過去の宣教メッセージ
パンを水の上に投げよ
アガペ聖書バプテスト教会宣教師 バーゲット ヨナタン
「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」伝道者の書11章1節
投資に対して100%の利益が保証されていたら、投資しますか?利益がそれよりさらに高額だったら、どうしますか?おそらく、もっと投資できるお金さえあればと残念がるかもしれない。
パンを水の上に投げると、いつかは戻ってきます。水の上にパンを投げるというのは、私たちには奇妙に聞こえるでしょう。伝道者の書の書かれた当時、水上には何があったでしょうか?貨物船です。見返しを期待してパン(穀物だろう)を船で輸送されることを描いているのでしょう。
穀物を輸送する時は今だ。今のうちに。あまり長く待つと、チャンスを逃してしまう。未来はあまりにも不確かだ。いつ病気になるか、いつ失業するか、誰にもわからない。次の地震がいつおこるのか、愛するあの人がいつ死ぬかもわからない。この説教を最後まで読めるかさえもわからないのだ。人生はもろく、一瞬にして大きく変わってしまうこともありえます。
しかし、ひとつ確かなことがあるのです。主のお働きのために献げるとき、主はそれを必ず報いてくださるのです。神の御約束は確かなのでそう確信します。神は私たちのすべての働きを注意深く見ておられ、それに応じて私たちを報いてくださいます。
心細くなるかもしれない
聖書の時代には、電話もインターネットもなく、迅速にコミュニケーションする手段がなかった。そんな中の王様のことを想像してください。物資を満載した船を送り出したが、毎年毎年、待てど暮らせど、なんの見返りもないままです。
そのような中、きっと次のように悩むこともあるでしょう。「あんなに穀物を一杯輸送するんじゃなかった。愚かだった。何の見返りもない。すべてが無駄だった。なんでこんなことをしたのか。」等と。
初めて船が戻ってきたとき、王様はさぞ嬉しかったに違いない。2歴代誌9章21節によると、ソロモンは船を出し、3年の長い年月を経てようやく船が戻ってきたと記されてある。聖書によれば、船は金、銀、象牙、猿、孔雀を積んで帰ってきたというのです。やっと、輸送の見返りを得たのです。
しかし、船が戻ってくるのを待っているうちに、落胆するかもしれません。毎年毎年、パンを水に投げ続けても、何の結果も見出せないとき、落胆のあまり、水にパンを投げるのをやめてしまうこともあり得ます。しかし、いつか船が戻り、見返りが得るのを期待して続けなければなりません。手にする前では十分にその素晴らしさを理解できないかもしれません。でも船が戻るとき、私たちが水の上にパンを投げ続けたことを心から喜ぶことになります。
宣教師から学ぶ
初めてこの聖句を見たとき、どういう意味だろうと思いました。聖書通読ではなく、広瀬宣教師のカード上で初めてこの聖句に気付かされたのです。先生はなぜこの聖句を用いたのだろうかと思ったが、先生が神の言わんとすることを理解していいたのです。
広瀬先生は自らが水の上に投げたパンのように遣わされたら、いつかさらなる報いを主から受けられることをちゃんと理解していました。先生は自分の人生をインドネシア宣教のために献げました。そこで35年間、福音宣教に励んでこられました。人生を無駄にしたと思う人もいたかもしれません。しかし、救いに預かった多くの魂を考えてみてください。なんと素晴らしい報いでしょう。多くのインドネシア人が地獄の裁きから救われ、永遠の命に預かったのです。神の与えてくださる報いは永遠の報いです。
最近、息子のテトスをブラジルに連れて行きました。息子は3ヶ月の宣教旅行のためにブラジルに行ったのです。そこで75歳の宣教師のお手伝いをします。この宣教師は40年以上もブラジル宣教に励んできました。彼は「水の上にパンを投げる」ことを今もやめようとはしません。新しいことに挑戦することを恐れないので、テント集会を始めたのです。ブラジルで失われた、滅びに向かっていく人々のために命を献げ続けているのです。息子のテトスがこのような宣教師と共に働けることを感謝します。
広瀬先生をはじめとする多くの宣教師たちは、宣教に命を献げ続けています。一人でも多くの魂がキリストを信じることを切に願っているのです。何年経っても、主が導かれるのであればどこへでも喜んで行きます。このような先生方の模範に倣おうとする他の兄姉の献身者が必要です。世の人々の救いのために自らの命を献げることを厭わない献身者たちです。これこそが、世界の果にまで主の福音をお伝えする唯一の手段です。
パンを水に投げる3つの方法
1・命を主に献げること。
自ら命のパンを持って宣教地に出かけていくことです。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)とイエスは述べられました。
2・献金を主に献げる。
海上輸送にはお金がかかる。船員には給料が必要です。宣教献金を通して宣教師を支援し、他の人々に福音のパンを届けるお手伝いができるのです。
3・祈ること。
