2021年・春号2022-06-28T13:32:27+09:00

宣教クォータリー

2021年春号

 

編集後記

今回は国内外における様々な「宣教の実」を覚える記事を掲載させていただきました。信教の自由が保証されているのに「伝道者の墓場」と呼ばれる地域があり、教会のための土地を得ることが困難な地域があり、異教が国政をつかさどる地域がある。どれを取っても宣教活動に消極的要因が伴う地域ですが、福音の種をまく者たちの働きは、主に報いられるもので、喜びと共に宣教の実がなる様子を拝見させていただきました。「無駄」「無理」「乏しい」と思ってはいけないんですね。不利な状況や条件に悩まされたとしても、国内外どこででも、遣わされたところでしっかり種を蒔く。この姿勢こそが、「宣教の実」とその喜びに至る最善策なのだと励ましを得させていただきました。投稿くださった皆様に、謹んで感謝いたします。

 

感謝と祈祷

インドネシア派遣宣教師 入江 一義

● 近況報告 ●

約一年の日本での療養生活を終えて、6月4日に義雄先生となおみ先生と共にインドネシアに無事に戻ることができました。不在の牧師館に泥棒による盗難が何度もありましたが、戻ってみると被害が思ったよりひどく、大きなものから日用品の細々した物まで盗って行かれたので何かと不自由してますが、生活に必要な最低限の調達と宣教師館の補修作業を義雄先生と現地の方々が助けています。

● 祈りの課題 ●

数週間は義雄先生となおみ先生がおられますが、その後の生活が守られて過ごせますように、また、今後の働きの導きが具体的に示されますように続けてお祈りお願いします。

 

 

ハワイ派遣宣教師 上久保 崇

● 近況報告 ●

イースター礼拝には、日曜学校の生徒の同級生とお母様と一組のご家族の新来会者がありました。その後もこのご家族は礼拝に出席されていて、息子さんは中高生会にも参加しています。

昨年の夏からお仕事のために2年の予定でハワイに来られている堀本ご一家の眞太郎兄(15才)、真桜姉、美桜姉(13才)のバプテスマ式が行われました。三人は日本での教会生活(船橋、沖縄、北海道)を通してすでに救いの決心とバプテスマの思いが与えられていて、ハワイで明確な決心へと導かれました。日曜学校では、夏休みに合わせて子供たちの出席の励ましと霊的な成長のためにサマースペシャルを行ないます。日曜日ごとにオリンピックに合わせた「サインアップ(救い)、チームアップ(教会に加わる)…、フィニッシュアップ(献身)」のテーマでのメッセージを通して、主と教会につながることを学んでいきます。子供たちは出席や暗唱聖句に応じての金や銀、銅メダルを目指します。

● 祈りの課題 ●

①9月の24周年記念礼拝とファミリーキャンプの準備と祝福
②それぞれの場所にいる家族に主の導きと守りがあるように
③共に教会の働きをしてくださる伝道者招聘の導き。

 

 

香港/東アジア派遣宣教師 吉田 正治

● 近況報告 ●

3月、4月と日本からの兄姉の訪問をいただいて、励ましを受けました。

3月には、病気の治療で一月から帰日していた淳子師が、香港に戻り、通常の体制になりましたが、治療は続くので、6月には再帰日しなければなりません。イースター、コーナーストーン21周年礼拝と、連続二週で、新来者8人、救いの決心者が3人が与えられました。「喜びに溢れる教会」を目指して、22年目の歩みが始まりました。

● 祈りの課題 ●

①淳子師の健康
②GBELS(フィリピンの働き)とグレース姉妹のため
③8月の青少年宣教キャンプの準備のため

 

日本からの兄姉の訪問

 

インドネシア派遣宣教師 田村 成幸

● 近況報告 ●

昨年、スラバヤの教会が組織独立して今後の目処がつきましたので、次の開拓候補地であるバリ島での宣教準備をしております。バリは、インドネシアでは特有の地域でここだけは、ヒンズー教が90%を占めておりイスラム教と比較しても若干穏健です。ただ、偶像礼拝をしていますのでバリ全土は、偶像に満ちた島です。

今年の7月からバリに転居して働きが始まります。既にバリでの居住地も決まり、数名の方ともコンタクトを取りながら教会建設を目指します。神様の祝福と恵みが豊かにあります様にお祈り下さい。

● 祈りの課題 ●

①インドネシア宣教の祝福と拡大
②ジャカルタ、クランジバプテスト教会の祝福
③スラバヤ、スラバヤ南バプテスト教会の祝福
④バリ島での開拓伝道の祝福
⑤救われていない田村の親兄弟、親族の救い
⑥田村家族の守りと祝福。家内の健康のため

 

 

インドネシア派遣宣教師 広瀬 憲夫

● 近況報告 ●

3月中旬から一時帰国、おもにご依頼を下さった諸教会に訪問させていただいた。健康診断を受けて特に問題は見つからなかった。個人的には新型コロナの軽い後遺症らしい倦怠感、集中力低下を感じる。6月25日再出発。

フェローシップミーティングの実施で活躍した青年たちが、メダン・ビンジェイ・スタバッの諸教会合同の青年会を企画実行、2ヶ月に一度で行っている。中高生の成長も期待。

● 祈りの課題 ●

①ダニエル兄の神学校卒業が来年に。学び・訓練と費用の満たしのため
②メダン北部に伝道拠点が与えられるように

 

諸教会合同青年会

 

台湾・東アジア派遣宣教師 鈴木 しのぶ

● 近況報告 ●

2024年のイースターも当日の早朝に山頂公園で小さな集会がありました。昨年はまだバイクの免許もなく、貸自転車に乗り、事前に現地に行く練習をし、当日も現地で台湾人の姉妹と待ち合わせたことを思い出しました。この1年半でいろいろなことを一人でできるようになり、主の助けと皆様のお祈りに感謝しています。山頂教会ではイースターや母の日に因んだ学校・施設訪問があり、私も数回、運転手やウクレレの奏楽をしました。ウクレレは、未信者の台湾人女性Lさんと共に、韓国人宣教師夫人から引き続き習っています。また、友人が知り合った台湾人の女子大学生や、私の中国語の先生に福音をお伝えする機会がありました。ある米国宣教師夫人とご一緒に、台湾人女性に福音をお伝えする機会もありました。現在の予定では、毎日学校に通い中国語を学ぶのは来年初め頃までとし、その後は個人レッスンに変えてミニストリーの時間を増やしたいと願っています。来年の具体的な働きについて主の導きがあり、主に従うことができるようにお祈りください。引き続き神様が置いてくださる現場で、主の恵みとまことを体現し、人々にお伝えするようにお祈りください。

● 祈りの課題 ●

①台湾と東アジアに住む人々が救われるように
②中国語が上達するように(特に声調と会話)
③台湾の人々との交わりが深まり、共に喜んで主に奉仕する兄弟姉妹が与えられるように
④来年以降の具体的な働きについて、主の導きがあるように

 

 

 

 

インドネシア訪問記

JBBF宣教委員長 佐藤一彦

今年の1月21日から2月1日までの日程で、私はインドネシアを訪問させていただき、現地諸教会の先生方とお会いして交わることで、インドネシアの伝道が確かに拡大し祝福されていることを知りました。そして、メダンでは広瀬先生、スラバヤでは田村先生の宣教の歩みの足跡を一緒に現地を周りながら、ご苦労や恵みのお証を伺うことができたことは本当に感謝なことでした。

フェローシップ

今回の訪問のメインの目的は、一年に一度のインドネシアバプテスト諸教会のフェローシップ集会に、日本の海外宣教委員長としてお招きをいただき、世界宣教の重要性と祝福について御言葉の励ましと、JBBFの世界宣教の働きのお証しをさせていただきました。この特別な集まりのためにメダン地域のスタバッ教会とビンジェイ教会の先生方と兄弟姉妹が中心となり主催してくださり、二泊三日の会場となるホテルの手配や集会プログラム、進行等の働き、そして目に見えない影の多くの奉仕を担ってくださいました。特に青年たちが中心となって主にある素晴らしい活気溢れる霊的なチームワークがあり、インドネシア宣教の祝福の一旦を見ることができました。

今回の集まりは、聖書修養会とフェローシップ総会を合わせたような形で、「主のしもべたちの交わり会」と称して、テーマを「聖霊の力による伝道(1テサロニケ1:5)」の御言葉を中心に、学びと交わりを通して主から霊的な励ましと力を頂くことを目的とした集まりでした。

 

117のバプテスト諸教会

現在インドネシア全体では117のバプテスト諸教会があり、今回各地から牧師、伝道者、また日本やアメリカ、フィリピンからの宣教師たちも参加し、更に日曜学校教師や教会奉仕者たち、そして、それぞれの先生方の奥様たちも参加する集まりでした。女性たちのための集会も同時に持たれるなど工夫されたプログラムで、30の諸教会から76名の参加者が集う本当に素晴らしいフェローシップ集会でした。この3日間の交わりを通してインドネシア伝道を初期から牽引されてきた牧師先生たちはもちろんのこと、若い牧師、伝道師の先生方も本当に霊的活力と喜びに満ち溢れており、インドネシアフェローシップが主の豊かなお働きによって支えられていることを感じました。

 

一歩踏み出す

そして、この諸教会が更に祝福されるためには、世界宣教の働きに一歩踏み出すことが次のステップとなるでしょう。インドネシア諸教会からまだ宣教師が遣わされていない現状に目を向け、そこから世界の畑に目を上げて働き人を宣教のために遣わしたいという重荷を持ち、具体的に犠牲を払う時に、「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。(ルカ6:38)」という神の法則が実現することをJBBFの海外宣教の証しと共にチャレンジさせていただきました。

今回のインドネシア訪問では、その他にビンジェイ教会で近隣の諸教会が集まり特別集会を開いて下さり、そこで御言葉を分かち合いました。また、集会の後には現地食を振る舞ってくださり食事をしながら兄弟姉妹と交わる機会が与えられました。私はウガンダ宣教から日本に戻り10年近く経ち、それ以来ウガンダに行く機会がまだありませんが、この日の集会はまるでウガンダに再び戻ってきたかのような感覚になり、宣教の働きの恵みを実感しました。

 

スラバヤ訪問

そして、最後はスマトラ島のメダンから飛行機で約4時間、ジャワ島の田村先生のおられるスラバヤを訪問することもできました。昨年独立したばかりのスラバヤ教会での宣教集会に出席し、工夫を凝らした集会には、それぞれが民族衣装を着て喜びと笑顔溢れる宣教集会となりました。そして、お昼には各国の食事を持ち寄ってのインターナショナルランチを共に食しながらの交わりなど本当に素晴らしい教会活動の様子を知ることが出来ました。スラバヤ訪問では教会牧師のフランキー先生家族の家に滞在させていただき、親密な主にあるお交わりと祈りを共にすることができました。今後は今まで使用してきた教会堂が家賃高騰などの理由で、今回滞在させていただいたフランキー牧師宅が牧師館兼教会堂として使われるようになるということで、これからのスラバヤ教会の歩みのスタートを少し見ることができました。ぜひ、教会堂が移転してからのスラバヤ教会の活動が更に祝福されますようにお祈りください。

 

新しいチャレンジ

そして、田村先生御夫妻はスラバヤ教会の働きをフランキー先生に完全にバトンタッチされ、7月頃を目処にインドネシアのバリ島に移転し新たなる宣教活動をスタートさせる予定です。既に住まいとなる住居は見つかりましたが、すべてが新しいチャレンジとなります。どうぞ先生御夫妻のバリ宣教のためにもお祈りください。

このように今回のインドネシア訪問を通して、私たち日本からの宣教の祈りと支援が確かに現地に届けられ、豊かな実を結んでいることを感謝をもって御報告させていただきます。

 

宣教地の実

ハワイ派遣宣教 上久保 崇

4月28日の聖日の午後、教会からさほど遠くないビーチにてバプテスマ式が行われました。受浸をしたのは堀本家の長男眞太郎兄、長女真桜姉と次女美桜姉の三人です。バプテスマ式には日本からおじい様とおばあ様(船橋聖書バプテスト教会員の三澤ご夫妻)も参加をされました。

ご両親の堀本兄姉はクリスチャンホームで育ち、お母様のめぐみ姉はご主人の直希兄の転勤で関東を離れるまで船橋聖書バプテスト教会員でした。彼らもお父様の転勤に伴い、船橋と沖縄、北海道で育ちました。船橋教会はいつも彼らのために祈り、沖縄の教会では良きお交わりをいただき、北海道では直希兄がすずらん聖書バプテスト教会のエバンズ先生のご指導の下で信仰のリバイバルを受けたと証してくださいました。

眞太郎兄は現地の公立高校、真桜姉と美桜姉は公立中学校に入学をして一年が過ぎました。初めは英語での授業を理解することもままならない様子でしたが、一年が終わると成績の良い生徒がいただける賞を受けたり、先鋭の生徒だけが入れるブラスバンドに入ったりなど学校生活に励んでいます。教会では、証しを英語と日本語で堂々としたり、お友だちを教会に誘ったりとクリスチャン生活も喜んでいます。

〈以下は三人のバプテスマの証しからの抜粋です。〉

眞太郎兄

小学5年生の時に教会図書にあった「レフトビハインド」という本を全巻読んで、黙示録の内容を、より現実的に理解することができました。このことを通して、改めて聖書に書かれていることは全て成就することを実感しました。その頃から、バプテスマにつながる学びを続けていて、バプテスマを受けたいという思いは与えられていましたが、人前で証をすることに対して抵抗感があり、決心には至りませんでした。ハワイに来てから、言葉の問題や、環境の変化によって、大きなストレスを感じていましたが、神様が一つ一つの問題を解決してくださったことを通して、更に神様との関係が近なりました。そして、この先も神様に従っていきたいという思いが強くなり、バプテスマを受けることを決心しました。今までバプテスマを受けるタイミングはいくつもありましたが、今振り返ってみると、今この時が神様が用意された最善の時なのだと確信しています。

真桜姉

北海道に引っ越して、通っていた教会で初めてバプテスマを見ました。バプテスマの証を聞いたり、日曜学校の学びの中で、少しずつバプテスマについて理解でき、何年か経った頃には、私もバプテスマを受けたいと思うようになりました。ただ、みんなの前で証したりするのが恥ずかしくて、なかなか決心がつきませんでした。ハワイに来てから、みんなの前で証をしたりするのが恥ずかしいと思っていたのに、バプテスマを受けたカイルを見て、人の目を気にするのではなく、神様が喜ぶことをしたいと思い、ようやく、バプテスマを受ける決心ができました。・・・これからも、人の目を気にするのではなく、神様に喜ばれることを選べるクリスチャンでいたいです。

美桜姉

北海道に住んでいた時に通っていたすずらん教会で、初めてバプテスマを見ました。聖書では知っていたけれど、実際には初めて見てバプテスマを受ける人の証や話を聞いて自分も受けたいなと思いました。けれども、まだ確信が無かったので北海道ではその気持ちを誰にも伝えていませんでした。ハワイに来てから今までよりも、もっと神様に祈るようになって、個人的に神様との関係を持つようになりました。そして、これからもずっと神様に従っていきたいという気持ちを強く持つようになりバプテスマを受けたいと改めて決心しました。

彼らがハワイの後にも主が導かれる地において、教会を通して主に仕え、実を結び続けるための祈りに私たちの教会も加えていただけたことを感謝しています。

「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」コリント人への手紙 第一 3章6節

 

自立教会を建て上げる急務

浜聖書バプテスト教会 宣教牧師 山宮利忠

それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。エペソ人への手紙 4章12節

この度宣教クォータリーの原稿を依頼され、1991年の宣教クォータリーの巻頭メッセージを開いてみました。1987年から8年間宣教委員会の責任を負わせていただいた33年も前の巻頭メッセージです。

任期2期8年間の恵みは大きく、宣教クォータリーの継続発行、宣教センターの設置、宣教ハンドブックの発刊、宣教委員会によるインドネシアと台湾をそれぞれ宣教地視察、米国での宣教委員会との交わりと宣教師志願者学校参加、そして田村、吉田、広瀬、堺、稲葉5組の宣教師の派遣式、私を含めて5名の委員の先生方と共に10組の宣教師の派遣をビジョンにしてご奉仕をさせていただいた時期でした。

私の当時書いたクォータリーのメッセージは、今も必要なメッセージであると思わされ、そのメッセージの趣旨は自給自立教会の建設こそが海外宣教の土台であるというものでした。教会の自立は、現在も宣教活動において急務であると思われます。

第一に、宣教の目的は、主のおからだなる教会を建設することにあります。

「それは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」(エペソ4:12)

エペソ書によれば、主がお立てくださった伝道者の使命は、教会を建て上げることにあると教えられています。宣教の第一目標は、たましいの救いであることは当然のことですが、救われたたましいが主のおからだなる教会につながり、養われ、育てられ、訓練されて神の栄光を現す器として用いられることが主のご計画なのです。

驚くべき成長を示した初代教会の姿には、明確に聖徒の成長と数の増加が記録されています。

「そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。」(使徒5:14、6:7および9:31も)
数を求めて伝道することは本末転倒ですが、教会の成長には、より多くのたましいの救いが伴います。全ての人が悔い改めに導かれ、救われることが主の求めであれば当然のことです。そのためにこそ、主はご自身をお献げになりました(エペソ5:25)。聖徒が神の家に集められ、成長した結果、救われるたましいは増加しました。

教会は数ではないとよく言われますが、それは聖書的でしょうか? アメリカ諸教会訪問の際、多くの聖徒が集まる祝された教会の牧師に「教会は数ではなく、質でしょう?」と問うた時に、その牧師は「質が良ければ、数は必然でしょう」ときっぱりと答えられました。

課題は、たましいがしっかり教会に留まり、教会を自分の霊的な家として育まれていくことです。それは、霊的・信仰的指導がないと実現しません。すなわち適切な牧会がないと難しいのです。また、教会は会堂ではありませんが、救われるたましいが多く集まれば、当然会堂が必要となり、その会堂は教会の存在を証しし、さらに多くのたましいに知られて、救われる者も起こされるのです。貧しくてみすぼらしい会堂での伝道活動より(実は私たちも最初はそうだったのですが)、主の家として相応しい美しい会堂となれば、伝道の助けとなるに違いありません。そのために教会には力がなければなりません。

まず教会を築き上げることが、生まれた教会の使命なのです。

第二に、宣教の使命は、力ある教会を建設することです。

「そればかりか教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

弱い身体では十分な働きはできません。キリストのおからだである教会も弱ければ十分な働きはできないのです。

私も年を加え、かつ病を負い、若い時にできたことができなくなりつつあります。やはり健康体であることこそが重要なのだと痛感する日々です。教会も同様、健康体であればより良い働きができるわけです。

主のおからだとしての教会に一致と力があれば、極端に言えば何でもできる、と今まで牧会してきた経験を通して証しすることができます。一致がなければできることもできないのです。

聖徒の集まりである教会が成長を遂げて、自給自立、自主独立を果たせば、自らの働きを支えることができるだけでなく他の働きにも支えの手を伸ばすことができ、献身者も起こされます。

わずか1%のクリスチャン人口という現実の中で、力ある教会を建設することの困難さは、充分に経験してきました。時には呟き、諦め、くすぶり、燃え尽き、言い訳もありました。しかし、主の命令とみこころは、全てのたましいが悔い改めて救われることなのです。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)。このみこころを変えることは、私たちにはできないのです。

力のある教会を建設することができれば、牧師を豊かに支え(Ⅰテモテ5:17)、宣教師をより多く支えることができ、伝道所を生み出すことができます。母なる教会がその子どもである伝道所を生み出せないとしたら、主はお喜びくださるでしょうか。

第三に、教会に必要なのは、宣教のビジョンです。

来日宣教師からは、ビジョンの必要を強く教えられました。私たちにビジョンが足りなかったということなのでしょう。

主のみこころは、全世界に福音を伝えることであり、「使徒の働き」によれば、最初の教会の模範は進展、成長、拡大です。この志を持つことが私たちには必要なのです。しかも具体的なビジョンが必要です。

以前、献身して神学校に学んでいた学生にビジョンの必要性を語ったことがありましたが、不評でした。神のために大いなることを期待する志が失われつつあるように思えて残念でした。いつの間にか困難に潰されて消極的になり、神のことばだけを忠実に伝えてさえいれば良いのであって、ビジョンを持っても実現は無理だという風潮が蔓延しつつありました。

50年間の横浜での牧会を終えて、宣教牧師の立場で、「伝道者の墓場」などと言われている茨城県つくば市での伝道に遣わされました。たしかに都会での伝道との違いを痛感する8年間でしたが主に期待し、自分のできる最善で主に仕えた結果、主は憐れみをもって信徒を与え、会堂を与え、後継者を与え、自給自立教会として独立を可能にしてくださいました。伝道生涯の終末期を迎えた私たち夫婦にとっては、大きな励ましと慰めでした。ただただビジョンをもって真剣に主にお願いして働いただけだったのです。

復活の主は、今も生きてお働きくださいます。

「イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)

今、必要なのは主に在るビジョンであり、主への期待です。これは、主への信頼とも言えるでしょう。

私たちの働きは、神にどれほどの期待をしつつ全力を尽くすかなのではないでしょうか。

福音宣教の目的は、たましいの救いと主のおからだである教会の建設です。しかも強い自立教会の建設です。これを実現するには、現実を見れば程遠いのでしょうが、主を見つつ、主のみこころに従うのです。そして、全能の主を信じて求めるのです。

海外宣教の祝福は、教会の自給自立にかかっています。

これは、急務なのです。

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編集後記

今年は大きな地震災害と痛ましい事故から始まりました。このことは、授かった命を死に至らしめる、罪の世の現実を強く示しています。

しかしこの厳しい現実に、イエス・キリストの救いによる真の命こそが、唯一の希望であることを私たちは知っています。 その私たちに、青少年宣教キャンプの機会と場所を与えて下さるほどに、主が私たちのことを覚えて下さっていることはとても大きな励ましです。私たちの課題は、福音宣教の実践と継承なのだと使命感を新たにさせていただきました。

美しい島への宣教調査旅行

若葉BBC牧師/宣教委員 ジェームズ・スミス

出発準備

2023年9月25〜30日まで若葉BBCの宣教チームを代表する5人が台湾の宣教調査旅行に向かいました。主な目的は私たちの宣教師、鈴木しのぶ姉を励ましに行くことでした。「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」(ピリ4:18)このように、若葉の宣教チームの目的はしのぶ姉を訪ね、主にあって励ますことでした。準備として、約8カ月かけて宣教チームは参加者を決め、決定後は計画と祈りのためほぼ毎月集まりました。また、しのぶ姉ともオンラインで何回か目的や台湾の生活や宣教調査旅行の日常スケジュールについて打ち合わせました。予定を全部終わって、出発時となりました。

カルチャー・ショック

高雄に着くと、しのぶ姉が笑顔で出迎えてくださいました。タクシーでホテルに向かい、チェック・イン後に荷物を置き、夕食を食べに出かけました。感謝なことに、しのぶ姉がどこでも通訳をしてくださいました。宣教師が宣教地に向かう際、カルチャー・ショックについて教えられます。つまり、慣れないものを見、経験することにより、幾分かのショックを受けることです。様々な国に行き、外国に長く住む私にとって、新しい経験によりショックを受けることはもはやほとんどありません。しかし、台湾滞在の第一日目、私は二つのことに驚きました。一つ目は交通です。多くの国では、電車、自家用車、バス、タクシーなどがありますが、たいてい主な交通手段というものがあります。日本では電車だと思います。アメリカでは自家用車です。台湾ではスクーターでした。路上の数えきれないほど多くのスクーターには驚き、恐ろしいほどでした。

二つ目は、食堂を見つけ夕食を食べた時のことです。チェーンのレストランではなく、地元の食堂に行きましたが、とても清潔な日本にくらべると若干非衛生的に思えました。料理を注文し、ふと見るとカウンターの隣に50個くらいの卵が箱に入れられ、蓋もないそのままの状態で床に置いてありました。なぜかその光景が私の脳裏に残りました。感謝なことに、しのぶ姉は台湾の文化によく慣れています。地元の食生活に馴染み、スクーターで移動しています。私たち宣教師は、文化の違いに自分を合わせるために、神の人々の祈りが必要です。それでこそ、人々の中に住み、人々と共に生き、人々を理解し、人々にイエス様の福音を伝えることができるのです。

主に仕える

9月27日(水)は、しのぶ姉が仕えている高雄市の山頂バプテスト教会を訪ねました。アメリカ人宣教師カラーズ師が牧師をしています。夜の祈祷会の他、午後4時15分からしのぶ姉も仕える子ども会があります。到着すると、教会の人々が温かく迎えてくださいました。話されている言葉はわかりませんでしたが、真の信仰者が話す神の言葉であるアガペーの愛は分かりました。子ども会が始まり、多くの人が奉仕していました。奉仕者は賛美や工作など様々な方法で子どもたちをイエス様に導いていました。また以前しのぶ姉が日本語を教えたように、外国語も教えていました。しのぶ姉が台湾人のお子さんや宣教師のお子さんにイエス様のことを教える姿は、神の人々の祈りと犠牲と、神様の導きの集大成でした。夜の祈祷会で、若葉の一団も仕える機会がありました。私たちは特別賛美「ああ恵み」を賛美し、私はカラーズ師の通訳で説教をする特権をいただきました。私たちは小さなことでも宣教地にある宣教師の母教会で仕えることができ、喜び、感謝しました。

クリスチャンの交わり

すばらしい予想外の出来事は、水曜祈祷会で韓国BBFの宣教師、朴 貞宣(パク・ジョンソン)師と 庾 珉娥(ユ・ミンア)師ご夫妻にお会いしたことです。ご夫妻は大陸で仕えていましたが、突然、彼の地を去らなければなりませんでした。それを神様の導きと捉えて、現在は台湾で喜んで主に仕えておられます。しのぶ姉は来台後からご夫妻との交わりをいただいてきました。水曜祈祷会でお会いした時に親しく交わり、次の日の昼食のお誘いを受けました。そこで韓国レストランでおもてなしをいただき、辛い韓国料理を食べながらイエス・キリストの愛について、しのぶ姉の通訳を通して分かち合いました。韓国の兄弟姉妹との交わりをくださった神様を褒めたたえ、感謝します。イエス・キリストにあるクリスチャンの特別なつながりは、神様からの最も貴重な贈り物のひとつです。どんな人間的な境目をも凌ぐ、力強いものです。

感謝

加えて、私たちは他の多くのすばらしい兄弟姉妹たちと交わり、しのぶ姉の宣教の働きを目撃し、台湾文化を間近に見、一団としのぶ姉の温かい交わりの時間を持ちました。若葉教会の宣教チームは宣教地台湾訪問という、この特別な機会を主に感謝します。

結論として、ある出来事が心に残っています。一団のうち何人かがエスカレーターで階下に降りようとしていた時、私たちの前には二人のお子さんを含む四人家族がいました。大人と妹は下に降りましたが、5歳くらいのお姉ちゃんはエスカレーターに上手く乗れず、上に残されてしまいました。私たちはそれを見て一瞬、どうしようかと思ったのですが、一番前にいたしのぶ姉が落ち着いて優しくその子に手を差し伸べ、一緒にエスカレーターを降りました。その子は少しためらった後にしのぶ姉の手に自分の手をすべり込ませ、一緒に降りました。私たちもその後ろに続きました。その子は階下に降りると親御さんのところへ行き、私たちは彼らに挨拶をして別れました。しのぶ姉は後でこのことを話題にし、この場面は宣教師と教会の姿だと言いました。宣教地にいる宣教師が現地の人の手を取りイエス様に導き、教会は宣教師を後方支援し、祈りや交わり等で支えるのです。これからも、妨げなく台湾で福音が宣べ伝えられるように、人々が罪から悔い改め、イエス様を救い主として信じるようにお祈りください。また、私たちの宣教師鈴木しのぶ姉や、台湾で仕え福音を伝えている他の多くの宣教師たちのためにお祈りください。

第16回・青少年宣教キャンプの証し

香港・東アジア宣教師 吉田正治

2023年第16回青少年宣教キャンプも、ラバンラージャス師の遺された最後の働きであった、J B B F軽井沢グレースキャンプ場にて開催の運びとなり、キャンパーとボランティアスタッフ合わせて65人の収容人数ギリギリの賑やかなキャンプとなりました。
今年も、集会メッセージはすべて宣教師の先生にお願いし、インドネシアから来られたシモン・ネンゴラン師の証し、上久保師のハワイからのリモートメッセージ、鈴木しのぶ師のオンライン台湾ツアー、神学生の宣教アワー、長野聖書バプテスト教会での、集会とチラシ配布等々、多くのユニークなプログラムで、夏の終わりの5日間を過ごしました。

今年で日本国内開催も5回目となり、毎年どのように「宣教キャンプ」の特色を出すかに心配りながら、多くのプログラムを用意していますが、やはりメインは宣教師の先生たちの力強いメッセージであると確信しています。

毎回感謝しているのは、宣教師の先生たちは何をおいてもこのキャンプのメッセージを優先してくださり、今年も、宣教委員長の佐藤師をはじめ、田村師、廣瀬師、ザレッラ師は対面で、上久保師と鈴木師(宣教地紹介)はオンラインで、スミス師に至っては、前日アメリカからお帰りになったにもかかわらず、早朝車で、最後の閉会集会の時間前にはキャンプ場に到着され、力強いメッセージを取り次いでくださいました。最後まで神様の励ましをたくさんいただいて、説教者の先生たちに、感謝でいっぱいです。

どうか主が、これからもこの宣教キャンプを大いに祝福してくださって、多くの実を結んで行けますように。

最後に仁戸名教会、滝山教会、調布教会のご協力と、谷井先生ご夫妻ならびに、ボランティアスタッフのご努力に感謝すると共に、この5年、毎年この時期に牧師夫婦の不在を余儀なくされている香港コーナーストーン教会の兄姉たちに感謝を表したいと思います。

 

調布BBC 井垣 幸

今年の宣教キャンプでも、数多くの恵みを頂けたことに感謝し、心から主の御名を賛美致します。

「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」(ローマ8:37)

第五集会のメッセージから、影のない神様の光の中にある時、私は隠れる必要がないのだと気が付きました。そして同時に、自分が今まで敗北者のように隠れた生活をしていたということにも気付かされました。

私が、私たちが日々戦っている霊の戦いは、2000年も昔にイエスさまが既に勝利してくださっている戦いであること、それ故に今を生きる私たちは、圧倒的な勝利者として振る舞うことができること、そのことに感謝しつつ、それまでの隠れた陰のような生活を悔い改める祈りをおささげすることができました。

また、今回のキャンプで、交わりというものがどれだけ尊いかにも、目を向けることができました。全員の顔が見える、大きな声で賛美をする、肩を抱きあって祈る、食事を頂きながら個々の話を聴く…数年前まではキャンプの風景として当たり前だったひとつひとつが、去年に比べてみても、今回久しぶりに取り戻されたような気がしました。キャンプという形ではありましたが、これこそ教会、イエスキリストを主とする集団のあるべき姿なのだと感じ、恵まれました。

また、私がキャンプ全体を通して覚えさせていただいたのは、主の再臨です。集会やディボーションの時間、先生方が終わりの時代であることに触れられることが多々あり、また個人的にも兄姉との交わりや礼拝風景そのものを通して、きっと天国でみんなで主を賛美するときもこのようなものなのだろうな、と感じられることが多くありました。自分が目指しているもの、求めるべきゴールを、キャンプを通してより鮮明にされました。

自分の命も世界の寿命も、あとどれほどか誰にも分かりませんが、主が許されるその時まで、主の遣わされる場所ならどこへでも行き、御言葉によって皆さんとひとつにされつつ、目の前の働きに励みたいと願っています。

 

小倉BBC ウインターズ・ケイラ

私は、今回宣教キャンプに参加するのは初めてでした。昨年も行きたいと思っていたのですが、仕事があり許されず、今年は参加できた恵みと、また参加できるように神様の備えがあったことはとても感謝なことでした。

キャンプの全てに於いて、各宣教師の先生方からのメッセージをはじめ、グループデボーションの分かち合いや、交わりを通してなど、自分が最近祈っていたことや悩んでいたことなどについてたくさん語られました。最善な時に一番必要なみことばを語ってくださる聖霊の働きに改めて感動いたしました。

私は性格上、日々の生活で思うように物事をこなせない時に、落ち込んでしまったり、完全にやる気を失ってしまったりすることがあります。しかし、そのように感じてしまうのは、神様の力にではなく、自分の力に目を向けているからなのだと教えられました。自分の力に目を向けていると、日々の仕事などを、喜びながら主のために行うことができないことや、また負担を感じるために心の余裕が持てなくなり、結果として周りの人たちへの愛やあわれみの心も持てなくなる状態になってしまうことに気付かされました。全てのことを主に対する感謝と賛美、礼拝の心で行う大切さを教えられており、またそうすることで心が喜びに溢れ、一つ一つを主に委ねながら一日ずつ進んでいける恵みを味えるのだと改めて教えられています。

キャンプは部分参加でしたが、夜のディボーション2日とも田村先生と広瀬先生のグループになり、とても教えられ感謝です。福音を伝えるに当たり、失敗を恐れず、逆にどんどん失敗するくらい伝えてみようというお話しや、「肉の思い」を言い換えると、それは今まで身につけてきた習慣のことを現すのではないかというお話しをいただきました。クリスチャンになり新しい者とされたのですが、罪の性質は残っているので、肉のよくない習慣が再び現れた時には諦めるのではなく、逆にそれが当たり前だと捉え、みことばに従いながら新しい習慣に替えることで少しずつ改善していこうというアドバイスをいただくことが出来ました。(2コリント5:17-20)

自分の足りなさを毎日祈りの中で主に委ね、ただ主の力により主の栄光のために小さなことも大きなことも忠実に行ない、周りの滅びに向かっている魂に福音を伝える機会を祈り探し、主が働いてくださるのを期待していきたいと思います。(ガラテヤ2:19,20)

感謝と祈祷

香港/東アジア派遣宣教師 吉田 正治

● 近況報告 ●

最新の宣教報告にも触れましたが、コーナーストーンの新しい働きである、GBELS(ジーベルズ)の手伝いに、フィリピンに行って来ました。英語の学校は8月から始まっていますが、あらためてグレース姉妹のご家族と一緒に、献堂礼拝をお献げできて感謝でした。教会も一日も早く始まるように、強力に祈っています。

12月17日はクリスマス子供会で、子供8人、大人5人の出席でした。うち一人は内地の人で、道に落ちていたトラクトを拾って、教会に来られました。この姉妹は、2年ほど前、ある伝道者の個人伝道で救われたものの、ご主人に教会に行くのを禁止されて、ずっと行けなかったそうです。半年前、上水の町に引っ越して来て、これが初めて教会に来た日だったそうです。聖日に教会に来られるようにお祈りしています。
クリスマス前から再来会するようになった、香港人のデイジー姉は続けてこられています。今年になってフィリピン人のメリーアン姉妹がバプテスマの決心をしました。

● 祈りの課題 ●

① 淳子師の乾癬性関節炎の癒しのため
② GBELSの働き。グレース姉妹の英語学校に助け手が与えられ、宣教師が遣わされ教会が始められるように
③ 香港コーナーストーン教会の祝福

インドネシア派遣宣教師 田村 成幸

● 近況報告 ●

12月のクリスマス諸集会も守られ、多くの出席者を頂いて行う事が出来ました。イスラムからの妨害もなく無事に導かれた事を感謝致します。おそらくスラバヤでの最後のクリスマス集会になりますが、今年は、バリでの開拓伝道を始められたら感謝です。最近では、教会に対する目立ったテロ行為は以前より少なくなったものの、局地的には、許可の取り消し、教会の強制閉鎖、地域からの追い出し、嫌がらせ行為等、イスラムからの妨害は日常茶飯事的に行われています。続けてインドネシアまたはイスラム圏の教会の守りの為にお祈り下さい。

● 祈りの課題 ●

①インドネシア宣教の祝福と拡大
②スラバヤ南バプテスト教会の祝福
③クランジバプテスト教会の祝福
④田村家族の守りと親兄弟の救いと家内の健康のため
⑤バリでの開拓伝道の道が開かれるように

インドネシア派遣宣教師 広瀬 憲夫

● 近況報告 ●

9月26日にインドネシアに戻り、ビザ延長手続き。例年は数日で発給が、今回は1ヶ月かかっている間に、秋田の母が死去。弟夫婦が葬儀を執り行ってくれた後に、再び一時帰国。まさに、神のなさることはすべて時にかなって美しい。

12月のクリスマスシーズン。教会での集会以外に、地域や親族のクリスマス会などで牧師も信徒も大忙し。ビンジェイ幼稚園・小学校(生徒33人)クリスマス集会には親たちも参加。ビンジェイ教会青年教師たちが大きく用いられている。私たちはクリスマス礼拝前後から高熱をだし、大晦日集会欠席。

1月23〜25日メダン市で行われる全インドネシア単立バプテストフェローシップ・ミーティングの準備で、青年たちが活躍。参加受付入力のホームページサイトを立ち上げ、中心となって運営。佐藤一彦宣教委員長が集会説教、講義、その後ビンジェイ教会特伝でご奉仕。

