過去の宣教メッセージ2024-02-21T19:25:45+09:00

過去の宣教メッセージ

主から託されている大きな働き

上越聖書バプテスト教会牧師 加治佐清也

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。ヨハネの福音書 14章12節

十字架にかかる前夜、イエス様は地上に残される弟子たちに最後のお話しをされました。その中でイエス様は、冒頭のみことばを語られました。信じる者には、主のお働きが託されています。私たち教会は、この時代にあって、どのような歩みを期待されているのでしょうか。あらためて、ともにみことばに耳を傾けてまいりましょう。

まことに、まことに

まずイエス様は「まことに、まことに」(アーメン、アーメン)と言われました。これからお話しすることがとても重要なことであることを示しています。その内容とは、主を信じる者、すなわち教会が、主のわざを行う、さらにそれ以上の大きなわざを行うということです。イエス様よりも大きな働きをするというのは、にわかには信じ難いかもしれませんが、「まことに、まことに」本当にそうなのだと、主は私たちに言われます。

教会の目的

このみことばで教えられていることは、教会には目的があるということです。すなわち教会とは、主イエス様のわざを行う集まりなのです。教会は自分自身が何者かをよく理解しておく必要があります。そうでなければ、教会は簡単に福祉団体や政治団体、単なる研究会やサークルなど世の集まりと変わらないものになってしまうからです。教会には独自の目的・使命があります。それは主イエスのわざを行うことです。

主イエスのわざ

では、主イエスのわざとは何でしょうか。それは第一に福音宣教です。聖書が示す救いの道を宣べ伝えることです。「神はキリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(Ⅱコリント5:18)。和解のメッセージを伝えることは、神と和解したすべての人の務めです。教会は世に遣わされた「キリストの使節」(同5:20)として、和解の福音を伝えます。「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4:12)とあるように、主イエスこそ唯一の救いの道であることを世に示していくのです。

第二に、イエス様が人々を愛し、慰め、あわれまれたように、教会もまた、神の愛と慰めとあわれみを、ことばだけでなく、行動を伴って、全生活を通して証しします。イエス様は「群衆を見て深くあわれまれ」ました(マタイ9:36)。彼らが「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた」からでした。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」とも言われました(同11:28)。疲れた人とは、赦しのない、裁き合い、競い合い、比べ合う、そういうパリサイ人らの教えに息苦しくなっていた人々であり、イエス様の思いは、そのような人々が福音によって心の癒やしを得ることでした。主の愛とあわれみは、福音宣教にしばしば伴いました。姦淫の現場をおさえられ、衆目にさらされ、言い逃れができない、誰かどう見ても罪深い女性を、イエス様はお赦しになりました。主は嫌われていた取税人ザアカイの友となりました。罪深い生活を送り、世間から孤立していたサマリアの女に声をかけ、救いに導きました。病苦や生活苦の中にあった盲人や病人をいやし、罪を赦しました。イエス様の人に対する優しさ、あわれみ、なぐさめの記事には事欠きません。このような愛とあわれみのわざを行うようにと、私たちも招かれているのです。

さらに大きなわざ

このように教会は、イエス様がなされた福音宣教とあわれみのわざを行うために世に遣わされていますが、それだけではありません。「さらに大きなわざ」をも行うのです。これはもちろん、私たちが質的な意味において、イエス様より大きな働きをするということではありません。教えや働きにおいて、私たちがイエス様を超えることなどできません。何よりイエス様のように十字架にかかって、よみがえり、救いの道を備えることなど絶対にできませんし、そんな資格もありません。

それでは「さらに大きな」とは、どういう意味なのでしょうか。それはさらに大きな時間と空間において、という意味です。イエス様が限られた時代と場所でなされた福音宣教とあわれみのわざを、教会は受け継いで、その後の長い歴史の中で、世界中の広大な地域で行っていくのです。その意味において、教会はイエス様よりも「さらに大きな」働きをしていきます。イエス様のなされたわざを、あらゆる時代、あらゆる地域において継承し、実行していくことにおいて、教会はイエスが地上におられた間になされた働きよりも大きな働きをしていくのです。

助け主である聖霊

このような偉大な働きを託されていることは、大変光栄なことですが、同時に果たして自分たちにそんなことができるだろうかとも思うでしょう。そういう気持ちに応えるかのように、イエス様はこう付け加えられています。「わたしが父のみもとに行くからです。」イエスが復活後、天に戻られました。だから、クリスチャンは、イエスの行うわざ、福音宣教と愛のわざを行うことができると言われるのです。でも、なぜイエス様がいなくなると、それができるのでしょうか。逆にイエス様がずっといてくださったほうが良いのではないでしょうか。

