編集後記

今回ご紹介した二人の来日宣教師の証の中に、日本語習得の難易性について触れられていました。私は来日宣教師の牧会のもとに育った一人なのですが、こんな思い出があります。「兄弟、あなたが書いた救いの証しを読みましたが、字が間違ってましたよ。」と宣教師に誤字を指摘され、顔を真っ赤にして慌てたことを思い出しました。裏を返せば、日本人の誤字を指摘することが出来るほど、その宣教師は語学習得のために多くの時間と情熱をもって、自身を水の上に投げていたということです。その信仰による投資を主が報いて下さり、宣教地に教会を起こしてくださり、異邦人宣教師に誤字を指摘された日本人を召し、伝道と教会形成の任に遣わされたのです。まさにいつの日か、水の上に投げたパンを見出させてくださる主の導きです。

いま私は、牧師としての任務を主と教会から賜っていますが、果たして教会員たちは、宣教についてどのような重荷、ビジョンを担っているだろうかと、改めて考えさせられました。

今後教会内にどのような宣教の文化を起こし、育み、後世に伝えていくのか、自身を主の水の上に投げて行こうと思います。