● 祈りの課題 ●

①2024年に神学校卒業予定のダニエル・マナル兄とジョン・バンチン兄が御言葉の役者として整えられ、さらに弟子を育てる力が与えられるように
②ダニエル・マナル兄と井垣真実姉の11月結婚準備が整えられるように
③マナル牧師夫妻、シトメアン牧師夫妻の健康が支えられ、伝道牧会の働きが実を結ぶように

 

ハワイ派遣宣教師 上久保 崇

● 近況報告 ●

今年も恒例の夜に行なう子供会が行われました。この集いはハロウィンの行事を教会の子どもたちが避けるために20年以上続いています。霊的な守りと主に在る幸いな交わりをいただいています。
9月から中学校に進学した子供が与えられることを思い中高生会を持つことを祈ってきました。夏に日本から引越しをしてきたご家族の中高生も加わると言う神様の導きもあり数年ぶりに中高生会が再開しました。日曜学校の時間以外に共に時間を過ごすことで信仰の成長と信仰の友が導かれることを祈っています。

クリスマス礼拝に、こひつじサークル(就学前の子供たちと家族への伝道)から二組のご家族の参加がありました。メッセージを通してクリスマスの本当の贈り物である神様の愛が語られ、共にイエス様がこの世に来てくださった感謝をおささげしました。

クリスマス礼拝でカイル君(小学6年生)のバプテスマ式がありました。彼は「バプテスマを受けたいけれどもみんなの前で話す(証しをする)のが恥ずかしい」と言っていましたが、自分がイエス様を信じていることを証しするためにバプテスマを受けたいとの信仰へと導かれました。

● 祈りの課題 ●

①御言葉を通して、教会が「さらにイエス様を知り、信頼し、従う」ように
②2月の宣教大会の準備と祝福のために
③円安ドル高の中での経済的な支えのために
④それぞれの場所にいる家族に、主からの導きと守りがあるように

台湾・東アジア派遣宣教師 鈴木 しのぶ

● 近況報告 ●

2023年11月30日に台湾に派遣され1年が経ちました。当時はコロナ・ウィルスの関係で1週間の隔離がありました。2024年1月現在は、感染が抑えられています。

中国語に関しては、最初は街中でも礼拝でも何ひとつ聞き取れずしゃべることができなかったのですが、現在は分からないなりにも何とか、街中でも教会でも基本的なコミュニケーションを取ることができるようになりました。皆様のお祈りに心から感謝いたします。まだまだ語学力が足りませんので、どうぞ引き続きお祈りください。神様は今学期の私の中国語の先生にクリスチャンの方をお与えくださいました。私のクラスとお隣のクラスでクリスマス会をし、先生が私に5分間福音をお伝えする時間をくださいました。放課後、中国語の先生と私で同級生に福音をお伝えする機会も与えられました。その方は教会にも来られて、カラーズ牧師や他の宣教師とつながることもできました。他のクラスのお友だちお二人にも、福音をお伝えする機会がありました。引き続き神様が置いてくださった場所で、主の証がなされるようにお祈りください。

● 祈りの課題 ●

①台湾と東アジアで続けて福音が宣べ伝えられ、人々が救われるように
②中国語が上達するように(特に発音と声調)
③奉仕(掃除、子ども会、ナーサリー、奏楽、介護施設)を通して主が崇められるように
④台湾の人々や宣教師との交わりが深まるように

 

インドネシア派遣宣教師 入江 一義

● 近況報告 ●
昨年の6月より健康上の理由により一時帰国し、福岡にて療養生活をしています。入江師は帰国時は体調を崩していた関係で車椅子での帰国、一時は寝たきりに近い状態になり足腰がますます弱り歩けませんでしたが、リハビリや歩行器の助けで今は何とか歩けるようになってきています。近々、白内障の手術を受ける予定です。博子師は11月に股関節の手術をした後、リハビリを続けており、少しずつ歩けています。入江師はメダンに戻る方向で考えていますが、主の御心が成るようにお祈り下さい。ケサワン教会とメンテン教会が守られいますようにお祈りください。

 

ワークキャンプの恵み

桶川BBC牧師/宣教委員 内島 隆

2023年7月17日(月)、桶川教会より5名でグレース・キャンプ場のワークキャンプに参加させていただきました。

キャンプ場では、設備の修繕整備と新しく遊具を設置する計画がありました。これをアメリカから来たボランティアたちが、多くの重荷を負ってくれました。彼らの背景は、テキサス州にあるクリスチャンの社長さんが経営する建設会社で、社員の宣教体験の一環としてこの奉仕活動を行っているのだそうです。つまり、彼らは宣教師ではないのです。

今から20年ほど前、私は当時所属していた教会の新会堂建設を体験しました。その折、母教会があるカナダからボランティアたちが来日し、作業の多くを担ってくれました。もちろん彼らも宣教師ではありません。しかし彼らは、自分たちが用いるはずのない教会堂を、喜びと希望をもって建て上げて行ったのです。マタイ28章19節で「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と主はお命じになっておられますが、その御言葉は、伝道者ではない一信徒でも、このような形で実現されることに気づかされ、福音拡大に強い使命感を覚えたものです。この体験は、後に私の伝道活動や献身の一助ともなりました。

そしてその時と同じ光景が、7月17日のグレース・キャンプ場にもありました。しかもその恵を、私が仕えております桶川教会の兄姉たちが一緒に体験してくれたのです。

ボランティアたちは、自分たちが使う可能性はまずないであろうキャンプ場を整備し、福音の働きのために生き生きと奉仕していました。山のように積みあがった備品類から、廃棄する物と使用する物とを選別し、資材を用意しては新たに設置する。その屈託のない彼らの笑顔と汗を、桶川教会の兄姉たちは見たのです。そして彼らの語る証を耳にしたのです。この体験をとおして、兄姉たちは教会形成の当事者としての信仰を、より豊かに現わしてくれるようになりました。感謝!

来日したボランティアたちは宣教師ではないけれども、宣教地に赴きキャンプ場を整備しました。その働きが、日本の埼玉県の桶川市の住宅地の端っこにある小さな教会をも大きく励ましたのです。

そしてこの夏、多くの方々が整備されたグレース・キャンプ場を利用されましたが、きっと参加された方々一人ひとりが、主から豊かに霊的恵みをお受けになったことと思います。

私はこの体験から三つのことを覚えます。
⑴宣教地には宣教師の働きに加え、信徒の働きも必要だということ。(ピリピ4:15-20)
⑵宣教の働きに加わると、その周囲にも主の御力が波及するということ。(Ⅰテサロニケ1:6-8)
⑶宣教の働き場に臨むと、教会が力を得るということ。(使徒9:19-22)

今後も機会を得て、主の御力に与りたいと思います。

ボランティアをしてくださった方々

 

遊具の設置完成

 

用品・不用品の選別作業

次世代が宣教に燃えるには

仁戸名聖書バプテスト教会伝道師 小林 太秀

「主はヤコブのうちにさとしを置きイスラエルのうちにみおしえを定め私たちの先祖に命じてその子らに教えるようにされた。後の世代の者生まれてくる子らがこれを知りさらに彼らがその子らにまた語り告げるため。」詩篇78篇5~6節

後の世代の者を教えなさい

「後の世代の者を教えなさい」これは神がイスラエルの民に繰り返し命じられたことの一つです。またパウロもテモテに向かって「私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。」(Ⅱテモテ2:2)と言い、次なる働き人を育成するように言いました。ところでなぜ聖書は後の世代の者を教えていくことを重要なこととして教えているのでしょうか。その最大の理由は後の世代は自然には育っていかないからです。もし私達が何もしなくても後の世代の者が自動的に育っていくのなら、神はこれほどまでに繰り返して「後の世代の者を教えなさい」ということは言われなかったでしょう。もちろん「門前の小僧、習わぬ経を読む」ということも事実でしょう。私自身も牧師の子供として生まれ、日曜日は教会に行くなどといった生活習慣は自然と身に着いていきました。しかし自分自身の信仰の確立や献身について振り返った時、ジュニアキャンプや青少年のためのプログラムから大きな影響を受けたことを覚えています。それらは後の世代を教えるために“意識的に計画されたプログラム”でした。誰かが後の世代のためにキャンプなどを計画し、犠牲を払って奉仕してくださったので私は信仰的に大きく成長できました。

「後の世代は自動的には育たない」が真実であるなら、宣教に対する重荷も自動的には与えられないということになります。特に海外宣教は私達の日常にはありません。後の世代が宣教に燃やされていくには、海外宣教について知り、それを自分のこととして受け止めていくことができるような体験が必要となってきます。特に若い人々の信仰成長にとって宣教の重荷を持つことは大変重要です。なぜなら人生において最も重要で価値あるものは何か、ということがはっきりしていなければ、それほど重要でなく大した価値もないようなものに人生を費やすようになってしまうからです。この世には若い人の興味を惹きつける様々なものがあふれています。しかし私達の時間やお金には限度があるので、何に時間とお金を費やしていくか賢く取捨選択をしていかなければなりません。その際の取捨選択の基準は「自分にとって価値あると思えるかどうか」です。人は自分にとって価値があると思えるもののためなら喜んで時間とお金を費やしていくことができます。若い人は教会が真面目臭くて楽しくないから教会から離れていくのではありません。教会よりもこの世が提供してくれるものの方が自分にとって価値があり、優れたものだと思ってしまうから教会を離れてしまうのです。

福音宣教の働きの価値

「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3:16)とあるように、神様はイエス様をお与えになるほど失われた魂を救うことに価値を見出していました。イエス様はご自分の命を犠牲にしてまで人間を救おうとされました。神様の目から見て失われた魂を救うこと以上に重要で価値ある働きはないのです。そしてこの福音宣教という価値ある重要な働きを行うことができるのは救われたクリスチャン以外にいません。私達が他の人よりも先に救われたのはまだ救われていない人に福音を伝えていくためです。若い人が若い時に救われたのにも神様の計画と意味があります。若い人にはまだ多くの時間が残されています。その長い人生を福音宣教のために費やしていくことができるのは素晴らしい恵みだと思います。もし若い人が本当にこの福音宣教の働きの価値を見出すことができるなら、自ら進んで教会に通い、聖書を学び、奉仕をしていくようになるでしょう。またもっと神様の力と助けを求めて熱心に主を祈り求めるようになっていくでしょう。そして自分の進路を考えるにあたっても当然、宣教師や牧師という選択肢も含まれ、そのことについても祈るようになるでしょう。しかしもし若い人が福音宣教に価値を見出すことができないなら「教会生活は必要最低限にしておいて、世のことに沢山エネルギーを注ごう」ということになってしまうのではないでしょうか。若くして救われたという恵みを無駄にしてしまうのはなんと大きな損失でしょう。神様はその人を用いたいと願っておられて、その人を通して救われるはずの人がいたかもしれません。しかしそれを全く無視してしまっているのです。それはあたかも親切なサマリア人の例えに登場する祭司やレビ人のようなものです。彼らは聖書知識には精通していましたが、目の前に横たわっている死にかけの旅人を救おうとはしませんでした。「自分にはもっと他にやるべきことがある」と考えてしまったのがその一因でしょう。神様は彼らにこう問われるのではないでしょうか。「目の前にいる死にかけの人を救うこと以上にやるべき大切なこととは一体何なのか」と。命を救うことの価値や重要性が分かっていないと優先順位がおかしくなってしまうのです。これは失われた魂についても言えることではないでしょうか。

若者が宣教に重荷を持つために

さて、後の世代が自動的には育たないのだとしたら、宣教に対する重荷が与えられるような若者向けのプログラムが必要になってきます。後の世代を育てることは主から与えられた私達の責務なのです。感謝なことにJBBFでは海外宣教委員会の発案により、青少年宣教キャンプが2008年より開始され1回も途切れることなく毎年夏に行われています。また諸教会でも若者が宣教に重荷を持つための様々なプログラムが行われていることでしょう。多くの人の献身的な奉仕によって宣教キャンプは支えられています。宣教キャンプに限らず次世代の育成には多くの労力と時間がかかります。これはすぐに結果を見ることができない困難な働きです。しかしすぐに結果が見えない困難な働きだからこそ、後回しにせず今から地道に取り組んでいく必要があるのです。そこで必要とされるのは主のため、次世代のために自らをささげる働き人です。未来のために今をささげる人が求められているのです。

今日をささげる

インドにあるコヒマという場所は第二次世界大戦中における激戦地の一つでした。各地から招集された兵士達は敵の手から祖国と愛する人を守るために必死に戦い、命を落としていきました。コヒマにはそこで命を落とした兵士4064名の墓が建てられており、その墓石には次の言葉が刻まれているそうです。「故郷に帰ったら家族に我々のことをこう伝えて欲しい。“あなた方の明日のために我々は今日を捧げた”と」。未来はこのような献身的な人達によって築かれていくのです。明日の宣教を担う次世代のために私達も今日をささげていこうではありませんか。

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編集後記

宣教委員の栢下です。前回、宣教クォータリー春号の「編集後記」が前々回の冬号と同じ内容で記載されていたことをお詫び申し上げます。

宣教クォータリーは宣教委員の話し合いで内容を決めますが、編集を担当しているのは内島隆先生と栢下です。内島先生が原稿依頼をしてまとめてくださった文章や写真を栢下が構成して誌面の体裁を整えます。これまでは栢下が編集後記を担当していましたが、次回からは内島先生が編集後記を担当されます。短い間ですが編集後記を記す恵みを与えてくださった主に感謝いたします。

宣教師をサポートする最高の方法

若葉BBC牧師/宣教委員 ジェームズ・スミス

 

強靭な凧糸が重要

私のために祈り、支えてくださる多くの教会にとても感謝しています。キリストの弟子を作るために教会が果たす役割の大きさを、日々実感しています。

元調布BBC副牧師、現若葉BBC名誉牧師の所悠牧師は、大宣教命令を凧揚げに例えて次のように説明くださいました。「凧は宣教師。教会は凧の糸を持っている人。凧糸は、教会が宣教師に代わって捧げる祈りと支援のこと。糸が強ければ強いほど、凧(宣教師)は遠くまで飛ぶことができる。 そして風は聖霊であり、神の御心に従って宣教師をあちこちに導く。 大宣教命令における教会の役割は極めて重要である。」と。

 

宣教師を取り巻く諸事情

宣教師のサポートは諸教会の全き信仰によるものです。しかし、だからと言って宣教献金が保証されているわけではありません。実際、宣教師の経済状態には様々な要因が影響します。宣教地での生活費、伝道活動のための必要、突然の個人的な必要。さらに為替事情もあります。私自身、2011年にそれを体験しました。 為替レートは宣教師にとって有利なときもあれば、不利なときもあります。簡単な解決策は、アルバイトをすることなのですが、多くの場合、ビザによって許可されていないものです。

賢明な宣教師は雨季に備えて貯蓄をするでしょう。しかし、雨季が予想以上に長く続くこともあります。自国に帰り、サポートを集めることは望ましくありません。

しかし私は、諸教会との素晴らしい交わりに感謝しています。 私が困難な状況にあるとき、皆さんが私を助けようとしてくださるからです。私のニュースレターを読み、連絡をくださり、何をすべきか主に導きを求めて祈ってくださるのです。

パウロの体験から

ピリピ教会はパウロをサポートしました(ピリピ4:15∼16)。また、奉仕者エパフロデトと共にパウロのための特別献金を送りました(ピリピ2:25)。そして祈りました(ピリピ4:1)。ピリピ教会はパウロの派遣教会ではありませんでした。しかし、ピリピ教会の兄弟姉妹は神様の愛を持って、パウロの働きをサポートしたのです。

2011年の不利な為替事情に悩まされていた時、ある教会は私への月々のサポートを一時的に増やしてくださいました。またある宣教師はひどい経済的苦境に陥っていたところ、日曜学校の子ども達が200ドル(2万円位)以上の特別宣教献金を集めてくれました。

皆さんが宣教師の問題に直面する時、主に祈り、導きを願い求めましょう。主が、あなたに宣教師へのサポートを具体的に示してくださいます。その働きが宣教師たちへの霊的励みとなり、私たちは共に福音の恵みに与り、感謝し主を褒め称えることになるのです。

感謝と祈祷

インドネシア派遣宣教師 田村 成幸

● 近況報告 ●

8月から教会訪問の働きの為に短期帰国しています。教会訪問に関してご協力下さり感謝致します。

その際、クランジバプテスト教会牧師のネンゴラン師が来日し宣教の実としての証しの機会が与えられました。

ネンゴラン師は、1997年に救われて献身に導かれ2002年に神学校を卒業してクランジ教会に仕え、2009年に牧師に就任し現在に至っています。続けてクランジ教会と彼の働きの為にお祈り頂けましたら感謝です。

● 祈りの課題 ●

①インドネシア宣教の祝福と拡大。
②スラバヤ南バプテスト教会の祝福
③クランジ・バプテスト教会の祝福
④田村家族の守りと親兄弟の救いの為、家内の健康の為
⑤バリでの開拓伝道の道が開かれる様に

 

 

 

インドネシア派遣宣教師 入江 一義

● 近況報告 ●

交通事故後の静養のため帰国中。次第に回復しておられ、近々、白内障の手術を受けられる予定。

奥様は11月2日に股関節の手術をお受けになる予定。

● 祈りの課題 ●

①留守中の宣教地が守られるように
②白内障の手術の無事と術後の回復
③早期に宣教地(メダン)の職場復帰できるように
④奥様の手術の無事と、術後の回復のため

インドネシア派遣宣教師 広瀬 憲夫

● 近況報告 ●

3月から半年間の一時帰国中、16教会の訪問、青少年宣教キャンプ参加で豊かな交わりの恵みを頂いて大変励まされる。

この間、10日間ほどの帰省が4度。95歳の母が昨年以来急速に老衰が進んでいる中、交わる時間が与えられて感謝。「人が死んだらみんな神のもとにあるのだから神を拝むだけで十分」との話はわかってもらえた。インドネシアに出発する直前に容態が悪くなっている連絡を受けて渡航を延期、再び帰省したところで、キリストの福音を聞いてうなずいてくれた。

ビンジェイ教会マナル牧師長男ダニエル兄が来日、調布教会および付属幼児園、他3教会、神学校で交わりの恵みにあずかることができて感謝。日本の印象は安全で平和。主にあっては不可能はない、と、自分のバイト代で来日できた奇跡を喜んでいた。

● 祈りの課題 ●

①新たな宣教師が与えられるように
②ダニエル・マナル兄、ジョン・バンチン兄が、主の心を求めつつ、人々のこころに届くメッセージを伝える伝道者に育つように
③教会員一人ひとりが弟子を導き育てるように、主に支え、人に仕える訓練ができるように

 

 

ハワイ派遣宣教師 上久保 崇

● 近況報告 ●

6月から礼拝と日曜学校の時間をコロナ前の時間に戻しました。それによって日曜学校の奉仕者の体制も整うことが出来きて、主が新しい出席者を導いて下さいました。

7月、教会員のベッチー姉(97才)が天に召されました。彼女とは私たちがハワイに来て3年目に出会いました。葬儀では天での再会希望のメッセージが語られました。教会員の自宅での家庭集会が隔月で持たれています。その方の祈りであった娘さんと通り向かいの古くからのご友人も参加して下さり、クリスチャンの交わりの幸いをいただいています。7月は日曜学校の夏の特別企画として、毎週ゲストメッセンジャーを通して、クリスチャン生活の祝福の秘訣を教えていただきました。最近集うようになった小学生の男の子がこの機会に同級生を誘ってくることにもなりました。

9月には、教会の23周年記念礼拝をおささげしました。これまでの恵みを感謝して、これからの更なる祝福を祈る機会となりました。また、祝日を利用して、久しぶりに教会キャンプを行ないます。今回はクリスチャンが管理しているクリスチャンのための場所をお借りすることが出来ました。

● 祈りの課題 ●

①御言葉を通して、イエス様を知って信じる人、益々信頼して従う人が導かれるように
②9月の新年度が教会の成長と伝道の拡大の一年となるように
③秋から冬にかけての伝道計画の準備と祝福のために
④円安ドル高の中での経済的な支えのために

 

 

 

 

台湾・東アジア派遣宣教師 鈴木 しのぶ

● 近況報告 ●

皆様のお祈りが日々私の生活の中で答えられています。7月初めにカラーズ牧師ご夫妻がファーローから無事に台湾に戻られました。7月後半と8月初旬に夏季聖書学校が行われ、カラーズ牧師より合計14人のお子さん達が救いの決心をしたとお聞きしました。小学生を対象とした5日間約2時間のプログラムでは、賛美、スキット、英語レッスン、聖書のお話、おやつの時間があり、その後グループに分かれて暗唱聖句、レク、工作が行われました。アメリカ、韓国、フィリピン、メキシコ、日本から来ている宣教師が、それぞれの国のおやつを紹介しました。8月初旬の夏季聖書学校は車で30分ほどの場所で行われました。私は初めて台湾の一般道や高速道路を8人乗りの教会車で運転し、奉仕者や子どもたちの送迎をする機会をいただきました。ちょうど台風が通り過ぎた後であったため、ほとんどの日が大雨でした。危険な運転をする車やスクーターを私の運転する車から遠ざけてくださいと、主に祈り続けました。台湾人の兄姉が「道を覚えましたね」「運転してくれてありがとう」と声をかけてくださいました。このような機会をくださった主と山頂BCの兄姉たちに心から感謝いたします。

● 祈りの課題 ●

①台湾と東アジアで続けて福音が宣べ伝えられ、人々が救われるように
②中国語の学びの祝福のために
③クリスマス諸集会の準備のために

 

 

 

香港/東アジア派遣宣教師 吉田 正治

● 近況報告 ●

7月9日は、フィリピン人のグレース姉妹、最後の聖日でした。姉妹はコーナーストーン開拓第一日目から20年ずっと私たちのそばにいて、助けてくださり、フィリピン人メンバーのリーダー、日曜学校も導いてくださいました。フィリピンに帰るのは、通常の里帰りではなく、主に示されて福音的英語学校を開くためです。コーナーストーン教会も、宣教師を送り出すように姉妹を送り出しました。

8月8日、ジャッキー兄が癌で63才で召されました。兄は2015年コーナーストーンで救われ受浸し、2018年にコーナーストーンで結婚式も挙げましたが、その後、ちょっとした齟齬があって、家の近くの教会に移り、交わりが途絶えていました。4月に来た内地の兄たちが彼と連絡を続けていて、癌であることを知り、私たちも数年ぶりで再開し、和解できましたが、すでに第五ステージであると知らされました。7月に最後の入院をし、まだお元気だったので、私たちも最後の見舞いをしました。8月に平安のうちに召されていきました。

● 祈りの課題 ●

①第16回宣教キャンプの祝福のため
②グレース姉妹のフィリピンでの福音的英語学校のため
③吉田の母、淳子の父、家族の救いのため

最近来られている日本への宣教師たちの紹介

はじめに

海外宣教委員長 佐藤 一彦

戦後間もなく宣教師たちが福音を携えて日本に来られました。それ以降も数多くの宣教師たちが日本各地に来日し、教会が建てられ、教会の数が増し、神学校がスタートしました。そこから日本人牧師伝道師が輩出されてJBBFという群れが形になりました。そして、今では日本からも世界に宣教師を遣わし世界宣教の働きに参加する恵にあずかっています。まさに主イエスが言われた「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35)を私たちは体験しています。最初の宣教師からすでに70年以上経ち、ある程度日本国内の諸教会の数も増え、日本人の働き人がいてもなお海外から宣教師が日本に送り続けられています。その姿から私たちは何を学ぶべきでしょうか?今回、最近日本に来られた海外からの宣教師、或いは来日予定の宣教師です。ぜひ、覚えてお祈りください。今回はラファエル先生特集です。

 

ラファエル宣教師のご挨拶

お名前:ビエイラ・ラファエル、アナリジア御夫妻 ミザエル(7歳)、イザベラ(3歳)
派遣国:ブラジル
派遣先奉仕教会:めぐみバプテストテンプル

9月末で日本に来て1年になります。(大泉町の)めぐみバプテスト教会が私たちを温かく迎えてくれたことに神様に感謝します。

私と妻のアナ・リジアは、結婚して11年目になります。そして2人の子供がいます。長男のミザエル(7歳)と長女のイザベラ(3歳)です。この1年間の宣教の働きを経て、学んだことや気づいたことがいくつかあります。

まず、私たちが住んでいたブラジルの東北地方と違い、ここの四季はとてもはっきりしていることに気づきました。そして、気候が日本の日常生活に様々な影響を与えていることにも気づきました。例えば、食べ物、服装そして祝日はそれぞれの季節に適応しています。やっと日本の日常生活に慣れることができて主に感謝です。

私たちは、大泉町図書館で日本語の勉強をしています。今では日本語で挨拶をすることもできます。そして携帯電話の翻訳機能は私たちの生活を助けてくれます。長男はもうすでにひらがなとカタカナの読み書きを覚えることができて、今では小学校1年生の漢字を学んでいます。

ここで暮らすブラジル人の方々は、日本人と同様、よく働きます。この二つの民族に共通するもう一つのことは、どちらもイエス様を知る必要がある事と新たに生まれる必要がある事です。そのため、私たちは、できるだけ多くの時間を使ってブラジル人の方々を知って、そして彼らがいつかキリストを信じることができるように、彼らに聖書を教えています。同時に、カウンセリングが必要な家族に、聖書に基づいたカウンセリングを行っています。

教会員がもっとみことばを知るために、聖書の学び(Bible Study Center)も始めました。

私たちの教会がこの地域のこれからの新しい教会の母教会になるために、お祈りを続けています。主から与えられたこの挑戦のためにお祈りいただけたら、幸いです。

日曜学校

青年会

リデラ聖書研究会

婦人会

 

今後特集予定の日本への宣教師たち

 

 

お名前:バーゲット・ヨナタン、タビーご夫妻 そして10人の子どもたち
派遣国:アメリカ
派遣先奉仕教会:アガペ聖書バプテスト教会

2019年8月に宣教師として10人の子どもたちを連れて来日しました。
日本の人々の救いのために教会に仕え、宣教の働きをしておられます。日本宣教創成期に活躍されたラリー・バーゲット先生、そして、現在日本で大きな宣教の働きをしておられるマイケル・バーゲット先生、更にヨナタン・バーゲット先生を通して福音の種は日本に蒔かれ続けています。

 

お名前:シュレル・クリス、ミランダご夫妻 ハラン(6歳)、ベンジャミン(7歳)
派遣国:アメリカ
派遣先奉仕教会:太田聖書バプテスト教会

2022年3月に日本に来られ、現在も日本語の学びと、太田教会を通して日本の教会活動を学んでいます。また、英語集会や月に一度の日本語説教、子どもたちの集会の奉仕をしています。祈りの課題としては、日本語の学びと子どもたちの家庭学習の学びのため、将来の働きの導きが与えられるようにお祈りください。

 

お名前:ニコラス・ザレッラ、ロレーナご夫妻 レビ(3歳)、ルカ(1歳)
派遣国:アメリカ
派遣先奉仕教会:調布聖書バプテスト教会

来日は2022年10月で現在は日本語の学びをしながら調布教会にお仕えしています。どうぞ、日本語の学びのためにお祈りください。また、家族の健康と安全、子どもたちの成長が守られ、祝福されますようにもお祈りください。そして、今後の働きのビジョンが与えられることを祈ってください。

 

お名前:ウォルターズ・クリストファー、ワイキンご夫妻 ソフィー (8歳)、アラン(7歳)
派遣国:アメリカ
派遣先奉仕教会:すずらん聖書バプテスト教会

現在、平日はフルタイムで日本語の学びをしている最中です。また、教会内では先生や教会員から教会活動の訓練を受けています。そして、少しずつ色々な教会の奉仕や働きの機会が与えられています。祈りの課題は、日本語の学びのためにお祈りください。公立学校に通っている子どもたちのためにお祈りください。将来どこで教会を始めるべきか導きが与えられますようにお祈りください。

 

お名前:ランディー・ブラウン、エスターご夫妻 そして5人の子どもたち
派遣国:アメリカ
派遣先奉仕予定教会:掛川聖書バプテスト教会

現在、米国内をキャンピングカーで家族そろってデピテーション中です。祈りの課題は、在留資格認定証明書とビザが与えられるように。十分なサポートが得られるように。来年2024年7月来日予定です!お祈りください。

 

お名前:ミンケ・エルウィン、バナデットご夫妻
派遣教会:フィリピン
派遣先奉仕予定教会:豊橋ひかり聖書バプテスト教会

現在、日本宣教のためにフィリピン国内をデピュテーション中です。ビジョンは今年23年末に来日し、受入教会を基点とした開拓教会の設立を目指します。ぜひ、宗教ビザが与えられて日本に来ることが出来ますようにお祈りください。

 

お名前:ブリー・ベスト宣教師
派遣国:アメリカ
派遣先奉仕教会:清水聖書バプテスト教会

宣教師インターンとして2年間(2022年春〜2024年春)日本で宣教することが決まっていますが、来年春以降の働き場は今も祈る中にあります。現在教会で担っている働きは、中高生クラスの教師と英語聖書クラスのリードです。平日は牧師夫人とともに教会の事務的な奉仕をしています。また教会員の運営されている塾の英語クラスでも英語を教えながら、地域の子どもたちとの関わりを持っています。清水教会での奉仕が祝福されますように、また、来年春以降の働き場が示されますようお祈りください。

 

お名前:エバスコ・マーク、ヨシコご夫妻
派遣国:フィリピン
派遣先奉仕教会:未定、関東地区を希望

現在、日本宣教のためにフィリピン国内をデピュテーション中です。この夏日本に宣教視察として来日して数教会を訪問しました。来年24年以降に本格的に宣教師としての来日を希望しています。ビジョンは、福音宣教とクリスチャンスクール開設を祈っています。フィリピンから先行して派遣された宣教師がまだいないこともあり、宗教ビザが与えられることが大変難しい状況です。ぜひお祈りください。

ペルシアの離散民

名古屋聖書バプテスト教会 上田 平安

「ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように。」ネヘミヤ記1:11

ペルシア帝国に離散していたユダヤ人

今から2500年前、ペルシア帝国がアジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸をまたにかけ、「史上初の世界帝国(阿部拓児氏の表現)」として君臨していました(エステル記1:1)。当時、かつてのイスラエルを含む地域は、アラム語で「アバル・ナハラ(エズラ記 5:3原典)」と呼ばれる行政区に編入されて国家的な独立を失い、ユダヤ人たちは各地に離散して生活していました(エステル記9:16)。というのも、紀元前587/586年に、バビロン王ネブカドネツァル軍の侵略によってエルサレムは既に陥落しており(第2列王記25:1-12)、イスラエルの地における王国の制度は、終焉(しゅうえん)を迎えていたからです。残虐な侵略者たちに降伏したユダヤ人たちや、その他の戦火をまぬがれた者たちも異国の地に捕え移され(第2列王記25:11-12)、ユダヤ人たちは祖国を失って離散民となってしまっていたのです。

ペルシア帝国における離散民の哀願

エルサレムを廃墟とし、多くのユダヤ人を捕らえ移したバビロニア帝国は崩壊し、メディアと合体したペルシア帝国が世界の覇権(はけん)を握りました(ダニエル書8:1-20)。ペルシアが世界を治めるその時代には、ユダヤの離散民が帝国の心臓部で活躍していました。若い時分にバビロン捕囚を経験し、バビロニア帝国からペルシア帝国へという時代の転換期を経験したダニエル(ダニエル書1:1-12:13)、ペルシア王アルタクセルクセスに献酌官という責任ある立場で仕えたハカルヤの子ネヘミヤ(ネヘミヤ記1:1、11)、クセルクセス王の寵愛(ちょうあい)を受けたエステル王妃(エステル記1:1-9:32)、クセルクセス王の次の位に就き偉大なる者と称えられたモルデカイ(エステル記10:1-3)をその例として挙げることができます。

ダニエル、ネヘミヤ、エステル、モルデカイに共通していたのは、同胞を思って哀(あいがん)したということでした。ユダヤ人たちの惨状を嘆き、その嘆きが哀願へとつながりました。廃墟となったエルサレムの方角に窓を開いて祈ることを良き習慣としていたダニエルは、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が70年であることを悟りました(ダニエル書6:10、9:2)。そして、彼は「追い散らされた先のあらゆる国々にいる、すべてのイスラエル(ダニエル書9:7)」のことに思いをはせ、深い悔い改めをもって、廃墟となったエルサレム神殿のすみやかな復興を神に哀願しました(ダニエル書9:1-19)。ネヘミヤもまた捕囚の生存者たちの困難と恥辱(ちじょく)を嘆き、城壁や城門が焼き払われたエルサレムを思って主に嘆きの祈りをささげ、アルタクセルクセス王に都の再建許可を願ったのです(ネヘミヤ記1:1-2:5)。さらに、ペルシア帝国全体に離散しているユダヤ人たちがジェノサイド(=集団虐殺)による民族消滅の危機に瀕(ひん)しているとき、モルデカイは帝都スサで粗布(あらぬの)をまとって嘆き、世界中のユダヤ人たちもまた悲劇の通達を知って、断食をしながら悲しみの声をあげました(エステル記4:1-3)。また、ペルシア帝国のすべての州において、ユダヤ人が老若男女すべて根絶やしにされる悪夢の日が迫る中、エステルは命を賭(と)して世界帝国の王クセルクセスにユダヤ人の助命を嘆願して聞き入れられたのです(エステル記7章)。嘆く力、哀願する力を主によって与えられた離散するユダヤ人の声が世界に鳴り響き、ついに天の神が動かれたのです。ペルシア帝国の時代、多くのユダヤ人たちが祖国に帰還し、エルサレムの神殿は再建され、民族的消滅をまぬがれ、エルサレムの城壁も建て直されるという奇蹟が起こりました。

「離散民化」する世界

ところで、ある宣教学者が21世紀の人口学的特徴は世界規模の「離散民化」にあり、それに応じて宣教のあり方も変化しつつあるという見解を提示しておられました。バビロン捕囚によって捕らえ移された人々が離散民としてペルシア帝国に生きていたことを学びましたが、現代では、人々が内戦、飢饉、宗教弾圧、政治的、経済的理由等によって空間的な移動を余儀なくされるという現象が、世界中で大規模に起きているのです。そして、多くの人々が祖国を離れて「離散民」として生きているという現実が、21世紀のひとつの特徴であると言われます。2000年の統計では移民の数が世界総人口の3%でしたが、2020年の統計ではさらに増加して3.6%になりました。

ペルシア語圏の離散民

かつてアケメネス朝ペルシアの主要な地域であったイランやアフガニスタンも、「離散民化」の歴史をもつ国々です。イランでは1979年にイラン革命が起こり多くの人々が祖国を離れました。同年、ソビエト連邦がアフガニスタンに侵攻して内戦が始まり、アフガニスタン全土で600万人が難民となりました。また、最近では2021年8月、駐留外国軍の撤退にともない、イスラム主義勢力のターリバーン(Ṭālibān)が復権して、数十万人規模の避難民が発生したことは記憶に新しいでしょう。名古屋市でもアフガニスタンの方々が事実上の難民として生活をしておられます。

私事ですが、ずいぶん前から、ペルシア語を話す人たちに特別な感情があります。近所にイラン人の家族が住んでおられたり、高校時代の親友がイランにルーツがあってペルシア語をよく教えてもらっていたのがその理由だと思います。2001年にアフガニスタン紛争が勃発してからは、イランだけでなく、ペルシア語(公式名称:ダリー語)話者が多く住んでいるアフガニスタンにも興味をもつようになりました。伝道者になってからは、主のお導きにより、公立の小学校などで、ペルシア語を話すイラン人やアフガニスタン人の日本語指導や生活支援をする機会も与えられ、ペルシア語圏の方々がさらに身近になりました。しかし、残念なことに、アフガニスタンやイランから来日された方々の中には、政治や宗教の理由で、国を離れざるをえなくなった事実上の難民も多く、「離散民」としての悲しみに共感したいという感情も芽生えています。

結語

祖国に帰ることができない方々の気持ちを理解することはできませんが、ひとりのアフガニスタン「難民」の児童が、ペルシア語訛りのたどたどしい英語で私に言った次の言葉を忘れることができません。”I am very lonely, sad, and angry.”(僕はとてもさびしいし、悲しいし、怒っている。)祖国を離れて生活せざるをえなくなった子どもたちのたましいの声を聞いた思いがしました。

名古屋聖書バプテスト教会には、祖国を離れざるをえなくなったペルシア語圏の方々が、時折、礼拝や特別行事に参加してくださいます。福音の種を少しずつまいています。まだ信仰告白をした方はおられないのですが、いつか、ペルシア帝国に住んでいたあのユダヤ人の離散民たちのように、異国の地で主に叫び求め、主に真の救いを哀願する者となれるようにと願います。世界中で離散民として暮らしておられる方々に、まことの幸(さち)がありますように。

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編集後記

宣教クォータリー春号の発行が遅れてしまい、初夏となってしまいました。蒸し蒸しとする暑さの中、さらに暑い宣教地に遣わされている先生方はもっと大変な暑さの中で宣教のわざに励んでおられることを想いました。これからの季節、宣教師の先生方の健康が支えられるように祈ります。