その答えはヨハネ16章7節にあります。「わたしが去っていくことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」すなわち、イエスが去っていくことによって、助け主である聖霊が来てくださるのです。聖霊はイエス様の代わりに来られる「もう一人の助け主」(ヨハネ14:16)であり、「イエスの御霊」(使徒16:7)です。ですからイエス様が弟子たちとずっとともにいてくださったように、主は御霊において、いつも私たちとともにいてくださいます。聖霊は信じる者に内住される助け主、慰め主、カウンセラーです。この方によってクリスチャンは内側から力づけられ、教えられ、慰められ、主のわざ、すなわち福音宣教とあわれみのわざをなすことができるのです。自分の力ではありません。聖霊なる神の助けによって、私たちの心は動かされ、みことばを伝え、真実な愛をもって慰めのわざを行うことができるのです。

主を信じる者、その集まりである教会は、主が地上で行われたわざを続けて行うように召されています。世の中は様々な出来事が起こり、色々な意見やことばが飛び交いますが、ヨハネ14章1節の御言葉にある通り、私たちは心騒がせることなく、神を信じ、主イエスを信じ、「まことに、まことに」大切な教会の使命と目的を見失わず、内なる聖霊の力と励ましをいただいて、主のわざをさらに大きく行ってまいりましょう。

あなたがたは世の光です

ハレルヤバプテスト教会牧師 谷井 涙賀

彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。使徒の働き11章26節

長引くコロナ禍とロシアによるウクライナ侵攻の長期化が世界中で波紋を広げ、私たちの暮らしはここ数年で急激に変化しました。教会は、共に集うこと、交わることを制限せざるを得ないというかつてない経験をしました。また、今までのように自由に集会を開いたり、教会に誘ったりすることを躊躇してしまう状況が続いています。このような中で教会は、またキリスト者はどのように人々に福音を語り、世界の救い主イエス・キリストを指し示すことができるのでしょうか。

すべては神の時の中で

使徒の働きにおいてルカは、「アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようなった。」と記録しています。ですから、キリスト者、クリスチャンと呼ばれるようになったのは2世紀初頭の頃、今から2000年程前のことです。エルサレムのキリスト教徒たちは、ステパノの殉教に始まる教会への激しい迫害のため、あらゆる地域に散らされて行きました(使徒8:1, 11:19)。私たちの主は、使徒の働き1章8節において「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」と約束されました。そして、みことばの通り、神の時の中で御手が動かされ、ローマ帝国による迫害という苦しみの経験さえ用いられて、福音がエルサレムから地理的にも拡大してゆくことに進展したのです。

私たちは「神の時」がいつなのか定かに知ることはできません。また神のご計画、神が取られる方法は私たちの考えるものとは異なります。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。−主のことば−天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8-9)。

しかし、一つ確かなことは「すべては神の時の中で神が最善に導かれる」ということです。なぜなら「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」とあるからです。神は私たちの日常に介入され、すべてのことを神の時の中で最善に導き、私たちに最も良いものを与えてくださるお方です。「神の時」の中で「今」を生かされていること、また「私たちとともに働いて万事益」としてくださることを信じて歩む必要があるのではないでしょうか。

いつもキリストを証する

離散したユダヤ人たちは、先々でキリストを証ししました。アンティオキアではギリシャ語を話す人たちにも福音を語ったので、多くの者が悔い改めて主に立ち返りました。彼らはいつもキリストを証ししていたので、「キリスト者」、クリスチャンと呼ばれるようになったのです。しかも、キリスト教の中心地エルサレムではなく、遠く離れたアンティオキアで初めて呼ばれるようになりました。キリストの弟子たちが迫害という凄まじい困難と試練に立ち向かう中で、たとい散らされても聖霊に励まされ力を得、忠実にキリストの福音を宣べ伝えた結果ということができるでしょう。

先日、ある方が私の車に付けてあるイクソスのステッカーを見て尋ねて来られました。「あの魚マークには何か意味があるんですか。他県を車で走っていた時も同じマークを見たので。」内心「良くぞ聞いてくださいました!」と思いつつ、「はい、あれは私がクリスチャンであることを表すもので、イエス・キリスト、神の子、救い主という意味があります」とお答えしました。また、他の方は私が牧師であることを知って過去に教会に通っていたこと、親戚がクリスチャンであることや聖書を読んだことがあることなどを話してくださいました。そして、最近教会に導かれ救われる魂も与えられたのです。ハレルヤ!その時私は思いました。私が何か特別なことをしたからではなく、どこかで忠実な「キリスト者」がキリストを証しし、教会が福音を語っていたからだと大変励まされました。