祈りによって誰もが宣教に関わることができます。宣教には祈りは最も重要です。天候を支配する主は、船の航行を助け、守ってくださるのです。
手遅れになるうちに、日本や海外の失われた魂のために、心を込めて出かけ、献げ、祈ろうではありませんか。
メキシコシティからブラジルのサンパウロへのフライトを待っていた間のことです。空港の職員が仲間と朝食を食べていた。空港の食事は決して安くはありませんが、この人はトルティーヤ(メキシコのパン)の切れ端をハトに投げて与えていました。やがてそのニュースが広がり、1羽が2羽になり、最終的には6羽までとなったのです。この人は自分のパンの一部を喜んで鳥たちに与えていたのです。命のパンであるキリストを、私たちはどんなにか喜びとし、周りの人々に伝えるべきかと考えさせられたのです。時間があるうちに、他の人々に良い知らせを伝えましょう。その知らせは伝わり、主はその努力を益々豊かに祝福するに違いありません。
報いを与えてくださるという神の御約束を思い出してください。神がこの地上において報いてくださることもありますし、天において報いてくださることもあります。落胆してはいけません。パンを水の上に投げることを続けましょう。まだパンを水の上に投げていないのであれば、今日から早速始めてみてください。必ず主はその働きを報いてくださいます。

『キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」ヨハネの手紙 第一 3章16節
救われた調布BBCの宣教カンファレンスで私は「伝道者の90%は自分の国で働くが、世界の90%の国々は伝道者が足らず宣教師を必要としている」と知り衝撃を受けました。神学校入学前にフィリピンのジェサルバ師から海外宣教のチャレンジをいただきましたが、結婚が決まらなかったため、31年前独身で豊橋ひかりBBCに着任しました。(冒頭の聖句が召しのみことばです。)
前任牧師がペルーに派遣されるためでした。着任と同時に結婚は決まりましたが、主は京都BBCにおいて妻にも海外宣教の重荷を与えていました。救われる前から10年に及ぶ単身生活で、主は私の家事を訓練しました。
教会を存続させるために
翌年、宣教師を派遣した直後から教会の中心メンバーは移動し、自給不能となりました。当欄に「宣教のために強い自立教会を建て上げることが急務」とあり、強く同意します。すすき間風が吹き込む借家会堂でしたが、主は三人の子らを与えられ、彼らに楽しませ励ましてもらいました。当時は教会を存続させるために家族が生き残ることを優先しており、彼らに自炊を教え会堂清掃も手伝ってもらいました。私のバイトは交通誘導、のちに塾講師に転じ、次に妻が看護師として今も働いていま。自給できなくなった独立教会の窮状を訴えると、国内宣教委員会は種々のご支援をくださり、これがなければ続かなかったでしょう。妻はうつ病の診断を受け通院しますが、仕事を休んだのは2回、2年強でした。
英語のメッセージの必要
19年前、研修生として来豊されたフィリピンのBBF教会員が集われ、英語のメッセージが必要となり、毎聖日用意しました。長時間かかり頭は疲れ、宣教師の方々のご苦労が少しわかります。今日まで毎聖日説教準備は続き、主は私の英語力を訓練しました。やがて近隣に住む日系フィリピン人親族が大勢来会され、旧会堂は一杯になり会堂の必要が意識されました。その時まで身近にフィリピン人が住んでいることも知りませんでした。メソジスト教会員である彼らの信仰は世俗的で、バプテストの信仰を強調しましたが、一致はありませんでした。神道系の手かざし宗教団体が使っていた中古物件を見つけ、よい物があると驚きました。
会堂取得の道
14年前、末期がんで入院中の妻の父を見舞うため、私は父を連れ大雪の中を走行中、父は「不動産を買うなら援助する」と言います。帰りはギア一速固定、ブレーキ厳禁、道端の動けなくなった車をかわしながら恐い運転でした。
その前週、10年ぶりに件の物件を見たばかり。2階に40畳の礼拝堂を持つ特殊物件のため、売れなかったようです。東日本大震災が起き、私は網膜剝離で入院中、妻は一人で不動産会社と信用金庫の融資のため奔走しました。受難週に妻の父は召天し、改修工事後、夏の引越しは若いフィリピン人たちに助けられました。会堂を持てるとしたらこれしかないという道を、信仰の異なる異国人を用いて、主は開かれました。
教会経済の支え
数年前、妻は車で5分の格安(事故物件)の一軒家を見つけ、一番に内覧でき、その場で購入を決めました。私にとっては煩わしい二重生活でしたが、妻には必要な場所でした。3年前には駐車場だった隣地が売りに出され、放蕩息子の方法で父の資産が用いられ買うことができた。父は独居できなくなり11年前から同居、受浸、グループホーム入居、大腿骨骨折で入院、誤嚥性肺炎で飲食を静脈栄養に切り替え、最期の時です。主は父を認知症とともに用いて教会を経済的に支えられました。
フィリピンから日本宣教へ