本号は、前号のラバン・ラージャス宣教師記念に引き続き、ラリー・バーゲット宣教師ご夫妻の召天記念の記事が掲載されました。主のご命令に従って日本宣教に生涯をささげられた先生方に感謝いたします。先生方の後に続いて宣教地に赴く献身者が起こされることを切に祈ります。

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ラリー・バーゲット宣教師ご夫妻召天記念

幕張BBC、神学校校長時代のラリー・バーゲット師ご家族

バーゲット宣教師ご夫妻との思い出

札幌BBC 青木弥生

 

昨年12月に、ラリー・バーゲット先生、今年の3月にルツ先生が天に召されたとのお知らせがありました。なんと懐かしく、そしてなんと寂しいことでしょう。このお二人には若いころから本当にお世話になりました。

私が初めて神様を知ったのは、55年前の秋、バーゲット先生の恵庭伝道の初めの時期、恵庭町町役場前の空き地にテントを張って行われた特別集会でした。説教者は名古屋聖書バプテスト教会の上田晃先生でした。私は自宅の庭先で特別集会の集会案内をもらって、最初の日から参加しました。3日目の集会で自分の内にある罪を強く示され、イエス様を自分の救い主と信じました。集会の後上田先生が話しかけてくださり、Ⅰペテロ2章2節「生れたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し救いを得るためです。」の聖句を教えてくださいました。帰る時にはキリストにある喜びで心がいっぱいでした。ここからバーゲット先生ご一家とのお付き合いが始まりました。

バーゲット先生ご一家は、東京で2年間日本語の学びをしてから「アブラハムのように、行くところを知らずして」車に家財道具を積んで、札幌に来られたとのことでした。初めに自宅アパートから集会をはじめ、次に真駒内団地の集会所を借りて、日曜学校と礼拝をしました(夫から聞いた話です)。バーゲット先生から、ルツ先生の体調を考えられて家事を手伝ってほしいと頼まれて、恵庭から福住の先生の自宅に通うようになりました。まず、聖書の時間を持ち、先生方が英語、私は文語訳聖書を通読し、共に祈りの時を持ちました。その時、何度もヨハネ3章16節の御言葉を教えていただきました。

その間に、日曜学校教師セミナーがあり、フランネルなどの視覚教材の作り方や使い方、お話の仕方などを学びました。それは今でも役に立っています。

恵庭で小さな家を借りて、礼拝と祈祷会が行われて、文語訳聖書を用いて毎週力強いメッセージが語られました。ルツ先生はいつもニコニコしながら奏楽されていました。会堂での奏楽は、ピアノ鍵盤の全域を使って力強く行われ、私は非常に感動しました。これらのことが昨日のように思い起こされます。私は今でもバーゲット先生、ルツ先生に感謝の思いでいっぱいです。

ラリ=・バーゲット宣教師ご家族

札幌伝道を始められた当初のバーゲット師ご家族とハジェス師

校長時代のラリー・バーゲット師

ラリー・バーゲット先生の思い出

葛西BBC牧師 大木英雄

 

私は名古屋大学の大学院で物理(素粒子)の研究をしていましたが、肩こりがひどくて修士でやめました。そして名古屋学院高校で数学を教えていました、その学校で瀬戸に職員住宅が1軒空いたので、入りたい人は申し込んでください、と言われたので私は申し込みましたが、13倍のくじでしたが、当りました。そして瀬戸教会に集うことになりました。瀬戸教会にベテイ先生も集っていました。ベテイ先生は産婦人科と提携して、出産しても赤ちゃんを育てられない人から赤ちゃんを預かってアメリカに送っていました。私たち夫婦も赤ちゃんがいなかったので、赤ちゃんが欲しいと申し込みました。そして、名前が「愛」という子をいただきましたが、愛のお母さんは一人目は流産、二人目も流産、三人目の赤ちゃんは生まれて一カ月で亡くなりました。四人目の赤ちゃんが生まれたその日にお母さんは出血多量で亡くなりました。ベテイ先生は「大木さんこの赤ちゃんはかわいそうでしょう?しかし、神様が必要だったから生まれてきたんだよ!神様はこの子をきっと益にしてくださる」と言われました。私は自分の人生に置き換えて考えました。私は好きな物理がやれない、肩こりがひどい、しかし神様に委ねたら必ず益にしてくださるという信仰が与えられて神学校へ行く決心をしました。

神学校1年生の時から卒業するまでバーゲット先生にお世話になりました。私が神学生の2年の時、滝山教会は無牧だったのでバーゲット先生が毎月1回メッセージに行っておられました。バーゲット先生は忙しいので先生の代わりにあなたが行ってメッセージしなさいと言われて、私が滝山教会でメッセージをさせてもらう事になりました。すると滝山教会から私に滝山教会の牧師になってくださいと言われました。私は伝道のことはわかるが牧会のことはよくわからないので「無理」ですと断りましたが、祈ってくださいと言われて祈りました。

祈っていると詩篇37篇5節「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」このみ言葉が与えられました。イエス様に信頼すればイエス様が牧会してくださると言われるのです。ところがなかなか信頼しきれないのです。祈り始めてから1年ほどたったとき、滝山教会の方から「滝山教会に何か問題がありますか?」と言われました。滝山教会には何の問題もありません。私がみ言葉を信頼しきれないのです。そうしているうちに卒業式が来てしまい、滝山教会に行くことにしました。滝山教会にはずいぶん迷惑をかけたと思います。招聘されたときは礼拝出席が10数名でしたが、退任したときは礼拝出席が120名程になっていました。バーゲット先生のご指導に感謝しております。すべては神様の恵みだと感謝しています。

宣教地の実

ビンジェイBC

ダニエル・マナル

 

こんにちは、私の名前はダニエル・スパルマン・マナルです。普段はダニエルと呼ばれています。私は3人兄弟の2番目で、姉はクリスティン、弟がアブラムです。父はコロセ・マナル、母はシルナ・シトゥモランです。

私は自動車関係の教師として働いています。私はとても特別な家庭に生まれました。クリスチャンの家庭に生まれ、父は神のしもべであり、インドネシア単立バプテスト・ビンジェイ教会の牧師でもあります。

神のしもべの家族に生まれたからといって、私の救いが決まるわけではありません。私も罪人・人間であり、この世で多くの試練や誘惑に直面するからです。神のしもべの子どもであることは、多くの人から見られ、神のしもべの子どもとして完璧さを求められるため、とても難しい子ども時代をすごしました。

私は子供の頃、友達が自由に行動しているのがうらやましく、また、いつでもどこでも自由に行動できるのがうらやましかったのです。それで親に反抗し、神のしもべであるはずの自分も、自由にできず、強制的に奉仕させられているように思えて、奉仕することも嫌になったものでした。

しかし、10代の時に私の人生は自分だけのものではなく、神のものであることを悟り、神にゆだねる決心をし、バプテスマを受けました。それ以来、両親の指導により、神のために生きることの大切さをより理解するようになりました。

大学を卒業しようとした時、神様が「収穫は多いが、働き手は少ない」(ルカ10:2-3)と言われたので、神のしもべとなるように召されたと感じました。卒業後、神様に祈り、神のしもべとして用いられることを願って、現在メダンで神学修士を目指し、父と広瀬牧師から聖書学を学んでいます。どこかで開拓伝道に携わりたいと神さまに祈りましたが、父が病気になり、ビンジェイでの奉仕に責任を感じるようになりました。

これからの歩みのためにお祈りいただければ幸いです。私の証が、信仰の兄弟姉妹のモチベーションになることを願っています。ありがとうございました!

スラバヤ南BC

上野直子

 

インドネシアに移住して今年で25年が経ちました。四半世紀でこの国は大きく変化し、移住当時は独裁的とも呼べる政府体制でしたが、今や東南アジアを代表する経済国に成長しました。

1996年に私は、インドネシア国籍である夫と知り合い、翌年、夫がカトリックである事からカトリック教会でカテキズムを学び洗礼を受けた後インドネシアで結婚しました。その当時は、聖書に書かれている事は信頼できるのか否かとまだ検証段階であり、丁度パリサイ人や 律法学者がイエス様のメシア性を検証するような不信仰な姿勢でした。その後長男、次男に恵まれた後、2004年からスラバヤ市で勤務を始め、インドネシア人の先輩の勧めで日本から牧師先生が来るからと家庭集会に招かれ訪れる様になりました。そこでは、聖書の学びを字義通りに行い、今まで現地のカトリック教会で明確でなかった部分が理解できる様になり、何度か通ううちに個人伝道を通して信仰告白に導かれました。その時分からカトリック教会からは距離を置く様になり、カトリック以外の教会で礼拝を捧げるようになりました。数年が経ちスラバヤ南で宣教されている田村先生と出会い、その教会で月に2度ほど礼拝を捧げる様になりました。田村先生はインドネシア語でメッセージをされていますが、私が来る様になってから日本語とのバイリンガルでメッセージしてくださる様になりました。更に大きな霊的祝福の促進剤となったのは、田村先生による個人的な聖書の学びです。不思議な事に御言葉の知識を積み上げていくごとに霊的にも促され、生活は神様だけを信頼する歩みに変えられて行きました。

2019年12月の聖書の学びで、バプテスマについての講義を受けていた際に、田村先生からバプテスマを受ける決心はあるか否かを問われました。私は長い間、自らの意志でバプテスマを拒んでいました。それは婚姻の際に既にカトリック教会で滴礼を受けていた事、また信仰告白により聖霊が内住しているため象徴的な儀式であるバプテスマは必要ないと自分勝手に判断していたからでした。しかし、聖霊は私を導いて下さり学びを継続する中でバプテスマを受けていない事が私の霊的バランスを崩すような感覚を覚える様になりました。

その理由は、①イエス様が公生涯を開始する前にバプテスマを受け従順を示された事から、その従順に倣いたい気持ちが生まれた事。②新約聖書でバプテスマを受けた信者は全て信仰によりイエス様を受け入れ救われた後にバプテスマを受けている為、カトリックの滴礼はイエス様を受け入れる確信がないまま受けたので無意味であった事。③本来、バプテスマの方法は浸礼である為、滴礼は受浸を示した事にならない事。④キリストの体としての教会の一部として用いられたい願いがあった事が挙げられます。私は、御言葉の教えと聖霊に押され導かれる様な感覚でバプテスマの決心を田村先生に伝えました。

2020年は、コロナ感染が拡大した年で3月にバプテスマ式の予定を頂いたのにも関わらず延期が続きました。しかし、その期間に神と向き合う祝福の時間が与えられ、2022年の2月についにバプテスマを受ける事が出来ました。受浸した後、教会の一部としての働きが可能となる事に感謝すると共に、以前より執り成しの祈りを捧げる機会が多くなりました。そして何よりも霊的バランスが取れる様になり霊肉ともに喜びで満ち溢れています。振り返れば、今日まで神様は長い時間をかけて、無力で無知な私を支え、失敗を通して心を砕いてくださり、ご自分のもとに導いてくださっていた事に気づかされました。神様に感謝してもしきれない気持ちで一杯です。これからも神様の愛に応答する歩みを続けて行きたいと願っています。

行って、弟子として、教える

インドネシア派遣宣教師 広瀬 憲夫

広瀬先生

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイの福音書 28章19~20節

世界宣教の模範者に従う

「兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」(ピリピ3:17)

戦後まもなくの日本に、突然吹き始めた風に乗って、とでも言うように御霊に導かれて来てくださったラージャス宣教師ご夫妻は、外国人と身近に接したことがなかった田舎者の私にとっては、「世界」そのものでした。

私がイエス・キリストを信じて救われた調布バプテスト・テンプル(現 調布聖書バプテスト教会)で印象的だったのは、救われて間もない私に普通の青年教会員が熱く世界宣教を語ってくれたことです。そのような教会を建て上げるために、宣教スピリットを育てるために長年に渡って調布の教会、いえ、フェローシップと共に歩んで下さったラージャス師の存在そのものが、敵をも隣人とみて愛し、「行って」との御言葉に従って遠路はるばる出かけて実践する世界宣教とは何かを現していると思います。行ってなすべき世界宣教とは何でしょうか。

告知する働き

第一に、お一人の神が一つの世界、一つとなるべき人間を創造して下さって、神が人と共にいて下さることを実現するために贖いがなされたことを告知する働きです。祈りは、共におられる神との会話。それを実感させてくれたのがラージャス先生でした。

相談事に行くと必ず言われる言葉が、「兄弟、祈りましょう」。神こそが私の相談事を持っていくべきお方で、私の祈りを聞いてくださるお方だ、そして答えてくださるお方、ということを実践をもって示して下さったのです。そのようにして導かれている教会で行われている祈り会もまた、二人ずつのペアで祈りの人々を経験する貴重な機会でした。教会に行き始めた頃、「この人たちは本当に神様に語りかけている!」と感じさせられた事も記憶に深く焼き付けられています。「弟子としなさい」とは、神に額ずく人を育てる働きなのだと教えられたのでした。

教える働き

第二に、世界宣教とはイエス・キリストが命じられたすべてのことを、一点一画過たずに守るように教える働きです。その「すべて」を一言で言い表すなら、キリストが弟子たちを愛したように互いに愛し合うことです。この神の真理を頭で理解するだけではなく、それに従って行動を起こすほどに、何をすれば良いのかをはっきりとわかる説教をすることです。

日曜学校でどのように視聴覚教材を使うか神学校で学んだものですが、それを礼拝説教にも実践すべきことを、ラージャス先生の説教で目の当たりにさせられました。ある時、大きなタイヤを講壇の横に置いて、このタイヤを自動車にそのままはめて使えるかどうか会衆に問いかけたのです。パット見には全くわかりません。でも自動車をよく知っている人が近くに行って調べると、バランスを調整する小さなフックがない、とわかったのです。そのままで走り出したら危険だ、小さくても重要な一点が欠けては大事故につながる、という例話でした。

世界宣教は、慣れない外国語で伝えることが基本です。微に入り細に穿つ説明を言葉ですることはできない、と諦めざるを得ない状況で、それでもなんとかしてわかってもらって、主の命令を実行できる教会を育てなければならないのです。宣教師自身が何かをすることによってではなく、教会によって神の栄光が現されるように、できることはなんでもするのが宣教なのだ、と教えられたのでした。

神への信頼

そして、世界宣教の実践は、神への信頼の結果です。鼻から息をするものを信じるのではなく、主を信じることによってなされるのが世界宣教です。弟子を創り育てるにあたって、自分が指導したことで弟子が育つと思うのは明らかに間違いです。永遠の命を与えてくださるのが神ご自身であるのと同様、成長させてくださるのも神です。今自分の目の前にいる一人の信仰者が主の弟子であって、神の御霊に導かれていることを信じて、共に活動することが求められているのです。

イエス・キリストの弟子たちが二人ずつ遣わされてでかけたように、一緒に訪問し、一緒に個人伝道し、一緒に汗を流しながら御言葉を共有することで、弟子は育てられていきます。

救われて2年目に、献身し神学校に行きたいと表明した、信仰において全く未熟な若造を、ラージャス先生は、召されたという告白の言葉に詮索も疑義も出さず、「成長させてくださるのは神である」と、神に信頼して若輩者を神学校に推薦してくださいました。入学時に持っていた参考書は、それまで使っていたハーレーのハンドブックと、入学祝にプレゼントされた、教科書として使われるギリシャ語の文法書だけでした。その後、卒業して2年間の母教会でのインターン期間を経て、諸教会訪問させていただき、翌1990年12月にインドネシアへの渡航となったのでした。

共に学ぶ

現地の人達がそれまでどのような神の導きを受けてきていたのか、神はこの人たちに今何をしようとしておられるのか。現地入りしてからは、現地の人達と共に御言葉を学ぶ日々でした。その基本は、神が命を与え成長させてくださる、という確信であり、私も共に学ぶ一人に過ぎない弟子だ、という思いです。

宣教師として、言葉で神の真理を説明することが難しい地に出ていって、これまでの歩みを振り返り、つくづくと感じたことがあります。それは自分はいかに、実際に手取り足取り、宣教師の働き方を教えていただいていたか、ということです。

母教会から二人の青年が宣教地に2週間滞在していってくれました。「赤ん坊に戻った気分」という感想でした。言葉がわからず、右も左も分からない、ただ手を取ってもらってついていくだけだった、と。
私たちは、自分を取り巻く世界について、すでによく知っている、と思い違いをしてしまいがちです。そうではなく、御霊に導かれながら日々を歩むことを体得するのが、弟子としての歩みでしょう。世界宣教に関わることは、その実践の学びなのです。神が私たちに「行って」と命じられているのは、そこで神ご自身が教えてくださることを学び取れ、という目的があるからだと思わされます。

「ずっと後の⽇になって、あなたはそれを⾒出す。」伝道11章1節

ご報告が遅れましたことをお詫びいたします。「愛」かわらずの御祷援、御⽀援を賜り、感謝いたします。

1・新型コロナ後2022年12⽉

新型コロナの規制がほぼすべて解除となり、集会にも⼈が戻り始めました。その先頭を切ったのは⼦どもたちです。スタバッ伝道所周辺のキリスト教徒の家庭から⽔曜⼦ども会に送られてくる⼦たちが10〜15⼈ほどまで回復。12⽉はじめに⾏われた3年ぶりの対⾯クリスマス⼦ども会には50名以上が集まりました。数年前作成のスタバッ伝道所オリジナルのミュージカル「⼈間をとる漁師になるペテロ」再演で、集まった⼦どもたちやその家族も⼀緒に参加、喜んで歌いながら御⾔葉を覚え、主のために働く決⼼を招きで応答していました。成⻑を祈りつつ、家庭向けの働きが更に開かれることを祈っています。

2022年12月・スタバッ伝道所クリスマス子供会

ビンジェイ教会、スタバッ伝道所では、就学、就職先を近隣で得られない⻘年たちが国内遠⽅のみならず国外に出ていかざるを得ず、教会の働き⼈も後続の新⼈が与えられないままに減少傾向です。働き⼈が送られるようにとの緊急要請の祈りが収穫の主にささげられています。

2・フェローシップキャンプ

2023年1⽉コロナで開催できずにいた毎年恒例のフェロシップキャンプも、今年3年ぶりに再開。令⼦と⼆⼈、御⾔葉の御⽤のお招きをいただき、ジャカルタに⾏ってきました。伝道者、⼀般信徒奉仕者を含めて⾏われるこのキャンプは、テーマ「キリストの再臨に向けて備える」に沿って3回の集会メッセージと3回のセミナー(内1回が⼥性向け)。

2023年1月・ジャカルタ・フェローシップキャンプ

ジャカルタ滞在中の⽇曜集会では、プルタマ教会(マルコス牧師)とエベネゼル教会(マルコス師の甥アベデネゴ牧師)にお招きを受け、世代交代の進んでいる様⼦を拝⾒。主が与えてくださっている賜物が⽣かされる教会の素晴らしさを学ばせていただきました。

プルタマ教会から派遣されメダン北部伝道を助けてくれていたファスリ兄が、スマトラ南部の教会に招聘され、代わりにイルワン兄が派遣されることになりました。

2024年のこのフェロシップキャンプは、メダン・ビンジェイ諸教会が主催者となりメダン市で⾏う予定です。佐藤海外宣教委員⻑にスピーカーの⼀⼈となって参加していただきます。

3・⼀時帰国

⽇本から宣教⼤会のメッセージのお招きをいただき、また実家の⺟の衰えの知らせも聞き、⼀時帰国させていただきました。しばらくご報告にうかがえておりませんでした教会にご連絡させていただきながら、訪問を続けております。

改めて、主の御旨を共に求めつつ⼼を⼀つにしての交わりのすばらしさをかみしめつつ、福⾳を今⼀度、深く学び直さなければと思っています。

⽇本に来てまもなく、ビンジェイ教会マナル牧師家族の末っ⼦アブラム兄がバイク事故で召天したとの知らせを受けました。貴重な⻘年働き⼈であった彼がなぜこの時に?という思いが⼼を占めましたが、天国への希望がなおさら強く起こされる中、ビンジェイ教会付属⼩学校の⽣徒たちも、恵みの内に与えられる希望のメッセージを⾝近に経験する時となったようです。

⺟は要介護度2の認定を受け、中学校教師をしている弟は4⽉の異動で実家から徒歩10分ほどの学校に移ることが許され、主のあわれみの内になんとか⽀えられています。3⽉、5⽉と帰省するたびに、⺟は⽬に⾒えて衰えてきています。なかなか証しが伝わらない状態です。救いのためにお祈りいただければさいわいです。

主イエスの恵みが共にありますように。

2023年6⽉1⽇

広瀬憲夫 令子

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編集後記

下記の2つの動画は必見です。1つは、すでに天に召されたラージャス宣教師の動画。日本宣教に生涯をささげ尽くしたラージャス先生の歩みを、ぎゅっと凝縮したドキュメンタリー映画です。もう1つは、これから台湾、東アジアに遣わされていく鈴木しのぶ宣教師の動画。先日、若葉聖書バプテスト教会で行われた派遣式の様子を見ることができます。時代や遣わされる国は違いますが、宣教の大命令を弟子たちに与え、遣わしてくださるお方は同じ主イエス・キリストであることに感動いたします。ご覧いただき、福音宣教への思いを熱くしていただきたいと思います。

ラージャス宣教師ドキュメンタリー映画へのリンク

鈴木しのぶ宣教師派遣式の動画へのリンク

悲しくも喜びに満ちた見送り

若葉BBC牧師/宣教委員 ジェームズ・スミス

 

去る11月27日(日)、若葉聖書バプテスト教会に於いて鈴木しのぶ宣教師の派遣式が行われました。それは、東アジアの宣教地に私たちの小舟である鈴木姉を見送るという悲しくも喜びに満ちた見送りの時となりました。

派遣式の中で開かれた聖書箇所の一つは、使徒の働き20章37、38節でした。「皆は声をあげて泣き、パウロの首を抱いて何度も口づけした。『もう二度と私の顔をみることがないでしょう』と言った彼のことばに、特に心を痛めたのである。それから、彼らはパウロを船まで見送った。」

内島師と栢下基従師が祝辞を述べて下さり、佐藤宣教委員長と鹿毛愛喜師がメッセージを語って下さいました。そして、会衆賛美と特別賛美によっても大変恵まれました。今回は、残念ながら皆さんを対面でご招待することができませんでしたが、その場にご列席の方もライブ配信で参加して下さった方も共に、神様が日本の一地方教会とそこに集う人々が信仰によって最良の働き手を宣教地に派遣したことの証人となって下さいました。

若葉教会と鈴木姉は、何年も前から派遣式とそれに続く働きのために備えてきました。鈴木姉がフルタイムの献身に導かれ、日本バプテスト聖書神学校へ入学、そして卒業、それに続く訓練と宣教地に赴くという召しに従うこと、更には若葉教会の宣教チームは宣教について学び、宣教集会を導き、鈴木姉が実際に宣教地に行くこと、今支援している宣教師をはじめ自分たちが派遣する宣教師をどう支援していくかについても話し合いました。若葉教会はまだ若い教会ですから、今でも派遣教会となるとはどういうことかを学ぶ途上にあります。しかし、感謝なことに私たちは一人ではありません。鈴木姉を派遣することは一地方教会が単独で行うことではなく、「私たちには何ができるのか」「どのように関わることができるのか」を神の人々が一丸となり、共に手を携えて働くことだからです。実際に派遣式に参加して下さった兄弟姉妹にも、また様々な形で私たちを支援して祈って下さったお一人お一人にも感謝致します。

 

JBBF海外宣教委員会の牧師たちと数名の方々が鈴木姉のために祈った時が最も感動的で、多くの人が涙を流して祈りました。鈴木姉はこれまでもそうであったように、これからも主イエス様と共に歩む信仰を証しし続けるでしょう。そして、宣教地において主にある兄弟姉妹と共に福音を伝え、人々を主に導く冒険へと加わることでしょう。私たちは、すでに鈴木姉の居なくなった「穴」を感じていますが、それは多くの奉仕をしていたというだけではなく、兄弟姉妹と共に信仰生活を送り、また人々の祝福となっていたからです。鈴木姉と別れることに悲しみの涙を流すと同時に、私たちは喜びの涙も流したと思うのです。なぜなら、神様がご自身の福音の働きのために送り出されるからです。マタイ28章においてイエス様が弟子たちに「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。みよ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」と命じられました。この命令には曖昧さはなく、弟子たちはご命令の通りにしました。弟子たちはイエス様を救い主と信じて、イエス様を知ること、イエス様とつながることに大きな喜びを経験したのです。使徒の働きのテーマは、人々がイエス様を救い主と信じた時の救いの喜びです。

 

主ご自身も宣教の心を持っておられました。イエス様はそのことを地上の生涯において実践し、ご自分のいのちを私たちのためにささげてくださいました。キリストを救い主と信じている私たちは、宣教師の働きがあって福音を聞くことができました。言い換えるなら、イエス様が地上に来られ今から2000年前に始められた宣教の働きにより、私たちは新約時代のクリスチャンと同じ救いの喜びを持っているのです。

 

ですから、宣教師を派遣することに参加することは神様の働きを同じように行うことなのです。そして、私たちの心は大きな喜びで満たされるのです。鈴木姉を送り出したことだけで終わらないようにしましょう。祈りによって、再び働き人を送り出すという大きな喜びを経験させていただきましょう。

 

鈴木しのぶ宣教師派遣式の動画へのリンク

感謝と祈祷

インドネシア派遣宣教師 広瀬憲夫

● 近況報告 ●

9月末にインドネシア現地での活動再開。新型コロナ対策制限・マスク着用義務はほぼ解除されて、通常の集会が行われている。各種クリスマス集会も久しぶりに開くことができ、家庭集会、スタバッ伝道所子供会、ビンジェイ学園でのクリスマス集会も盛会となった。

福音主義神学校での学びが始まったダニエル・マナル兄たちは、バイトもしながら忙しい日々。合間を縫って私と一緒に個人的に聖書と奉仕の学び。

年末年始に調布から二人の姉妹が宣教地訪問。現地牧師宅宿泊などの感想から、私たちがインドネシアに来た当初の事など、信仰によって歩むとは手を取ってもらいながら一歩々々歩むことだという初心を思い起こした。

1月下旬、フェローシップミーティングでジャカルタに出張。久しぶりの交わりの中で日常の奉仕の問題点と改善方法に示唆が与えられた。導きに感謝。

● 祈りの課題 ●

①日曜学校、子供会に来ている子たちが真理に堅く立てるように導けるように
②ダニエル兄、ジョン兄が恵みのうちに学びが進められ信仰が成長するように
③憲夫の秋田の母と弟夫婦、姉家族、横浜の兄家族が救われるように

 

インドネシア派遣宣教師 田村成幸

● 近況報告 ●

約10ヵ月に渡る教会訪問、一時帰国を終えて12月にインドネシアに戻りました。ご協力下さった諸教会の先生方、兄姉の皆様に心から感謝致します。

再訪問、交わりを含めて31教会を訪問させて頂きました。その全てが対面で、暖かく迎えて下さり感謝致します。

インドネシアに戻り、早期の教会独立に向けて準備をしております。同時に、次の働き場に関しても祈っていますので具体的な候補地が示される様にお祈り下さい。

家内の健康も守られている事を感謝致します。術後3年目を経て定期健診が、4ヶ月毎から6ヶ月毎になりました。完治に向けて続けて守られる事を願っています。

● 祈りの課題 ●

①インドネシア宣教の祝福と拡大
②スラバヤ南バプテスト教会の組織独立
③クランジ・バプテスト教会の祝福
④田村家族の守りと親兄弟の救いのため
⑤家内の健康のため
⑥スラバヤ後の働きが具体的に示されるように

 

台湾・東アジア派遣宣教師 鈴木しのぶ

● 近況報告 ●

諸教会の先生方、兄姉のお祈りとサポートを心から感謝いたします。

2022年11月27日(日)午後に若葉BBCにて派遣式をしていただきました。神学校でご一緒した港北NTBBCの姉妹が、すばらしいビデオを作成してくださいました。11月30日(水)に台湾に到着し、1週間自主隔離をしました。その間も検査陰性であれば外出可能であったため、教会のトラクト配布に参加し、運転免許証や居留証の手続きをし、また語学学校で体験授業を受けました。12月8日(木)から正式に在籍し、週5日通っています。 水曜日は午後の子ども会と夜の祈祷会に出席し、土曜は教会での奉仕、日曜日は礼拝に出席した後、聖歌隊の奉仕に加わり、月1回ある夜の婦人会にも参加しています。

 

毎日分からないことばかりで、教会の兄弟姉妹や町の人々に日々助けられ、親切にしていただいています。できないことばかりの中、神様と皆さんに助けていただくことばかりで、神様への感謝が増えました。神の御子イエス様が人となって私たちの間に住まわれたことを、これほど深く覚えたクリスマスはなく、心から主を賛美し感謝しております。皆様のお祈りを本当にどうもありがとうございます。

● 祈りの課題 ●

①台湾と東アジアで続けて福音が宣べ伝えられ、人々が救われるように
②神様と台湾の人々を愛する中で中国語が上達するように
③バイク等交通事故の多い街で、安全に移動できるように

 

ハワイ派遣宣教師 上久保 崇

● 近況報告 ●

10月には教会の子供たちがハロウィーンを避けるための「夜の子供会」を行ないました、この働きは毎回の内容や規模は異なりますが、今年はメッセージの後にみんなで夕食を作り、ゲームで楽しみました。主の守りの中で安全に過ごすことが出来ました。

11月には宣教大会を行ないました。今年は私たちがサポートをさせていただいている宣教師の先生方からのビデオレターを通して近況や祈りの課題を聞くことが出来ました。今年も信仰約束献金の目標が達成されて主の御名をあがめました。

12月25日は家族で過ごす方が多いために、人々がクリスマス礼拝に来られるように祈りつつ励ましてきましたが、いつもの方々が礼拝に来られたことに加えて家族一緒に出席する方もありました。翌週の新年礼拝にもいつもの出席者が共に集まって礼拝をおささげ出来ました。

● 祈りの課題 ●

①今年の教会のテーマ「イエス様を知り、信じ、信頼し、従う」(ヨハネ20:31)のために
②御言葉を通してイエス様に信頼し従う人が導かれるように
③円安の中での経済的な支えのために
④それぞれの場所にいる家族に、主の導きと守りがあるように

 

香港/東アジア派遣宣教師 吉田正治

● 近況報告 ●

クリスマスはコロナ前のように通常の子供会を行うことができました。子供15人、母親3人の出席がありました。また、クリスマス礼拝において祝福をいただきました。

1月1日が日曜だったので、翌日の2日に新年祝会を行いました。我が家の屋上にて、恒例のお好み焼きと豚汁を振る舞いました。コーナーストーン教会の礼拝は15〜20人の方が出席されています。

● 祈りの課題 ●

①今年4月にコーナーストーン教会は20周年を迎えます。10年ごとに教会の歩みを区切っておりますが、21年目、コーナーストーン第三期目の10年の祝福をお祈りください。
②中国との往来が、少しずつ再開していますが、まだ外国人が自由に行き来するには至っていません。日本人は、以前はビザなしで入国できましたが、しばらくはビザ取得が必要のようです。しかしこれも簡単ではなさそうで、しばらくは入国できないようです。
③吉田淳子師の両手の手指が荒れて、指先の腫れ、爪の変形や脱落が起きています。癒しのためにお祈りください。

 

インドネシア派遣宣教師 入江一義

● 祈りの課題 ●

①ケサワン教会信徒の霊的訓練のために(聖書信仰に立つ忠実な信仰の成長)
②中華系が多いケサワン教会の地域で特に中華系の魂が導かれるように(以前は住人が多かったが現在は店舗が多く住人が少ない。現在、少人数ながら集会を継続しているが、今後は巡回伝道や日本語バイブルクラス等を通してさらに教会に導かれることを期待している)
③ケサワン教会に住み込みで働ける伝道者が与えられるように
④牧会者、後継者が与えられるように。

青少年宣教キャンプの証し

第15回青少年宣教キャンプの恵み

香港・東アジア宣教師 吉田正治

「労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。」テモテへの手紙 第二 2章6節

主の恵みによって、2008年から始まった宣教キャンプは、2019年、香港暴動によって開催が困難になりましたが、日本に開催地を移して続けることができました。

翌年の2020年からは新型コロナのパンデミックもあり、毎回開催が危ぶまれる中、今年でコロナ下三年目ですが、一度として途切れることなく、最初の年から15回、対面式で開催を続けられていることを感謝いたします。

2022年も何とか5日間の日程を完了し、コロナ感染の攻撃にもめげず、多くの青年たち、宣教師、牧師、伝道者、ボランティアの兄姉の皆様と、宣教の重荷を分かち合うことができました。主の恵みと守りに感謝いたします。

冒頭のみ言葉の「収穫の分け前」とは、救いの実を目の前で見る喜びだけではなく、キャンプに来られた全ての人が祝福を受けることを見る喜びでもありました。今年も、お母さんに申し込みをされて、イヤイヤ参加したという一人の愛すべき青年が救われました。またバプテスマの決心をした兄姉、信仰の確信やリバイバルが与えられた多くの兄姉の証しも聞きました。献身をした兄姉たちの将来も楽しみです。参加者のビフォーアフターの大きな変化と成長は目を見張るほどで、これこそが、伝道者冥利に尽きる喜ばしい「収穫の分け前」でした。

宣教師パウロは「外には戦い、うちには恐れが」(IIコリント7:5)あると言っていますが、この宣教キャンプも外側の困難だけではなく、主催者である私自身の、人知れぬ恐れ、疑い、弱さとの戦いがあり、見えない真の主催者であられるイエス様の働きと励ましがなければ、とっくに消滅していたでしょう。

「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」コリント人への手紙 第二 4章16節

というわけで、イエス様が主催者であると知り、私はただの主のしもべなので、この尊い宣教キャンプの機会を、毎年、将来ある愛する青年たちに提供しなければならないとの思いを新たにしました。毎年全力で助けてくださる協力教会の仁戸名教会、J B B F宣教委員会、母教会の調布教会、またボランティアの兄姉に感謝いたします。2023年第16回も素晴らしいキャンプになりますように!!

神様にささげる決心

稚内BC マーサー・サラ

 

主にいくら感謝しても感謝しきれないほど宣教キャンプから御恵みを豊かに頂きました。初めて宣教キャンプに参加しましたが、日本からの宣教師の先生方や青少年の皆さんと出会い、交わることが出来、とても嬉しかったです。キャンプの説教と夜のデボーション、また交わりから頂いた神様の恵みとそのお働きを証しします。

説教からは神様の恵みの深さと、福音の素晴らしさに改めて気づくことができました。コロサイ1章5〜6節から語られたことが特に心に残っています。それは、多くの人に福音を広め多くの実が結ばれていくためには、まず最初に私自身が神様の恵みを理解しなければならないということです。

私には福音を語ることを恥じたり恐れたりしてしまう時がありますが、神様の恵み深さを本当の意味で理解していない時、またそれをきちんと意識できていない時にそのようになってしまうのだと気づかされました。主の前に悔い改めて神様の恵みをこれからはもっと意識して生きようと決心しました。私のような者を救って下さり、いつまでも私から離れることのない神様の恵みと福音の素晴らしさを深く思うことができ、私の心は福音を分かち合う喜びと熱意で再び満たされていきました。

夜のデボーションでは、主がとても近くにいてくださるということを何度も感じることができ、神様の恵みが心に染みわたっていくようでした。非常に励まされる大切な時間となりました。
そして交わりを通して与えられた恵みを証しします。東アジアの宣教師とお話しする機会を通して、神様は私の心に大きく働いて下さいました。その宣教師を通して東アジアの信徒について沢山のことを知りました。東アジアの信徒たちの御言葉と福音に対する熱心さと忠実さに感動した私は、彼らの伝道や日々の生活について色々な質問をしました。

彼らはいつ公安警察に捕まってしまうか分からない状況にあるというのに、堂々と公共の場所で福音を宣べ伝えているそうです。また礼拝の集まりでは窓を開けて堂々と賛美を歌っているそうです。東アジアの信徒は本当にキリストを自分の人生において一番大切な方としており、自由時間には聖書や信仰書を読んで勉強し、個人伝道をしていることを知りました。それを聞いて、私は自由時間を本当にキリストのために使っているだろうか、それとも自分のために使ってしまっていないだろうかと考え始めました。その時には答えが出せず、その夜も次の朝も考え続け、伝道者の書2章1〜3、11節、11章9節、12章13〜14節に導かれました。

この御言葉を通して、仕事の時間であっても自由時間であっても、もし自分の思いに従って過ごしてしまうなら例外なしに虚しい時間の使い方になってしまうと気づかされました。そして私は自由時間も、毎日の選択も全て神様に捧げる決心をしました。

キャンプから数カ月たった今、改めてキャンプ以降の私の歩みについて振り返ってみました。全て決心の通りに歩めているとは言えない場合も沢山ありますが、それでもキャンプを通して神様が私の歩みを変えてくださったことは確かです。そして神様は今もなお引き続き私の人生に働きかけてくださっていることを覚えて感謝しています!