私たちは日本でクリスチャン人口が1%未満と聞く時、何を考え、何を思うのでしょうか。私たちは少数派で影響力が小さいと消極的になるでしょうか。そうではなく、今から2000年前にアンティオキアで初めてクリスチャンと呼ばれるようになり、キリストを証しした信仰の先輩たちを思い出し、クリスチャンであることを誇りとしたいのです。「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」(ローマ1:16)

私たちが毎日遣わされる場所は、主が私たちに与えてくださった宣教地です。そこで、「私はクリスチャンです。」「日曜日に教会に行っています。」と証しすることがどんなに素晴らしいことで大きな祝福をもたらすのか気付いておられますか。当時キリスト者と呼ばれた人たちも社会の中では少数派で、影響力は乏しかったでしょう。しかし、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」の約束のごとく、困難の中で聖霊に励まされて福音宣教の働きに前進したのです。1%の日本のクリスチャンが一人をキリストに導くことが出来たらクリスチャン人口は倍に、周囲の10人に影響を与えることが出来たら将来10%に増えて行くことでしょう。いつでもどこでもキリストを証ししましょう。

世の光として

キリストを証しすると言っても全く気負う必要はありません。「キリスト者」一人ひとりが遣わされたところで「世の光」として歩めばよいのです。主は「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることが出来ません。」と言われました。また続いて「明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。」とも言われました。忘れてはならないことは、この世界は罪の影響を受けて暗闇であり、まことの光を必要としているということです。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」と言われた救い主イエス様は、すべての人の希望の光です。光は暗闇の中で一層輝きを増します。世界的に喪失感と閉塞感が漂い、人々との交流が難しい時代にあって、キリスト者が世の光として輝く時、私たちの内にある救いの希望に目が留まらないはずはありません。月が太陽の光を反射して美しく闇夜を照らすように、キリスト者は世の光であるイエス様に照らされてこの世界で輝くことができるのです。山の上にある町、升の上にあって闇を照らす光とされていることを覚えましょう。

私は朝毎に数年前の全国聖会で教えられた9:38チャレンジの祈りをささげています。それは、マタイ福音書9章38節の「だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送って下さるように祈りなさい。」とのイエス様のご命令です。いつしかこの祈りは「主よ。今日も私をあなたを必要としている方のところに遣わして下さい。」との祈りに変えられました。主はキリスト者一人ひとりが収穫のための働き手となることを願っておられます。私たちのところにも働き手が遣わされ、福音を聞くことができました。主は私たちが祈り求める時、確かに応えてくださるのです。あなたも主に願いませんか。主はあなたを用いてくださるからです。

そこにも福音を知らせよう

大分聖書バプテスト教会牧師 中畑 道章

「イエスは彼らに言われた。『さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。』」マルコの福音書 1章38節

私たちの歩みは、ダメージが大きいためでしょうか、喜びよりも悲しみの方が多く、やがて悲しみのうちに歩みを終えざるを得ない、と思われる現実があります。しかし、イエス様がこの世においでになられたことは、私たちに大きな喜びをもたらしました。

福音がもたらすもの

預言者イザヤは、救い主を下記のように預言しました。

「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」(イザヤ42:3-4)

やがておいでになる救い主イエス様は、苦しんでいるものを慰め、悲しみに寄り添い、回復をもたらして下さいます。折れて朽ちていく葦のような失敗した者を、見捨てることなく、手を添えて立ち直りを助けて下さり、油が切れて消えかけたランプのようなものに、尽きることのない油を注いで、再び輝かせ、周囲に喜びをもたらす存在に整えて下さいます。救い主イエス様は、私たちの苦悩の原因である罪を除去し、神さまとの交わりを回復してくださいます。そのために十字架上での死を遂げ、三日目に復活なさいます。この福音を世界の人々が待ち望んでいます。

世界宣教

この責任を果たされるイエス様の姿をマルコは次のように記しています。

「イエスは彼らに言われた。『さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。』」(マルコ1:38)

前日の権威ある教えと奇跡で、イエス様の評判は町中に広まり、今日もまた、朝早くから人々は押し寄せてきます。大勢の人々が押しかけている中、福音を伝える良いチャンスと思われたのに、イエス様は、そこを去って、さらに福音を伝えようと、別の町、村に出かけられました。福音は、すべての人々に必要とされています。私たちの働きの場所は、福音を待っている所です。十字架の死と復活をもって切り開かれたイエス様の救いを、多くの人々に告げ知らせることが、私たちの働きです。約3年半のイエス様の伝道活動は、ほぼイスラエルの地でしたが、その後に継承される世界宣教の事業を、イエス様は、教会に託されました。