5年前、コロナ禍とともに日系フィリピン人親族は全員が離れ、バプテストの一人だけが残りました。信仰の一致がなかった日本人も離れました。英語のメッセージは不要になりかけましたがやめる気になれず、欠席が多い兄に録音を送り続けました。3年前、妻はフィリピンからFBメッセージで、日本宣教を志すミンケ師を見つけました。彼らはBBFではないですが、信仰箇条20項はすべて同じでした(一人残った兄も同様)。フィリピンのバプテスト教会の多くは、すべて米国起源でJBBFと同じ立場のようです。
ミンケ師はデピュテーションが短くサポートは少額でしたが、当教会の空室を提供することができ、フィリピンから一番乗りとなりました。領事館の職員は「あなたは宗教ビザで最初に日本に渡るフィリピン人だ」と言いました。ミンケ師から同じく日本宣教を志すエバスコ師、タギアン師を紹介され、関東地区で働きたい彼らに千葉県のJBBF諸教会を紹介し、いずれも昨年、短期滞在と宣教師としての入国を果たされました。あと一人も準備中です。ミンケ師を除く3組の宣教師たちは、日本のバプテスト教会についてほとんど何の情報も交わりもない中で、1~2年前からすでにデピュテーションを始めておられ、大変驚きました。主はフィリピンから日本へ宣教の門を開いてくださいました。
世界宣教のための訓練
日本を目指すフィリピン人は日本を、清潔で秩序があり成熟したアジアの文化先進国と見ています。それで来日すると、まったく英語が通じないことに驚きあわてます。受入教会は英語を使って日本語を教えることになりますが、塾で教えた経験は用いられます。主は世界宣教のため必要な訓練を与えておられました。Ⅰテモテ 4:4「 神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。」
主のお言葉を信頼して
「強い自立教会を建て上げる」目標は未達成です。主のお言葉に対する信頼と献身が足りないからでは、と思わされています。無意識に自分の力を頼んで来たのかもしれません。主に依り頼まないから、目標を低く設定してしまいます。悔い改めて、お言葉を信頼し歩みを続けます。
あらゆる国の人々を弟子としなさい
カルバリの丘バプテスト教会牧師 藤沢 幸人
「ですから、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなた方に命じておいた全てのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方とともにいます。」マタイ28:19-20
家内と私がカルバリの丘バプテスト教会から招聘を受けて、伝道師として赴任したのはちょうど10年前になります。その頃、カルバリ教会は教会員が6人、礼拝出席者は平均4人でした。無牧になってから2年半が経過していました。教会は無牧になって徐々に礼拝の人数を減らしていったのでした。
私はその前年に説教者として招かれていたことがあって、その時は自分が仕える教会になるとは思ってもいませんでした。私には自分の計画があって、カルバリ教会はその選択肢にはなかったのです。しかし主のお導きは不思議なものでした。私たちが伝道師として仕える道がことごとく閉ざされ、伝道師として要請されていたカルバリ教会しか進むべき道がなくなってしまったのです。
着任した私たちが先ずすべきことは、礼拝を活気のある集会にすることでした。20年前に教会が始められた当初の礼拝の人数が14人だったそうなので、少なくても10人が集う礼拝にできないものかと思いました。
神様のお導き
神様のお導きは本当に予想外でした。私たちが赴任した翌週には近所に住む70歳くらいの男性が与えられました。教会としては数年ぶりの新来者でしたが、女性っぽいしぐさの男性でした。そして翌月には一人の30歳台のアフリカ人男性が与えられました。清水の町を歩いていてもなかなか黒人には出会わないのに、数少ないアフリカ人が礼拝に見えたのです。
彼は熱心なクリスチャンでした。教会に来るなり、すぐにお祈りを数分間捧げるのです。その人は翌週、別のアフリカ人の友人の男性を連れてきました。その連れられて来た男性が、現在家族でカルバリ教会で仕えてくださっている兄弟です。
その人達は西アフリカのカメルーン人で、通常は英語で話します。カルバリ教会には、娘さんが米国人と結婚し海外で生活されている信徒さん2名がいました。ですから教会として外国人に対する違和感は比較的ありませんでした。
しかし、問題は私たち伝道師の方でした。英語が全く話せません。アフリカ人とのコミュニケーションは、最終的には身振り手振りでした。神様のお導きは私たちの希望や予想をはるかに超えていて、そのご家族ともう一組のカメルーン人ご家族がそれから約8年間集っておられ、現在では彼らが礼拝の司会を始めとするご奉仕の中心となって働いています。結果的に、彼らが司会をする礼拝は英語で進められる礼拝です。賛美も英語の聖歌集を10冊以上大泉のめぐみバプテストテンプルからいただくことができましたので、日本語と英語で同時に賛美しています。