 

救いの種を蒔く

稲毛BBC 清田大介

 

8月22日から26日の間に青少年宣教キャンプに参加させていただきました。このキャンプはコロナの影響により無くなる可能性がありました。それでも神様の恵みによって開催されることになりました。 このキャンプには約100人の方が参加しました。私は中学生で、このキャンプに参加した中学生は4人くらいで、すごく少なかったです。最初は友達ができるか不安でしたが神様の恵みによってすぐにつくることができました。神様からの恵みをすごく受けることができました。

このキャンプの中で一番心に残ったことは「救いの種を蒔く」ということです。今、この世界では神様の救いを必要としている人が増えています。私はこのキャンプを通してそんな人達に救いの種を蒔き、絶えず祈ろうと思いました。神様しか人を救うことができません。だからこそ祈りを捧げることの大切さも同時に改めて学ぶことができました。

ラージャス師のメモリアルサービスに出席して

海外宣教委員長 佐藤一彦

 

私たちJBBF諸教会の発展を考える時に、決して忘れてはならないことは、日本に来てくださった宣教師たちのお働きです。最近でも多くの宣教師が日本に来てくださっています。しかし、戦後間もなく、敵国であったはずの日本に敵意ではなく神の赦しと愛を分かち合うために福音を携えてやって来られた若き宣教師たちの覚悟は、今の私たちには想像も出来ない程の犠牲が伴うものだったに違いありません。しかし、その犠牲と献身的なお働きを主は豊かに祝福され、現在では日本各地に建てられたバプテスト教会の群れが、主の御名を褒め称えています。

ラバン・ラージャス先生の71年間の日本宣教のお証しについては皆さんも良く知っているところだと思いますが、誰よりも主がそのお働きをすべてご存知です。そして、その主がラージャス先生を御元に引き上げて、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と先生のお働きに豊かな報いを与えておられることでしょう。地上に残された私たちにとっては、先生の宣教スピリットと笑顔を見ることが出来なくなることは寂しい限りですが、先生から教えられた聖書信仰が多くの世代を超えて引き継がれているのを見る時に、イエス様の福音宣教という御業の延長線上にラージャス先生が、そして私たちがいることに気付かされます。

さて、昨年の9月にラージャス先生のメモリアルサービスがアメリカ・ミズーリー州・スプリングフィールドのBBFI宣教事務局にて開かれました。そこに、JBBFを代表して理事長の石川師、調布教会の片山師、そして宣教委員会からはスミス師と私が参加させていただきました。9日にスプリングフィールドに到着した私たちは、まずBBFI宣教事務局を訪ねました。そして、宣教委員長のジョン・カナラップ先生の御好意で建物内を見学させていただきました。あまりにも充実した設備とスタッフや委員のお働きの内容に終始圧倒されました。現在BBFIは国内の4,000以上の教会と繋がり、700人以上の宣教師を、80カ国以上の国々に遣わす地方教会とのパイプ役としての働きをしています。

そして、10日の朝10時から宣教事務局の2階にあるチャペル室にてメモリアルサービスが開催されました。当日、何人が来られるのかカナラップ先生も予想できませんでしたが、実際には40〜50人という人数に少し驚きました。しかし、ラージャス先生の年齢を考えると、その仲間も当然御高齢で、すでに天に召されている方もいることでしょう。また、アメリカは広いので来られない方や先生のことを知らない若い世代もいるでしょう。しかし、これが宣教師の人生なのかもしれないと思いました。95年の人生で71年を日本で過ごせば、当然日本の方が先生にとってはホームだったのでしょう。最後の1年を娘さんのいるワシントン州で過ごしましたが、テキサスが先生の地元ですから知っている人も殆どいない中での寂しい最後の1年であったと伺っています。

しかし、メモリアルサービスにはラージャス先生の娘さんベレンダ姉妹、ジェニー姉妹、そして、マーズデン先生の息子のデイビット兄とそれぞれの家族親族が来られており、日本からの私たち訪問者を本当に喜んでくださり、終始笑顔と日本語で交わることができました。会場には名古屋BBCを創設されたビル・ハッサウェイ先生もおられ、未だ日本への情熱を持っておられる姿を見ることも出来ました。ほんの一瞬の一時の小さな集まりでしたが、日本が主にあって、宣教国として、今もなお愛され、祈られているのだと実感させられる集会でした。

このように祝福の証しを残すことのできる人生を、私たちは主にあって日々歩み続けていきたいものです。

「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」ヨハネの福音書20章21節

ラージャス宣教師ドキュメンタリー映画へのリンク

自ら覆いを被る愚かさを知る

桶川バイブル・バプテスト教会牧師 内島 隆

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。コリント人への手紙 第二 3章18節

主の御前における私達

ユダヤ教徒たちは、律法を守り行う自分の行いが救いに至る道だと思っていました。ところが、その思いこそが覆いとなり、あろうことか待ち望んでいたはずのキリストを、自らの手で十字架に着けてしまいました。

しかし、同じ罪人である私たちは、決して彼らをとがめることはできません。かつては「神などいない。生命は偶然の産物で進化した。」そう言って、仕事、収入、家庭、教養、健康、運勢など神ならぬものを拠り所として生きる偶像礼拝者でした。神を信じて律法を厳守しようとするユダヤ教徒たち以上に、罪の覆いのうちに閉ざされていました。

そんな私たちのためにも、キリストは人となって世にお生まれになり、その人生に寄り添い、ついに十字架の死と復活をもって私たちの罪を贖い、御国への道を開き、絶望とむなしさの覆いを取り除き新しい命、新しい人生をお与えくださいました。今日その恵は、キリストが父なる神のみもとからお遣わしくださっている神の聖霊によってもたらされています。

こうして私たちは、偶像ではなく真の神を礼拝する者とされ、鏡のように主の栄光を映し、世に向かって大いにイエス・キリストを証しする者とされました。

私の愚かさ

2018年に、ある国の地下教会を訪ねました。宣教師が昇天されて以後、捕縛を恐れることなく無牧の教会を守り続けている彼らの信仰に、励ましを得たいと思っていましたし、彼らは修養会を計画しており、御言葉の御用の依頼も受けておりました。とは言っても私は宣教師ではありません。しかも伝道者としての経験は桶川での12年だけ。加えて日本との通信手段が検閲されているため、あらかじめ打合せをすることが出来ません。現地へ行ってから準備するよりないという、じつに消極的な条件ばかり。しかしその一方で、休暇をとってまで準備をしてきた彼らの姿があっては、到底後ろを向く気にはなれません。宣教師がお使いになっていたデスクをお借りし、恐れつつ祈りつつ御言葉の準備をさせていただきました。

修養会の二日目、御言葉に様々な応答があるなかで、なんと一人の兄弟が献身したのです。夢を見ているのかと思いました。今まで私の働きを介してそんなことを言い出した人は一人もいません。どうしてこんなことが起きたのか、聖書に「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とありますように、聖霊なる主が彼をお召しになったからに他なりません。

そもそも私たちが授かっている御言葉には、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」とおっしゃるイエス様の御心が伴っているものであって、それを誰かが語るならば、聞き入れたあらゆる国の人々に、神の御業が現れるのは当然ではないでしょうか。

後にコロナ禍によって厳しい移動制限政策がなされる中、地下教会では、献身した兄弟が亡き宣教師が残したテキストを頼りに御言葉を取り次ぎ、教会を守るべく奮闘したそうです。私は「宣教師ではありませんから。」と自ら覆いをかぶっていました。それだけに「主と同じかたちに姿を変えられ」続けなければいけないことを痛感したのです。

福音宣教に励む教会へ

私たち夫婦が宣教地から帰って後、一人の兄弟が宣教地訪問をしたいと申し出ました。そこで、折々励ましを頂いている田村宣教師にお願いして、彼をインドネシアに派遣させていただきました。

帰国後、彼の報告によると、礼拝の折に救いの証をさせていただいたところ、一人の日本人求道者が、彼の証しを聞こうと出張先から飛行機で戻って来たのだそうです。

救いの証、それはイエス・キリストの福音そのものではありませんか。それを語る兄弟はもちろん宣教師ではありません。しかし、求道者に福音をもたらすことは、もとより主の御心です。福音書には、イエス様が行かれると大勢の群衆が集まってきたので、御言葉を語られたと記してあります。私たちはこの方と同じかたちに姿を変えられている過程にあります。そうであれば、兄弟が福音を語り、求道者が求めてやってきたのも、聖霊なる主の働きによることではないでしょうか。宣教師であれ、牧師であれ、信徒であれ、それぞれ与えられた奉仕の働きは違っても、授かっている御言葉と救い、そして御霊は同じです。与えられた御言葉の恵みは、自分だけに留まるものと思ってはいけません。あらゆる国の人々のためにも、主が恵みをもって私たちに託してくださっているのです。

これを機に私達は、通常の祈祷会とは別に宣教祈祷会を設け、宣教地から届けられる報告や、宣教地訪問によって得た情報を頼りに、国内外の宣教を覚えて定期的に祈ることを開始しました。

展望

昨年の桶川教会のクリスマス集会に、8名の新来会者と6名の再来者がありました。こんなことは今までになかったことで、身近にも求めている人々がいることを示されるクリスマスとなりました。

この2023年も私たちは福音宣教の働きに励み、再び覆いを被ることなく鏡のように主の栄光を映すものとして、聖霊なる主の御業にあずかり続けたいと思います。

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「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人に」1ペテロ3章15節

ビンジェイ市での働きが始まってから30年もの時が流れました。いつも自分の不足を覚えつつ、主がお働きにな る妨げをしていないだろうかとの心配に捕らわれながらも、心配を覆いつくす神の恵みに守られつつ、皆さんの祈 りとご協力に支えられてこられたことを、心から感謝いたします。

1.一時帰国 6~9月

今回の一時帰国の目的の一つが秋田の母の見舞 いでした。転倒によるけがが続き、あまり動けなくなっ てきている中、認知症のような状態が散見されるよう になったからです。弟夫婦が働きに出ている日中、 母は家で一人きりなので、その影響もあったようで す。今回、1週間ずつ3度の帰省中はずっと会話をし 続けて過ごしました。長い間の海外生活について心 配してくれているのがよく分かりました。同時に、後 悔はないのか、とも尋ねられました。未信者の母の 目には心もとない歩みをしているように映るのでしょ う。後悔どころか、神に用いられる働きに就けた事を 証ししました。母と弟夫婦の救いのためにもお祈りい ただければさいわいです。

憲夫は5月にメダンで再発しためまいの検査を、帰 国してから受けました。その結果待ちの間に突発性 難聴になりましたが、すぐに投薬を受け、数日のうち にほぼ回復できました。無理ができない年齢になってきていることを痛感させられます。

こうした中で、諸教会訪問や伝道者の交わり、調布 教会の兄姉、特に青年の一泊キャンプなど、数々の 交わりをいただくことができ、力づけられました。

2.マナル牧師、ダニエル兄

4月にステント手術を受けたマナル牧師は主の守り と多くの祈りに支えられ、ほぼ通常の説教奉仕がで できるようになってきていますが、かなり無理をして やっているように見えます。ビンジェイ学園の校長と して毎日の教師向けデボーションは導いています が、対外的な多くの校長会議などは長女クリスティン 姉の代行出席などで乗り切っています。  手術を受けた心臓の調子は良いのですが、腎臓 や目が良くなく、定期的な検査をしながら投薬が続 いています。ただ、腎臓のために化学物質投薬は続 けたくないという本人の意向で、健康保険がきかず 値段の張るハーブ抽出サプリメントに替えています。 糖尿病の症状も抑えられ、腎臓機能も落ち着いてき ているようで、透析もせずに済んでいて、感謝です。

長男ダニエル兄の神学校での学びが始まりまし た。その経費のため、バプテスト学園より給料のよい メダン市の高校で教鞭をとるようになりました。神学校授業は1週間おきに夕方から始まるので、日中は 仕事をしてから授業に出ることができます。朝6時に 家を出て、夕方まで仕事、神学校がある日は帰宅が 夜11時になります。猛暑・豪雨・混雑の中のバイク移 動。体力的には非常に厳しい状況が続きますが、若 いうちの苦労と思って頑張っているところです。

3.ジャカルタ神学校卒業生の助っ人

6月からジャカルタのマルクス牧師が指導している 神学校の卒業生が派遣され、4か月間をめどにメダ ンでの伝道の手助けをしてくれていました。その結 果、アンディ兄はマンダラ教会での奉仕を継続する ことになり、ファスリ兄はメダン北部伝道の助けを継 続してくれることになりそうです。

二人はニアス島の出身で、メダン地域に新しい風 を吹き込んでくれています。メダン周辺の現伝道者 はみなバタック人でした。ファスリ兄には、スタバッ伝 道所の子供会でも一度お話をしてもらいました。よく 訓練されていて、今後が楽しみです。

1月に一度ジャカルタに戻り、そこで今後の奉仕地 を話し合う予定です。

4.12月から1月までの予定

新型コロナ行動規制のため2年間できなかったクリ スマス集会が、今年から復活します。4日にはシトメ アン牧師の親戚クリスマスの集いでメッセージ、5日ビンジェイ教会主催で壮年・婦人のクリスマス会でサ ラギ牧師がメッセージ、7日スタバッ伝道所子供会で 憲夫がお話、9日ビンジェイ教会日曜学校クリスマス 会でシトメアン牧師のお話、等です。

1月中旬、3年ぶりに行われるジャカルタで全インド ネシアのバプテスト教会フェローシップミーティング の説教と講義のため、令子と共に参加することにも なりました。

それぞれの奉仕が支えられますようお 祈りください。

主イエスの恵みが共にありますように

2022年12月3日

広瀬憲夫 令子

編集後記

本号の4〜5ページは横浜聖書バプテスト教会の宣教部が構成してくださったものを、ほぼそのまま掲載しました。編集し、まとめてくださった皆さんに心より感謝いたします。

さて、前号からQRコードを表紙につけました。前号はJBBF海外宣教のホーム画面にとびましたが、本号からは直接クォータリーの記事にとぶようにリンクを変えました。より、スムーズにクォータリーをご覧いただけます。読書の秋、聖書はもちろんの事、クォータリーも読んでいただき、宣教のために覚えて祈っていただければ幸いです。

地域教会のリーダーシップ

プロモート担当 鹿毛 愛喜

●生き方としてのリーダーシップ

海外宣教という働きにおいて海外宣教委員会がリーダーシップをもって進めていく役割と責任があることは確かである。しかし、同時に海外宣教委員会の役割と責任は、フェローシップ諸教会における海外宣教の働きに全面的に仕え、支援することにあると理解している。そのような意味では、海外宣教のリーダーシップは地域教会にあると言えるのである。聖書中において、ピリピ教会の宣教の関わりが思い起こされる。「ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。」(ピリピ4:15〜16)パウロの宣教を支えるために関わろうとしたピリピ教会は決して大きな群れではなかった。余裕があったから支援しようとしたのではなかった。彼らはパウロの宣教の必要に仕えるという点で「ほかにはありませんでした」と言われる程のリーダーシップを発揮した。リーダーシップに関する本の中で、「リーダーシップとは生き方である」という言葉を目にしたことがある。海外宣教におけるリーダーシップとは、全体を牽引していくことができる特定の教会がもつ特殊な賜物ではなく、宣教に関わる一つ、一つの地域教会の生き方そのものと考えることができるのではないだろうか。フェローシップ諸教会に目を向けるならば、宣教師を海外に派遣しようとしている教会がある。また、宣教師候補者を訓練している教会があり、海外からの宣教師を受け入れ育てている教会が幾つかあることは幸いなことである。これらの諸教会は、まさに実際的に海外宣教のリーダーシップを執っているのである。

●批判ではなく一致を生むリーダーシップ

今後の海外宣教の見通しは決して明るくはない。世界規模のパンデミックや世界情勢を考えれば、海外宣教における「今まで通り」が通用しない状況に直面している。そうであれば、諸教会の海外宣教における関わりにおいても、意識においても「今まで通り」を変えていかなければならないのではないか。もちろん、海外宣教委員会のあり方も例外ではない。そのために、今後の海外宣教の働きはこれまで以上に諸教会が一丸となって祈り合い、語り合い、重荷を分ち合い、取り組まなければならないように思われる。ある意味では、新たな海外宣教に対する取り組み、次世代の宣教師の育成を考えていく上では、これまでの取り組みに対する批判的な視点をもった再評価も必要となる。感情的な批判は健全なかたちで一致を生み出すリーダーシップにはならない。今、求められているのは地域教会において、どんなに情熱があったとしても分断を生み出すリーダーシップではなく、一致を生み出すリーダーシップでなければならないと思わされるのである。フェローシップ諸教会において、地域教会は宣教のためにキリストから派遣された群れであるとの確信は一致しているのではないだろうか。そして、フェローシップはこの宣教を目的とした協力関係という交わりを保ってきたのではないだろうか。特に、海外宣教という働きにおいて、変化の著しい世界の中で求められているのは、変化を受け入れ適用できる柔軟なリーダーシップではないだろうか。そして、折れない強いリーダーシップではなく、何度折れても回復を期待するリーダーシップではないだろうか。改めて確認したい。地域教会の海外宣教の関わりは「今まで通り」の継続で良いのだろうか。

●育成と派遣のリーダーシップ

では、実際にどのようなリーダーシップを地域教会が執っていくことができるのだろうか。地域教会において、海外宣教のために(実際には働き場を問わず)、宣教者の育成と派遣に注力するということではないだろうか。海外宣教のための祈りが地域教会の中で現在の宣教に対する献金というかたちで表され、年に数回の宣教集会というかたちで教会内における啓蒙がなされている。さらに一歩、海外宣教のための祈りが、地域教会において実際的に宣教者の育成と派遣ということに対する取り組みが求められている。もちろん、フェローシップにおいては、神学校が伝道者の養成機関である。それゆえ、国内、海外、無牧教会、後継を必要としている教会に伝道者を遣わすためにも、神学校に宣教者を育成し派遣できる教会形成を導く伝道者養成のリーダーシップを執っていただくことについて、これまで以上に期待されることは当然のことだろう。

宣教のために働き人を召すのは主である。しかし、常に一つの問いが心に残る。献身者不足は主がそのようにされているのだろうか、との問いである。もし、主が献身者を差し止めておられるのであれば、私たちはこの現状を受け止めなければならないだろうし、私たちが何かを成し得ることはない。しかし、収穫の主は、働き人を収穫の畑に送ろうとされているのではないだろうか。次世代の献身者が少ないと嘆かれる昨今、働き人を召し出す主の召しに思いを巡らす者である。私たちの教会に集う次世代が、主の召しを受け止め、応答できる備えがされているだろうか。教会が祈りと犠牲をもって次世代を育成し送り出す備えがされているだろうか。「地域教会のリーダーシップが今問われている」と、私自身が主から問われているのである。

感謝と祈祷

インドネシア派遣宣教師 田村 成幸

田村先生

● 近況報告 ●

教会訪問の働きが導かれている事を感謝致します。幾つかの教会で、メッセージの後に救いの決心者が起こされている事を主に感謝しています。ある方は長年祈られて来て91才で信仰告白に導かれました。ある方も長らく教会に来られていましたが80才代で信仰告白に導かれました。先の宣教キャンプでも救いの決心が与えられ、神様の御業に感謝しています。12月まで訪問が続きますが、ほぼ対面での教会訪問が導かれています事を主に感謝致します。

● 祈りの課題 ●

①インドネシア宣教の祝福と拡大
②スラバヤ南バプテスト教会の組織独立
③クランジ・バプテスト教会の祝福
④シモン・ネンゴラン師、フランキー・タンブーナン師の為
⑤田村家族の守りと親兄弟の救いの為、家内の健康の為
⑥経済的祝福と守りの為
⑦スラバヤ後の働きが具体的に示されるように

ハワイ派遣宣教師 上久保 崇

上久保先生

● 近況報告 ●

9月4日は教会の22周年記念でした。この日は礼拝前に主の晩さん式を行ない教会がイエス様の十字架を覚える時を持つことが出来ました。礼拝ではこれまでの22年を感謝してこれからの教会の祝福を共に祈りました。礼拝後には数年ぶりに、注文したお弁当でランチフェローシップを持つことも出来ました。

エナさんは今年パラオの高校を卒業しておば様をたずねてハワイに来られています。彼女たちの近所に住んでいる教会員のご夫妻がエナさんをお誘いをして礼拝に出席しました。彼女はミッションスクールに通っていたということでしたが、イエス様を個人的な救い主と信じたことがありませんでした。6月のウェルカム礼拝の時に招きに答えてその後の個人伝道によって救いの決心をされました。秋ごろまでハワイに滞在する予定です、これからのフォローアップの導きを祈っています。

● 祈りの課題 ●

①礼拝の祝福:7月より、第一日曜はバイリンガル礼拝をおささげしています。単一原語でメッセージを聞くことも幸いですが、教会として一堂に会して礼拝できることも感謝です
②秋からの伝道:第三日曜のウェルカムサンデー(10月:秋の伝道集会、11月:感謝祭、12月:クリスマス)を通して救われる魂が導かれるように
③それぞれの場所にいる家族に、主からの導きと守りがあるように

香港/東アジア派遣宣教師 鈴木 しのぶ

● 近況報告 ●

5月から6月は各月に1度、教会訪問をしました。若葉BBCでは、交わり会や特別集会の準備、墓地や新会堂のビジョンに向かっての奉仕に携わりました。7月から8月は、4つのキャンプでお話の奉仕をさせていただきました。コロナウィルスの新規感染者数が減少したことに伴い、キャンプが再開されつつあることを主に感謝しました。諸教会のお子さん達、奉仕者の皆様と直接にお会いし、救い主イエス様をお伝えする喜びをいただいたすばらしい夏でした。主が救いの決心に導かれたお子さん達のこれからの信仰の歩みのために、お祈りしています。この他に参加したキャンプのうち、手話キャンプでは救われたろう者の姉妹のすばらしいお証と賛美をおききし、主を褒めたたえました。宣教キャンプでは、キッチンや朝夕のデボーションでの奉仕に加わらせていただいたことを感謝いたします。

夏のキャンプ・シーズンが始まるのと時を同じくして、台湾で宗教ビザの発行が再開されました。現在、必要書類を準備し、ビザを申請し、受理される一連の過程にあります。皆様の尊いお祈りに心から感謝いたします。続けて皆様にお祈りいただけましたら幸いです。どうぞよろしくお願い致します。

● 祈りの課題 ●

①台湾と規制が厳しくなっている東アジアで、続けて福音が宣べ伝えられるように
②宗教ビザの申請が受理され、ビザが発行されるように
③教会訪問と出発の準備の祝福

香港/東アジア派遣宣教師 吉田 正治

吉田先生

● 近況報告 ●

7月:暑い夏になり、香港の上水でも39度になる。コーナーストーンでは3人が救いの決心。28日から日本に帰り、31日より北海道でファーロー。
8月:前半は北海道でファーロー。二週間強で4教会を訪れる。コロナで一教会がキャンセルとなり、二組の牧師先生とは、教会外でお会いし、お交わりをいただく。15日に帰京し、22日から26日まで、JBBF軽井沢グレースキャンプ場にて宣教キャンプ。救い一人、バプテスマ一人、献身4人の決心者が与えられる。コロナ感染もあり、吉田も罹るが、自宅隔離10日で快復する。
9月:第一週まで隔離。第二週以降は身体検査など、健康を整え、日本の家族との交流。25日聖日、母教会でのメッセージを最後に、10月1日に宣教地へ。

● 祈りの課題 ●

①未信の93歳新井匡夫(淳子父)、92歳吉田俔子(チカコ)(母)、兄弟妹たちの救いのために
②無牧のライトハウス、母教会の調布に牧師が与えられるように
③コーナーストーン教会に良い会堂が与えられるように
④内地との往来が再開するように

インドネシア派遣宣教師 広瀬 憲夫

広瀬先生

● 近況報告 ●

6月中旬より一時帰国、6つの教会を訪問させていただいた。また秋田の母(94歳)を見舞うこと3回、1か月ごとに体力の減衰が認められるが、行ったり来たりの私の事をより心配してくれる。調布教会の青少年夏行事に久しぶりに参加、若い力に触れて力を受けた。9月29日インドネシアに出発。

● 祈りの課題 ●

①ダニエル・マナル兄、ジョン・バンチン兄の神学校の学びと教会奉仕の祝福
②互いの交わりを通して伝道者たちの聖書理解が実践的に深められ、恵みのうちに伝道の働きが進められ、拡大するように
③憲夫の秋田の母(94歳)、弟夫婦の救いと健康のため

インドネシア派遣宣教師 入江一義

入江先生

● 近況報告 ●

10月4日(火)谷井委員が宣教師宅に電話をして近況報告と祈祷課題を伺いました。博子先生が電話に出られ、入江先生を待っている間、電話越しにスピーカーからコーランが聞こえてきました。宣教師宅の周りはほとんどの方がイスラム教の方だそうです。改めて、そのような異教文化の中で宣教をされていることを実感しました。以下、近況報告です。

3年前の事故の影響もあり、身体が思うように動かず日常生活で大変ご苦労なさっているようです。特に左足が弱っているとのことですが、車は運転できるそうです。また、宣教基地の庭の手入れなども思うように手が付けられないでいます。その様な中で、以前から入江先生のお手伝いをされていたメンテン教会の兄弟が、近々宣教基地内の建物に移り住んで来られるようです。ケサワン教会には忠実に10名程の兄弟姉妹が集っておれるとのこと。現在は、教会での水曜日の集会は行っておらず、先生が回って集会を持っています。

● 祈りの課題 ●

①事故の後遺症も残る中、日々健康と働きが支えられること
②宣教師宅や宣教基地の必要な修繕作業が行えるように
③物価高で治安が悪くなっているので、安全が守られるように
④宣教の働きの後継者が与えられるように

横浜BBC宣教部のご紹介

宣教部部長 中畑太一

1)はじめに

主の御名を賛美いたします。海外宣教委員会の先生方よりご依頼をいただき、今回このような形で横浜教会宣教部の働きを紹介できること、主にあって感謝いたします。JBBF諸教会の宣教の働きのため、少しでも参考になることがあればと願いつつ、私たち宣教部の活動内容を紹介させていただきます。

2)宣教部について

現在宣教部では、中高生・学生・青年・婦人・壮年の幅広い年代の教会員21名が、宣教部員として奉仕しています。横浜教会は現在35箇所(神学校や宣教委員会などを含み、国内11箇所、海外24箇所)の支援先をサポートさせていただいております。各部員はその中からそれぞれ担当宣教地を受け持ち、支援先の先生方との連絡等を行っています。

宣教部の1年の活動の概要は、下記「横浜教会宣教部の1年(2021年度)」のとおりです。

3)部会

宣教部では、毎月部会を行っています。コロナ禍前は第一聖日の夕拝前の時間に集まっていましたが、現在は第一聖日の20時から21時まで、Zoomにて行っています。部会では、各宣教地の祈りの課題の共有、宣教カンファレンスや宣教月間の準備、その他宣教部の活動に関する話合いをしています。また、各宣教地のための祈りの時も持っています。

4)宣教カンファレンス・宣教月間

宣教部のメインの活動は、何と言っても毎年2月の宣教カンファレンス・宣教月間の計画、準備です。毎年7月頃より準備を始めています。

宣教カンファレンスは、例年2月第3聖日に開催される、宣教尽くしの一日です。特別に講師(宣教師の先生のことが多いです。)をお招きし、教会学校、礼拝、夕拝で宣教報告やメッセージをいただきます。愛餐も講師の先生にちなんだ特別仕様(たとえばインドネシアの田村先生をお招きした際はピサンゴレンがデザートに付きました。)で、愛餐後夕拝までの時間には宣教祈り会、子どもたちのためのすごろく企画や紙芝居企画などを行っていました。また、夕拝では宣教部員が色々な国の民族衣装を着て特別賛美をお捧げしていました。コロナ禍以降は宣教カンファレンスも教会学校と礼拝のみとなってしまっていますが、その代わりカンファレンス当日の夜に講師の先生と宣教部員とでオンラインでの交わり会を開催したり、礼拝で宣教部員が動画による特別賛美(勿論各自民族衣装を着て撮影します。)をお捧げしたりしています。

また、宣教への重荷が増し加えられていく中で「宣教に目を向ける機会を宣教カンファレンスの1日だけで終わらせたくない」という思いが与えられ、10年ほど前よりカンファレンス当日を含む2月の1ヵ月間を「宣教月間」として、教会学校の協力も得て、教会全体で宣教に目を向ける期間とするようになりました。具体的には、この1ヵ月間は教会全体を万国旗や地球儀で飾り、皆で宣教部作成の宣教バッジを着け、礼拝・水曜祈り会・教会学校では毎週宣教に関するテーマからメッセージをいただき、また教会学校各科で宣教のための特別企画を準備するなどして、宣教への思いを深める1ヵ月としています。加えて、宣教月間の終わりには宣教約束献金の更新をし、教会員一人ひとりが宣教月間で与えられた宣教のために捧げる思いをあらわしています。

5)祈りの冊子

毎年宣教月間の時期には、支援先の先生方からお聞きした祈りの課題をまとめた「祈りの冊子」を作成・配布しています。各家庭での祈りのために用いていただいているほか、水曜日の祈り会において、祈りの冊子から毎週1箇所をピックアップして教会の祈りに加えていただいています。

また、子どもたち用として、祈りの課題を易しい言葉に変換した「祈りのカード」も作成しています。

6)宣教レポートの共有

各支援先から定期的にいただく宣教報告は、以下のような方法で教会の方々に共有しています。

①掲示板への掲示

横浜教会には宣教部が管理させていただいている掲示板があり、支援先を記した世界地図(青森恵みバプテスト教会のキャンター師が作成してくださいました。)や日本地図、各支援先の祈りの課題等を掲示しています。そして、その中に「新着コーナー」を設け、直近に届いた宣教報告を掲示し祈りに覚えていただけるようにしています。

②漁(すなどり)の発行

また、長江牧師より「教会の方々がご自宅でゆっくり宣教報告を読めるようにしたい」とのご要望をいただき、これに応えて宣教部では、2か月に1度、その間に届いた各地からの宣教報告をまとめて「漁(すなどり)」として発行し教会の方々にお配りしています。今年10月に発行される漁で45号になります。中高科の学び会でも漁を用いて各宣教地の状況を共有し祈ってくださっています。

③海外からの宣教レポートの翻訳

横浜教会が支援している海外の宣教師の先生方の中には、外国人の先生方もおられます。当然、外国人の先生方から届く宣教報告は英文です。そのような宣教報告については、宣教部に与えられている英語の賜物を持つ8名の兄弟姉妹から成る「翻訳チーム」が、日本語に翻訳のうえ、他の宣教報告と同じように皆さんに共有しています。現在英文で報告が届く支援先は10箇所ほどありますが、そのすべてを翻訳チームが翻訳してくださっています。

7)サポート送金

各支援先へのサポート送金のうち、海外宣教地の外国人宣教師宛送金の段取り、送金連絡も宣教部が担当しています。近年、海外への送金はかなり厳しくなっているようで、なかなか簡単には送金できません。送金先の国によっても事情が異なります。担当者が送金先の先生方と(当然ながら英語で)協議しながら、送金サービスとしてMoneyGramを使ったり、Western Unionを使ったり、Wiseを使ったりと、確実に先生方にサポートが届くように試行錯誤しつつ進めています。

8)贈り物・クリスマスカード

横浜教会では、毎年夏に「夏の贈り物」を国内の教会・伝道所3箇所に、クリスマスの時期には「クリスマス愛の贈り物」を海外の支援先3箇所にお贈りしています。贈り物手配や先生方からの希望聴取も宣教部でさせていただいています。また、毎年クリスマスカードを全支援先にお送りしています。

9)宣教地訪問

コロナ禍前、宣教部有志で海外宣教地(東アジア、台湾)や国内の伝道所等を訪問することもありました。私は行けていませんが、参加された方からは「宣教地をより身近に感じ、より具体的に祈りたい、宣教地支援のために働きたいと思うようになった」と聞いておりますので、是非近いうちに再開できればと願っています。

10)おわりに

以上、横浜教会宣教部の働きについて紹介させていただきました。

この原稿のご依頼をいただいてから、部会において皆でこれまでの宣教部の働き、与えられた恵みを振り返りました。その中で、宣教部としてのターニングポイントの一つは、長江牧師が教会のビジョンとして宣教強化を掲げられたことにあると気付かされました。神様が牧師を通して教会の向かうべき方向を示し導いてくださっていることを改めて覚えます。

そして、横浜教会では、2016年度より、宣教月間テーマに「YBBCから宣教師を」という副題をつけています。これまでもすべてを満たしてくださった主が、このビジョンも実現してくださることを期待しつつ、宣教のための働きを続けていきたいと願っています。

井垣勇基師インタビュー

※今後の働きのため井垣師の顔はぼかしています。

このコーナーでは、2022年9月8日に調布聖書バプテスト教会の伝道師井垣勇基師に谷井涙賀(ルカ)委員がインドネシア訪問についてZoomでインタビューした模様をお届けします。

まず、インドネシア訪問の期間を教えて下さい。

4月27日~5月31日の一か月強に渡る訪問となりました。出国前にはわからなかったのですが、ジャカルタに到着した日から入国者へのPCR検査と隔離が不要となり、また日本帰国時もその日から規制緩和され隔離不要となりました。主のなさることは時にかなって素晴らしいことを実感しました!!

過去に様々な宣教地に行かれたと伺っていますが、インドネシアの第一印象はどうでしたか?

