主なる神様からの問い

インドネシア派遣宣教師 田村 成幸

田村先生

「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」 ローマ書8章18節

私達は、今世界中で何故こんな事が起きているのかと、誰かに問いたいと思っているかも知れません。世界の状況は非常事態で大変な事になっています。しかし、聖書や世界の歴史から見てもこれらの事は度々起きており、大変な事ではありますが特別な事ではありません。そして、実は、この様な中で、主なる神様が我々に問うておられる事があるのではないかと示されています。

全てのクリスチャンの「礼拝」に関する問い

まずは、全てのクリスチャンに対する「礼拝」に関する問いです。その事が大切なものなのかどうか、失って初めて分かると言われています。今まさに、これまであった礼拝の機会が失われており、いつ通常通りに戻れるのかどうか見通しが立ちません。これまで普通に礼拝出来る事がいかに大きな祝福であり恵みであったか、と言う事です。

多くの教会がどうやって礼拝するのか、どの場所でどういった形式でするのか頭を痛めています。これは、日本でもインドネシアでも同じ様な問題です。感謝な事は、使徒の時代では会堂のある場所に行かなければ礼拝出来ませんでしたが、今ではウエブサイトでメッセージを聞く事も出来ますし、ネット上で複数の方との交わりも可能になっています。

礼拝の形式も勿論大事なのですが、より大事な事は「礼拝そのもの」ではないか、と言う事です。
今まで当たり前のように行われて来た礼拝が、主の前に正しかったのか、主に喜ばれるものだったのか、主の御前で最上の事としてささげられて来たのか、礼拝よりも奉仕が優先されていないか、と言う問いです。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23-24)

何度もお聞きになっている通り、礼拝は、ささげる行為であって受ける行為ではありません。自分が教会に来るのは、神様から祝福され恵まれる為(受動的)なのか或いは、神様へ自分自身をささげる為(能動的)なのか、ベクトルが全く違う事にお気付きでしょうか。前者は、まことの礼拝がささげられた結果であって目的ではありません。そして、自分をささげる事が礼拝であり目的であるなら霊とまことによってささげられているか、と言う事も問われています。

そこには献身の思いも大事です。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

主が、私達の救いの為にご自身の命をおささげになったのですから、同様に私達も自分をささげる事こそがまことの礼拝である、と言う事です。

更に、イエス様の身代わりの十字架と復活によって救われた、と言う事実がより鮮明に覚えられるならば、時が良くても悪くても喜んで礼拝をおささげする事が出来るのではないでしょうか。これら全てを考えた時、果たして今までの自分の礼拝がどうだったのか自然と見えてくるのではないか、また今後どう臨めば良いのかも分かるのではないかと言う事です。

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか‐‐あなたがたがそれに不適格であれば別です。」(2コリント13:5)

全人類の「命」に関する問い

次に挙げられるのが、全世界の人々の「命」に関する問いです。今、全世界は非常事態で大変な状況です。多くの方が病に陥り亡くなっています。その様な中で考えさせられるのが「命」に関してです。我々が生きている時代に於いてこれ程までの危機はありませんでした。まさしく「命」の危機です。現在、医療機関、医療従事者の方々は不眠不休で働きを続けていますが、それが無ければ甚大な被害に至ります。命の為の素晴らしいお働きで心から感謝申し上げます。しかし、霊的な命の危機は、世界がどの様な状況下にあっても毎日多くの方が失われている状態で火急の時です。

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:26)

ですから、死によってもたらされる事は霊的に命が失われている事を覚えて下さい。救い主イエス・キリストを個人的な救い主として信じていない人は、それが例え全世界を手に入れたとしても永遠の滅びであり、天国への道は、イエス・キリストのみです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

この「命」の危機にあって、如何に魂に向き合うかが課題だと思いますが、現実は、思う様な状況になっていません。3密を避けよ、ソーシャル・ディスタンスを守れ、多くの人と集まるな等と、むしろ機会が減っており難しくなっています。また過去もそうであったように、未来に関しても、困難な時代に人々は主の元に来ないと言われており、却って主に反発するとあります。その様な苦難の中でも我々は全世界の為に祈る必要があります。祈らなければ事は始まらず、祈り無くして祝福も成功も勝利もありません。よって、外への行動が制限されているなら、今はより一層祈るべき時なのではないかと言う事です。祈りを積み重ねる事により、時が来れば多くの実を結ぶ事になり、また祈りと共に御言葉により自身の信仰と霊的成長にもつながります。そして、時が良くても悪くても感謝して主にお仕えする事が出来ます。教会に於ける二本柱は「礼拝」と「宣教」です。霊的にも世的にも困難な時代の中で、これらの事がより一層我々の肩にかかっています。

結論

故に、我々は、御言葉により信仰に立つ。御言葉により悔い改める。これらは全てのクリスチャンが出来る事です。そして、御言葉により自分の罪を悔い改め、主イエスキリストを救い主として信じて救われる事は、全世界の人々が出来る事です。これらの事を主は望んでおられるので、主の御心と御旨に沿った歩みをしたいものだと思うのではないでしょうか。皆様の上に、神様の豊かな祝福がありますようにお祈り申し上げます。