伝道の原動力

では、救われた私たちを伝道活動に駆り立てる原動力は、何でしょうか。それは「喜び」でしょう。「救われた喜び」「いやされた喜び」「神様に愛されている喜び」「祈りに応えられた喜び」です。

アンデレは、救い主イエス様にお会いした「喜び」を兄ペテロに告げます(ヨハネ1章)。サマリヤの女性は、「喜び」を町の人々に告げます(ヨハネ4章)。シロアムの地でいやされた盲人は、「開いた目の喜び」を人々に見せます(ヨハネ9章)。生まれつき足のなえた男性は、周囲の人々に歩いたり、はねたりし、神を賛美する姿を見せます(使徒の働き3章)。そしてパウロは「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる喜び」を証しします(Ⅱコリント5章)。いずれも、自分自身に起こった「喜びと変化」を周囲に示しました。信仰の生きた喜びが原動力です。

福音の進展

この喜びの福音は、どのように進展していくのでしょうか。まず自分の周囲です。次に周囲の人々から少し離れた人々に。さらに遠隔地に住む人々に、教会は、証しの兄姉を派遣してきました。更に、派遣した宣教師の周囲の人々へと進展しています。

「そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1章)。

最後に、復活されたイエス様は、「平安があなたがたにあるように。父が私を遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:21)とおっしゃいました。

救われた私たちは、尊い使命を受けています。この喜びの福音を何とか知らせたい。それが神様から託された使命ですから、福音を伝えます。周囲の人々にも、遠隔地の人々にも、そして遠くの国々の人々にも、です。

「行きて告げよあまねく いずこの民にも 心をば変えて 新たにせよと 新たにせよと 暗き闇もしばし 義の日なるイエスの 輝き世を照らす 明日は近し」(聖歌総合版551番)

大分聖書バプテスト教会の証し

まだ余白がありますので、当教会の沿革を通して、神様のお恵みを証します。

大分聖書バプテスト教会は、米国のバプテスト教会の「そこにも福音を知らせよう」の使命感のもとハウエル宣教師ご家族を大分に派遣して、産声をあげました。現牧師が牧会を引き継いだ時、当教会は大分市のほぼ中心地で伝道していましたが、借家であり建物を自由に改造し使用したい、という思いから、大分市のベッドタウンに移転し、その地を中心に伝道しました。中古の建物でしたが、米国BBCから借りたお金、前米国婦人宣教師の献金、教会員の献金で自分たちの教会を持ちました。大工出身のハウエル宣教師が中心になり、牧師と教会員がお手伝いする方法で、少し建て増しもしました。諸教会の先生をお招きし、伝道集会を何度も行いました。諸先生には、大変お世話になりました。

神様が備えてくださる

中古の建物でしたので、年々、痛みが激しくなり、台風の時は、横殴りの雨で壁から雨水がしみだしてきました。教会員も増えてきました。新築の教会を、もっと広い土地を、次の福音を伝える場所を求める祈りを兄姉と共に励みました。「売地がある」という情報を得ると見に行きました。何件も何件も探しました。

神様は不思議な方法で、未信者の地主兼建築業者を備えて下さいました。郊外の集落です。車で走るとまもなく、旧郡町です。教会員で積み蓄えた会堂献金、兄姉たちの個人的献金、前会堂の売却金、それでも不足していた金額は、未信者の建築業者が貸して下さいました。驚きました。神様のお働きです。隣接する旧郡町にも福音を伝えています。

現在地の野津原は、昔、戦国大名加藤清正の飛び地です。その影響で、高齢者を中心に、今も清正を尊び拝む偶像の強い町です。この神様が備えて下さった地、野津原を中心に、まことの光を照らし続けています。

「闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」(イザヤ9:2)

喜びの福音!

ハレルヤバプテスト教会宣教牧師・軽井沢グレースキャンプ場管理人 谷井 悟

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。エペソ人への紙2章8節

神は永遠になくならない喜びをすべての人に与えたいと願っておられます。救われて54年、伝道者として43年の恵みを覚え、大切なポイントと心して来たことを書かせていただきます。

永遠になくならない喜びをいただいた私

私は中学生になった頃、夜外に出て満天の星空を見上げながら、色々なことを思い巡らせました。宇宙の果てはどうなっているのか?ちっぽけな私・・・何のために生き、死んでいくのだろうか?死んだらどうなるのだろうか?ある朝、ラジオを付けると、美しい賛美と聖書からの短いメッセージを初めて耳にしました。「すべて重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい・・」(マタイ11:28)。1年間無料の聖書通信講座で聖書を学びました。唯一の創造主、天地の創造、人間と人間の罪、救い主イエス・キリスト、十字架と復活・・・。1年後、高2の春、高校生スプリングリトリートに参加し、罪人の私のために十字架に現わされた神の深い愛が心に迫りました。私は生涯この愛の中に生かして下さいと救い主イエス・キリストを信じ受け入れ救われました。私は神から、なくならない永遠に続く喜びを頂いたのです。

人の生きる喜びとは?