実は、インドネシアに行くことが長年の夢でした。というのは、調布から派遣されているすべての宣教地に行くことが夢で、インドネシアにだけ行ったことがなかったからです。現地に着くと、ラマダン(断食の期間)の最中でした。インドネシアの印象は、フィリピン、台湾、韓国、中国、香港を足して割ったような雰囲気でした。町はどこか中華風、空港で旅行者に人懐っこく話しかけてくる様子は台湾やフィリピンにも似ていました。

現地ではどのような活動をされたのですか。

マンダラ教会の日曜学校を見学させていただき、弟子訓練を受けた若い奉仕者が熱心に奉仕しておられました。また、ビンジェイ、スタバッ、マンダラ教会の青年たちの日曜学校教師訓練会にも参加し、生き生きと楽しそうに学んでいる様子が印象的でした。それから、現地高校の日本語クラスや日本語学校にも行き、生徒たちと交流をしたり、また現地の牧師に付いて訪問伝道、個人伝道にも出かけたりしました。広瀬宣教師が作成したインドネシア語のトラクトをイスラム教の方に渡すこともできました。

滞在中に特に心に響いてきたみことばはありましたか。

インドネシアではキリスト昇天記念日が祝日となっています。教会の集会で語られたマルコ16章15節のみことばから、復活とイエス様の昇天に関連しての福音メッセージが心に残りました。

今回はインドネシアを訪問したわけですが、将来の働きのビジョンについて教えて下さい。

宣教地に行った時、キリスト教的背景のない方たちと接した時、今まで自分がもっていた宣教師像と大分ずれがあることに気付きました。福音を必要としている人たちは、実際には宣教師としては入って行けない地域に住んでいます。主が遣わして下さる所で、従来のような会堂建設や組織運営を目標とするアプローチではなく、個人伝道と弟子訓練を重視した家庭集会的なアプローチで福音宣教に携わりたいと期待に胸をふくらませています。

主から託されている大きな働き

上越聖書バプテスト教会牧師 加治佐清也

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。ヨハネの福音書 14章12節

十字架にかかる前夜、イエス様は地上に残される弟子たちに最後のお話しをされました。その中でイエス様は、冒頭のみことばを語られました。信じる者には、主のお働きが託されています。私たち教会は、この時代にあって、どのような歩みを期待されているのでしょうか。あらためて、ともにみことばに耳を傾けてまいりましょう。

まことに、まことに

まずイエス様は「まことに、まことに」(アーメン、アーメン)と言われました。これからお話しすることがとても重要なことであることを示しています。その内容とは、主を信じる者、すなわち教会が、主のわざを行う、さらにそれ以上の大きなわざを行うということです。イエス様よりも大きな働きをするというのは、にわかには信じ難いかもしれませんが、「まことに、まことに」本当にそうなのだと、主は私たちに言われます。

教会の目的

このみことばで教えられていることは、教会には目的があるということです。すなわち教会とは、主イエス様のわざを行う集まりなのです。教会は自分自身が何者かをよく理解しておく必要があります。そうでなければ、教会は簡単に福祉団体や政治団体、単なる研究会やサークルなど世の集まりと変わらないものになってしまうからです。教会には独自の目的・使命があります。それは主イエスのわざを行うことです。

主イエスのわざ

では、主イエスのわざとは何でしょうか。それは第一に福音宣教です。聖書が示す救いの道を宣べ伝えることです。「神はキリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(Ⅱコリント5:18)。和解のメッセージを伝えることは、神と和解したすべての人の務めです。教会は世に遣わされた「キリストの使節」(同5:20)として、和解の福音を伝えます。「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4:12)とあるように、主イエスこそ唯一の救いの道であることを世に示していくのです。

第二に、イエス様が人々を愛し、慰め、あわれまれたように、教会もまた、神の愛と慰めとあわれみを、ことばだけでなく、行動を伴って、全生活を通して証しします。イエス様は「群衆を見て深くあわれまれ」ました(マタイ9:36)。彼らが「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた」からでした。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」とも言われました(同11:28)。疲れた人とは、赦しのない、裁き合い、競い合い、比べ合う、そういうパリサイ人らの教えに息苦しくなっていた人々であり、イエス様の思いは、そのような人々が福音によって心の癒やしを得ることでした。主の愛とあわれみは、福音宣教にしばしば伴いました。姦淫の現場をおさえられ、衆目にさらされ、言い逃れができない、誰かどう見ても罪深い女性を、イエス様はお赦しになりました。主は嫌われていた取税人ザアカイの友となりました。罪深い生活を送り、世間から孤立していたサマリアの女に声をかけ、救いに導きました。病苦や生活苦の中にあった盲人や病人をいやし、罪を赦しました。イエス様の人に対する優しさ、あわれみ、なぐさめの記事には事欠きません。このような愛とあわれみのわざを行うようにと、私たちも招かれているのです。

さらに大きなわざ

このように教会は、イエス様がなされた福音宣教とあわれみのわざを行うために世に遣わされていますが、それだけではありません。「さらに大きなわざ」をも行うのです。これはもちろん、私たちが質的な意味において、イエス様より大きな働きをするということではありません。教えや働きにおいて、私たちがイエス様を超えることなどできません。何よりイエス様のように十字架にかかって、よみがえり、救いの道を備えることなど絶対にできませんし、そんな資格もありません。

それでは「さらに大きな」とは、どういう意味なのでしょうか。それはさらに大きな時間と空間において、という意味です。イエス様が限られた時代と場所でなされた福音宣教とあわれみのわざを、教会は受け継いで、その後の長い歴史の中で、世界中の広大な地域で行っていくのです。その意味において、教会はイエス様よりも「さらに大きな」働きをしていきます。イエス様のなされたわざを、あらゆる時代、あらゆる地域において継承し、実行していくことにおいて、教会はイエスが地上におられた間になされた働きよりも大きな働きをしていくのです。

助け主である聖霊

このような偉大な働きを託されていることは、大変光栄なことですが、同時に果たして自分たちにそんなことができるだろうかとも思うでしょう。そういう気持ちに応えるかのように、イエス様はこう付け加えられています。「わたしが父のみもとに行くからです。」イエスが復活後、天に戻られました。だから、クリスチャンは、イエスの行うわざ、福音宣教と愛のわざを行うことができると言われるのです。でも、なぜイエス様がいなくなると、それができるのでしょうか。逆にイエス様がずっといてくださったほうが良いのではないでしょうか。

その答えはヨハネ16章7節にあります。「わたしが去っていくことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」すなわち、イエスが去っていくことによって、助け主である聖霊が来てくださるのです。聖霊はイエス様の代わりに来られる「もう一人の助け主」(ヨハネ14:16)であり、「イエスの御霊」(使徒16:7)です。ですからイエス様が弟子たちとずっとともにいてくださったように、主は御霊において、いつも私たちとともにいてくださいます。聖霊は信じる者に内住される助け主、慰め主、カウンセラーです。この方によってクリスチャンは内側から力づけられ、教えられ、慰められ、主のわざ、すなわち福音宣教とあわれみのわざをなすことができるのです。自分の力ではありません。聖霊なる神の助けによって、私たちの心は動かされ、みことばを伝え、真実な愛をもって慰めのわざを行うことができるのです。

主を信じる者、その集まりである教会は、主が地上で行われたわざを続けて行うように召されています。世の中は様々な出来事が起こり、色々な意見やことばが飛び交いますが、ヨハネ14章1節の御言葉にある通り、私たちは心騒がせることなく、神を信じ、主イエスを信じ、「まことに、まことに」大切な教会の使命と目的を見失わず、内なる聖霊の力と励ましをいただいて、主のわざをさらに大きく行ってまいりましょう。

編集後記

今は聖書もスマホで、という方もおられるのではないでしょうか。「聴くドラマ聖書」アプリを通勤中の電車で、散歩をしながら聴いているという方もおられると思います。今回、初の試みとして宣教クォータリーの表紙にQRコードを付けました。宣教クォータリーをより多くの人に親しんでいただき、宣教のために祈っていただきたいのです。読み込んでいただくとJBBF海外宣教のホームページに飛びます。iPhoneのSafariには「リーダー表示」という機能があります。それを使うと広告のない文字列の画面に変わります。二本指で縦スクロールすると音声で聴くこともできます。ご活用ください!

感謝と祈祷

入江先生

インドネシア派遣宣教師 入江一義

奇跡的に助かった交通事故の後遺症の影響で、体調は思わしくなく具合もあまり良くない状況が続いています。PCで報告を打つことも難しく、しばらく報告が出来ていませんが、皆様のお祈りを感謝いたします。インドネシアに骨を埋める覚悟で宣教しています。インドネシア宣教のための働き手が起こされるように続けてお祈りしてください。

※6月6日に谷井宣教委員が入江宣教師に電話連絡をしてお話を伺いました。声ははつらつとしてお元気そうでしたが、体力的に無理ができないことと、体調面で様々な不安があることをお聞きしました。

 

広瀬先生

インドネシア派遣宣教師 広瀬憲夫

1)ビンジェイ教会のマナル牧師が、4月に心臓手術、その後糖尿病の影響による腎臓の問題で、透析など術後の管理が続いています。5月下旬から集会に参加できるようになり6月からは祈祷会メッセージも再開です。回復のためにお祈りください。
2)1か月宣教訓練生がインドネシアに滞在、様々な経験を通して、私たちも神様のお働きを共に学ぶ機会をいただきました。今後の主の導きのためにお祈りく
3)5月26日ビンジェイ教会キリスト昇天記念日(祝日)礼拝で、2名のバプテスマ式と主の晩餐が行われました。マナル牧師が退院後初めての奉仕でした。
4)ビンジェイ教会のダニエル・マナル兄、マンダラ教会のジョン・バンチン兄の神学校での学びが8月から始まる予定です。準備と、今後の学びと奉仕のためにお祈りください。
5)憲夫の弟夫婦と同居の母(秋田、94歳)が体力の衰えが進んでいます。家族の救いと守りのためにお祈りください。

 

ダニエル兄の祈祷会初奉仕

ビンジェイ教会のバプテスマ

 

吉田先生

香港/東アジア派遣宣教師 吉田正治

近況報告

4月24日の聖日から、会堂での礼拝と祈祷会を再開することができました。2月初めから約3ヶ月、オンラインでしたので、教会員はなかなか本調子にならず、出席人数も二十人を下回りましたが、4月のイースターと教会開拓記念日をギリギリでお祝いできなかったので、5月1日はその両方と、会堂礼拝再開の三つのお祝いを一度にしました。

5月8日は母の日礼拝で、お母さんと、その他姉妹方合わせて14人にプレゼントをお渡ししました。街に人出も多くなって来て、教会の近所にトラクト配布も再開しました。

祈りの課題

1)香港コーナーストーン教会の祝福
2)内地の教会の守り。1日も早く訪問が可能になるように
3)夏の宣教キャンプの祝福

イースターと創立記念

母の日礼拝後の愛餐会

 

香港/東アジア派遣宣教師 鈴木しのぶ

近況報告

2022年もデピュテーションと教会のスタッフの働きを続けています。1月は宣教師の留守番をし、またオンラインで中部東海地方のキャンプに参加しました。2月には2つのオンライン・ミーティングに参加し、1つの教会を直接訪問しました。3月から4月は教会員の訪問や教会の交わり会で奉仕し、ジュニア・キャンプや青年キャンプに参加しました。5月もキャンプや交わり会での奉仕をしつつ、3つの教会を直接訪問する予定です。台湾でもオミクロン株の感染拡大が広まりつつあります。台湾政府は、経済活動と感染防止対策の両立を目指して隔離措置の緩和を図っています。また各種ビザの発給も徐々に再開しつつありますが、宗教ビザの発給は未だ再開されていません。私が神様に従い、神様の時を忍耐して待ち望むようにお祈りいただければ幸いです。

祈りの課題

1)台湾と規制が厳しくなっている東アジアで、続けて福音が宣べ伝えられるように
2)台湾の宗教ビザの発給が再開されるように
3)鈴木が神様の時を忍耐深く喜んで待ち望むように

 

上久保先生

ハワイ派遣宣教師 上久保崇

近況報告

現在礼拝は英語と日本語の二回の礼拝をおささげしています。イースター礼拝は、日英両語での礼拝をおささげしました。当時は新来会者の一組ご夫妻と教会員のご家族の再来会者がありました。イースターの前には教会員が共に集まり主の晩さんを行ないました。コロナの感染対策のために休止されていた高齢者ケア施設への訪問を3月から再開しました。以前から集われている方との再会もでき、その中のお一人はいくつかの質問の書かれたメモを持って参加をされています。就学前の子供たちへの伝道が5月で今年度の活動が終わりました。ここでは、クリスチャンではない母子が聖書のお話を聞く機会となっています。救いに導かれる方があることを祈りつつ9月からの次年度に備えていきます。

祈りの課題

1)諸集会に参加をされている方々の救い(高齢者ケア施設Jさん、婦人会Iさん、子供伝道のご家族)
2)毎月のウェルカムサンデー(伝道集会)の祝福
3)それぞれの場所にいる家族に、主の導きと守りがあるように

高齢者ケア施設への訪問

 

田村先生

インドネシア派遣宣教師 田村成幸

近況報告

今年2月末から一時帰国し諸教会訪問をさせて頂いています。蔓延防止対策も全国的に緩和され対面での訪問が導かれている事に感謝致します。10月までの8か月間の滞在予定になります。スラバヤでもバリから越してきた家族が集っており(同フェロシップからの参加)教勢にプラス要素が見えて来ています。今年末の独立に向けてお祈り下さい。

祈りの課題

1)インドネシア宣教の祝福と拡大
2)スラバヤ南バプテスト教会の組織独立
3)クランジ・バプテスト教会の祝福
4)シモン・ネンゴラン師、フランキー・タンブーナン師の為
5)田村家族の守りと親兄弟の救いの為、家内の健康の為
6)経済的祝福と守りの為
7)スラバヤ後の働きが具体的に示されるように

ウクライナ支援報告と現地の様子

ウクライナ支援献金の呼びかけについて

今回私たち宣教委員会では、これらの宣教師の先生方とコンタクトを持ち、お働きのために具体的に日本からも支援出来るのではないかとJBBF諸教会にウクライナ支援献金を募ることになりました。

既に多くの諸教会では祈りと独自の支援をしておられる教会もありますが、今回の支援呼びかけに対して本当に多くの諸教会から支援献金が宣教事務局に寄せられました。5月末時点で合計約260万円の支援献金が集まりましたので、ミントン先生、ゴンチュレア先生、タイラー先生(にBBFIとBIMIから指定された支援窓口に送金させていただきました。 送られた支援献金はすべて各宣教師の元に届けられウクライナ難民の方々の物理的と霊的支援のために用いられます。皆様の祈りと支援献金の犠牲に心より感謝いたします。どうぞ続けて日々刻々と変化するウクライナ国内の状況に関心を持っていただき、主の命じられた「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」を祈りと支援をもって実践していきましょう。

 

ウクライナ宣教師(BBFI)

ロン&ナンシー・ミントン先生

2021年12月にウクライナからアメリカに一時帰国し、健康診断や諸教会訪問を開始して4月には再びウクライナに戻る計画をしていました。しかし、2月24日にロシアが武力でウクライナに侵攻を始めました。先生ご夫妻は現在もウクライナに戻ることができず、アメリカに滞在しています。

現在先生のウクライナの教会は、先生の指導の元、現地のパートナーとして共に働いている牧師が中心となり、被害に遭われているクリスチャンや避難民を支援しています。

ミントン先生はウクライナで使っているバンを現地の人々を助けたり、国外に脱出のために提供しています。先生の宣教地はウクライナ北東部の都市のハリコフで、今までもロシア軍によって何度も深刻な爆弾攻撃を受けています。そして、最新の先生からの連絡では、先生の現地の家も爆弾によって深刻なダメージを受けたそうです。幸い家には誰もいないので被害に遭った人はいません。現地の牧師や信徒の人たちと連絡を取り合いながら、とりあえず大切な家の権利書や書類関係、大切な物を破壊された家からとり出す指示を与えたそうですが、どれだけのものが無事であるのかまだ分かりません。どうぞお祈りください。

 

ルーマニア宣教師(BBFI)

セバー・ゴンチュレア先生

ウクライナの隣国となるルーマニアでは、日々ウクライナから逃げてくる難民がやって来るので先生は現地で支援活動を行っています。 宣教活動の一環として、マナワールドワイド食料支援を行っており、ルーマニアのウクライナの国境付近に孤児院施設を運営しています。現在そこを避難民たちの安全な居場所として提供し、食料や水など必要物資を支援しています。先生の奥様であるキャッシー先生は、去年10月に新型コロナウィルスに感染により、神様の元に召されたばかりの中でのお働きです。先生のお働きと慰めのためにお祈りください。

 

ルーマニア宣教師(BIMI)

ティム&デブラ・タイラー先生

ウクライナから避難してくる多くの人々は女性や子供たちです。避難民の方々に宿泊施設や支援物資を提供することが出来ています。先生が始めた神学校の施設にも多くのウクライナからの人々を受け入れています。避難してくる人々の中にはウクライナで働いていた宣教師もいます。また、ウクライナ語とロシア語のトラクトをたくさん用意して、心傷ついている人々に祈りと霊的支援をしています。

日々押し寄せてくる避難民のために神様からの導きと解決を得ることが出来ますようにお祈りください。

 

シュレル宣教師ご家族の紹介と証し

海外宣教委員長 佐藤 一彦

 

太田聖書バプテスト教会は去年70周年を迎えました。戦後まもなく日本宣教のために米国からアービン&クララ・マーズデン宣教師ご夫妻は群馬県太田市に来られ教会をスタートしました。その後、先生たちは東京へ宣教拠点を移動し、教会はバビー&ケイ・フィンチ宣教師によって導かれました。 そして、そこに能雄先生が招聘され、信仰の基礎となる宣教への重荷が確立していきました。70年という長い歴史の中で、太田教会は常に宣教の教会でした。そして、能牧師の三女のぞみ師がウガンダ宣教師となり、宣教のビジョンが教会にとって更に具体的に身近なものとなりました。そして、ウガンダ宣教師であった佐藤が次に太田教会の牧師に導かれ、それだけでなく、主は今回再びアメリカより宣教師を遣わしてくださることになりました。 70年前から日本のために祈って下さっている米国の諸教会が、今なお日本のために宣教師を遣わし続けてくださっていることに本当に感謝です。

今回太田教会が宣教師を受け入れることが決まったのが2020年1月で、5月には先生ご家族が日本に来る予定でした。しかしその頃は新型コロナウィルスの感染拡大が社会問題となり始め、海外から外国人受け入れもことごとく中止となり、クリス先生たちの来日も延期を余儀なくされました。しかし、希望を持ちつつ祈りながら、感染の拡大減少の推移に一喜一憂しながら、結局最初の計画から2年後の2022年3月29日に日本に到着しました。この2年間は宣教の忍耐と祈りの訓練の時となりました。ヘブル10章36節「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」新しく日本に来られたご家族をご紹介します。クリス&ミランダ・シュレル宣教師ご夫妻、ハラン君(6歳)、ベンジャミン君(5歳)です。どうぞ、このご家族のためにお祈りください。

 

 

クリス師のご挨拶

日本に召されたことを主にあって大変光栄に思います。私たちは、日本の全ての人々が唯一の救い主であるイエス・キリストを信じることを心から望んでいます。私たちは群馬県太田市にある太田聖書バプテスト教会の宣教の働きに携わり、宣教を始めることができることを大変楽しみにしています。

主は2015年に私の心に、日本が世界最大の未開拓民族の一つであることを教えて下さいました。その時、私と妻は日本の人々、そして日本の牧師先生たちのために祈り始め、私たちがそのためにどのように用いられるかについても祈りました。そして、2017年に私たちは、日本の文化や教会の伝道を体験するために日本に視察旅行として訪れました。この旅を通して、ここが福音を宣べ伝えるために来る場所であることを確信しました。

私たちは、多くの人がイエス様を救い主として知るようになることを望んでいますが、私たちは小さな一つの家族に過ぎません。私たちが主のために大きなことを成し遂げるためには、私たちの努力だけでは足りないことを知っています。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」(Ⅰ コリント3:6)。宣教の主が、日本に教会を建ててくださることを信じています。神は、はっきりと語っておられます。教会は人々が弟子訓練され、正しく「植えられて水が注がれる」方法を学ぶ場所です。そして、そこから弟子たちが宣教のために派遣される所です。ですから、私たちの目標は、全ての人々が真の神についてより深く知ることができる教会を建てることです。そして、そこで救われた者が、次に水を与えるために訓練されることによって、主は教会を成長させてくださることを確信しています。もちろん、教会を開始するためには、信者がいなければなりませんから、私たちのやるべき大切な働きは伝道と弟子訓練です。そのためには、日本語をしっかりと習得しなければなりません。日本での働きに関して大きな夢はたくさんありますが、今はまずこの日本語を学ぶことに忠実でありたいと願っています。

日本での伝道を始めようとしている私たちのためにお祈りください。そして、私たちがここで宣教する人々の魂のためにお祈りください。

あなたがたは世の光です

ハレルヤバプテスト教会牧師 谷井 涙賀

彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。使徒の働き11章26節

長引くコロナ禍とロシアによるウクライナ侵攻の長期化が世界中で波紋を広げ、私たちの暮らしはここ数年で急激に変化しました。教会は、共に集うこと、交わることを制限せざるを得ないというかつてない経験をしました。また、今までのように自由に集会を開いたり、教会に誘ったりすることを躊躇してしまう状況が続いています。このような中で教会は、またキリスト者はどのように人々に福音を語り、世界の救い主イエス・キリストを指し示すことができるのでしょうか。

すべては神の時の中で

使徒の働きにおいてルカは、「アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようなった。」と記録しています。ですから、キリスト者、クリスチャンと呼ばれるようになったのは2世紀初頭の頃、今から2000年程前のことです。エルサレムのキリスト教徒たちは、ステパノの殉教に始まる教会への激しい迫害のため、あらゆる地域に散らされて行きました(使徒8:1, 11:19)。私たちの主は、使徒の働き1章8節において「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」と約束されました。そして、みことばの通り、神の時の中で御手が動かされ、ローマ帝国による迫害という苦しみの経験さえ用いられて、福音がエルサレムから地理的にも拡大してゆくことに進展したのです。

私たちは「神の時」がいつなのか定かに知ることはできません。また神のご計画、神が取られる方法は私たちの考えるものとは異なります。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。−主のことば−天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8-9)。

しかし、一つ確かなことは「すべては神の時の中で神が最善に導かれる」ということです。なぜなら「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」とあるからです。神は私たちの日常に介入され、すべてのことを神の時の中で最善に導き、私たちに最も良いものを与えてくださるお方です。「神の時」の中で「今」を生かされていること、また「私たちとともに働いて万事益」としてくださることを信じて歩む必要があるのではないでしょうか。

いつもキリストを証する

離散したユダヤ人たちは、先々でキリストを証ししました。アンティオキアではギリシャ語を話す人たちにも福音を語ったので、多くの者が悔い改めて主に立ち返りました。彼らはいつもキリストを証ししていたので、「キリスト者」、クリスチャンと呼ばれるようになったのです。しかも、キリスト教の中心地エルサレムではなく、遠く離れたアンティオキアで初めて呼ばれるようになりました。キリストの弟子たちが迫害という凄まじい困難と試練に立ち向かう中で、たとい散らされても聖霊に励まされ力を得、忠実にキリストの福音を宣べ伝えた結果ということができるでしょう。

先日、ある方が私の車に付けてあるイクソスのステッカーを見て尋ねて来られました。「あの魚マークには何か意味があるんですか。他県を車で走っていた時も同じマークを見たので。」内心「良くぞ聞いてくださいました!」と思いつつ、「はい、あれは私がクリスチャンであることを表すもので、イエス・キリスト、神の子、救い主という意味があります」とお答えしました。また、他の方は私が牧師であることを知って過去に教会に通っていたこと、親戚がクリスチャンであることや聖書を読んだことがあることなどを話してくださいました。そして、最近教会に導かれ救われる魂も与えられたのです。ハレルヤ!その時私は思いました。私が何か特別なことをしたからではなく、どこかで忠実な「キリスト者」がキリストを証しし、教会が福音を語っていたからだと大変励まされました。

私たちは日本でクリスチャン人口が1%未満と聞く時、何を考え、何を思うのでしょうか。私たちは少数派で影響力が小さいと消極的になるでしょうか。そうではなく、今から2000年前にアンティオキアで初めてクリスチャンと呼ばれるようになり、キリストを証しした信仰の先輩たちを思い出し、クリスチャンであることを誇りとしたいのです。「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」(ローマ1:16)

私たちが毎日遣わされる場所は、主が私たちに与えてくださった宣教地です。そこで、「私はクリスチャンです。」「日曜日に教会に行っています。」と証しすることがどんなに素晴らしいことで大きな祝福をもたらすのか気付いておられますか。当時キリスト者と呼ばれた人たちも社会の中では少数派で、影響力は乏しかったでしょう。しかし、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」の約束のごとく、困難の中で聖霊に励まされて福音宣教の働きに前進したのです。1%の日本のクリスチャンが一人をキリストに導くことが出来たらクリスチャン人口は倍に、周囲の10人に影響を与えることが出来たら将来10%に増えて行くことでしょう。いつでもどこでもキリストを証ししましょう。

世の光として

キリストを証しすると言っても全く気負う必要はありません。「キリスト者」一人ひとりが遣わされたところで「世の光」として歩めばよいのです。主は「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることが出来ません。」と言われました。また続いて「明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。」とも言われました。忘れてはならないことは、この世界は罪の影響を受けて暗闇であり、まことの光を必要としているということです。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」と言われた救い主イエス様は、すべての人の希望の光です。光は暗闇の中で一層輝きを増します。世界的に喪失感と閉塞感が漂い、人々との交流が難しい時代にあって、キリスト者が世の光として輝く時、私たちの内にある救いの希望に目が留まらないはずはありません。月が太陽の光を反射して美しく闇夜を照らすように、キリスト者は世の光であるイエス様に照らされてこの世界で輝くことができるのです。山の上にある町、升の上にあって闇を照らす光とされていることを覚えましょう。

私は朝毎に数年前の全国聖会で教えられた9:38チャレンジの祈りをささげています。それは、マタイ福音書9章38節の「だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送って下さるように祈りなさい。」とのイエス様のご命令です。いつしかこの祈りは「主よ。今日も私をあなたを必要としている方のところに遣わして下さい。」との祈りに変えられました。主はキリスト者一人ひとりが収穫のための働き手となることを願っておられます。私たちのところにも働き手が遣わされ、福音を聞くことができました。主は私たちが祈り求める時、確かに応えてくださるのです。あなたも主に願いませんか。主はあなたを用いてくださるからです。

「神の国は…聖霊による義と平和と喜びだからです。」ローマ14章17節

禍と呼ばれる時間が続いて、さらに戦争のニュースまで飛び込んできて、この先どのように変わっていくのか見極 めることもできない時代を感じさせられます。天地が滅びても決して変わることがない御言葉が、私たちの土台に あることを、主に感謝します。恵みをともに喜んでいただけますように。

ビンジェイ教会マナル牧師の入院

4月初め、急に体調不良のためビンジェイの病院に 検査入院したマナル牧師でしたが、狭心症の疑い で、より確かな検査と処置ができるメダンの大きな病 院に転院。そこで無事処置も終わり一安心でした。 が、その後、糖尿病を長く患っていた影響で腎臓も 弱っていて再入院。4月下旬に退院、あとは体力の 回復を待つだけとなりました。

昨年、同世代のバンチン牧師が召天したばかり、 本人もかなりショックを受けていましたが、主の守りと 導きに平安をいただいています。特に、長男のダニ エル兄が祈祷会の初御用を務めるなど、若い世代 の主にある責任感の成長が促されていることに主の 御名を賛美する次第です。

祈祷会で御言葉の御用をするダニエル兄

井垣宣教師訓練生の宣教地体験

4月27日から5月31日まで、調布教会から宣教師訓 練生を受け入れ、主の宣教地経験をしていただきま した。1年前から計画はありましたが、新型コロナの 影響もあって行き来がままならないままでしたが、神 の時が与えられて、人の計画以上の神のお働きを、 共に経験させていただきました。

訓練生が到着して3日目、憲夫がめまいの症状に 襲われ、予定していたマナル牧師宅宿泊を1日早く にスタート、その後、バンチン牧師家族も予定外でし たが受け入れてくれることになり、10日間に渡って、 現地の家庭体験となりました。スタバッ伝道所の宿泊 では、日本に研修生として数年滞在したことのある4 人のジャワ人(ムスリム)との会見や、日本語学校の授 業に参加する機会も得、また、華僑地域の食堂で北京語を話せる人と会話する機会も与えられ、多民族 国家にあって経験できる多様性にじかに触れること ができました。インドネシアの華僑は、60年ほど前の クーデター事件で民族虐殺の悲劇を味わったことが あり、現地人に対して心を開くことが難しい中、このよ うな機会に少しでも接触ができて、今後の働きかけ
につながることを期待しています。

まだ全世界の人口の30%もある宣教未到達地域 にどのようにアプローチしていくか、深く考えさせられ た1か月でした。 インドネシア宣教も、将来に向けて 形を変えていく必要があるかもしれません。日本の諸 教会からもさらに新たな宣教師が生み出されていき ますよう祈ります。

バプテスマ式

5月26日(キリスト昇天記念国民の祝日)に、宣教大 会集会の中で1年ぶりのバプテスマ式が行われまし た。今回は、ビンジェイ近郊在住の日本人Y兄と息 子のN兄二人でした。こちらで巡り会わせて下さった 主に感謝するとともに、新たな宣教の協力者が与え られた思いで、主の御名を賛美いたします。

秋田の憲夫の母が今年の1月の怪我以降、体力の 衰えが進んでいる旨、同居している弟から連絡があり ました。そのため、6月中旬から一時帰国を予定して います。合わせて、諸教会へも訪問させていただき たいと願っています。お祈りくださり、お招きいただけ ればさいわいです。

主イエスの恵みが共にありますように

2022年6月5日

広瀬 憲夫 令子

そこにも福音を知らせよう

大分聖書バプテスト教会牧師 中畑 道章

「イエスは彼らに言われた。『さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。』」マルコの福音書 1章38節

私たちの歩みは、ダメージが大きいためでしょうか、喜びよりも悲しみの方が多く、やがて悲しみのうちに歩みを終えざるを得ない、と思われる現実があります。しかし、イエス様がこの世においでになられたことは、私たちに大きな喜びをもたらしました。

福音がもたらすもの

預言者イザヤは、救い主を下記のように預言しました。

「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」(イザヤ42:3-4)

やがておいでになる救い主イエス様は、苦しんでいるものを慰め、悲しみに寄り添い、回復をもたらして下さいます。折れて朽ちていく葦のような失敗した者を、見捨てることなく、手を添えて立ち直りを助けて下さり、油が切れて消えかけたランプのようなものに、尽きることのない油を注いで、再び輝かせ、周囲に喜びをもたらす存在に整えて下さいます。救い主イエス様は、私たちの苦悩の原因である罪を除去し、神さまとの交わりを回復してくださいます。そのために十字架上での死を遂げ、三日目に復活なさいます。この福音を世界の人々が待ち望んでいます。

世界宣教

この責任を果たされるイエス様の姿をマルコは次のように記しています。

「イエスは彼らに言われた。『さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。』」(マルコ1:38)

前日の権威ある教えと奇跡で、イエス様の評判は町中に広まり、今日もまた、朝早くから人々は押し寄せてきます。大勢の人々が押しかけている中、福音を伝える良いチャンスと思われたのに、イエス様は、そこを去って、さらに福音を伝えようと、別の町、村に出かけられました。福音は、すべての人々に必要とされています。私たちの働きの場所は、福音を待っている所です。十字架の死と復活をもって切り開かれたイエス様の救いを、多くの人々に告げ知らせることが、私たちの働きです。約3年半のイエス様の伝道活動は、ほぼイスラエルの地でしたが、その後に継承される世界宣教の事業を、イエス様は、教会に託されました。

伝道の原動力

では、救われた私たちを伝道活動に駆り立てる原動力は、何でしょうか。それは「喜び」でしょう。「救われた喜び」「いやされた喜び」「神様に愛されている喜び」「祈りに応えられた喜び」です。

アンデレは、救い主イエス様にお会いした「喜び」を兄ペテロに告げます(ヨハネ1章)。サマリヤの女性は、「喜び」を町の人々に告げます(ヨハネ4章)。シロアムの地でいやされた盲人は、「開いた目の喜び」を人々に見せます(ヨハネ9章)。生まれつき足のなえた男性は、周囲の人々に歩いたり、はねたりし、神を賛美する姿を見せます(使徒の働き3章)。そしてパウロは「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる喜び」を証しします(Ⅱコリント5章)。いずれも、自分自身に起こった「喜びと変化」を周囲に示しました。信仰の生きた喜びが原動力です。

福音の進展

この喜びの福音は、どのように進展していくのでしょうか。まず自分の周囲です。次に周囲の人々から少し離れた人々に。さらに遠隔地に住む人々に、教会は、証しの兄姉を派遣してきました。更に、派遣した宣教師の周囲の人々へと進展しています。

「そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1章)。

最後に、復活されたイエス様は、「平安があなたがたにあるように。父が私を遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:21)とおっしゃいました。

救われた私たちは、尊い使命を受けています。この喜びの福音を何とか知らせたい。それが神様から託された使命ですから、福音を伝えます。周囲の人々にも、遠隔地の人々にも、そして遠くの国々の人々にも、です。

「行きて告げよあまねく いずこの民にも 心をば変えて 新たにせよと 新たにせよと 暗き闇もしばし 義の日なるイエスの 輝き世を照らす 明日は近し」(聖歌総合版551番)

大分聖書バプテスト教会の証し

まだ余白がありますので、当教会の沿革を通して、神様のお恵みを証します。

大分聖書バプテスト教会は、米国のバプテスト教会の「そこにも福音を知らせよう」の使命感のもとハウエル宣教師ご家族を大分に派遣して、産声をあげました。現牧師が牧会を引き継いだ時、当教会は大分市のほぼ中心地で伝道していましたが、借家であり建物を自由に改造し使用したい、という思いから、大分市のベッドタウンに移転し、その地を中心に伝道しました。中古の建物でしたが、米国BBCから借りたお金、前米国婦人宣教師の献金、教会員の献金で自分たちの教会を持ちました。大工出身のハウエル宣教師が中心になり、牧師と教会員がお手伝いする方法で、少し建て増しもしました。諸教会の先生をお招きし、伝道集会を何度も行いました。諸先生には、大変お世話になりました。

神様が備えてくださる

中古の建物でしたので、年々、痛みが激しくなり、台風の時は、横殴りの雨で壁から雨水がしみだしてきました。教会員も増えてきました。新築の教会を、もっと広い土地を、次の福音を伝える場所を求める祈りを兄姉と共に励みました。「売地がある」という情報を得ると見に行きました。何件も何件も探しました。

神様は不思議な方法で、未信者の地主兼建築業者を備えて下さいました。郊外の集落です。車で走るとまもなく、旧郡町です。教会員で積み蓄えた会堂献金、兄姉たちの個人的献金、前会堂の売却金、それでも不足していた金額は、未信者の建築業者が貸して下さいました。驚きました。神様のお働きです。隣接する旧郡町にも福音を伝えています。

現在地の野津原は、昔、戦国大名加藤清正の飛び地です。その影響で、高齢者を中心に、今も清正を尊び拝む偶像の強い町です。この神様が備えて下さった地、野津原を中心に、まことの光を照らし続けています。

「闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」(イザヤ9:2)

ケニアの兄弟と宣教の繋がり

海外宣教委員長 佐藤一彦

太田教会が新会堂になり3年が経ちました。新会堂での2人目のバプテスマ式が去年11月に執り行われました。その方はアフリカ・ケニアから来たパウロ兄弟です。彼がバプテスマに導かれるまでの経緯は、私がウガンダ宣教師であったことと、今太田教会の牧師となったことが繋がっている宣教の働きであることを確信させるものでした。

パウロ兄はとても信仰深かった彼の祖母の影響で小さい頃から教会に行くようになりました。彼の祖母は学校教育を受けておらず、貧しい家庭に育ちましたが、他の誰よりも信仰深い人で、朝に夕に聖書を彼に聞かせ、祈ってくれたそうです。彼はそんな祖母が大好きなおばあちゃん子でした。そのおばあちゃんに連れられて教会の日曜学校に通っていたそうですが、その時はまだ幼すぎて聖書を正しく理解できませんでしたが、日曜学校クラスの子供たち全員がバプテスマを受けることになり、意味がよく分からないままバプテスマを授けられました。しかし、それで彼は自分がクリスチャンになったのだと思ったそうです。実はアフリカの多くの教会では幼児洗礼を行っています。それは、人々の救いと信仰告白を曖昧にさせている原因となっています。

彼は青年期に入り、周りの素行の悪い青年と同じように流された生活になりつつありました。そのような環境の中にあっても、常に祖母から教えられた神様のことが頭の中にあったので守られたそうです。そんな中、大学を卒業後に日本での車修理関係の仕事の機会が与えられて群馬県に来ました。しかし、異国の地で知っている人もいない環境の中に孤独や難しさを感じていた時に、再び彼の祖母の祈りや教えが心に浮かび、教会を探し始めました。そして、神様からの導きに出会うのです。

彼は毎日、職場の社長の子を幼稚園バスが来るコンビニの駐車場まで送迎していました。その送迎バスに乗っている幼稚園の先生が私の娘の喜穂でした。彼女はすぐにパウロさんに声をかけ、自分のウガンダでの生活、父親が現在も宣教師としてウガンダにいることを話しました。その後、職場の社長さんが彼のために教会を見つけ紹介してくれました。それが太田聖書バプテスト教会でした。初めての太田教会に集うと、そこに喜穂がいたので彼は大変驚いたそうです。更に、次の週にはなんと私がちょうどウガンダからファローのために日本に戻り、太田教会にいる日でしたので、そこで彼と出会うことになるのです。それ以来、彼は太田教会に集うようになり、やがて私もウガンダの働きを終えて、太田教会の牧師となり、彼とアフリカ同士の故郷話をしながら聖書の学びをするようになりました。そして、彼の信仰を確認すると、まだちゃんとイエス様を個人的な救い主としての信仰告白をしていなかったので、救いの祈りを共にしました。そして、小さい頃に何も分からず受けたバプテスマではなく、救いを確信したので、次にイエス様に従う信仰の表明としてのバプテスマを受ける決心もすることが出来ました。彼が祖母から受けた教えと彼女の祈りが、日本でウガンダ帰りの私に出合うことによって答えられ、彼の中に生きた信仰となり、今回バプテスマを受けることができたのです!