昨年までは、日本語と英語の方々が半々でしたが、今年になって教会員が4人増えました。内訳は、英語の方が3人、日本語の方が1人で、全員フィリピン人です。長い間祈っていた通訳ができる人も与えられて、教会全体の意思の疎通が大変スムーズになりました。日本語と英語が自然に混ざり合った新しい教会がようやくスタートしようとしています。
どんな人でも受け入れる
カルバリ教会の外国人の信徒の皆さんは、母国で熱心に教会に集われていた方々でした。カメルーン人の彼が集うナイジェリアの教会は300人が集う教会だそうです。皆さんが育った教会は民族や国籍の違いはありますが、それぞれが熱心に教会生活をしてこられたクリスチャンです。
外国人の人たちは、日本で礼拝できる教会を求めています。それには先ず、自分たちを受け入れてくれる教会でなければなりません。外国人に対する偏見が強かったり、日本の教会の習慣に合わせられる人でなければ受け入れないという姿勢では、彼らを受け入れることはできません。それは彼らを拒絶したことになります。
そういう意味では、新しい伝道師を迎えてどんな人でも受け入れて、これから教会を造って行こうとしていたカルバリ教会だから、彼らを受け入れることができたのかもしれません。教会とは、伝統的な建物や習慣ではありません。教会とは集う人たちです。ですから、新しい教会員が加えられたら、新しい教会に変わって行くのは当然のことなのです。
マタイの福音者によれば、イエス様が天に帰られる時、弟子たちに一つのことを命じられました。それが冒頭のおことばです。私たちクリスチャンはイエス様の憐れみによって個人的に信仰を持つことができました。それは神様を知れば知るほど、どれほど素晴らしいお恵みであるかを、私たちは実際に体験しています。
しかしこのおことばによると、イエス様は、私たちそれぞれが信仰を持つことが、その人にとっての最終的な目的ではないことを教えています。信仰が与えられた私たちは、その次に、あらゆる国の人々を弟子としなければならないからです。それが私たちクリスチャンの最終的な目的です。それが「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」という命令なのです。
先ず、日本の宣教を
それでは、私たちはどのようにしてあらゆる国の人々を弟子とするのでしょうか。第一に考えられることは、宣教師をあらゆる国に派遣して福音を宣べ伝えることです。そのためには宣教師を養成する神学校が必要です。日本国内で教会を開拓して教会を増やし、神学校をそれぞれの教会が支えることが必要になってきます。
私たちJBBFの群れができたのは、5組による若い宣教師夫婦たちが戦後の復興中の日本に派遣されて教会を建ち上げていった結果であると聞いています。20代前半の若い宣教師たちは、熱い情熱を持って日本の各地に散らばり、福音宣教のために働いたのだとお聞きしています。そのようにして70年が経った現在80の教会が、宣教の最前線としてその役割を果たしているのです。
日本宣教は、米国のBBFIの宣教団体だけでなく、多くの国々からたくさんの宣教師が日本に派遣されました。ですから日本はあらゆる宣教団体による教会が乱立しています。それでは日本は、多くの教会が建ち上げられてキリスト教国になったのでしょうか。そうではなかったのです。戦後の日本宣教は成功したとは言えません。全世界的な比較では、日本におけるキリスト教徒の数は全人口の1%に満たず、キリスト教が根付かなかった国という評価になっているからです。
私たちは今、語弊があるかもしれませんが、外国に宣教師を送っている場合ではないのです。先ず、日本の宣教を頑張らなければならない。今こそ福音が日本に宣べ伝えられるべきです。なぜなら、全人口の1%未満のクリスチャンの内訳は、お年寄りが多く若者が少ないからです。将来が暗いのです。
私たちのカルバリ教会は、日本の教会としては異色かもしれません。日本の教会らしくなく、英語と日本語が行き交う教会です。しかし見方を変えれば、カルバリ教会こそ日本にありながら、「あらゆる国の人々を弟子としている」イエス様の命令を実践している教会と言えるのではないでしょうか。私たちは、いろいろな民族の人たちと、ともに仲良く教会生活をしているのです。
自立教会を建て上げる急務
浜聖書バプテスト教会 宣教牧師 山宮利忠
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。エペソ人への手紙 4章12節
この度宣教クォータリーの原稿を依頼され、1991年の宣教クォータリーの巻頭メッセージを開いてみました。1987年から8年間宣教委員会の責任を負わせていただいた33年も前の巻頭メッセージです。
任期2期8年間の恵みは大きく、宣教クォータリーの継続発行、宣教センターの設置、宣教ハンドブックの発刊、宣教委員会によるインドネシアと台湾をそれぞれ宣教地視察、米国での宣教委員会との交わりと宣教師志願者学校参加、そして田村、吉田、広瀬、堺、稲葉5組の宣教師の派遣式、私を含めて5名の委員の先生方と共に10組の宣教師の派遣をビジョンにしてご奉仕をさせていただいた時期でした。
