伝える人の足が美しく立派なのです。

美しく立派な足について、もう一つ考えなければならないことがあります。52章におけるイザヤの預言は、バビロン捕囚の前に語られたものです。イスラエルとしては、これから苦難と暗闇の捕囚が待ち受けています。そうすると、イザヤ52章で語られている預言というのは、近い将来の預言としてはバビロンからの帰還であり、遠い将来の預言としては、メシア王国預言となります(二重の預言)。そうであるなら、その時期に語っていた預言者たち(イザヤ、ミカ、ナホム)は、苦難の預言を漏れなく語らなければなりません。イザヤ52章から言うと、例えば8、9節です。「…彼らは声を張り上げ、ともに喜び歌っている。彼らは、主がシオンに戻られるのを目の当たりにするからだ。エルサレムの廃墟よ、ともに大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたからだ」ここに、バビロン捕囚の預言(…廃墟よ)と、バビロンからの帰還およびメシア王国の預言(…戻られる)とが語られています。偽預言者は決して苦難を語りません。しかし真の預言者は苦難を含む神の意図した預言を語るのです。「良い知らせを伝える人の足」の美しさと立派さはここにあります。良い知らせを伝えることは必ずしも容易なことではありません。むしろ苦難を伴うことを知っている者が、良い知らせを語っているということを念頭に置かなければなりません。良い知らせを伝えることは、神の意図されたとおりのことを伝えることです。私たちは福音を信じ、知っています。それが今もなお神の意図したものなのか、常に確認する必要があります。確認手段は聖書です。聖書のことばを常に追求するならば、神の意図から逸れることはありません。そこから逸らさせる働きがあることも承知しておかなければなりません。神は終わりの日に備えて、良い知らせを伝える人の足を、益々求めておられます。