このように神様の宣教の働きは、海外でも、国内でも、私たちクリスチャンを用いて広がり続けるのです。また、今のコロナ禍にあって宣教は更に新たな道も開かれつつあります。海外と国内という隔たりがあっても、インターネット等を通してどこからでも繋がることができるのです。最近宣教委員会では、毎回宣教師の先生がネットを通じて参加して下さりお交わりを頂いています。また、昨年には「宣教師との交わり(オンライン)」が開催され28名の先生がネット上で繋がり、宣教の現状を知り、祈り合うことができました。この宣教の新たなる可能性や、その他神が私たちに開いてくださっている機会に、私たちはしっかりと参加させていただきましょう。

青少年宣教キャンプの証


一つの決心

滝山BBC 杉本光太郎

僕は宣教キャンプに初めて参加しました。初参加だけれど、同教会の身内と呼べる人も多く、他教会の兄弟姉妹にも顔見知りが多かったのでとても馴染みやすく、初日から楽しく、また宣教師の先生方のメッセージもとても分かりやすく本当に来てよかったなと感じていました。

でも同年代の兄弟姉妹との分かち合いやデボーションの時間になると、兄弟姉妹の強い信仰や、心から恵まれ祝福されている様子を間近で感じ、その凄さに自分とはレベルが違う、次元が違うと勝手に一線を引いてしまっていました。今までキャンプに行くのを渋っていたのも同様の理由でした。他の人と自分の信仰は比べるものではないと分かっていながらも余りにも眩しい兄弟姉妹たちを見て、すぐに神様から目を背ける自分に嫌気がさしてしまっていました。そんな心境の中で、あることに気が付きました。宣教師の先生方との分かち合いの時や個人的に話をしているときに、宣教師の先生方は相手の目をよく見て心から話してくださることです。宣教師という職業?にパワフルで豪快なイメージを強く感じていた自分からしたら、あれだけ繊細に向き合ってくれることに驚きました。でも異国の地でたくさんの人と関わってきた宣教師の先生方だからこそできることなのかと少し合点がいきました。そして「お前はどうするんだ?」という圧ではなく、「君はどう?どうしたい?」という感じ(笑)で向き合ってくれる先生方を見て、神様からすぐ目を背ける自分でも、ちゃんと向き合わなきゃなと思えました。

また、メッセージをどこか他人事のように聞いてしまっていて冷めた感じでいる自分に、他教会の兄弟が自分のことに当てはめて聞く大切さを教えてくれました。そして自分に当てはめて考えたところ一つの決心が与えられました。父の救いです。救われていない父に伝道することに立つことを諦めた僕が立つこと。そして田村先生や上久保先生のメッセージにあったように食い下がること、諦めないことです。道は絶対に神様が用意してくれています。自分にできることはその道を歩くことだけです。神様の道が絶対に正しいことを僕は知っています。だからゆっくりでもいいから歩むことを諦めないように神様をただ信じます。本当に宣教キャンプに行くことができてよかったです。

送り出す母の気持ち

滝山BBC 杉本あゆみ

息子から、宣教キャンプに行くことを知らされたのは、わりと日も迫ってから。もう成人しているのでほとんどのことは自分で決めているし、たとえ何かに反対してももう聞くわけもなく、干渉しないようにしているので、宣教キャンプに関しても「行っていいか?」ではなく「行くから」でした。今まで宣教キャンプには行ったこともなく、むしろどうして行くことにしたのか不思議でした。理由を聞いたらもちろん「誘われたから・・」。今までどんなに勧めても行かなかったのに、どうしたのかなあと思いましたが、逆に「なんで?」とか「よかったよかった」とあまり喜んでもまた気分が変わると思い、「そう?」ぐらいの返事をしました。

でも、よくよく考えたら今はコロナ禍、何もかも中止のこの世の中で、果たしてこれは行われるのか?まあ中止でしょう・・と内心思っていました。そのうちキャンプに行くお母さんのライングループができ、そこに宣教師の先生の証、思いが送られてきました。「キャンプに行くために全て整っていること、道が閉ざされていたのに、障害をかいくぐるように道が開けたこと」それを読んで、行くことが当然のように思え、行く子ども達、青年達、先生方全員が守られないわけがないと思いました。

更に日が迫り、参加者の保護者向けのオンラインの説明会があり、そこでの吉田先生のお気持ちを聞き、準備を担ってくださった教会の先生方、青年達の熱い思いと万全な準備に感動し、コロナ番長と呼ぶには申し訳ないくらいの可憐な?看護師の先生方もいらっしゃって、この上何を望めるのでしょうか?

しかし、もちろん物理的なものは整っていますが、やはりキャンプに行く子どもたち、青年たちの大きな決断、神様をもっと近くに感じ、恵みを味わい、自分が神様に愛されていることを体験することを真に望みます。そして送り出す私は、ひたすらそのことを祈りました。

なんと大きな神様のご計画だったのでしょう。疲れたけど充実した3泊4日を終えて戻った息子の顔を見たとき、不安は払しょくされ神様の愛に感謝しました。何よりも裏でたくさんご奉仕してくださった先生方、神様を信じるが故、宣教キャンプを中止してはならないという思い。私も悔い改めました。ありがとうございました。息子は疲れた疲れたと言っていましたが、とても楽しく、たくさんの信仰の友と交われた貴重な時間を感謝しているようでした。

愛をもって語る勇気

仁戸名BBC 山路桃香

宣教キャンプに参加するのは3回目でしたが、全日参加できたのは今回が初めてでした。参加にあたって不安なこともありましたが、このように素晴らしい機会を与えてくださった神様に感謝します。

特に印象的だったメッセージでは、家族の救いのために諦めず伝道した先生のお話をうかがいました。家族に福音を伝えようと立ち上がり、神様に祈り求めたら、不思議な方法で道が開かれていき、最後は一緒にイエス様を信じるお祈りをできたというお証でした。困難な状況でも、熱心に祈り求めれば神様は応えてくださるのだ、と感じながら自分の父のことを思い浮かべました。

私の父は、まだ救われていません。私が信仰をもって教会に行くことに反対はせず、むしろ色々と助けてくれます。しかし、あくまでも、「自分は信じない。自分は関係ない」という姿勢なので、聖書の話をしたり、教会に誘ったりすると、あまり良い顔をしません。父は優しいけれど怒ると怖いので、「これ以上踏み込んだら、きっとお父さんの機嫌が悪くなる」と思ったところで身をひいてしまい、やがて父の救いのために祈ることを諦めかけていました。

そのような中、メッセージでこの御言葉が与えられました。「神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ローマ11:29)

神様に期待して伝道を続けることを、何度も諦めてしまいました。それでもなお神様は、この召命を取り去らないで、与え続けてくださっているのだと知り、胸がいっぱいになりました。神様は本当に憐れみ深いお方です。私がもしも逆の立場だったら、とっくに罷免していたと思います。神様に感謝し、使命から背を向けていたことを悔い改めました。

こうして、父のために祈りと伝道を続けていく決心が与えられました。福音を語ることで波風を立ててしまい、仲の良い関係が壊れてしまうのではないかと恐れていましたが、父が永遠の滅びに向かっていく方がもっと恐ろしいことです。愛をもって波風を立てる勇気が与えられるよう、拒絶されてしまっても諦めずに伝え続けられるよう、祈り求めていきたいです。

また、キャンプ最終日の証会を通して、同じように家族の救いのために祈っている参加者が多くいることを知りました。互いに励まし、祈り合う関係が与えられたのも、キャンプの素晴らしい恵みでした。

感謝と祈祷

インドネシア派遣宣教師 田村成幸

田村先生

● 近況報告 ●

これまでアジアで最悪の感染者数、死者数を出していたインドネシアですが、現在落ち着き収まっています。しかし、新株や第6波への懸念は小さくありません。そんな中ですが、この12月に2回目のワクチン接種(アストラゼネカ)を終える事が出来ました。当初、外国人の私が接種出来るには、どれ程待たされるのかと思っていましたが、神様のお働きにより道が開かれ接種に至りました。その為、教会のスタッフ全員が2回目の接種に至った事から、1年半ぶりに対面での礼拝を再開しました。2週続けて新来者が与えられる等、恵みも頂いています。

● 祈りの課題 ●

①インドネシア宣教の祝福と拡大。
②スラバヤ南バプテスト教会の組織独立
③クランジ・バプテスト教会の祝福
④シモン・ネンゴラン師、フランキー・タンブーナン師の為
⑤田村家族の守りと親兄弟の救いの為
⑥家内の健康、経済的祝福と守りの為
⑦スラバヤ後の働きが具体的に示されるように

インドネシア派遣宣教師 広瀬憲夫

広瀬先生

● 近況報告 ●

世界的な新型コロナ感染の新たな拡大が起きている中、インドネシアでは2021年末現在、落ち着いている状況です。ただ、年末、年始の移動規制など、政府主導の規制はまだまだ続いています。クリスマスから2週間経過して、若干の増加傾向が認められています。

クリスマス諸集会は、例年行っている日曜学校クリスマスのほか、各部会、家庭集会、およびビンジェイ学園(幼稚園、小学校)の諸集会はすべて中止。ただ、メダン北部伝道の家庭集会でのクリスマス子供会は実施できました。

24日クリスマスイブ礼拝と25日(国民の祝日)クリスマス礼拝、および年末と元旦礼拝までが、クリスマス一連の集会という位置づけです。もともとインドネシアでは、1月はキリスト教暦の正月という理解だったからです。他にイスラム暦、中国暦に則った正月祝日があります。ただ、2000年以降、ミレニアムをみんなで祝う風潮が出来上がり、近年はほぼすべての人が祝う正月になっていました。例年は大勢の人が街に繰り出し、広場では花火が挙げられて、大変混雑するのですが、今年はそれらが規制されて、街では静かなクリスマス・正月を迎えています。

私たちは、スタバッ伝道所のクリスマスイブ礼拝、同年末集会、マンダラ教会のクリスマス礼拝、同元旦礼拝でのご奉仕でした。

ビンジェイ教会、スタバッ伝道所、マンダラ教会それぞれに、クリスマス諸集会に新来者が与えられました。

● 祈りの課題 ●

①マンダラ教会での諸教会伝道者による集会奉仕および献身者教育が実を結ぶように
②マンダラ教会での青年聖書訓練会の他にビンジェイ教会での青年聖書訓練会がスタート、用いられるように
③感染収束の見通しが立たない中でいのちの福音宣教に教会がますます熱心になるように

メダン北部クリスマス子供会

マンダラ教会クリスマス礼拝

香港/東アジア派遣宣教師 吉田正治

吉田先生

● 近況報告 ●

11月、ミッションカンファレンスにて、コンゴの現地牧師 David Mwepu 師のサポートを決議する。アフリカ人では初めて。

12月、12日のクリスマス子供会は、上の階とご近所に住む小学生、幼稚園生、その親御さん達で、新来、再来合わせて19人の参加。昨年はコロナの影響で開けなかったので、感謝でした。19日のクリスマス礼拝には、狭い会堂に30人が集まり、広い会堂の必要を痛感しました。26日には、フィリピン人のメリー姉とジャメイカ姉がバプテスマを受けられました。(写真:右がメリー姉、左がジャメイカ姉)

オミクロン株の感染で香港も第5波に突入し、緊張しています。集会は大きいものは中止ですが、私たちのような小さい集会はお目溢しがあり、続けることができます。もし以前のように広い会堂だったら、集会禁止になっていたかもしれず、小さい群れであったことに感謝です。

● 祈りの課題 ●

①香港コーナーストーン教会に新しく、広く、使い勝手の良い会堂が与えられるように
②内地Y市の家の教会に主の守りがありますように
③今年のミッションキャンプに主の祝福がありますように
④2022年も不測の事態が起こると思いますが、留まって働きが続けられますように

2人の姉妹のバプテスマ

コーナーストーン教会のクリスマス礼拝

香港/東アジア派遣宣教師 鈴木しのぶ

● 近況報告 ●

コロナウィルスの世界的大流行が始まった2020年1月に諮問を受け、フェローシップから宣教師の公認を受けた後、2020年9月からデピュテーションを開始しました。世界中で人々の生活様式が変わり、多くの人々が亡くなり、失意の中に置かれている方々も少なくありません。そのような中、真のいのちであられる主イエス様をお伝えするために、諸教会の皆様がこの2年間お祈りくださり、ご支援くださったことを心から感謝いたします。

2021年12月の時点で34の教会を訪問しました。神様が「今」と仰せられる時に、いつでも出て行くことができるよう準備をしています。今なお世界中で渡航が難しい状況が続いており、台湾もビザの発給を停止しています。教会訪問のない間は若葉BBCで、伝道、諸連絡・フォローアップ、掃除・買い物・修理等の会堂管理、翻訳・通訳、事務作業等の手伝いを通して主にお仕えしています。2022年も諸教会の皆様に主の祝福がありますようにお祈りしています。

● 祈りの課題 ●

①台湾・東アジアで続けて福音が宣べ伝えられるように
②世界中でビザの新規申請が停止されている間、私を含め新規の各宣教師が今置かれた場所で主に感謝し、続けて主にお仕えするように
③デピュテーションを通して宣教地、諸教会、遣わされる者に祝福があるように

ハワイ派遣宣教師 上久保崇

上久保先生

● 近況報告 ●

9月には21周年記念礼拝をおささげしました。月に一度のウェルカムサンディーには来会者が与えられています。 11月の宣教カンファランスではインターネットを通して日本から鈴木しのぶ先生のお証しをうかがうことが出来ました。新しい宣教のサポートに加わる恵みを祈り、新規更新された宣教献金は増額となり、主をほめたたえました。

クリスマス礼拝は今までのように一堂に会してイエス様のご降誕を共にお祝いしました。クリスマス礼拝ではコール君(小学五年生)のバプテスマ式も行なわれました、彼はご両親、ご両祖父母がクリスチャンと言う三世代目のクリスチャンです。

ハワイでは12月に入ってから感染者が激増していますので、来年もしばらくは二部制での礼拝になります。

婦人会に最近は二名の新しいご婦人の出席があります。こひつじサークル(就学前の子供とお母さんへの伝道)は、9月より施設の屋外で再開しました。今年度はすべて新規の参加者で、新しい子供たちとご家族に伝道や証しをする機会となっています。

● 祈りの課題 ●

①教会が、霊的な祝福の実を結ぶために(ヨハネ15:8)
②今の伝道の継続と、今までとは違う方法での働き。今の状況だからこそできる伝道の開始のために
③それぞれの場所にいる家族に、主からの導きと守りがあるように

ラナキラ教会のクリスマス礼拝

ラナキラ教会の婦人のクリスマス

宣教のためにチームで働く

海外宣教委員プロモート担当 ジェームズ・スミス

宣教の働きにおいて、チームで働かないという選択肢はありません。イエス様は弟子たちやすべての信仰者が一致することを祈りました(ヨハネ17:20-23)。使徒たちや初期の宣教師たちは不一致や困難にも関わらず、共に働くことに努めました。さらに、共に働くことは賢明なことです(伝道4:9-12) 神様からいただいた使命のために、私たちは共に働かなくてはなりません。では「チームで働く」とはどういうことでしょうか。ある人は「共通のビジョンに向かって共に働くための力」だと言います。また「一般的な人が、すばらしい結果を得るための燃料」だと言います。つまり、共通の目標に向かって効果的に働くことは、一人で努力するよりもはるかに良い、ということです。それは、宣教師を海外の宣教地に送り出すことや、牧師を開拓伝道に送り出すために特に効果的です。

聖霊の導きの下にある教会は、宣教師を派遣する機関です。宣教師や伝道師を派遣するには、教会が多くの面でチームとして働くことが必要です。第一に、教会員はイエス・キリストの大宣教命令を信じなければなりません。イエス様はご自分に従う者に対し、出て行ってイエス・キリストの福音を伝えるように命じておられることを理解しなければならないのです。事実、日々イエス・キリストを知らずに亡くなる人々がおり、その人たちは神様がおられない永遠を過ごすのです。ですから、全ての人が福音を聞き、救い主としてイエス様を信じる応答の機会が必要です。第二に、聖霊は教会が喜んで宣教師を派遣するように必ず導きます。第三に、教会には喜んで宣教地に行く霊的に成熟した者がいなくてはなりません。第四に、教会は宣教師のために祈り、サポートしなくてはなりません。第五に、宣教師が派遣された後にも続けて連絡を取り続けなければなりません。問題が起こるときには、心理的にも、霊的にも助けが必要になります。より良くチームで働くことができれば、宣教師や伝道師はより効果的に福音を伝えることができるのです。

さらに、多くの教会が大宣教命令のために共に働くとき、各個教会が単独で働く場合よりもさらに多くの宣教師や牧師を派遣し、より効果的なサポートができます。そのことが起こるためには、諸教会は共通の信仰を強める必要があります。また諸教会が互いに深い交わりをもつ必要があります。つまり、有意義な交わりが求められます。諸々の委員会やコンサート、キャンプや交わり会などは、信仰のつながりを強め合う上で大変重要なことで、これにより私たちが全世界に福音を伝えるために共に働くことができるのです。

私たちの世界は、パンデミックにより深刻な影響を受けています。あたかも終わりの時が来ているようです。パンデミックは、世界中の多くの人々に人生のはかなさや不確かさを明らかにしました。したがって、私は、人々が応答するために福音を伝える機会は以前より多く与えられていると考えます。日本バプテスト・バイブル・フェローシップとして、私たちは今後どうすべきでしょうか。パンデミックによって私たちの力が失われていくのでしょうか。それとも、以前に増して実のある交わりを持ち、地の果てにまで福音を伝えるために、共に働くようさらにささげ、すべてをかけようとするのでしょうか。

編集後記

教会の新年度計画を考えていた矢先に、オミクロン株による感染者が急増してきた。近辺に感染者も出ている。スゴロクで振り出しに戻ってしまったような感覚に陥る。今後はウィズコロナであると理解しながらも、心の片隅ではコロナのない世界が戻ってくるかのように期待していたのかもしれない。

しかし、神の計画は後戻りすることはない。人に見えるところは後退でも、神の側では前進し続けていることを覚えたい。今、求められる忍耐は、かつての世界が戻ってくることを待つことではなく、今、ここに、しっかりと腰を据え、神が私に期待しておられることに十分に生きることだろう。

喜びの福音!

ハレルヤバプテスト教会宣教牧師・軽井沢グレースキャンプ場管理人 谷井 悟

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。エペソ人への紙2章8節

神は永遠になくならない喜びをすべての人に与えたいと願っておられます。救われて54年、伝道者として43年の恵みを覚え、大切なポイントと心して来たことを書かせていただきます。

永遠になくならない喜びをいただいた私

私は中学生になった頃、夜外に出て満天の星空を見上げながら、色々なことを思い巡らせました。宇宙の果てはどうなっているのか?ちっぽけな私・・・何のために生き、死んでいくのだろうか?死んだらどうなるのだろうか?ある朝、ラジオを付けると、美しい賛美と聖書からの短いメッセージを初めて耳にしました。「すべて重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい・・」(マタイ11:28)。1年間無料の聖書通信講座で聖書を学びました。唯一の創造主、天地の創造、人間と人間の罪、救い主イエス・キリスト、十字架と復活・・・。1年後、高2の春、高校生スプリングリトリートに参加し、罪人の私のために十字架に現わされた神の深い愛が心に迫りました。私は生涯この愛の中に生かして下さいと救い主イエス・キリストを信じ受け入れ救われました。私は神から、なくならない永遠に続く喜びを頂いたのです。

人の生きる喜びとは?

神は人を神のかたちに創造し、神と共に喜び楽しむ者として創造されました。人は神が創造された自然をよく管理しつつ、神と共に喜び楽しみ生きる者だったのです。

しかし、人にとっては、この素晴らしい喜びと感謝に溢れた時はほんのつかの間でした。神に背を向けて悪魔に従った人に罪が入り、罪によって死が入りました。その時から、人類は「暗黒と死の影とに住む者」となり迷い出、自分の道を歩む者となっているのです。しかし、神は罪のため死ぬ者となっている人類に救いをもたらす、壮大な計画をされ、救い主を世界に送ってくださったのです。神から迷い出た人類は21世紀の今、どうなっていますか?多くの人は神がくださる、なくならない喜びを無視しています。神を認めず、感謝もせず、あがめもしない多くの人々は不安と混乱と迷いの中にあります。生きる意味、希望を見出せず自殺する若者が増えています。眠れない者、うつ病に苦しむ者が溢れています。毎日特殊詐欺事件が起こり、高齢者の貯えをだまし取っています。破壊と悲惨は極みに達しようとしています。神がなくならない喜びを差し出しておられるのに・・・。

神の恵みによって救われる!

神は人間の生活に必要なすべてを与えてくださっているのです。「だれが神を離れて、食いかつ楽しむことのできる者があろうか。」(伝道の書2:25)神の恵みによって日々生かされていることを覚え、神に感謝し、神をほめたたえている人は何と幸いでしょうか!また、何よりも罪と死からの救いも神の恵みによって与えられることを知り、いただいている人はこの上もなく幸いです!

ところで、漢字の「恵」という字に救いの恵みが何であるかがよく現わされています。「十」=今から2000年前のエルサレムで神の御子イエス・キリストが私たちを罪から救うために身代わりとなって十字架で死なれました。「日」=御子イエス・キリストは墓に葬られ3日目の日曜日早朝死を打ち破りよみがえられました。「心」=私たちを罪から救うために十字架で死に3日目によみがえられた御子イエスキリストを私たちが心に信じ受け入れるなら私たちは「恵み」によって救われます。「あなたがたが救われたのは実に恵みにより信仰によるのです。」(エペソ2:8)〈個人伝道に用いられます〉実に人は神の恵みによって生きることができ、神の恵みによって救われるのです!!!

祝福か?呪いか?(申命記11:26-28)

人は神の命令に聞き従う時祝福を受け、神の命令に聞き従わないなら呪いを受けるということです。これは聖書全体が一貫して語っていることです。これは人類の歴史を学ぶならまさにその通りであることを知ることができます。私たちが神の祝福をいただく生涯を望むなら、ただ神のことばに聞き従うことです。神に聞き従わないなら、どんなに喜びに溢れていようとも、その喜びはやがて呪いとなるのです。それは現時点のことだけではなく、永遠という尺度の中での祝福と呪いです。今日、神は私たちの前に祝福と呪いを置かれているのです。

喜びをいただいたクリスチャンとは?

クリスチャンはなくならない喜びをいただいた者たちです。Ⅰテサロニケ1:9-10にテサロニケのクリスチャンがどのようであったかが記されています。彼らの姿に如何なる時代においても変わらぬクリスチャンの3つの特徴をあげることができます。1)偶像から神に立ち返って、2)生けるまことの神に仕えるようになり、3)やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになった者たちです。神に仕える・・・キリストの心を心とする時、クリスチャンの使命は全世界に福音を伝えることです。

福音の種を蒔かなければ!

種は不思議で、驚きに満ちています。あの小さな種に命があります。福音の種も同じです。蒔かなければ救われません。またなくならない喜びを得る人は起こされません。「福音は信じる者に救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)「朝のうちにあなたの種を蒔け。・・あなたは、あれか、これか、どこで成功するかわからない。」(伝道者の書11:6)

喜びの福音を次の世代へ!

福音は驚くべき、素晴らしい神の力です。福音により、神から離れて暗黒と死の影に住む者となったすべての人に、神と共に喜び楽しみ永遠に生きることのできる新しい生命(永遠の命)が与えられるのです。初代教会の時から福音は次の世代へとバトンがつながれて来たのです。

1950年(私が生まれた年)、救い主イエス・キリストの大命令に心動かされた、21歳と19歳のアメリカの若い夫婦が日本に来ました。彼らの名はラバンとエバレン・ラージャスです。彼らはだだ、イエス・キリストの命令に従い、また約束を信じて導かれるままに日本に福音を伝えました。彼らは単純に、素直に、みことばに従いました。日本宣教71年・・・多くの救われる者が起こされ、献身者が起こされ、日本に世界に次の世代へ福音が宣べ伝えられています。彼らの歩みに神の真実の大きさが証されています。

彼は晩年キャンプ伝道を通して、日本人クリスチャン1%にチャレンジし、日本人クリスチャン99%を祈っていました。私はこの祈りのバトンを受け取り、99ミッションの祈りを展開したく祈っています。グレースキャンプ場は日本の救霊と献身のために、多くの犠牲が払われて与えられた所です。あなたも祈りに加わって下さいませんか。私は99ミッションの祈りをもって、永遠になくならない喜びを得させる福音を神の力(ダイナマイト)に頼り伝えます。さあ、共に永遠に続く喜びの福音を次の世代に伝えよう!

愛の支援金

海外宣教委員長 佐藤一彦

インドネシアではつい最近まで世界最悪の新型コロナウィルス感染拡大が起こっている国となっていました。

今年7月には、一日の新規感染者数が5万人を優に超えましたが、そのピーク時に比べれば現在は半分近くに減少しているものの8月時点での累計の感染者数は415万人以上、感染死者は14万人超と、いずれもASEANの中でも群を抜いて悪い数字となっています。その影響は教会にも大きな影響を与えており、都市はロックダウン、集会の禁止など厳しい処置が出されている中、リモートによる礼拝、或いは集会の規模縮小など余儀なくされています。

そんな中、今回二人のインドネシア人牧師の召天についてご報告させていただきます。

お一人はインドネシアのジャカルタにある教会の牧師トゥファン師です。7月に新型コロナウィルスに感染し召されました。トゥファン師は神学校で田村師の教え子の一人で、同期にはネンゴラン師やフランキー師、メルディアナ兄妹と共に学び、卒業後はお父様の仕えている教会の牧師として奉仕されていました。実は、先生が召される直前にお父様も心臓病の悪化で召され、タンファン師家族にとっては、二人を同じ時期に主の元に送る事となり、天国の希望があっても辛い事を経験しています。

もう一人はメダンのバンチン牧師です。今年8月下旬にやはり新型コロナウィルス感染が原因で召されました。バンチン牧師はジャカルタのタンブナン師の教会から派遣されメダンの教会で仕えておられました。広瀬師とも長きに渡って交流があり、バタック・パッパッという部族で、奥様は華僑の方です。バンチン牧師には4人の息子たち(ジョン、スティーブン、エレミヤ、ダビデ)がおり、今回の父の召天を通して、二人の息子ジョンとスティーブンが心動かされて伝道献身を明確に告白し、これからジャカルタ神学校の通信教育を受けることになります。

このように、主の忠実な働き人が新型コロナウィルス感染によって天に召されました。そして、今回この両牧師の召天と残されたご遺族のために励ましと日本からの祈りのしるしとして、海外宣教委員会と国内宣教委員会が共に話し合い共同支援という形で愛の支援献金を両ご遺族にお渡しすることになりました。既にインドネシアにおられる田村師を通してお捧げいたしました。

私たちは主によって導かれた献身者のために、国内であろうと海外であっても、その働きのために祈って支えていかなければなりません。そして、主の福音宣教拡大のために献身者たちが用いられ、更に新しい者たちが起こされるために続けて祈りつつ、私たちにできる最善の支援を模索しながらフェローシップに、そして、主にお仕えし続けていきたいと思います。

ぜひ、皆様もトゥファン先生、バンチン先生の残されたご家族と両牧師の教会のためにお祈り下さい。

プロジェクト938

海外宣教委員長 佐藤一彦

米国宣教事務局(BBFI)の宣教委員長であるジョン・カナラップ師より、米国のBBF諸教会及び海外の諸教会に対して宣教のために祈りの輪の企画「プロジェクト938」が呼びかけられています。

米国宣教委員長のカナラップ先生は2年前の夏に行われたJBBF全国聖会の講師として御言葉のチャレンジを私たちに与えて下さいました。その中で「9時38分になったら宣教のために、献身者が起こされるように祈りましょう。」というアピールは大変印象に残りました。そして、その先生のビジョンが今回「プロジェクト938」という形で、更に多くの諸教会に呼びかけられることになりました。以下がカナラップ師からの呼びかけです。

世界の人口は驚くべき速さで増加しており、その増加に伴いかつてないほどに私たちは、福音を地の果てまで宣べ伝える責任が大きくなってきています。ですから、世界宣教への神の呼びかけに応える兄弟姉妹を見出すことは、私たちにとって急務な課題となっているのです。

「だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:38)

イエス様は宣教の大命令を果たすために、より多くの働き人のために祈るようにと命じられています。この命令に応えるために、BBFI宣教委員会は「プロジェクト938」を立ち上げ、世界中の諸教会を励まし、より多くの兄弟姉妹が神の声に耳を傾け、神の導きに従うことができるために集中的に祈り合うためのプロジェクトです。

具体的には米国において、「938サンデー」として今年の10月3日(日)にBBFI宣教事務局が主催して諸教会が共に集まり働き人を求めるための特別な「祈りの日」を開催します。

私たちはそれに参加することは出来ませんが、この「働き人が与えられるために収穫の主に祈る」ことは私たちにもできます。一人一人の祈りは小さなものかもしれませんが、祈りの仲間として同じ福音宣教のビジョンを分かち合うことは大切な主の御心です。ぜひ、私たちも収穫の主に働き手を送ってくださるように祈りましょう!

ご興味のある方は米国BBFの「プロジェクト938」ホームページをくりっくし、ご覧ください。

ラバン・ラージャス宣教師を独占インタビュー!

日本宣教71年感謝!

海外宣教委員 谷井涙賀

2021年7月25日(日)、この日は奇しくもラージャス先生の94歳の誕生日。一週間後の帰国を前に、御代田の先生宅にて宣教委員長の佐藤一彦師と独占インタビューをするという特別の恵みをいただきました。22歳という青春真っただ中の若さで来日された師は94歳になり、パーキンソン病の発症もあって、今は昼間も寝ている時間が増えたと伺いました。夕方4時の約束の時間に着くと、先生はリビングのソファーにゆったりと腰掛け、私たちの到着を待っておられたご様子。ラージャスビッグハグで再会を喜び合いました。

さて、この特集記事では、ラージャス宣教師の71年間の長きに渡る日本宣教を感謝しつつ、先生へのインタビューとその翌日の歓送会の恵みを回想して、特に先生が印象深く語られた御言葉に焦点を当ててみたいと思います。

滅びゆく日本の魂を愛して

「割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です。」詩篇16:6

「実にすばらしい私へのゆずりの地です。」インタビューを開始して、まず先生の口から語られた御言葉です。日本がアメリカと戦争をしていた頃、先生にとって日本はまさに「敵国」、日本人は憎い「敵」でした。献身して神学校に入学され、将来は日本ではなく中国に行くように志が与えられ準備しておられました。しかし、GHQのマッカサ―司令官の「今日本に最も必要なのはキリストの福音である」との呼びかけを通して日本宣教を決心されました。そして、同じ頃、日本宣教への召しを確信したエバレン先生(当時19歳)と一緒に敵国であった日本に神の愛を伝えに来てくださったのです。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」マタイ5:44

先生は、神の愛をもって日本を愛し、滅びゆく日本の魂を愛し、日本人のようになって仕えてくださったのです。

インタビューをしながら繰り返し驚かされたことがありました。それは、71年前の当時の様子をまるで昨日のことのように思い出し、お話してくださったことです。まだ整備されていないでこぼこの道をジープで走ったこと、真っ暗な山道を越えると美しい街の灯りが見えてきて感動したこと、更には清水で出会った美しい望月青年(故望月次郎師)に “Are you an American?” と英語で尋ねられたこと、望月青年と一緒にいた友人の名前は「・・・堀内君!」と出てきた時には先生の驚異的な記憶力に驚愕しました。遠い昔の記憶が、長い時を経ても先生の脳裏には昨日の事のように思い出されるのです。言葉も文化も全く異なる日本で、経験するすべてが刺激的で衝撃的な体験の連続だったからではないか、と思いました。全てが整う住み慣れた祖国、また愛する家族を離れて、戦後貧しい日本に先生が来てくださったことに改めて気付かされました。

また先生は、主が導かれ開拓した先々で美しい町、美しい人々(兄弟姉妹のこと)に出会ったとも話されていました。まさに、主が先生に与えられた「実にすばらしい私へのゆずりの地」が日本だったとの言葉を伺い、胸が震えました。ラージャス先生を日本に送って下さった主に感謝せずにはおられません。



“Jesus is my boss!”

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。』」マタイ28:18-20

“Jesus is my boss!” ここ数年、先生にお会いするたびに、右手の人差し指を天に向けて言われていた言葉です。「私のボス(主人)が私に行くように命じましたので、私はただ従って日本に来ました。イエス様は、天においても地においても、すべての権威が与えられています。素晴らしいことです。」先生のダイナミックな信仰、偉大なヴィジョンを掲げて宣教されるスピリットは、まさにこの御言葉から来ています。18世紀にイギリスからインドに渡ったバプテストの宣教師、ウィリアム・ケアリも次のようなことばを残しています。 “Expect great things from God; attempt great things for God.” ~神から偉大なことを期待し、神のために偉大なことを企てよ。~

また、「私は3人―私とエバレンと主―でチームになって日本に来ました。」、「私は決して独りぼっちではなかった。」とも話されました。愛する二人の妻エバレン先生、クララ先生をここ日本で先に天に送った後も、日本にとどまり続けてくださったのです。71年間という長きに渡る日本宣教は、喜びだけではなく、多くの苦労と忍耐と流した涙がありました。しかし、ラージャス先生は、「イエス様は約束の通りいつもともにいてくださった。」と自らの歩みと重ね合わせるように深くうなずきながら、確信に満ちてお証しくださいました。これから先生が米国に帰られた後も、同じ主がいつも私たちと共にいて、助け、励まし、また導いて下さることを深く覚えることができました。



9:38チャレンジ!

「そこでイエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送って下さるように祈りなさい。』」マタイ9:38

2019年夏に行われた全国聖会において、米国BBFIの宣教委員長、ジョン・カナラップ先生がマタイ福音書9書38節のおことばから、「毎日9時38分に働き手を送ってくださいと祈りましょう!」とチャレンジしてくださったことはまだ記憶に新しいことと思います。私もそれから暫くは、ケータイのアラームをその時刻に設定して祈っていましたが、最近は忙しさにかまけて祈らなくなっていました。

先生は、99%の日本人が主を知らずにいることを嘆き、涙ながらに祈っておられました。「99%の日本人がイエス様を信じることができるように」との祈りでした。先生の71年間の宣教の実として、多くの人がイエス様を信じて救われ、バプテスマを受けて教会に加えられ、そして献身して日本各地にそして世界各地に送り出されて行きました。私自身、先生の宣教の実であり、先生の働きに心から感謝する者として、9:38チャレンジを主からのものとして受け止め、祈り続けていきたいと思いを新たにしています。

信仰のバトンを受け継ぐ

「イエスは彼らに言われた。『さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。』」マタイ1:38

先生が残して下さった信仰のバトンを受け継ぐことは、まさに福音を受けた私たち一人ひとりが出て行って福音を証しすること、また9:38チャレンジを信仰により受け止め、働き手を送ってくださいと祈り求め続けることであると確信しました。ラージャス先生は遠く離れた敵国日本に来て下さり、米国諸教会も祈り多くの犠牲を払って先生を遣わして下さいました。諸教会から献身者が起こされ、御言葉にある如く「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。」と日本や世界各地に献身者を送り出すことは、主の御心であり、ラージャス先生の最後の熱い祈りでもありました。今は更に主のお出でになる時が迫っています。「主よ。収穫のために働き手をお送りください。また、私をも遣わし、用いてください。」と主に祈り、信仰の応答をもって主に仕えて参りましょう!ラージャス師から受け取ったバトンを持って・・・。

なぜ海外宣教のために献金するのか?