私の当時書いたクォータリーのメッセージは、今も必要なメッセージであると思わされ、そのメッセージの趣旨は自給自立教会の建設こそが海外宣教の土台であるというものでした。教会の自立は、現在も宣教活動において急務であると思われます。
第一に、宣教の目的は、主のおからだなる教会を建設することにあります。
「それは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」(エペソ4:12)
エペソ書によれば、主がお立てくださった伝道者の使命は、教会を建て上げることにあると教えられています。宣教の第一目標は、たましいの救いであることは当然のことですが、救われたたましいが主のおからだなる教会につながり、養われ、育てられ、訓練されて神の栄光を現す器として用いられることが主のご計画なのです。
驚くべき成長を示した初代教会の姿には、明確に聖徒の成長と数の増加が記録されています。
「そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。」(使徒5:14、6:7および9:31も)
数を求めて伝道することは本末転倒ですが、教会の成長には、より多くのたましいの救いが伴います。全ての人が悔い改めに導かれ、救われることが主の求めであれば当然のことです。そのためにこそ、主はご自身をお献げになりました(エペソ5:25)。聖徒が神の家に集められ、成長した結果、救われるたましいは増加しました。
教会は数ではないとよく言われますが、それは聖書的でしょうか? アメリカ諸教会訪問の際、多くの聖徒が集まる祝された教会の牧師に「教会は数ではなく、質でしょう?」と問うた時に、その牧師は「質が良ければ、数は必然でしょう」ときっぱりと答えられました。
課題は、たましいがしっかり教会に留まり、教会を自分の霊的な家として育まれていくことです。それは、霊的・信仰的指導がないと実現しません。すなわち適切な牧会がないと難しいのです。また、教会は会堂ではありませんが、救われるたましいが多く集まれば、当然会堂が必要となり、その会堂は教会の存在を証しし、さらに多くのたましいに知られて、救われる者も起こされるのです。貧しくてみすぼらしい会堂での伝道活動より(実は私たちも最初はそうだったのですが)、主の家として相応しい美しい会堂となれば、伝道の助けとなるに違いありません。そのために教会には力がなければなりません。
まず教会を築き上げることが、生まれた教会の使命なのです。
第二に、宣教の使命は、力ある教会を建設することです。
「そればかりか教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ1:23)
弱い身体では十分な働きはできません。キリストのおからだである教会も弱ければ十分な働きはできないのです。
私も年を加え、かつ病を負い、若い時にできたことができなくなりつつあります。やはり健康体であることこそが重要なのだと痛感する日々です。教会も同様、健康体であればより良い働きができるわけです。
主のおからだとしての教会に一致と力があれば、極端に言えば何でもできる、と今まで牧会してきた経験を通して証しすることができます。一致がなければできることもできないのです。
聖徒の集まりである教会が成長を遂げて、自給自立、自主独立を果たせば、自らの働きを支えることができるだけでなく他の働きにも支えの手を伸ばすことができ、献身者も起こされます。
わずか1%のクリスチャン人口という現実の中で、力ある教会を建設することの困難さは、充分に経験してきました。時には呟き、諦め、くすぶり、燃え尽き、言い訳もありました。しかし、主の命令とみこころは、全てのたましいが悔い改めて救われることなのです。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)。このみこころを変えることは、私たちにはできないのです。
力のある教会を建設することができれば、牧師を豊かに支え(Ⅰテモテ5:17)、宣教師をより多く支えることができ、伝道所を生み出すことができます。母なる教会がその子どもである伝道所を生み出せないとしたら、主はお喜びくださるでしょうか。
第三に、教会に必要なのは、宣教のビジョンです。
来日宣教師からは、ビジョンの必要を強く教えられました。私たちにビジョンが足りなかったということなのでしょう。
主のみこころは、全世界に福音を伝えることであり、「使徒の働き」によれば、最初の教会の模範は進展、成長、拡大です。この志を持つことが私たちには必要なのです。しかも具体的なビジョンが必要です。
以前、献身して神学校に学んでいた学生にビジョンの必要性を語ったことがありましたが、不評でした。神のために大いなることを期待する志が失われつつあるように思えて残念でした。いつの間にか困難に潰されて消極的になり、神のことばだけを忠実に伝えてさえいれば良いのであって、ビジョンを持っても実現は無理だという風潮が蔓延しつつありました。