神は人を神のかたちに創造し、神と共に喜び楽しむ者として創造されました。人は神が創造された自然をよく管理しつつ、神と共に喜び楽しみ生きる者だったのです。

しかし、人にとっては、この素晴らしい喜びと感謝に溢れた時はほんのつかの間でした。神に背を向けて悪魔に従った人に罪が入り、罪によって死が入りました。その時から、人類は「暗黒と死の影とに住む者」となり迷い出、自分の道を歩む者となっているのです。しかし、神は罪のため死ぬ者となっている人類に救いをもたらす、壮大な計画をされ、救い主を世界に送ってくださったのです。神から迷い出た人類は21世紀の今、どうなっていますか?多くの人は神がくださる、なくならない喜びを無視しています。神を認めず、感謝もせず、あがめもしない多くの人々は不安と混乱と迷いの中にあります。生きる意味、希望を見出せず自殺する若者が増えています。眠れない者、うつ病に苦しむ者が溢れています。毎日特殊詐欺事件が起こり、高齢者の貯えをだまし取っています。破壊と悲惨は極みに達しようとしています。神がなくならない喜びを差し出しておられるのに・・・。

神の恵みによって救われる!

神は人間の生活に必要なすべてを与えてくださっているのです。「だれが神を離れて、食いかつ楽しむことのできる者があろうか。」(伝道の書2:25)神の恵みによって日々生かされていることを覚え、神に感謝し、神をほめたたえている人は何と幸いでしょうか!また、何よりも罪と死からの救いも神の恵みによって与えられることを知り、いただいている人はこの上もなく幸いです!

ところで、漢字の「恵」という字に救いの恵みが何であるかがよく現わされています。「十」=今から2000年前のエルサレムで神の御子イエス・キリストが私たちを罪から救うために身代わりとなって十字架で死なれました。「日」=御子イエス・キリストは墓に葬られ3日目の日曜日早朝死を打ち破りよみがえられました。「心」=私たちを罪から救うために十字架で死に3日目によみがえられた御子イエスキリストを私たちが心に信じ受け入れるなら私たちは「恵み」によって救われます。「あなたがたが救われたのは実に恵みにより信仰によるのです。」(エペソ2:8)〈個人伝道に用いられます〉実に人は神の恵みによって生きることができ、神の恵みによって救われるのです!!!

祝福か?呪いか?(申命記11:26-28)

人は神の命令に聞き従う時祝福を受け、神の命令に聞き従わないなら呪いを受けるということです。これは聖書全体が一貫して語っていることです。これは人類の歴史を学ぶならまさにその通りであることを知ることができます。私たちが神の祝福をいただく生涯を望むなら、ただ神のことばに聞き従うことです。神に聞き従わないなら、どんなに喜びに溢れていようとも、その喜びはやがて呪いとなるのです。それは現時点のことだけではなく、永遠という尺度の中での祝福と呪いです。今日、神は私たちの前に祝福と呪いを置かれているのです。

喜びをいただいたクリスチャンとは?

クリスチャンはなくならない喜びをいただいた者たちです。Ⅰテサロニケ1:9-10にテサロニケのクリスチャンがどのようであったかが記されています。彼らの姿に如何なる時代においても変わらぬクリスチャンの3つの特徴をあげることができます。1)偶像から神に立ち返って、2)生けるまことの神に仕えるようになり、3)やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになった者たちです。神に仕える・・・キリストの心を心とする時、クリスチャンの使命は全世界に福音を伝えることです。

福音の種を蒔かなければ!

種は不思議で、驚きに満ちています。あの小さな種に命があります。福音の種も同じです。蒔かなければ救われません。またなくならない喜びを得る人は起こされません。「福音は信じる者に救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)「朝のうちにあなたの種を蒔け。・・あなたは、あれか、これか、どこで成功するかわからない。」(伝道者の書11:6)

喜びの福音を次の世代へ!