長年に渡り日本に福音を伝えた宣教師ケン・ボード

私が初めて仕事をしたのは、17歳のときでした。月曜から金曜までは放課後、土曜は一日中、花を育てる苗床で働いていました。初めて給料をもらったとき、そのうちの10%を教会に献げ、海外宣教のための献金をしました。これを62年間続けてきました。私が海外宣教のために献金する理由は4つあります。

海外宣教にはお金がかかる

まず、海外宣教にはお金がかかります。宣教師は自分のために祈ってくれる人々に感謝しますが、宣教活動をするには祈りだけでは足りません。ガソリンスタンドは現金を欲しがります。食料品店では現金が必要です。さらに、家賃、車、子供の教育、チラシやトラクトの印刷など、宣教活動を成功させるために必要な多くのお金が必要です。

私たちが北九州聖書バプテスト教会の開拓伝道を始めたとき、このような費用がかかりました。建物のための礼金として、20万円を支払いました。椅子代として15万円。聖書には135,000円かかりました。賛美歌には6万円かかりました。看板に80,000円かかりました。スリッパに30,000円を支払いました。10,000枚のチラシを印刷しました。45,000円の費用がかかりました。北九州教会の最初の礼拝の準備にかかった費用は、70万円でした。これは、1971年当時の価格であり、現在ではもっと高いでしょう。700,000円! このお金はどこから来たのでしょうか?それは、宣教師の働きは霊的な働きですが、その働きを成功させるためには、現金のような物質的なものが必要であることを理解しているクリスチャンたちからのものです。

懸命な投資

次に、海外宣教のために献金することは、賢明な投資です。皆さんは投資をしていますか?株ですか?債券はありますか?美術品?宝石?財産はありますか?もちろん、クリスチャンがこのような投資をすることは問題ありませんが、これらのものを天国に持っていくことはできないということを理解していますか?ですから、マタイ6:19-20でキリストは、「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴をあけて盗むこともありません。」と言われました。皆さんは、このことについて考えたことがありますか?どうすれば天に宝を積むことができるのでしょうか?この質問に答えるためには、別の質問をしなければなりません。天国に行くのは何ですか?あなたは家を持っていますか?自分の家を天国に持っていくことはできないことを理解していますか?あなたは車を持っていますか?天国に行くときは、車で天国に行くのではないことを理解していますか?主のもとに帰るときには、私たちが大切にしている物質的なものはすべて置いていかなければなりません。

もしそうだとしたら、どうやって天国に宝を積むことができるでしょうか?その答えは明らかです。天国に行くのは、イエス・キリストを信じている人々の魂だけなのです。ですから、他の国の人々に福音を伝えている宣教師に献金することは、天に宝を積むことになるのです。これはクリスチャンにとって最高の投資ではないでしょうか。

必要を神様が満たしてくださる

3つ目は、海外宣教のために献金をするクリスチャンの必要を神様が満たしてくださることです。多くのクリスチャンが愛読している聖書の一節に、ピリピ4;19があります。「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」これは素晴らしい約束です。しかし、ちょっと待ってください。この約束は誰に与えられたのでしょうか?この約束は、宣教師パウロに献金を送ったピリピの信者たちに与えられました。「テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。」(ピリピ4:16-17)

もちろん、ピリピの約束はすべてのクリスチャンに対するものだと言えますが、この約束は、宣教師のために献金をするクリスチャンにとって特別な約束であることがわかります。私は55年間の宣教師生活の中で、神様がこの約束を忠実に守ってくださることを何度も経験しました。

1966年の夏の出来事

その中の一つをご紹介しましょう。1966年の夏、私の家族は宣教師になる準備をしていました。その頃、私の教会では宣教大会が開かれていました。その大会が始まる前に、私は主に「主よ、今年は海外宣教のための献金をすることができません。あと2ヶ月でデピュテーションが始まり、給料がなくなります。また、宣教のために車を買わなければなりません。ですから、主よ、私が今年、献金できない理由をご理解いただけますね?」

しかし、宣教師たちの訴えを聞いているうちに、彼らの証しに心を動かされていきました。私は銀行に行って500ドルを借りました。教会で海外宣教のための献金があった日曜日に、その500ドルを献金しました。(当時、500ドルは大金だった)献金箱にお金を入れたとき、私の心は喜びに包まれました。、
しかし、月曜日の朝、目が覚めると、その喜びは消えていました。「何てことをしてしまったんだ」と思いました。あと2ヶ月でデピュテーションが始まり、私にはもう給料がありません。妻と2人の子供を養わなければなりません。さらに、銀行から借りたお金も返さなければならない。それに、車も買わなければならない。私は、海外宣教のための献金のためにお金を借りたことを後悔するようになりました。

火曜日、牧師は私に「昨夜、教会の役員会があった。昨日の夜、教会の役員会があって、教会が君に車を買ってあげることになったんだ」と言われた。彼は私を自動車販売店に連れて行き、新しい車を買ってくれました。私が海外宣教のために献金したので、神様が約束を守って必要なものを与えてくださったのです。

勘違いしないでください。誤解しないでいただきたいのは、海外宣教のために献金をすれば、神様が新しい車を与えてくださると言っているのではありません。私が皆さんに理解していただきたいのは、神様は約束を守られるということです。神様は、神様を信頼して宣教師を支援するクリスチャンの必要を満たしてくださいます。

主への愛を証明する方法

4つ目に、海外宣教のために献金することは、主への愛を証明する方法です。人を本当に愛しているなら、その人が好きなものを愛するようになります。私は結婚してから、妻の好きなものを愛するようになりました。子供が生まれて、ハイジやムーミン、ドラえもんなどのテレビ番組を見るようになったのも、子供が好きだったからです。

それと同じように、私たちが主を本当に愛しているならば、主が愛したものと同じものを愛するようになります。例えば、キリストを本当に愛していれば、教会を愛するようになります。エペソ5:25によると、キリストは教会を愛し、教会のためにご自身を献げられました。もし私たちが本当にキリストを愛しているなら、教会を愛し、礼拝に忠実に出席するでしょう。私は、「主を愛しています」と言いながら、教会に忠実に出席しないクリスチャンを理解できません。本当に主を愛しているのだろうかと思うのです。

福音を伝えるために

主が愛しているものは他にもあります。それは、世界中のすべての人の魂を愛しているということです。ヨハネ3:16には、神がひとり子を与えるほどに私たちを愛されたことが書かれています。2ペテロ3:9によると、神様はすべての人の救いを願っておられます。私たちに「全世界に行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と言われたのはそのためです。ですから、もし私たちが本当に主を愛しているなら、福音を聞いたことのない人々に福音を伝えるために、宣教師を派遣するために献金をするでしょう。

第二コリント8章と9章で、パウロは献金に関するいくつかの原則を教えています。8章8節には、供え物の目的の一つが書かれています。私たちが供え物を献げるのは、私たちの愛の誠実さを証明するためです。神はすべての人を愛しておられ、すべての人が福音を聞いて救われることを願っておられることを知っているので、私たちは海外宣教のために献金を献げることで、主に対する私たちの愛の誠実さを証明します。

私は、什分の一と海外宣教のための献金の違いを、このイラストで説明したいと思います。神様があなたの前に立っていると想像してください。神様はあなたに 「私を愛しているか?」と尋ねます。什分の一を献げることは、「はい、主よ、あなたを愛しています 」と口で答えることです。海外宣教のために献金することは、主のもとに駆け寄り、抱きしめて 「はい、主よ、あなたを愛しています 」と言うことです。

キリストとの関係

以上が、私が海外宣教のために献金する4つの理由であり、皆さんにも海外宣教のために献金することをお勧めする4つの理由です。しかし、最後に、私はあなたに厳しい言葉を書かなければなりません。もし私があなたに海外宣教のための献金をするように説得しなければならないとしたら、あなたとキリストの関係に問題があります。また、祝福を約束しなければ海外宣教のための献金をしてもらえないのであれば、あなたのキリストに対する愛の大きさを真剣に考える必要があります。

なぜ海外宣教のために献金をするのか?私たちが海外宣教のために献金するのは、私たちのために十字架で死んでくださった救い主を愛し、世界中のすべての人にこの素晴らしい救い主を知ってもらいたいと思うからです。


青少年宣教キャンプの証

主の恵みが天よりあふれ、豊かに注がれた今年の宣教キャンプ

香港/東アジア派遣宣教師 吉田 正治

「ふたりでも三人でも、私の名において集まるところには、私もその中にいるからです。」マタイの福音書18:20

尊い主の御名を讃美いたします。

毎年、宣教キャンプの恵みをご報告できますことを感謝いたします。全キャンパーたちに共通した感覚だろうと思いますが、文章にしてしまうと、この宣教キャンプの素晴らしさを十分にお伝えできないもどかしさがあります。これは参加していただかないと決して味わえない恵みです。

まず会場ですが、今年も香港開催は望むべくもなく、JBBFの施設も使用できない中で、仁戸名教会のご協力を仰ぎ、10箇所以上の施設を当たっていただきました。パンデミックもピークを極め、仮予約しては施設が閉鎖を決め、それが3回も4回も続き、今年は不可能かと思われた時、千葉県君津の施設が閉じておらず、ちょうど私たちのキャンプの日程でキャンセルがあって、ジグゾーパズルの最後のピースが埋まるように、開催が可能になりました。施設は私たちしか利用者がいなかったため、一番大きい集会場を借り切ることができました。楽器の音出しも、集会での賛美も全てOK、いつ賛美練習、楽器練習をしてもOKという自由な場所でした。私たちの祈りをお聞きくださり、主がお働き下さると、全世界的疫病蔓延、しかもピーク第五波の下でも、まるで何事もないかのように集まり、理想的なキャンプを遂行することができました。

コロナ対策は、同行してくださった二人の看護師姉妹のご指導を仰ぎ、正しく恐れ、正しく予防をしつつ、3泊4日のキャンプが始まりました。宣教キャンプ初日のレクリエーションは、恒例の体力勝負です。これによってキャンパーたちはすっかり打ち解け、新しい友人もたくさんできます。6回の集会も全て宣教師のメッセージで、宣教の思いを共有することができました。朝夕のデボーションも充実して、霊的覚醒を与えられます。宣教地からのリモート説教もあり、わかりやすいダイレクトなチャレンジで、多くの若者が新しい決心に導かれました。

今年は八教会から、53人の参加をいただきました。これからも日本開催で、このユニークなキャンプが続けられ、次世代に宣教のバトンを渡して行けるようにお祈りをお願いします。

 

青少年宣教キャンプを開催する事ができた恵み

仁戸名聖書バプテスト教会牧師 小林 秀夫

今回のキャンプを開催する上で大きな信仰の試練と祝福を頂きました。

実は、キャンプの会場として群馬県妙義の青少年の家を予約していたのですが、それが、8月8日のキャンプの16日前に突然コロナ騒動の為に閉鎖されてしまったのです。ふつう青少年の家は三ヵ月前までに申し込まなければ受け入れてくれません。今回は、二週間前だったので、これは絶望的な状況でした。昨年も会場が突然使えなくなる事態が起きましたが、それは7月24日で一ヵ月前の事で、今年はその半分の期間しか残されていなかったのです。しかし、それでもあきらめずに祈って他の場所を探し続けることができたのは、昨年も絶望的な状況でも道が開かれた経験があったからだと思います。

そこで幾つかの施設に問い合わせましたが、どこも似たような状況で断られました。ただ、不思議な神の導きがあって富士市少年の家だけは、一応受け入れて頂けました。ただ、その3日後まで確認が取れないというので、祈って待っていました。しかし、結局その施設が使えないという連絡が来たのです。それは、仁戸名教会が主催するCS合同キャンプの初日でした。キャンプを主催して大変忙しい中、次の施設を探すのは不可能に思えて、私も途方に暮れてしまいました。何よりも祈っていた場所が断られたことで、正直、失望して心が折れてしまった状態でした。しかし、娘の愛香があきらめずに他の施設を探し続けるように励ましてくれたので、気を取り直して探し続けることができました。

そこで、少年の家は期間的に間に合わなくでも民間の宿泊ならまだ間に合うと考え、そちらを調べてみると、幾つかの候補が見つかりました。ただし、料金が高く、同じ費用では三泊四日を二泊三日に減らさなければなりません。この事を他のスタッフに相談しましたが、中止するよりもその方がよいということで了承してくれました。それと並行して、まだ残っていた千葉県の他の少年の家に問い合わせ続けました。

まず、一度は断られていた鴨川の施設に所長にじかにあって再びお願いしましたが、やはり無理だと断られました。次に館山の太房岬の施設に問い合わせた所、検討してくれるとの事で返事を待っていましたが、やはり期間的にどうしても無理だというものでした。数えてみたら、結局10か所の施設に断られていました。

普通はそこであきらめる所ですが、まだ、最後に君津亀山の施設が残っていたので、「だめもと」で電話してみました。ところが、亀山の職員の答えは、二つ返事でOKだったのです。余りにも簡単で気抜けするほどでした。

その後、実際に使ってみたら、色々な意味で最初の妙義の施設より遥かにいい施設でした。それは、まず、ちょうど私達の期日だけ他の団体が全てキャンセルしていたので、受け入れてもらえた事。また、私達だけの貸し切り状態になったので、他団体からの感染のリスクがなくなった事や、かなり自由に使わせてもらえた事。また、妙義山ではできなかった、シーカヤックや磯遊び、鴨川シーワールドなど海のレクレーションが満載だったので、参加者がとても楽しめた事。レクなどの移動距離が非常に短くなった事等々。

主は最初からこんな素晴らしい場所を備えて下さっていたのですが、絶望的な状況の中でも信仰を持って探し続けるか、私達の信仰が試されていたのだと思いました。 「探し続けなさい。そうすれば見つかります。」(マタイ7:7) 勿論、集会そのものも大いに恵まれ、多くの決心者も起こされました。キャンプを開催出来た事自体が主の大いなる御業であったことを皆が知らされたからです。主の大いなる恵みに感謝です。

感謝と祈祷

インドネシア派遣宣教師 広瀬憲夫

広瀬先生● 近況報告 ●

新型コロナの拡大が続き、憲夫の帰省も県境越え移動がかなわないまま一時帰国が伸びている。4月に母が転倒、12針縫う怪我をしたが無事に回復。

新型コロナの警戒の中で無事にビンジェイ教会・スタバッ伝道所で合わせて5名がバプテスマ。結婚式と伝統部族披露宴が行われた。

7月から学校は新年度スタート、ビンジェイ教会付属幼稚園・小学校は三密を避けた分割登校方式で授業を継続。スタバッ伝道所周辺はレッドゾーンで、水曜子供会は休止。教会礼拝・祈祷会は集会とオンライン配信を継続。感染拡大が激しい中、メンバーは守られている。

ビンジェイ市近郊在住日本人とのズーム聖研は毎週継続、ローマ人への手紙を5節ほどずつ学び10章まで。献身的な信仰が与えられている。

● 祈りの課題 ●

①ラージャス宣教師から受けた恵みの宣教スピリットを次世代に継承していけるように。
②新型コロナ感染拡大の中、信仰による永遠の命の平安を証しする伝道が積極的にできるように。
③基礎疾患の多いインドネシアの人々の中で、特に教役者の霊的・身体的健康が守られるように。
④広瀬の今後の新たな宣教地への導きのため。

香港/東アジア派遣宣教師 吉田正治

吉田先生● 近況報告 ●

いつも中国・香港のためにお祈りとお献げものを感謝いたします。

香港は、表面的な日常生活ではいつもと変わりませんが、2020年に入ってコロナで集会が規制され、2021年に入っては、民主活動のリーダーたちの逮捕が続き、社会から確かに活気が失われていると感じます。中国国内でも以前のような社会主義に戻っていく方向が顕著に見えだしていて、コロナ以前のようなバブル景気に浮かれる雰囲気には戻らないでしょう。

香港の政治の変化は、今のところ教会には影響がありませんが、近い将来、今のような自由な伝道ができなくなることは大いに予想されます。香港を取り戻す、という目標を達成した今、次は香港を中国に戻す(中国化する)のが目標になっているようです。

教会はコロナ下ですが、以前のように礼拝、日曜学校は通常通りに行っています。コロナ以前に比べて出席人数は減っていますが、新来者も毎月与えられています。母教会の中国人姉妹の証しを小冊子にして印刷し、上水の町に配布を始めています。これを読んで感動されて、一人のご婦人が礼拝に参加されました。さらにこの証しの小冊子が用いられるように祈りつつ配布を続けています。

● 祈りの課題 ●

①なかなか下火にならない新型コロナですが、1日も早く税関が開き、中国の兄姉たちを訪問できますように。
②教会の集会が、以前のように自由に主を賛美し、マスクなしで交わりができるものになるように。
③日本にいる、淳子の父と家族、吉田の母と家族の救いのために。

台湾/東アジア派遣宣教師 鈴木しのぶ

● 近況報告 ●

2021年8月までに29の教会を訪問しました。そのうちの7教会はコロナウィルスのパンデミックによりオンラインで行いました。度重なる緊急事態宣言やまん延防止措置により、計画通りにならないことも多々ありますが、何とか直接訪問できるようにと牧師先生方が何度も計画してくださっていることに心から感謝しています。7月には祈っていた関西地方への訪問が叶いました。10月には北陸地方に伺う予定です。

● 祈りの課題 ●

①台湾・東アジアの人々の救いと霊的祝福のため。
②停止中のビザの新規申請が相応しい時に再開されるように。
③デピュテーションの祝福のため。

ハワイ派遣宣教師 上久保 崇

上久保先生● 近況報告 ●

子供たちの夏休み(ハワイでは6月~7月が夏休み、8月に新学期)を利用して、一泊でキャンプを行ないました。神様の創造の記事から二回のお話と一回の分級を持ち、また久しぶりにゆっくりと交わる時間もあり信仰と親交を深める時となりました。夏以降には以前のような日英両語礼拝や日曜学校成人クラス、週日の伝道をコロナ前のように戻して、教会の成長と新しい方々への働きが進められていくことを祈っています。7月に末期がんの兄が危篤になり単身で帰国をしました。主のお導きの中で兄と普通に会話をすることが出来て救いの祈りを共にささげることが出来ました。この期間は日本からオンラインでメッセージをすることが出来ました。

● 祈りの課題 ●

①9月の21周年記念からの更なる伝道の拡大のため。
②新なる伝道を始めるために協力伝道師招聘の導きのため。
③二人の子供たちの歩み、親への助け、家族伝道のため。

インドネシア派遣宣教師 入江一義

入江先生● 近況報告 ●

2021年12月中旬、2台のダンプに挟まれて、頭部に、二カ所の刺し傷と両肩の複雑骨折をしました。自宅で療養しながらの日々ですが、幸い、運転は出来ますので、日曜日は教会で集会し、水曜日は宣教師館で聖書研究と祈り会をやっています。

長年念願のケサワン教会改修工事が順調に進行し、一区切り完成しました。内装その他、宿題が山程あります。積み立てていた資金に加えて、ケサワン教会初期の教会員がさらに会堂改修資金を送ってきました。また、更なる不思議な方法を通して主が改修資金を満たしてくださいました。

● 祈りの課題 ●

①ケサワン教会堂の二階と惨害の屋根部分は完璧に改修しましたが、大型ゴミ等山積みです。資金はありますが、人材と現場監督が必要です。
②長年、念願の宣教基地・宣教師館と校舎(三階建)の改修工事が始まり順調に進んでいます。
③長年、運転手・兼・何でも屋として働いていたバダイ君夫妻が来訪して来られ、仕事が無く困っているとの事で、次週から雇う約束をしました。コロナ禍で就職難も進行しています。その後は、長男と二人で出勤して宣教師館の屋根の改修工事を進めています。

インドネシア派遣宣教師 田村成幸

田村先生● 近況報告 ●

インドネシアの感染拡大に関してご心配をおかけしていますが、お祈り感謝致します。こちらは感染者数、死者数が世界最悪のペースで増えており、ワクチン不足もあって各都市間の移動規制があっても、歯止めがかからない状況です。私もまだワクチンを受ける事が出来ず、早急な対策が必要です。

そんな中でネットでの礼拝が続いていますが、数週間前に新来者が与えられ、その方は、それ以後休まず出席されています。日本に留学して就職した経験のある方で、日本語も堪能です。日本で教会にも足を運んでいた様ですが、はっきりとした救いの確信が無いので救われるように祈っています。その方の救いと、バプテスマ決心者が多くおこされ、今年中の独立が成るようにお祈り下さい。

 

● 祈りの課題 ●

①インドネシア宣教の祝福と拡大。
②スラバヤ南バプテスト教会の組織独立。
③クランジ・バプテスト教会の祝福。
④シモン・ネンゴラン師、フランキー・タンブーナン師の為。
⑤田村家族の守りと親兄弟の救いの為、家内の健康の為。
⑥経済的祝福と守りの為。
⑦スラバヤ後の働きが具体的に示されるように。

共に祈りをもって

海外宣教委員 プロモート担当 鹿毛 愛喜

日本バプテスト・バイブルフェローシップは、交わりの中で3つの共同事業を共に担っています。それは、神学校を中心として、国内宣教、海外宣教の働きです。神学校は主に伝道者としての人格教育、聖書教育を施し、働き人を派遣する役割を担っています。そして、国内宣教委員会は日本国内の開拓伝道、日本国内諸教会の宣教の働きに仕えることが中心であり、海外宣教委員会は海外に派遣されている宣教師のサポートとさらなる宣教師派遣による海外宣教のためのプロモート活動が中心的な務めであると理解しています。

今回、プロモート担当者の話し合いにおいて「海外宣教委員として海外宣教をアピールするだけで十分と言えるのだろうか」という点が検討されました。神学校、国内宣教、海外宣教はバラバラな働きではなく、神様の御心である福音宣教の働きに仕えるという点においては一つであり、宣教の担い手である諸教会を支え、献身者の育成と派遣という点における祈りは一つであるということを確認し、一致と連携を強めていくべきであると考えています。

「宣教師を送り出す前に牧師交代が緊急の課題である」「海外に働き人を遣わすことが国内の諸教会にとっても祝福である」との声も様々ですが、国内宣教のためにも、海外宣教のためにも働き人が遣わされていくことは、主にあってはどちらも幸いなことであり、喜ばしいことではないでしょうか。国内宣教委員会は海外宣教のために祈り、海外宣教委員会は国内宣教のために祈る。神学校は、この現代において国内でも、海外でも福音宣教の務めを担い、教会形成に従事できる繊細かつタフな伝道者を育成していく必要があるのです。コロナ禍を経験し、これからの神学校、国内宣教、海外宣教、いずれの機関も大きな岐路に立たされており、宣教の主の大いなる導きを仰いでいることは同じです。この時にこそ、私たちは改めて原点に立ち帰り、交わりの中で共に担っている共同事業を再考し、地域教会の励ましと共に国内外における宣教協力という点に目を向けて連携していくということです。

献身者が少ないという現状、私は常にこのような問いを心のうちに問いかけられています。「この時代、この国において、主に召されている者はいないのか」ということです。地域教会の一牧師として、教会建設において「主が一人、一人を福音宣教の働きのために召されておられる」との確信をもって、キリストの愛に応答し、キリストのしもべとして生きることを喜ぶ者へと育てることに注力しなければならないと強く思わされます。現在、教会が直面している献身者不足、無牧化、牧師交代、伝道不振、これらの責任は地域教会がしっかりと引き受けなければならないと共に、フェローシップの諸教会が時代を見据えながら共に祈りをもってお仕えしていく時ではないでしょうか。

編集後記

今回の宣教クォータリーは、「夏・秋合併号」となりました。その理由の一つは、ラージャス師とボード師が米国に戻られたタイミングが重なったことです。ラージャス師はインタビューで、ボード師はメッセージで存分に語ってくださいました。日本宣教に人生をささげてこられた両宣教師の貴重な言葉をなんとかまとめてお届けしたい!ということで、「宣教師特集」となりました。両宣教師を日本に遣わしてくださった主に感謝するとともに、信仰のバトンをしっかりと受け継いで、次世代につないでいく責任があることを改めて覚えさせられています。

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編集後記

今回、宣教クォータリーの編集を引き継がせていただき教えられたことがあります。宣教クォータリーはこれまで委員長を務めてこられたマイケル・バーゲット先生自ら、編集に関わり、パソコンアプリケーションを駆使してデザインし、入稿するというところまでされてこられたことです。まさに、そのことに宣教のスピリットを感じました。それは「宣教のためにできることは何でも学び、挑戦する」という姿勢です。コロナ禍という暗雲の中で世界宣教はこれまで以上に困難な壁があるように感じますが、このような宣教スピリットに今という時を突破するヒントがあるように思いました。

エレン宣教師の証

高槻BBC牧師 ジョージ・ヘンリー・キング

エレンは、ニューヨーク市に非常に近い勤勉なオランダ移民家族で育ちました。父は建築家でした。家族は教会で育ち、毎日聖書を読み、聖書の教えを実践する事を心掛けていました。父親が連れて行った青年集会で福音を聞き救われ、高校時代に宣教師の召を受け、ジャングルで宣教師になることができるようにと看護学校に進みました。しかし、看護師として数年働いた後、宣教師になるために必要なさらなる訓練のために神学校に行きました。神学校でジョージ・キングと出会い、1年後に結婚しました。二人で神学校の訓練を終え、カンザスで開拓伝道を手伝うように頼まれました。二人で3年間開拓伝道に携わりました。2人の子供に恵まれ、人生の重要な部分である子育て、主の訓戒に忠実に歩む子供を育てる事が目標でした。キングは教会や伝道活動で不在がちのため、子育ての大部分はエレンの肩にかかりました。子供たちはどちらも病気気味で、息子は生後1か月で生命の危機に陥りました。

日本宣教

1961年に3歳以下の2人の子供を連れて来日しました。夫妻で日本語を学び、素晴らしい日本人女性が子供たちの世話を手伝ってくれました。横浜教会で足踏みオルガンを弾くことを学び、日本人司会者との連携を学びました。牧師婦人はカウンセリングに専念できるようにエレンはオルガンを弾きました。奏楽を続け、日本人奏楽者や牧師婦人の育成にも励みました。バプテスト女子聖書神学院でも女性伝道者として必要なことを教えました。天国に行く4ヶ月前まで奏楽の奉仕をする事が出来ました。
甲子園、小豆島、枚方、茨木、高槻、稲毛の伝道で奏楽、アルトを歌い、女性伝道と子供伝道に熱心に取り組みました。ラジャース宣教師夫妻、山宮先生ご夫妻、パイエット宣教師ご夫妻、岡戸ご家族、奥村夫人、當麻先生ご夫妻、近松先生ご家族、上田先生ご家族、西牟田先生ご家族、バーリ宣教師ご夫妻、藤本先生ご家族、大越ご夫妻、森先生ご夫妻、堀川師、青山さん、大原先生ご夫妻、株本ご家族との伝道活動は素晴らしい宝物でした。大切な人を見逃しているでしょう。歯に絹を着せない言葉で、ときには厳しいと指摘されましたが、日本人と一緒に主に仕えた人々を愛していました。

次の世代への教え

25年間関節炎を患って、動き回ることが非常に困難でしたが、タフな性格で、この身体的困難に決して負けませんでした。7年間、アルツハイマーを患っていましたが、89歳までピアノを弾き続け、89歳までイエスを証し、86歳まで訪問伝道とチラシ配り、母鶏のように教会の人々を迎えました。神はこれらの恐ろしい病気を使って多くの人をイエスに導きました。次の世代に多くのことを教えてくださいましたが、その内3つのことが目立ちました。
1. 特に困難な時期や困難な人々について祈る。
他の人と話したり不平を言ったりせずに、祈りで神の導きを求める大切さ。(ピリピ4:6)
2. 困難な時代の喜び。
やってくる試練や直面しなければならない困難を選ぶことはできませんが、それらにどのように対応するかは自分で決める事ができます。「主の喜びは私たちの力である」ネヘミヤ8:10と書かれているので喜びを選ぶように教えました。最後の日々は、聖書と賛美に囲まれて日本で過ごしました。訪問やお祈りをしてくださった方々に心より感謝申し上げます。
3. すべてのことで聖書に忠実であるように、特にイエスの死と復活を伝える事に熱心でした。(箴言3:5-6 )
最大の喜びは、次の世代が続けて信仰にたち、主に仕えることでした。日本人女性が奏楽者、牧師夫人、クリスチャンナース、CS教師やクリスチャン子育てママさんになるのを心から願っていました。残された私たちも最後まで主に忠実でありたいです。

 

感謝と祈祷

台湾/東アジア派遣宣教師 鈴木 しのぶ

● 近況報告 ●

デピュテーションを開始して半年以上が経ちました。これまでに22の教会を実際に、またはオンラインで訪問させていただきました。コロナウィルスの感染拡大により、訪問が中止になったこともありましたが、スケジュールを組み直したり、オンライン訪問にしたりと、諸教会の先生方に助けていただいております。訪問先で先生方や兄弟姉妹方が証をお聞きくださり、台湾・東アジア宣教に重荷をもってくださることに心から感謝しております。

イースターは若葉BBCで主を礼拝しました。礼拝後に80代の女性が主イエス様を信じ救われました!私の敬愛する姉妹が、長年のご友人のためにイースター礼拝の後に交わりの時を計画してくださり、祈りによって時が備えられました。救われた方の心は、この姉との交わりや牧師の導きによって耕されており、幼子のように主イエス様を救い主として受け入れられました。救われてすぐに「心が穏やかです」と仰り、救いを喜んでおられました。この方がこれから主のお恵みをたくさん味わっていかれますように、と祈っています。

● 祈祷課題 ●

  1. 台湾・東アジアの人々の救いと霊的祝福のため。
  2. デピュテーションの守りと、訪問させてくださる教会の祝福のため。
  3. 台湾・東アジア宣教を祈り、サポートしてくださる諸教会への感謝

 

田村先生インドネシア宣教師 田村 成幸

● 近況報告 ●

コロナの影響で訪問伝道に出られない状態が続いていますが、そのコロナ故に普及したZoomを用いて伝道と信徒訓練を行っていた所、魂の救いが与えられました。その信仰告白者とは引き続きZoomでの学びを続けています。また、訪問販売に来た方を引き留めて伝道した際、その方も救いに導かれました。様々な方法を通して如何に伝道するのかを教えられています。

ジャカルタのクランジ教会では既に密を避けての礼拝がもたれていますが、スラバヤでは感染が収まらず、いまだにオンラインでの礼拝です。感染が収束し皆が集える状況になる事を祈っております。田村家族は、皆元気にしております。

● 祈りの課題 ●

  1. インドネシア宣教の祝福と拡大。
  2. スラバヤ南バプテスト教会の組織独立
  3. クランジ・バプテスト教会の祝福
  4. シモン・ネンゴラン師、フランキー・タンブーナン師の為
  5. 田村家族の守りと親兄弟の救いの為家内の健康の為
  6. 家内の健康の為経済的祝福と守りの為
  7. 為経済的祝福と守りの為
  8. スラバヤ後の働きが具体的に示されるように。

 

広瀬先生インドネシア宣教師 広瀬 憲夫

● 近況報告 ●

2020年11月下旬より、一時帰国中。諸教会訪問 (ズームを含む) 8教会、牧師・伝道者との交わり5教会。ビンジェイ教会とスタバッ伝道所では5月に5名のバプテスマ予定。現地牧師たちとはSNS等を通じて御言葉の交わりを継続。年間カリキュラムにそった学びの交換は毎週。ビンジェイ在住日本人とのズーム聖書の学び会はほぼ毎週。

新型コロナに関しては、ビンジェイ、スタバッの集会・子供会は従来通りの形で守られている。フェイスブックでのライブ配信も継続。 ワクチン接種優先対象は60歳以上で、 ジャワ島等ではワクチン接種を受けた牧師もいるもよう。

● 祈りの課題 ●

  1. 宣教地現地牧師たちの霊的・身体健康の守りのため。
  2. 伝道活動の必要の満たしのため。
  3. イスラム教の強いメダン北部伝道の進展、魂の救いのため。
  4. 新しい宣教地への導きのため。

 

吉田先生香港/東アジア派遣宣教師 吉田 正治

● 近況報告 ●

4月4日の創立記念礼拝に来られた中でも、フィリピン人、香港人の新来者のほかに、ギリシャ人と日本人のご夫婦には驚きました。来られた経緯は長すぎるので省きますが、コロナで日本にもギリシャにも帰れず、たまたま立ち寄った香港で既に一年以上過ごしています。世界中の祭りを取材して、ナショナルジオグラフィックなどの雑誌にその記事や写真を投稿して、収入を得ていますが、このコロナ禍でその仕事も立ち行かず、収入も途絶えがちだそうです。最初はホテルに泊まっていたそうですが、最近はお寺の土間などで寝ていたそうです。4月7日から我が家へ来ていただいています。4月8日の夜、ギリシャ正教徒のコリアスさんは、初めて主の前に信仰告白の祈りをし、救われ、翌日の夜、奥様の西澤ちぐささんも救いのお祈りをしました。個人伝道は英語で、二人とも理解しましたが、コリアス兄は英語で、ちぐさ姉は翌日日本語で、救いのお祈りをしてもらいました。お二人ともとても素直にイエス様を受け入れられました!

香港ーギリシャの航空便が途絶えており、まず奥様の国である日本へ飛んで、そこからギリシャに帰ろうと計画を立てましたが、ギリシャ領事館が閉まっているのでギリシャにある結婚届が取得できず、日本領事館は開いていますが、結婚届を見せないと日本のビザを発給してもらえません。そこで、外国人旅行者でも結婚できる香港の制度を利用して、先日香港で正式に結婚され、結婚届を取得しました。今日本も外国人旅行者にはビザを出さない方針ですが、なんとか彼らが日本へ、そしてギリシャへと帰国が叶うようにと願っています。

● 祈りの課題 ●

  1. 淳子師の父と吉田の母、ともに91歳で健康ですが、1日も早い救いのため
  2. コーナーストーンに広い会堂が与えられるように
  3. 内地Y市家の教会は、4月11日警察の介入を受け、会堂内部の聖書、椅子、講壇、電子ピアノ、電子機器全て、献金800人民元等、持ち去られる。逮捕者は今の所なし。しばらくはオンライン礼拝もやむなし。他の集会所が与えられますように。
  4. 香港はますます中国化し、中国はますます覇権国家化しています。イエス様の再臨もますます近く感じられます。皆で心を合わせて「マラナ・タ」「主よ来たりませ」と祈りましょう。

 

上久保先生ハワイ宣教師 上久保 崇

● 近況報告 ●

クリスマスに一人の姉のバプテスマ式が行われました。ハワイでは、昨年12月からワクチン接種が始まり、4月には18歳以上の人への接種が始まっています。その中でも感染対策をしながら二回に分けての礼拝をささげていますが、イースターは合同で礼拝をおささげして、新来会者や再来会者もありました。高齢者ケア施設には個別での訪問が可能になり、今年95歳になった教会員の姉への訪問が可能になりました。子供伝道は公民館が閉鎖中のために、不定期ですが場所を変えて再開しました。

● 祈りの課題 ●

  1. 核となる教会員がさらに加えられるために
  2. 新なる伝道を始めるために協力伝道師の招聘の導きのために
  3. 二人の子供たちのこれからの歩みの導きのために

宣教師志願者学校の証

宣教師のことを知っているつもりでしたが

すずらんBBC 山上 世貴人

まず、講師をつとめてくださった方々に、感謝を申し上げます。普通、ファーローの時にしか接点を持つことができない宣教師の先生数名から、また、北海道に住んでいる一信徒としてはやはり簡単にお会いできないJBBF諸教会の牧師数名から、さらに婦人宣教師・宣教師夫人・牧師夫人からもお話を聞けたことは、今まで私が参加したJBBF全国集会のどれよりも豊かで貴重な学びの時間となりました。正直な経験談、失敗談も分かち合ってくださいましたので、画面越しではありながら人柄も感じ取ることができました。今回を最後にせず、また機会を設けていただきたいと切に願います。   次の献身者が起こされますように。

証として、特に未参加だった方へ何を伝えたいだろう、と講義ノートを見返しています。ひとつの言い回しに集約できそうです。(知らないことを知る)これが、毎回の講義で味わった感覚でした。無知を知る、というものです。個人的な話をさせていただくと、私の教会生活は、ふたつの宣教師家族と密接に結びついています。幼いころから高校卒業までは、稚内市のアメリカ人宣教師家族の単立バプテスト教会でお世話になりました。大学生から現在までは、北広島市のすずらんBBCでオーストラリア人宣教師であるエバンズ牧師家族と、多くの時間を共有してきました。ふたつの国から来ている宣教師と親しくさせていただいた私は、多分一般的な日本人クリスチャンよりも宣教師の状況を知っているはず。少なからず、そういう思いを持ちながら今回の学びに参加しました。実際のところ、私はほんのわずかな部分しか知らず、結果として、大量のメモを書くことになりました。宣教師が直面する困難、多くの労力と犠牲、言語と文化のギャップへの無力感、現地人を育てることの忍耐、正解のはっきりしないことへの対応の苦慮、本国に残してきた家族への心遣い、子育てで発生する問題と子ども自身のアイデンティティ形成。どれも、重い。軽々しく、先生のために祈ってますよ、ではなく具体的に祈るべきだと考えさせられる内容でした。もちろん、宣教による喜びについても再確認できましたが、どちらかというと、課題の認識、祈る材料の把握、というのが多かった印象です。JBBF70周年記念式典でカナラップ師が語っていた9:38チャレンジも、必要であるとわかっていながら出来ていませんでした。もう一度、祈りへの姿勢を整えたいと思います。

参加でき、感謝

茨木BBC 池側 真紀

主の御名を賛美いたします。今回、宣教師志願者学校に参加できたのは、本当に神さまからの大きな祝福で、とても恵まれた学びでした。

まず、世界宣教が「主の御心であり、すべての信徒にとって最も重要な使命である」ということを聖書から学ぶところから始まり、宣教師の準備について、海外宣教委員会や派遣教会、支援教会との関わり、デピュテーションや派遣準備、実際の宣教地での宣教活動について、また宣教師個人の霊性の保ち方、人間関係、異文化理解など様々なことを具体的に学ぶことができました。
今回はまた、女性として、未婚の女性宣教師について、実際に日本で活動されている二人の女性の宣教師の先生方から学び、また宣教師夫人としてという点から、宣教師夫人として、現在また過去に遣わされていた先生方から具体的な学びや励ましを得ることができました。とても大きな恵みでした。

特に今回、私が個人的に教えられたことは、石川先生から教えられた「宣教師自身の召命の確信」という点でした。まず前提として、神さまが召される人について、第一コリント1:26-29から学び、具体的にはイザヤやエレミヤの例から学びました。神さまがみことばを通して与えてくださる確信やビジョンをどのように保つか具体的に示され、励ましを受け、とても感謝でした。神さまが召してくださるところで、いつでも、どのような時でも、感謝しつつ、主を見上げながら、主の証人として歩んでいきたいと強く思わされた学びでした。開校していただき、本当にありがとうございました。
「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。」第一コリント1:26-29

学びの場を感謝

香港/東アジア宣教師夫人 吉田 淳子

この度は鈴木先生の派遣にあたって、このように素晴らしい学びの場を用意してくださりどうもありがとうございました。
大変励まされ、また教えられました。講義のテーマがとても実践的・具体的で、お知らせをいただいた時にはワクワクしました。遠くに離れていても、現場の先生方の生の声をお聞きすることができ、その思い、熱意、戦いを知ることのできた貴重な機会でした。それぞれの宣教地に「始めの一歩」を踏み出して以来、たくさんの経験を重ねてこられた先生方のお言葉には重みがありました。そして、そのような先生方を支えておられる奥様方にも心から敬意を感じます。

鈴木しのぶ先生の「始めの一歩」に向かって豊かで確かな主のお導きを、さらに二歩目からの歩みの上にも主のお助けと祝福を祈り続けます。応援します。

学びに参加して

調布BBC 橋場 さくら

講義の中で特に印象に残ったのは広瀬先生の『異文化理解』です。宣教師の先生方が言語はもちろん現地の習慣や宗教において、様々な配慮をしたり、困難を感じることがあると知りました。私は日本国内でカルチャ―ショックを感じたことがあったので、海外などはもっと無理だろうと思っていました。しかし全講義を通して、宣教師の先生方が困難な場面にあっても神様の導きで解決を得ていることを知りました。私は、(宣教以前の問題ですが)神様にある地に出て行けと言われたときにはいつでも出ていけるように、私自身がもっと砕かれる必要があると感じました。頑なさを捨てるように日々悔い改めて、主が扱いやすい働き手でいられるように備えていこうと思います。