50年間の横浜での牧会を終えて、宣教牧師の立場で、「伝道者の墓場」などと言われている茨城県つくば市での伝道に遣わされました。たしかに都会での伝道との違いを痛感する8年間でしたが主に期待し、自分のできる最善で主に仕えた結果、主は憐れみをもって信徒を与え、会堂を与え、後継者を与え、自給自立教会として独立を可能にしてくださいました。伝道生涯の終末期を迎えた私たち夫婦にとっては、大きな励ましと慰めでした。ただただビジョンをもって真剣に主にお願いして働いただけだったのです。
復活の主は、今も生きてお働きくださいます。
「イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)
今、必要なのは主に在るビジョンであり、主への期待です。これは、主への信頼とも言えるでしょう。
私たちの働きは、神にどれほどの期待をしつつ全力を尽くすかなのではないでしょうか。
福音宣教の目的は、たましいの救いと主のおからだである教会の建設です。しかも強い自立教会の建設です。これを実現するには、現実を見れば程遠いのでしょうが、主を見つつ、主のみこころに従うのです。そして、全能の主を信じて求めるのです。
海外宣教の祝福は、教会の自給自立にかかっています。
これは、急務なのです。
次世代が宣教に燃えるには

仁戸名聖書バプテスト教会伝道師 小林 太秀
「主はヤコブのうちにさとしを置きイスラエルのうちにみおしえを定め私たちの先祖に命じてその子らに教えるようにされた。後の世代の者生まれてくる子らがこれを知りさらに彼らがその子らにまた語り告げるため。」詩篇78篇5~6節
後の世代の者を教えなさい
「後の世代の者を教えなさい」これは神がイスラエルの民に繰り返し命じられたことの一つです。またパウロもテモテに向かって「私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。」(Ⅱテモテ2:2)と言い、次なる働き人を育成するように言いました。ところでなぜ聖書は後の世代の者を教えていくことを重要なこととして教えているのでしょうか。その最大の理由は後の世代は自然には育っていかないからです。もし私達が何もしなくても後の世代の者が自動的に育っていくのなら、神はこれほどまでに繰り返して「後の世代の者を教えなさい」ということは言われなかったでしょう。もちろん「門前の小僧、習わぬ経を読む」ということも事実でしょう。私自身も牧師の子供として生まれ、日曜日は教会に行くなどといった生活習慣は自然と身に着いていきました。しかし自分自身の信仰の確立や献身について振り返った時、ジュニアキャンプや青少年のためのプログラムから大きな影響を受けたことを覚えています。それらは後の世代を教えるために“意識的に計画されたプログラム”でした。誰かが後の世代のためにキャンプなどを計画し、犠牲を払って奉仕してくださったので私は信仰的に大きく成長できました。
「後の世代は自動的には育たない」が真実であるなら、宣教に対する重荷も自動的には与えられないということになります。特に海外宣教は私達の日常にはありません。後の世代が宣教に燃やされていくには、海外宣教について知り、それを自分のこととして受け止めていくことができるような体験が必要となってきます。特に若い人々の信仰成長にとって宣教の重荷を持つことは大変重要です。なぜなら人生において最も重要で価値あるものは何か、ということがはっきりしていなければ、それほど重要でなく大した価値もないようなものに人生を費やすようになってしまうからです。この世には若い人の興味を惹きつける様々なものがあふれています。しかし私達の時間やお金には限度があるので、何に時間とお金を費やしていくか賢く取捨選択をしていかなければなりません。その際の取捨選択の基準は「自分にとって価値あると思えるかどうか」です。人は自分にとって価値があると思えるもののためなら喜んで時間とお金を費やしていくことができます。若い人は教会が真面目臭くて楽しくないから教会から離れていくのではありません。教会よりもこの世が提供してくれるものの方が自分にとって価値があり、優れたものだと思ってしまうから教会を離れてしまうのです。
福音宣教の働きの価値
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3:16)とあるように、神様はイエス様をお与えになるほど失われた魂を救うことに価値を見出していました。イエス様はご自分の命を犠牲にしてまで人間を救おうとされました。神様の目から見て失われた魂を救うこと以上に重要で価値ある働きはないのです。そしてこの福音宣教という価値ある重要な働きを行うことができるのは救われたクリスチャン以外にいません。私達が他の人よりも先に救われたのはまだ救われていない人に福音を伝えていくためです。若い人が若い時に救われたのにも神様の計画と意味があります。若い人にはまだ多くの時間が残されています。その長い人生を福音宣教のために費やしていくことができるのは素晴らしい恵みだと思います。もし若い人が本当にこの福音宣教の働きの価値を見出すことができるなら、自ら進んで教会に通い、聖書を学び、奉仕をしていくようになるでしょう。