福音は驚くべき、素晴らしい神の力です。福音により、神から離れて暗黒と死の影に住む者となったすべての人に、神と共に喜び楽しみ永遠に生きることのできる新しい生命(永遠の命)が与えられるのです。初代教会の時から福音は次の世代へとバトンがつながれて来たのです。

1950年(私が生まれた年)、救い主イエス・キリストの大命令に心動かされた、21歳と19歳のアメリカの若い夫婦が日本に来ました。彼らの名はラバンとエバレン・ラージャスです。彼らはだだ、イエス・キリストの命令に従い、また約束を信じて導かれるままに日本に福音を伝えました。彼らは単純に、素直に、みことばに従いました。日本宣教71年・・・多くの救われる者が起こされ、献身者が起こされ、日本に世界に次の世代へ福音が宣べ伝えられています。彼らの歩みに神の真実の大きさが証されています。

彼は晩年キャンプ伝道を通して、日本人クリスチャン1%にチャレンジし、日本人クリスチャン99%を祈っていました。私はこの祈りのバトンを受け取り、99ミッションの祈りを展開したく祈っています。グレースキャンプ場は日本の救霊と献身のために、多くの犠牲が払われて与えられた所です。あなたも祈りに加わって下さいませんか。私は99ミッションの祈りをもって、永遠になくならない喜びを得させる福音を神の力(ダイナマイト)に頼り伝えます。さあ、共に永遠に続く喜びの福音を次の世代に伝えよう!

神の奥義の管理者としての宣教への関わり方

太田聖書バプテスト教会牧師 佐藤 一彦

人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。 コリント人への手紙 第一4章1〜2節

日本古来の伝統芸能や武道の世界では「奥義の伝授」として、その道の特別な技法、秘技などを選ばれた者に伝授する世界があります。そして、継承した者はそれを守り続け、新たに次の者に伝える責任を負うのです。聖書の中にも「奥義」という言葉が何度も使われており、神を信じる私たちこそ神の奥義を受け継ぎ、それを管理することが任せられている者なのです。この神の奥義とは同じ Ⅰコリント1:18に書かれています。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」それは、人の知識や知恵では想像も及ばず、人々の目には不思議に映り、人間の努力や善行などを一切必要としない神の一方的な恵による救いが神の奥義なのです。そしてそれを信じた者が神の奥義の管理者として、この十字架のことばを全世界に広めることが任されているのです。

聖霊なる神の力

しかし、神は無責任にその働きを私たちに丸投げにしたわけではありません。
その働きのために、聖霊なる神の力添えがあると約束してくださったのです。使徒の働き1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受け・・・わたしの証人となります。」ですから、この宣教の働きをするのに、ただ人間的な計画で一生懸命努力をして熱心に推し進める、或いは、人道的な同情心や責任感だけで宣教をするならば、神はお喜びになりません。なぜなら、宣教は神の一大計画なのですから、その主導権は神にあります。ですから神の御言葉が教える方法、聖霊の導きと力に私たちが忠実に従い宣教の働きに参加する時に、神は喜ばれ、それを祝福されるのです。

イエス様の模範

では神の教える宣教の方法とは具体的にどのようなものなのでしょうか?それを模範として示してくださったのはイエス様でした。1ペテロ2:21「このためにこそ、あなたがたは召されたのです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。」本来私たちは神の人知を超えた奥義である救いを理解することのできない者たちです。しかし、イエス様が私たちと同じ人となり、私たちの目線に立ち、人々が見て聞いて理解出来る普段使っている言葉や生活レベルに寄り添って福音を教えてくださったのです。ですから当時の多くの人が教えを理解し信じたのです。これは、円滑な人間関係コミュニケーションの取り方の基本的な方法と同じで、現代の私たちにとっても同様です。私たちが福音を伝えたい相手の目の高さ、その時代のコミュニケーション法や生活様式に沿ったアプローチをしなければ伝わりづらいでしょう。それは、普段私たちが政府の政策や対応が庶民感覚とかけ離れていて現実的でないと感じ、いつも後手後手になっていると批判しますが、それでは私たちの福音宣教の方法はどうでしょうか?もちろん宣べ伝える内容、イエス・キリストの十字架と復活そのものは決して変わらない人を救う真理ですが、それを人々に届ける伝達法が人々の持っているチャンネルと合っていなければ、届きづらい原因となるのではないでしょうか?