またもっと神様の力と助けを求めて熱心に主を祈り求めるようになっていくでしょう。そして自分の進路を考えるにあたっても当然、宣教師や牧師という選択肢も含まれ、そのことについても祈るようになるでしょう。しかしもし若い人が福音宣教に価値を見出すことができないなら「教会生活は必要最低限にしておいて、世のことに沢山エネルギーを注ごう」ということになってしまうのではないでしょうか。若くして救われたという恵みを無駄にしてしまうのはなんと大きな損失でしょう。神様はその人を用いたいと願っておられて、その人を通して救われるはずの人がいたかもしれません。しかしそれを全く無視してしまっているのです。それはあたかも親切なサマリア人の例えに登場する祭司やレビ人のようなものです。彼らは聖書知識には精通していましたが、目の前に横たわっている死にかけの旅人を救おうとはしませんでした。「自分にはもっと他にやるべきことがある」と考えてしまったのがその一因でしょう。神様は彼らにこう問われるのではないでしょうか。「目の前にいる死にかけの人を救うこと以上にやるべき大切なこととは一体何なのか」と。命を救うことの価値や重要性が分かっていないと優先順位がおかしくなってしまうのです。これは失われた魂についても言えることではないでしょうか。
若者が宣教に重荷を持つために
さて、後の世代が自動的には育たないのだとしたら、宣教に対する重荷が与えられるような若者向けのプログラムが必要になってきます。後の世代を育てることは主から与えられた私達の責務なのです。感謝なことにJBBFでは海外宣教委員会の発案により、青少年宣教キャンプが2008年より開始され1回も途切れることなく毎年夏に行われています。また諸教会でも若者が宣教に重荷を持つための様々なプログラムが行われていることでしょう。多くの人の献身的な奉仕によって宣教キャンプは支えられています。宣教キャンプに限らず次世代の育成には多くの労力と時間がかかります。これはすぐに結果を見ることができない困難な働きです。しかしすぐに結果が見えない困難な働きだからこそ、後回しにせず今から地道に取り組んでいく必要があるのです。そこで必要とされるのは主のため、次世代のために自らをささげる働き人です。未来のために今をささげる人が求められているのです。
今日をささげる
インドにあるコヒマという場所は第二次世界大戦中における激戦地の一つでした。各地から招集された兵士達は敵の手から祖国と愛する人を守るために必死に戦い、命を落としていきました。コヒマにはそこで命を落とした兵士4064名の墓が建てられており、その墓石には次の言葉が刻まれているそうです。「故郷に帰ったら家族に我々のことをこう伝えて欲しい。“あなた方の明日のために我々は今日を捧げた”と」。未来はこのような献身的な人達によって築かれていくのです。明日の宣教を担う次世代のために私達も今日をささげていこうではありませんか。
ペルシアの離散民
名古屋聖書バプテスト教会 上田 平安

「ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように。」ネヘミヤ記1:11
ペルシア帝国に離散していたユダヤ人
今から2500年前、ペルシア帝国がアジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸をまたにかけ、「史上初の世界帝国(阿部拓児氏の表現)」として君臨していました(エステル記1:1)。当時、かつてのイスラエルを含む地域は、アラム語で「アバル・ナハラ(エズラ記 5:3原典)」と呼ばれる行政区に編入されて国家的な独立を失い、ユダヤ人たちは各地に離散して生活していました(エステル記9:16)。というのも、紀元前587/586年に、バビロン王ネブカドネツァル軍の侵略によってエルサレムは既に陥落しており(第2列王記25:1-12)、イスラエルの地における王国の制度は、終焉(しゅうえん)を迎えていたからです。残虐な侵略者たちに降伏したユダヤ人たちや、その他の戦火をまぬがれた者たちも異国の地に捕え移され(第2列王記25:11-12)、ユダヤ人たちは祖国を失って離散民となってしまっていたのです。
ペルシア帝国における離散民の哀願
エルサレムを廃墟とし、多くのユダヤ人を捕らえ移したバビロニア帝国は崩壊し、メディアと合体したペルシア帝国が世界の覇権(はけん)を握りました(ダニエル書8:1-20)。ペルシアが世界を治めるその時代には、ユダヤの離散民が帝国の心臓部で活躍していました。若い時分にバビロン捕囚を経験し、バビロニア帝国からペルシア帝国へという時代の転換期を経験したダニエル(ダニエル書1:1-12:13)、ペルシア王アルタクセルクセスに献酌官という責任ある立場で仕えたハカルヤの子ネヘミヤ(ネヘミヤ記1:1、11)、クセルクセス王の寵愛(ちょうあい)を受けたエステル王妃(エステル記1:1-9:32)、クセルクセス王の次の位に就き偉大なる者と称えられたモルデカイ(エステル記10:1-3)をその例として挙げることができます。