パウロの宣教

また、パウロも宣教する人々の当時の文化を理解しようと絶えず務めた人物でした。
1コリント9:19-23「・・・より多くの人を獲得するために・・・ユダヤ人のようになりました。・・・律法の下にある者のようになりました。・・・律法を持たない者のようになりました。・・・弱い者になりました。・・・。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。私は福音のためにあらゆることをしています。」このようにイエス様もパウロも、非本質的なことにこだわるのではなく、いかに人々に福音を伝えることができるのかにこだわり、相手を理解しようとされたのです。ならば、同じ働きを委ねられている私たちも同じように伝える人々のことを理解しなければなりません。また、それは宣教の働きに参加する教会に対しても同じです。どうしたら若い世代が積極的にこの働きに携わるよう励ましたら良いのか、それは彼らの置かれている生活環境の理解なしには前進しないでしょう。

忠実な管理者として

次に神の奥義の管理者として忠実さが要求されていますが、この忠実は何に対してなのでしょうか?
福音書の中にはタラントが与えられたしもべが忠実な管理者として、それを用いて増やし、主人の意図を正しく理解し実行したので主人に称賛されたとあります。もし、私たちの宣教が自分の考えや方法に固執し、「私と教会は昔からこうやってきたから、それを忠実にやり続ければ必ず祝福される」と自分を基準にスタイルを変えようとしないのであれば、それは主に対しての忠実さではありません。
2021年コロナ禍にある世界に私たちはどのように対応し、効果的に人々に福音を届けられるのか?
それは、過去の経験では追いつくことの出来ない、新しい取り組みや方法を模索し、人々にアプローチする必要があります。「何とかして、何人かでも救うためです。私は福音のためにあらゆることをしています。」このことへの忠実さが求められているのではないでしょうか?私たちは神の奥義の管理者として、心に掛けることは忠実に宣教の主である神の思いに対する理解を持つことです。英語で「理解する」はUnderstandです。これはUnderとStandの二語が合成されて出来た言葉です。私たちは相手を理解するために上に立つのではなく、相手より下(Under)に立つ(Stand)姿勢が必要なのです。これは、まさにイエス様がとられた態度でした。(ピリピ2:6-8)

あらゆる可能性を通して

私たちは教会を通して主の証人として私たちの地域の人々、関わる同胞に福音を伝えています。そして、この国から世界宣教実現のために、私たちの代表として遣わされた宣教師のために祈り、支援に関わっています。私たちはこの国に生まれ育ち、同じ日本人のことを理解していると思っていても、人々の心に届けるのが難しいとを知っています。であるならば、海外の異国の文化の中にいる宣教師たちは、その国の人々を理解するために、一から始める文化理解、人間関係、そして同時に行われる宣教活動にどれ程の祈りと時間が必要であるかを私たちはもっと理解しなければなりません。その上で、宣教師たちの宣教報告以外に、どれほど多くのお働きとご苦労があるかを知り尽くすことは出来ませんが、主が遣わされた宣教の奥義の管理者として先生たちを、これからも主にあって信頼し続け、祈りと最善の支援策を更に模索し続けながら、教会に仕えながら世界宣教の働きに参加する者も、或いは教会から遣わされて宣教に出て行く者も共に、神の奥義の管理者として聖霊様が導かれるあらゆる可能性を通して世界宣教に忠実であり続けましょう。

深いあわれみの心を

港北ニュータウン聖書バプテスト教会牧師 鹿毛 愛喜

また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。 マタイの福音書9章36節

3月に牧師職を引き継ぎ、新米牧師として歩み始めた矢先、新型コロナウイルス感染拡大に伴う様々な対応に迫られ、戸惑いの連続でした。牧師として招聘されてから今日まで、次の3つのことを思わされています。第一に、教会の主はキリストご自身であるということです。そして、第二に、教会に住んでおられる御霊によって兄姉を取り扱い、内的に造り変えることを通して、日毎に教会を建設されているということです。第三に、牧師交代は教会としての宣教の働き(国内、海外)の継承であるということです。新型コロナウイルスを経験し、私たちは一つの時代の分岐点に立たされていると言えるでしょう。宣教の働きにおいても大きな分岐点に立たされている中で、先立ってくださる宣教の主に「私たちはどのようにお仕えさせていただけば良いでしょうか」と祈らされるのです。

羊飼いのいない羊

今回、マタイの福音書9章35節から38節のみことばに着目したいと思います。大変よく知られた箇所です。イエス様ご自身のガリラヤ地方における伝道活動の中で、イエス様ご自身は人々をどのようにご覧になられたのでしょうか。「彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」(36節)羊飼いのいない羊の群れという表現は、旧約聖書に見られます。エゼキエル書34章では、牧者とされる権威をもった民の指導的立場にあった者たち(王、預言者、祭司ら)が、民を養わず、世話をせず、かえって自らを養うゆえに民を虐げる姿を、牧者不在の状態としているのです。羊にとって、最も深刻で危機的状態とはどのような状態でしょうか。「彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣餌食となった。こうして彼らは散らされた。」(エゼキエル書34章5節)牧者がいないという状態です。羊である民は、外敵に脅かされ、絶えず自らでは満たし得ない欠乏に苦しみ、傷つき弱り果て、養われないゆえに死んだも同然の瀕死の状態に陥るのです。羊にとって、羊飼いがいないということほど悲惨なことはありません。まさに、イエス様がご覧になられたイスラエルの民も、現代を生きるキリストから遠く離れている人々も羊飼いのいない羊なのです。羊飼いのいない羊が、真の羊飼いのもとに帰ることができるならば、羊はいのちを得ることになるのです。教会の目に、キリスト者一人、一人の目に、羊飼いのいない羊の群れが映っているでしょうか。日本のみならず、世界にも羊飼いのいない羊が今も倒れているのです。

イエス様の深いあわれみ

イエス様ご自身は、羊飼いのいない羊の群れを見て深くあわれまれた。見ることによって深いあわれみが生じるのです。私たちの教会は若い世代がこの世界との接点の中で自分の人生を祈り、世界における宣教の現状を知り、羊飼いのない羊を見ることができるように、という祈りからビジョントリップという取り組みを行っています。若い世代が、イエス様がご覧になっているこの世界を実際に見るためです。全ての若い世代が宣教師になるべきであるとは思いません。しかし、全ての若い世代がイエス様の深いあわれみに触れ、それを自らの心とし、派遣されている場所において羊のいのちのために生きることは大切なことではないでしょうか。教会はどのような動機で宣教の働きを担うべきでしょうか。しばしば、イエス様から「良くやった良い忠実なしもべだ」と言われるために、という言葉を聞くことがあります。もちろん、やがてイエス様の御前において、このように言われる教会、キリスト者であるならば素晴らしいことです。私も結果そうありたいと願います。しかし、宣教の働きを担う動機としては、非常に自分本位な動機のように思われないでしょうか。結局、私が称賛されることを求めているかのようです。教会は、イエス様の深いあわれみを動機として、宣教の働きを担うべきでしょう。イエス様の深いあわれみとは、口先だけのあわれみではありません。内臓まで揺り動かされる、激しく疼くほどの同情心です。その深いあわれみは、積極的な関わりを生む、実際に行動を起こさずにはいられなくなるほどのあわれみです。羊飼いのいない死に絶える羊に対して、いのちを得るように、いのちを差し出された真の牧者なるイエス様ご自身の姿に表される愛に他なりません。ある程度信仰歴が長いキリスト者であれば、命じられている福音宣教の緊急性、必要性は繰り返し教えられてきていますし、当然理解されていることでしょう。では、教会はどれほどこの深いあわれみの心によって宣教の働きに突き動かされているでしょうか。このイエス様の深いあわれみに触れることによって、国内において、そして世界へと広がりをもって宣教の働きは前進していくのではないでしょうか。羊飼いのいない羊をご覧になり深くあわれむイエス様の深いあわれみによって、教会は羊のいのちのために派遣されていることを忘れてはなりません。

働き手の派遣のために

深いあわれみの心から、イエス様は弟子たちに次のことを命じられました。「収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(38節)弟子たちに祈ることを命じられているのです。その理由は、「収穫は多いが、働き手が少ない」(37節)というイエス様がご覧になられている現実にあります。まず、私たちキリスト者、一人、一人が収穫のための働き手であることを自覚する必要があります。私たちは自分とは関係のないところで、「働き手を送ってください」と祈るのではありません。「働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われた弟子たちが、次の章ではイエス様によって遣わされているのです。収穫のための働き手のために祈る時に、私たちは自分自身がそのために派遣されている今日を生かされているということを再確認すべきなのです。また、教会が収穫のための働き手を送ってくださるように祈る祈りは、教会建設、教会教育に深く関わっている事柄であることを理解する必要があるように思います。収穫の主は、キリスト者を働き手として派遣される御心をおもちです。それゆえ、教会は完成を目指す歩みにおいて派遣する教会を建て上げ、派遣意識をもったキリスト者を、次世代を育んでいく必要があるのではないでしょうか。定期的に宣教の必要性を訴える集会をもつことも大切でしょう。しかし、教会が、キリスト者一人、一人が毎日派遣されているという意識をもって「働き手を送りたまえ」との祈りの中に、職場で、家庭で、学校で生きることの方がどれほど大切なことでしょうか。収穫という言葉は、魂の刈り取り、救いを必要としている魂のことを意味していると理解できるでしょう。同時に、旧約聖書においては、世の終わり(終末)の審判を指し、神のさばきを指しています。終わりの時に向かう今を生きる私たちは、悠長に終わりの時を待っていてはなりません。時は迫っているのです。それゆえ、熱心になって働き手の派遣のための祈りをささげるべきでしょう。「ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように」と。

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