ダニエル、ネヘミヤ、エステル、モルデカイに共通していたのは、同胞を思って哀(あいがん)したということでした。ユダヤ人たちの惨状を嘆き、その嘆きが哀願へとつながりました。廃墟となったエルサレムの方角に窓を開いて祈ることを良き習慣としていたダニエルは、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が70年であることを悟りました(ダニエル書6:10、9:2)。そして、彼は「追い散らされた先のあらゆる国々にいる、すべてのイスラエル(ダニエル書9:7)」のことに思いをはせ、深い悔い改めをもって、廃墟となったエルサレム神殿のすみやかな復興を神に哀願しました(ダニエル書9:1-19)。ネヘミヤもまた捕囚の生存者たちの困難と恥辱(ちじょく)を嘆き、城壁や城門が焼き払われたエルサレムを思って主に嘆きの祈りをささげ、アルタクセルクセス王に都の再建許可を願ったのです(ネヘミヤ記1:1-2:5)。さらに、ペルシア帝国全体に離散しているユダヤ人たちがジェノサイド(=集団虐殺)による民族消滅の危機に瀕(ひん)しているとき、モルデカイは帝都スサで粗布(あらぬの)をまとって嘆き、世界中のユダヤ人たちもまた悲劇の通達を知って、断食をしながら悲しみの声をあげました(エステル記4:1-3)。また、ペルシア帝国のすべての州において、ユダヤ人が老若男女すべて根絶やしにされる悪夢の日が迫る中、エステルは命を賭(と)して世界帝国の王クセルクセスにユダヤ人の助命を嘆願して聞き入れられたのです(エステル記7章)。嘆く力、哀願する力を主によって与えられた離散するユダヤ人の声が世界に鳴り響き、ついに天の神が動かれたのです。ペルシア帝国の時代、多くのユダヤ人たちが祖国に帰還し、エルサレムの神殿は再建され、民族的消滅をまぬがれ、エルサレムの城壁も建て直されるという奇蹟が起こりました。
「離散民化」する世界
ところで、ある宣教学者が21世紀の人口学的特徴は世界規模の「離散民化」にあり、それに応じて宣教のあり方も変化しつつあるという見解を提示しておられました。バビロン捕囚によって捕らえ移された人々が離散民としてペルシア帝国に生きていたことを学びましたが、現代では、人々が内戦、飢饉、宗教弾圧、政治的、経済的理由等によって空間的な移動を余儀なくされるという現象が、世界中で大規模に起きているのです。そして、多くの人々が祖国を離れて「離散民」として生きているという現実が、21世紀のひとつの特徴であると言われます。2000年の統計では移民の数が世界総人口の3%でしたが、2020年の統計ではさらに増加して3.6%になりました。
ペルシア語圏の離散民
かつてアケメネス朝ペルシアの主要な地域であったイランやアフガニスタンも、「離散民化」の歴史をもつ国々です。イランでは1979年にイラン革命が起こり多くの人々が祖国を離れました。同年、ソビエト連邦がアフガニスタンに侵攻して内戦が始まり、アフガニスタン全土で600万人が難民となりました。また、最近では2021年8月、駐留外国軍の撤退にともない、イスラム主義勢力のターリバーン(Ṭālibān)が復権して、数十万人規模の避難民が発生したことは記憶に新しいでしょう。名古屋市でもアフガニスタンの方々が事実上の難民として生活をしておられます。
私事ですが、ずいぶん前から、ペルシア語を話す人たちに特別な感情があります。近所にイラン人の家族が住んでおられたり、高校時代の親友がイランにルーツがあってペルシア語をよく教えてもらっていたのがその理由だと思います。2001年にアフガニスタン紛争が勃発してからは、イランだけでなく、ペルシア語(公式名称:ダリー語)話者が多く住んでいるアフガニスタンにも興味をもつようになりました。伝道者になってからは、主のお導きにより、公立の小学校などで、ペルシア語を話すイラン人やアフガニスタン人の日本語指導や生活支援をする機会も与えられ、ペルシア語圏の方々がさらに身近になりました。しかし、残念なことに、アフガニスタンやイランから来日された方々の中には、政治や宗教の理由で、国を離れざるをえなくなった事実上の難民も多く、「離散民」としての悲しみに共感したいという感情も芽生えています。
結語
祖国に帰ることができない方々の気持ちを理解することはできませんが、ひとりのアフガニスタン「難民」の児童が、ペルシア語訛りのたどたどしい英語で私に言った次の言葉を忘れることができません。”I am very lonely, sad, and angry.”(僕はとてもさびしいし、悲しいし、怒っている。)祖国を離れて生活せざるをえなくなった子どもたちのたましいの声を聞いた思いがしました。
名古屋聖書バプテスト教会には、祖国を離れざるをえなくなったペルシア語圏の方々が、時折、礼拝や特別行事に参加してくださいます。福音の種を少しずつまいています。まだ信仰告白をした方はおられないのですが、いつか、ペルシア帝国に住んでいたあのユダヤ人の離散民たちのように、異国の地で主に叫び求め、主に真の救いを哀願する者となれるようにと願います。世界中で離散民として暮らしておられる方々に、まことの幸(さち)がありますように。