先生方の講義、本当にありがとうございました。全講義から宣教の素晴らしさと助け手が必要であることを感じました。先生方のお働きのために祈るとともに私自身の歩みについても続けて祈って行こうと思います。

宣教師志願者学校の恵み

横浜BBC 張替 道雄

主の素晴らしい御名を賛美致します。

海外宣教委員会の先生方の尊い主にあるお働きにより、貴重な「宣教」の学びの機会を設けて頂きました事、心から主にあって感謝致します。学んだ事を以下3点でご報告致します。

まず第一に「宣教」は主の御心である事、主は「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)キリスト者に宣教の大命令として与えられている事を再確認できました。収穫の為に、刈り取るべき畑が目前に広がっており、世の人々は皆滅びに一直線に向かっているという実情も認識でき、「出て行き」福音宣教の働きを推進する事が急務であると痛感致しました。主が今後どのような道に導かれようとも、この主から与えられた「志」に忠実に、より一層主に御心を祈り求め続けるべき事を示されました。

第二に、実際に現地で宣教の働きをされている先生方から実践面での話を伺う事ができました。私は、かつて3か所の宣教地を訪れ、宣教の働きを間近で見、共にご奉仕させて頂く機会が備えられていたこと、主に感謝いたします。その時は、何も分からずに赴き、現地の空気を吸い、働きに加えて頂いておりましたが、今回はその時の経験を振り返りつつ、具体的に・詳細に宣教師の先生方のお働きを伺うことができました。特に宣教の定義、宣教の主体である地方教会の在り方、宣教師派遣までの準備などの全体像、現地での宣教活動について、現地での霊性管理、異文化の理解、国内・宣教地の方々との関わり方、宣教地での教会形成方法、後継者への訓練、後継時期等、様々な内容を先生方から実際の経験踏まえ学ぶ事ができ、実際に宣教に出て行く上で必要な情報を得られた事、感謝でした。また、宣教師の先生方の具体的な働きを認識し、より一層祈り、ささげられる幸いを主に感謝致します。

第三に、自己吟味の機会となりました。「宣教」の学びで豊かに恵まれ、教えられましたが、果たして自分の「宣教」の働きはどうなのか考えさせられました。平日は神学校で学び、土日教会で仕える日々の中で、滅びゆく魂との関わり、伝道の働きの圧倒的な欠如を明らかにされました。現在、地上に於いて主から享受している人脈(特に営業先の歯科医師)に、また関わる全ての滅びゆく魂に福音宣教の働きを加速させる必要を強く示されました。今後も、主の御前に謙遜に、主の福音宣教の前進の為に励み、主の御心を祈り求めていきたく存じます。

旧宣教委員の証

20年の主の恵み

アガペBBC牧師 マイケル・バーゲット

1997年から8年間、2009年から4年間、宣教クォータリーの編集をさせていただき、2013年から8年間、海外宣教委員長を務めさていただきました。このような20年ほどの海外宣教委員会での奉仕の機会を主と諸教会に心から感謝いたします。

その20年の間に大変なことも確かにありましたが、それ以上に主の豊かな恵みが多く与えられました。なによりも三組の宣教師夫妻と一人の独身女性宣教師を日本から世界宣教に送り出すことに関わることがきたことを嬉しく思います。この間、敬愛する委員の先生たちと共に年5、6回ほど集まり、宣教師などのために祈り合い、話し合いました。このような貴重なお交わりも大変大きな恵みでした。また、最前戦で尊い福音宣教に励んでおられる諸宣教師との素晴らしい御交わりも本当に心から感謝いたします。

委員長の8年は、主の御助け、他の委員の先生方のご協力、諸教会の祈りと支援に支えられたこと改めて感謝いたします。今年から新委員長に選ばれた佐藤先生はじめ、若い委員の先生方のために引き続き、お祈りいたします。主が益々豊かにの委員会の働きを祝福し、用いてくださるよう、祈らせていただきます。

世界宣教は今も主の御旨です。なお一層この尊い御働きのために励みましょう。
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16章15節)

 

海外宣教委員のご奉仕から受けた恵み

仁戸名BBC牧師 小林 秀雄

私は、1987年に海外宣教委員に選出されて以来、2012年と13年を除いた合計32年間、委員のご奉仕をさせて頂きましたが、その間に、実に多くの恵みを頂きました。
第一に、世界宣教がどんなに重要な主からの使命であるかを強く教えられたことです。恥ずかしい事に委員に選ばれる前は、余りその重要性を認識しておらず、委員になって実際の宣教の働きに接することにより、初めてその事を理解したのです。それは、牧師にとって必要不可欠な重要な理解でした。

第二に、世界宣教が主から頂いた最も重要な使命だからこそ、悪魔の妨害や攻撃が非常に激しい事を体験した事です。宣教の働きに携わらせて頂いて初めて体験した、悪魔との戦いが数多くありました。宣教だけでなく信仰生活全体がこうした悪魔との戦いである事を正しく認識することは、勝利に不可欠です。

第三に、世界宣教の戦いや犠牲、困難が多ければ多いほど、主からの御助けや祝福と報いが豊かに与えられる体験を数多くさせて頂いた事です。まさしく「捧げれば与えられる。惜しめば取られる」体験です。一例をあげれば、仁戸名教会では2008年から13年間続けて、青少年宣教キャンプの主催協力をさせて頂いていますが、その間に、教会が後退から成長に転じ、教勢が最小時の203%に、経済的には233%も成長させて頂いたのです。
委員を止めても、こうした世界宣教の恵みを続けて求めて行きたいと願っています。

神の奥義の管理者としての宣教への関わり方

太田聖書バプテスト教会牧師 佐藤 一彦

人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。 コリント人への手紙 第一4章1〜2節

日本古来の伝統芸能や武道の世界では「奥義の伝授」として、その道の特別な技法、秘技などを選ばれた者に伝授する世界があります。そして、継承した者はそれを守り続け、新たに次の者に伝える責任を負うのです。聖書の中にも「奥義」という言葉が何度も使われており、神を信じる私たちこそ神の奥義を受け継ぎ、それを管理することが任せられている者なのです。この神の奥義とは同じ Ⅰコリント1:18に書かれています。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」それは、人の知識や知恵では想像も及ばず、人々の目には不思議に映り、人間の努力や善行などを一切必要としない神の一方的な恵による救いが神の奥義なのです。そしてそれを信じた者が神の奥義の管理者として、この十字架のことばを全世界に広めることが任されているのです。

聖霊なる神の力

しかし、神は無責任にその働きを私たちに丸投げにしたわけではありません。
その働きのために、聖霊なる神の力添えがあると約束してくださったのです。使徒の働き1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受け・・・わたしの証人となります。」ですから、この宣教の働きをするのに、ただ人間的な計画で一生懸命努力をして熱心に推し進める、或いは、人道的な同情心や責任感だけで宣教をするならば、神はお喜びになりません。なぜなら、宣教は神の一大計画なのですから、その主導権は神にあります。ですから神の御言葉が教える方法、聖霊の導きと力に私たちが忠実に従い宣教の働きに参加する時に、神は喜ばれ、それを祝福されるのです。

イエス様の模範

では神の教える宣教の方法とは具体的にどのようなものなのでしょうか?それを模範として示してくださったのはイエス様でした。1ペテロ2:21「このためにこそ、あなたがたは召されたのです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。」本来私たちは神の人知を超えた奥義である救いを理解することのできない者たちです。しかし、イエス様が私たちと同じ人となり、私たちの目線に立ち、人々が見て聞いて理解出来る普段使っている言葉や生活レベルに寄り添って福音を教えてくださったのです。ですから当時の多くの人が教えを理解し信じたのです。これは、円滑な人間関係コミュニケーションの取り方の基本的な方法と同じで、現代の私たちにとっても同様です。私たちが福音を伝えたい相手の目の高さ、その時代のコミュニケーション法や生活様式に沿ったアプローチをしなければ伝わりづらいでしょう。それは、普段私たちが政府の政策や対応が庶民感覚とかけ離れていて現実的でないと感じ、いつも後手後手になっていると批判しますが、それでは私たちの福音宣教の方法はどうでしょうか?もちろん宣べ伝える内容、イエス・キリストの十字架と復活そのものは決して変わらない人を救う真理ですが、それを人々に届ける伝達法が人々の持っているチャンネルと合っていなければ、届きづらい原因となるのではないでしょうか?

パウロの宣教

また、パウロも宣教する人々の当時の文化を理解しようと絶えず務めた人物でした。
1コリント9:19-23「・・・より多くの人を獲得するために・・・ユダヤ人のようになりました。・・・律法の下にある者のようになりました。・・・律法を持たない者のようになりました。・・・弱い者になりました。・・・。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。私は福音のためにあらゆることをしています。」このようにイエス様もパウロも、非本質的なことにこだわるのではなく、いかに人々に福音を伝えることができるのかにこだわり、相手を理解しようとされたのです。ならば、同じ働きを委ねられている私たちも同じように伝える人々のことを理解しなければなりません。また、それは宣教の働きに参加する教会に対しても同じです。どうしたら若い世代が積極的にこの働きに携わるよう励ましたら良いのか、それは彼らの置かれている生活環境の理解なしには前進しないでしょう。

忠実な管理者として

次に神の奥義の管理者として忠実さが要求されていますが、この忠実は何に対してなのでしょうか?
福音書の中にはタラントが与えられたしもべが忠実な管理者として、それを用いて増やし、主人の意図を正しく理解し実行したので主人に称賛されたとあります。もし、私たちの宣教が自分の考えや方法に固執し、「私と教会は昔からこうやってきたから、それを忠実にやり続ければ必ず祝福される」と自分を基準にスタイルを変えようとしないのであれば、それは主に対しての忠実さではありません。
2021年コロナ禍にある世界に私たちはどのように対応し、効果的に人々に福音を届けられるのか?
それは、過去の経験では追いつくことの出来ない、新しい取り組みや方法を模索し、人々にアプローチする必要があります。「何とかして、何人かでも救うためです。私は福音のためにあらゆることをしています。」このことへの忠実さが求められているのではないでしょうか?私たちは神の奥義の管理者として、心に掛けることは忠実に宣教の主である神の思いに対する理解を持つことです。英語で「理解する」はUnderstandです。これはUnderとStandの二語が合成されて出来た言葉です。私たちは相手を理解するために上に立つのではなく、相手より下(Under)に立つ(Stand)姿勢が必要なのです。これは、まさにイエス様がとられた態度でした。(ピリピ2:6-8)

あらゆる可能性を通して

私たちは教会を通して主の証人として私たちの地域の人々、関わる同胞に福音を伝えています。そして、この国から世界宣教実現のために、私たちの代表として遣わされた宣教師のために祈り、支援に関わっています。私たちはこの国に生まれ育ち、同じ日本人のことを理解していると思っていても、人々の心に届けるのが難しいとを知っています。であるならば、海外の異国の文化の中にいる宣教師たちは、その国の人々を理解するために、一から始める文化理解、人間関係、そして同時に行われる宣教活動にどれ程の祈りと時間が必要であるかを私たちはもっと理解しなければなりません。その上で、宣教師たちの宣教報告以外に、どれほど多くのお働きとご苦労があるかを知り尽くすことは出来ませんが、主が遣わされた宣教の奥義の管理者として先生たちを、これからも主にあって信頼し続け、祈りと最善の支援策を更に模索し続けながら、教会に仕えながら世界宣教の働きに参加する者も、或いは教会から遣わされて宣教に出て行く者も共に、神の奥義の管理者として聖霊様が導かれるあらゆる可能性を通して世界宣教に忠実であり続けましょう。

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編集後記

編集者 谷井 涙賀

例年より赤や黄色が濃く色づき、マスクを付けながらの外出ではありますが、ほっと見る者の目を楽しませてくれています。10月から始まった宣教師志願者学校は、コロナ禍での開催ということもあり、新しいスタイルのオンライン形式で行われていますが、だからこそ毎回40名近くの参加者が与えられていることは感謝なことです。主のご降誕を迎えるこの季節、各地において、一人ひとりが幸いな良き知らせを伝える美しい足となり、主の救いの喜びが広げられますように。主の格別なお恵みをお祈りいたします。

宣教師の召しの恵み

日本派遣宣教師 バーゲット・ヨナタン

私は、昨年の8月に宣教師としてアメリカから来日したヨナタン・バーゲットです。私は主が私たちを日本への宣教師として召して下さったことを確信しています。しかし、そこに至るまでには2年程かかりました。その間、主は様々なことを通してこの召しを明確にして下さいました。今回はそのことについてこの紙面に書こうと思います。

最初の出来事は、私の救いです。子供の頃に救いの決心をしましたが、長い間そのことについて悩み続けていました。やっと明確に救いの決心ができたのは25歳になってからでした。その後、主はすぐに私の人生に働きかけて下さるようになりました。主によって変えられた私は、それから教会の奉仕にも加わるようになりました。

二番目の大きな出来事は、3ヵ月の日本滞在です。家族と共に3ヵ月ほど来日する機会が与えられました。アガペ聖書バプテスト教会のスタンフォード師ご家族の留守中の手伝いをするために来日したのですが、なんと職場が与えられ、結果的に「給料付きの短期宣教旅行」になったのです。この経緯の全ては奇跡としか言いようがありませんでした。
本当に楽しい3ヵ月でした。妻のタビーは、主が私たちを日本に宣教師として召して下さると確信していました。実は彼女は、結婚する前から私たちが日本へ遣わされる確信があったのです。
しかし、私自身はまだ主が私たちを日本に導いているとは思っていませんでした。ですが、主はなぜこのような宣教旅行をお許しになったのか疑問が浮かびました。刺激と冒険に満ちた旅でしたが、主がこのようなことを許して下さった理由について思いを巡らせていました。そのような中、公園に出かけ、池を見下ろすベンチに座り、聖書を読みました。イザヤ書6章を通し、神がどれほど偉大なお方であるのかを思い出させられました。偉大なお方だからこそ、人生の一部ではなく、その全てをお捧げすべきだということを改めて示されました。 そして、たとえそれが宣教の働きだとしても、主の御旨を何でも行おうと決意し、主に献身しました。
三番目の出来事は、宣教師として主にお仕えするように召されたことです。これという体験や聖書箇所は特に覚えていませんが、御言葉のメッセージと特別賛美を通して宣教師への導きが示されました。

四番目の出来事は、宣教師として具体的にどこへ行くかを主に求めた時のことです。宣教師として召されたことは明確でしたが、どこに遣わして下さるのかを祈っていました。個人的には日本に帰りたかったのですが、自分の思いではなく、主の明確な導きを求めました。主が私をどこへ導かれるのか、1ヵ月間祈り求めることにしました。
主は日本宣教について、小預言書の聖書通読を通して私の心に働きかけて下さいました。オバデヤ書1章からは、(他国人も皆共通ですが)日本人の心にある高慢さと、来たるべき主の裁きについて考えさせられました。 ヨナ書1章では、困っている未信者が偶像に助けを叫び求め、真の神を知らずに生きているのを見て、『多くの日本人も同じだ』と日本を思い出させられました。 ヨナ書3章においては、主がニネベの12万人に御言葉を与えたことを通して、福音を未だ聞いていない新潟市の80万人の必要について考えさせられました。ハバクク書2章では、日本人は偶像に祈っているが、本当は主の真実な御言葉を必要としていることを示されました。 ゼパニヤ書1~2章では、主がいかに赦しを与え、あわれみを示そうとしておられるのか、そして、その「時」は今ではないか、と気づかされました。
また、主は日常生活の様々な出来事をも用いて、日本への導きを示して下さいました。 仕事に向かっていたある日、橋を渡っている時に日本を思い出させるような匂いがしました。それまでに何百回もその橋を渡っていましたが、今までそう感じたことはありませんでした。主は他にも様々なことを通して、日本へと導いて下さいました。一ヶ月間の祈りの後、主の様々なお働きを通して、主が私たちを日本に宣教師として導いておられることを確信しました。

私は主の召しを心から感謝しています。今後、主が私たちをどのように用いて下さるのか楽しみです。私たちのために祈って頂けると感謝です。今回このような証の機会を与えて下さり、本当にありがとうございました。主がこの証を用いて下さるよう心からお祈りしています。

 

今の働き、今後の働き

台湾/東アジア派遣宣教師 鈴木 しのぶ

私は救われて、仕事をしながら中高の教員免許を取得しました。学校の教員になれば、多くの子どもたちの名前を知り、子ども達の救いを祈れると考えたからです。「子ども達にイエス様のことを伝えたい」と願ったのは、17歳で初めて福音を聞いて感動したからです。高校時代アメリカに11か月留学し、田舎の素朴なクリスチャンの夫婦に愛してもらい、身をもってキリストの愛を味わいました。神様が私にしてくださったこの素晴らしいことに、時が経つほど感謝しています。

私が「宣教」「伝道」について初めて聞いたのは、2007年9月に滝山BBCで行われたJBBFの宣教大会でのことです。「子ども達にイエス様のことを伝えたい」という願いは、「宣教」というもので、私には宣教の重荷が与えられていると合点しました。この集会で神様の招きに私は応え、前に出て祈りました。

その後、私は教員としてキリスト教系の私立中高一貫校に3年間勤めました。2014年8月から神学校で学びと訓練をいただき、卒業論文を通して与えられた召しに向き合いました。神学校を卒業した後、2017年11月に吉田正治宣教師ご夫妻を通して香港とY市の教会に連れて行っていただきました。そこで信仰を働かせるクリスチャン達には格別な喜びがあるのを見ました。これを機に、主は私に東アジア宣教の重荷をくださいました。

2018年4月から3か月間、米国フロリダ州にある私の牧師スミス先生の母教会で訓練をいただきました。私は、日曜学校で主に仕えるための知識や技術を求めましたが、むしろ神様と人への愛、子ども伝道の情熱をいただいて戻りました。また、働き手が足りないのは日本や東アジアだけではない、アメリカでもそうなのだということに衝撃を受けました。世界中どこでも、いつの時代も「収穫は多いが、働き手が少ない(マタ9:37)」のだという現実が胸に刺さりました。

2019年の4月から約2か月間、再び香港を訪ね、吉田宣教師ご夫妻にご指導いただきました。香港は正に東アジア宣教のハブでした。大陸に聖書を運ぶ人や、大陸で聖書の学びを導いている人たちに出会い、多くの教会が大陸の教会や宣教師をサポートしている姿を目撃しました。ある地域が閉ざされると香港に一時滞在し、その間、開けた地域を探して次はそちらに行く姿を見ました。東アジア宣教は表立って目には見えませんが、確実にうねりをもってしたたかに行われていました。また台湾の高雄にも1週間滞在し、吉田宣教師の台湾時代からのお知り合いの先生方とお会いしました。公立の幼稚園や小学校、特別支援の幼稚園を訪問して福音を伝えるのに同行しました。また一緒に高齢者施設を訪問し、台湾語話者や日本語話者の方々と私も交わり、賛美や証をする働きに加えていただきました。私と東アジアを結ぶものはないように見えましたが、確信を求めて祈ると、主は「主がお入用なのです」(ルカ19:31)というおことばで答えてくださいました。

2019年9月に若葉聖書バプテスト教会は、東アジア宣教の第一歩として台湾に私を宣教師として遣わすことを決議しました。まず台湾の地方教会で主にお仕えしながら北京語を学び、大陸の人々に福音をお伝えする道を探り、機会をとらえたいと願っています。私は何も特別なことはできず、何も成し遂げたこともありません。しかし神である主が人の救いのためにすべてを成し、JBBFの先生方が私をも愛し、その真実を私にも語ってくださいました。こんな私をも入用と言ってくださる主にお従いし、またお交わりをいただいているJBBFの諸教会の先生方や兄姉と共にこの道を進みたいと願っています。

 

 

宣教における独身女性宣教師の役割

海外宣教委員長 バーゲット・マイケル

バーゲット先生

聖書において

まず聖書において「宣教師」の役職名が用いられていませんので、「独身女性宣教師」の役職名ももちろん用いられていません。しかし、使徒パウロが使徒の働きにおいて宣教師として活躍したことを否定する方はいないと思います。アンテオケ教会から宣教師として派遣された使徒パウロは、決して一人で宣教の働きをしていたのではなく、絶えず多くの同労者と共に宣教に励んでいました。その同労者の中には女性の方々も少なからずいました。ローマ16章では、パウロは少なくても6名(フィベ、プリスカ、マリヤ、ユニアス、ツルパナ、ペルシス)を女性同労者と呼び、その働きに感謝を述べています。ここから使徒パウロが宣教活動において女性同労者をも多いに用いていたと考えられます。もちろん、これらの女性同労者は指導的立場をとることはなく、主によって女性として許される範囲で宣教の働きに仕えていたのです。

世界宣教の歴史において

世界宣教の歴史を見ても、多くの独身女性宣教師の働きを見ることができます。よく知られた女性宣教師として、マリー・スレッサー(ナイジェリアへの宣教師)、エミー・カーマイケル(インドへの宣教師)、エリザベス・エリオットとレイチェル・セイント(エクワドールのワオダニ部族への宣教師)などが思い浮かびます。統計上、宣教師の四分の一ほどが独身女性宣教師であるとも言われています。
もっと身近なところでは米国フェロシップの初代宣教委員長のダネルソン先生は、スウィート婦人宣教師(未亡人)の証により、中国宣教への重荷が与えられ、主の召しを確信し、米国での牧会を退かれて中国宣教に出かけました。スウィート婦人宣教師と他に二人の独身女性宣教師が中国の上海に戻り、ダネルソン先生ご家族の来中の時を待っていました。待ちながら、彼らは以前から始めていたセントラルバプテスト教会での奉仕で主に仕え、ダネルソン師が上海に来られた後も同師と共に主の働きに励みました。
その後、共産党によって中国から退去させられたダネルソン先生は、米国フェロシップの初代宣教委員長となりました。BBFI創立初期から独身女性宣教師が世界宣教の働きに送り出され、現在も、米国の諸教会から20名ほどの独身女性宣教師が送り出されています。幸いにも現在、その内の2名の先生が日本宣教で働いておられます。

日本宣教において

独身女性宣教師の働きは日本宣教においても数多く見られます。フェロシップと関わりのある先生達としては、ルイーズ・メーヨー先生、グレナー・リッテル先生、マーサ・カクラン先生、ルツ・キング先生、デニーン・エイカーズ先生などをあげることができます。また、クララ先生もマーズデン先生の召された後、宣教師として独りで再び来日され、滝山BBCで(ラジャス先生と結婚するまで)活躍されていました。
さらに、国内宣教活動に関わられた独身女性伝道師も多数おられました。代表的な先生として、清水の辻昌先生熊谷の横田啓子先生、調布の辻恵先生などをあげることができます。今もフェロシップの諸教会では実に多くの独身女性伝道師とさらに女性伝道師が活躍し続けておられます。非常に乱暴な言い方をすれば、独身女性宣教師は独身女性伝道師の海外版です。これまで私たちが身近で見てきたお働きを海外で行うのです。
これらの独身女性宣教師や独身女性伝道師たちは決して指導権を握ることをせずに、女性伝道、児童伝道、宣教の様々な分野において励み、豊かに主に用いられてきました。彼女達の主へのご奉仕を本当に感謝いたします。

独身女性宣教師のお働きの特質

確かに、独身女性宣教師は説教や牧会など、できないことは少なからずありますが、他に多くのことができるのです。イエス様の時代からそうであったと思いますが、教会には女性たち、子どもたちが多く集います。そのような中での働き場が数多くあるのです。むしろ男性にはない賜物を多く与えられており、女性や児童に伝道し導くのには、男性以上に適任であるともいえます。

鈴木しのぶ宣教師のこと

鈴木先生がが台湾と東アジアに一日も早く出発できるように共にお祈りください。また、先生のお働きへの宣教献金についてお祈りくだされば幸いです。主が先生を豊かに用いてくださることを期待しつつ、皆で応援していきましょう。

 

宣教の集いからの証

もっと神を愛し、祈り、捧げたい

仁戸名BBC 三ツ井 真愛

去年の宣教キャンプで、神様のことを知ると神様を愛さずにはいられない、従わずにはいられないと学び、神様のことをもっとよく知りたいと思ったことを覚えています。そして、今回のキャンプで、神様の愛を伝えるには自分がまず神様の愛の素晴らしさを知っていく必要があることを学びました。素晴らしいものや好きなものは勧めたくなるし、もっと神様の愛、素晴らしさを知って伝道に励んでいきたいです。
わたしは環境や状況に言い訳をしがちです。「大学はオンラインだし、人とはなかなか会えないから、伝道できなくても仕方ない」「今はそんな気持ちになれないから祈らない」など。しかし、どんなときでも神様のために働く必要があることを教えられました。気持ちや信仰的に落ち込んでいる時でも、その時のわたしの状態で出来るはたらきがあると改めて知ることができました。もっと祈って弱い部分を神様に強めて頂いたり、神様の御心を求めて神様のためにはたらいていきたいです。
献金のことについても考えさせられました。今まで、宣教師の先生が現地で暮らしていくのに具体的にどれぐらいかかるのか、そこまで深く考えたことがありませんでした。生活費や光熱費、教会の家賃などリアルにかかる経費があることは当たり前のことなのにです。心から捧げる献金を神様は喜んで下さることを覚えつつ、必要な費用があり、献金は宣教師の先生たちの生活に関わっていくことをよく心に留めておきたいです。キャンプ中にしていただいた証の中で、神様に捧げることができるものが色々ある中で献金は一番従いやすい、一番捧げやすいものだと言う話がありました。実際に海外で働いている宣教師の先生のことを覚えて、また神様は私たちからの献金は必要ないのに、私たちに献金をする機会を与えてくださっていることと、それによって神様からの祝福があることも覚えて今まで以上に捧げていきたいです。

神様の愛を伝えたい!

東京浸礼教会 森本 祈

宣教キャンプにオンラインというかたちで参加出来ましたこと心から主に感謝いたします!
去年に引き続き神様にたくさんの事を教えられました。
どんなことがあっても、どんな状況にあっても主のために働きたい、と常に思いながらこの一年を過ごしてきました。
先生方のメッセージを通して、自分がどうしていたかをもう一度悔い改めることができたこと、そして勇気をもって自らが宣教師として働くために祈ることが出来ました。
神様の愛を伝えたい!と思うと同時に、自分がどう用いられるのか、どのようなかたちでの働きが出来るのか考えていましたが、はっきりと祈りを通して宣教ができるよう祈るのには勇気が今まで必要でしたが、上久保先生の最後のメッセージを通して祈ろうと決心できました。
これから何が私を待ち受けているのか分かりませんが、主にあって全力で福音を宣べ伝えていきたいです!

※補足 森本姉は昨年よりヨルダンにおいてボランティア活動に従事しています。今回もヨルダンからオンラインで参加されました。

 

感謝と祈祷

インドネシア派遣宣教師 田村 成幸

田村先生

● 近況報告 ●

先日の事務集会で宣教師への新しいサポート先を決める事が出来ました。これまでは、フィリピン人宣教師でバングラデシュに派遣されていた方を支援していたのですが、サポート送金の方法が無くなってしまったので支援を断念していました。そこで新しいサポート先を祈っていた所、新たなサポート先を示され、今後その働きを支援していく事が決まりました。私共の教会は、まだ伝道所ですが規模の大小にかかわらず、全世界への福音宣教に重荷を持つ教会を建て上げる事が出来るように祈っております。また、長い期間、組織独立を祈っておりますので早期に実現するように続けてお祈り頂けましたら感謝です。
私共家族は、皆元気にしております。お祈りに感謝致します。ただ、これまで元気だった義父が転倒して骨折し、既に1ヶ月以上入院しています。そこで、義父を我が家に引き取る事に致しました。今後の義父の介護、特に家内が全面的に奉仕していますが、彼女もリハビリ中の身でありますので、主の守りがありますようにお祈り下さい。また義母の介護は、義母方の子息にお願いする事となりました。

● 祈りの課題 ●

① インドネシア宣教の祝福と拡大
② スラバヤ南バプテスト教会の組織独立
③ クランジ・バプテスト教会の祝福
④ ネンゴラン師、タンブーナン師の為
⑤ 田村家族の守りと親兄弟の救いの為
⑥ 経済的祝福と守りの為
⑦ スラバヤ後の働きが具体的に示されるように

 

インドネシア派遣宣教師 広瀬 憲夫

広瀬先生

● 近況報告 ●

9月10日発熱、三日間様子見自宅療養後、病院で検査、新型肺炎ウィルス陽性判明。2週間分の投薬と自宅療養継続。最初の1週間で微熱症状も消え、2週間後から毎週検査、10月21日に陰性。それから10日間の自粛期間を経て解放となる。発熱直前に教会壮年たちとの交わり会を行っていたが、感染拡大とならず平安をいただいた。
多くの方にお祈りいただき、大変感謝です。神様の働きかけへの期待を試されるような期間でした。同労の牧師たちの支えと差し入れの食事で1か月半を過ごせました。
自覚症状がなくなってから自粛期間はオンラインでの交わり、聖書の日々の黙想の配信などにあずかる。

● 祈りの課題 ●

① 青年たちの信仰の成長、福音宣教の働き人として整えられていくように
② メディアを通した「証し」作成を通じても、教会の伝道力が向上するように
③ メダン北部伝道が教会形成に向けて進展できるように

 

香港/東アジア派遣宣教師 吉田 正治

吉田先生

● 近況報告 ●

7月、香港国家安全法が施行され、それまでのデモの自由も無くなり、集会もコロナの関係で禁止。四人以上の集まりが禁止されるが、教会は宗教上の集まりなのでお咎めなし。しかし中国が直接統治し出したので教会の締め付けもいつ始まるか分からない。実際、法人格の取得や、新しく来た宣教師のビザの取得は厳しくなっている。
8月、第13回青少年宣教キャンプを八ヶ岳で開催。リモートも併用する。主催であるコーナーストーン教会からは誰も参加できず、私たち夫婦もリモートで参加。各メッセンジャーも会場とリモート混在だった。仁戸名教会のご努力に感謝。大変に意義ある、非常に恵みあふれるキャンプでした。
9月、ずっと集会禁止令が出ていて、2人以上の集会禁止だったのが4人以上になり、教会に人が戻ってくる。出席は夏中一桁だったが、やっと二桁に戻る。
10月、宣教月間で、毎週違う婦人宣教師に証しをしていただく。一週目西村富美枝師、二週目ビデオで鈴木しのぶ師、三週目台湾のエミリー師。四週目は国際昼食会で、出席も20名を超える。コロナ禍でほとんどの教会が集会をしていない中で、集会を続けられることに感謝。

● 祈りの課題 ●

① コロナ以外の理由で教会に来られていない兄姉たち・黒須兄、澄江姉、ミッキー兄、ミニー姉、フィリピン人のヴィルマ姉、マリアン姉のために
② コーナーストーンがさらに多くの魂の救いの場所となるように
③ 尋ねることができなくなってしまった、内地Y師の教会、チャン兄の按手と牧会の働き

 

ハワイ派遣宣教師 上久保 崇

上久保先生

● 近況報告 ●

ホノルル市ではコロナ感染対策として9月から感染者数と陽性率によって四段階で規制緩和がされています。10月末に二段階目となり、家庭での集会は5名まで、教会では収容人数の50%までが集まることが許可されています。クリスマス礼拝は二つに分けている礼拝を合同にして、賛美を歌うことも出来ればと祈っています。
日曜学校には三家族7名の子供が忠実に集っています。9月から創世記の学びが続いていますが、今までにないほどに良くお話を聞き的確な質問や意見があるそうです。その中でカイダちゃん(10才)が明確な信仰告白に導かれました。
10月は宣教集会と31日の子供会も規制の中ですが祝された時を持つことが出来ました。11月の感謝祭と12月のクリスマスの伝道の機会の導きと知恵を祈っています。

● 祈りの課題 ●

① 現在中止されている伝道(公民館や高齢者ケア施設での集会)の再開
② 核となる教会員がさらに加えられること
③ 新なる伝道を始めるために協力伝道師の招聘の導き

深いあわれみの心を

港北ニュータウン聖書バプテスト教会牧師 鹿毛 愛喜

また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。 マタイの福音書9章36節

3月に牧師職を引き継ぎ、新米牧師として歩み始めた矢先、新型コロナウイルス感染拡大に伴う様々な対応に迫られ、戸惑いの連続でした。牧師として招聘されてから今日まで、次の3つのことを思わされています。第一に、教会の主はキリストご自身であるということです。そして、第二に、教会に住んでおられる御霊によって兄姉を取り扱い、内的に造り変えることを通して、日毎に教会を建設されているということです。第三に、牧師交代は教会としての宣教の働き(国内、海外)の継承であるということです。新型コロナウイルスを経験し、私たちは一つの時代の分岐点に立たされていると言えるでしょう。宣教の働きにおいても大きな分岐点に立たされている中で、先立ってくださる宣教の主に「私たちはどのようにお仕えさせていただけば良いでしょうか」と祈らされるのです。

羊飼いのいない羊

今回、マタイの福音書9章35節から38節のみことばに着目したいと思います。大変よく知られた箇所です。イエス様ご自身のガリラヤ地方における伝道活動の中で、イエス様ご自身は人々をどのようにご覧になられたのでしょうか。「彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」(36節)羊飼いのいない羊の群れという表現は、旧約聖書に見られます。エゼキエル書34章では、牧者とされる権威をもった民の指導的立場にあった者たち(王、預言者、祭司ら)が、民を養わず、世話をせず、かえって自らを養うゆえに民を虐げる姿を、牧者不在の状態としているのです。羊にとって、最も深刻で危機的状態とはどのような状態でしょうか。「彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣餌食となった。こうして彼らは散らされた。」(エゼキエル書34章5節)牧者がいないという状態です。羊である民は、外敵に脅かされ、絶えず自らでは満たし得ない欠乏に苦しみ、傷つき弱り果て、養われないゆえに死んだも同然の瀕死の状態に陥るのです。羊にとって、羊飼いがいないということほど悲惨なことはありません。まさに、イエス様がご覧になられたイスラエルの民も、現代を生きるキリストから遠く離れている人々も羊飼いのいない羊なのです。羊飼いのいない羊が、真の羊飼いのもとに帰ることができるならば、羊はいのちを得ることになるのです。教会の目に、キリスト者一人、一人の目に、羊飼いのいない羊の群れが映っているでしょうか。日本のみならず、世界にも羊飼いのいない羊が今も倒れているのです。

イエス様の深いあわれみ

イエス様ご自身は、羊飼いのいない羊の群れを見て深くあわれまれた。見ることによって深いあわれみが生じるのです。私たちの教会は若い世代がこの世界との接点の中で自分の人生を祈り、世界における宣教の現状を知り、羊飼いのない羊を見ることができるように、という祈りからビジョントリップという取り組みを行っています。若い世代が、イエス様がご覧になっているこの世界を実際に見るためです。全ての若い世代が宣教師になるべきであるとは思いません。しかし、全ての若い世代がイエス様の深いあわれみに触れ、それを自らの心とし、派遣されている場所において羊のいのちのために生きることは大切なことではないでしょうか。教会はどのような動機で宣教の働きを担うべきでしょうか。しばしば、イエス様から「良くやった良い忠実なしもべだ」と言われるために、という言葉を聞くことがあります。もちろん、やがてイエス様の御前において、このように言われる教会、キリスト者であるならば素晴らしいことです。私も結果そうありたいと願います。しかし、宣教の働きを担う動機としては、非常に自分本位な動機のように思われないでしょうか。結局、私が称賛されることを求めているかのようです。教会は、イエス様の深いあわれみを動機として、宣教の働きを担うべきでしょう。イエス様の深いあわれみとは、口先だけのあわれみではありません。内臓まで揺り動かされる、激しく疼くほどの同情心です。その深いあわれみは、積極的な関わりを生む、実際に行動を起こさずにはいられなくなるほどのあわれみです。羊飼いのいない死に絶える羊に対して、いのちを得るように、いのちを差し出された真の牧者なるイエス様ご自身の姿に表される愛に他なりません。ある程度信仰歴が長いキリスト者であれば、命じられている福音宣教の緊急性、必要性は繰り返し教えられてきていますし、当然理解されていることでしょう。では、教会はどれほどこの深いあわれみの心によって宣教の働きに突き動かされているでしょうか。このイエス様の深いあわれみに触れることによって、国内において、そして世界へと広がりをもって宣教の働きは前進していくのではないでしょうか。羊飼いのいない羊をご覧になり深くあわれむイエス様の深いあわれみによって、教会は羊のいのちのために派遣されていることを忘れてはなりません。

働き手の派遣のために

深いあわれみの心から、イエス様は弟子たちに次のことを命じられました。「収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(38節)弟子たちに祈ることを命じられているのです。その理由は、「収穫は多いが、働き手が少ない」(37節)というイエス様がご覧になられている現実にあります。まず、私たちキリスト者、一人、一人が収穫のための働き手であることを自覚する必要があります。私たちは自分とは関係のないところで、「働き手を送ってください」と祈るのではありません。「働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われた弟子たちが、次の章ではイエス様によって遣わされているのです。収穫のための働き手のために祈る時に、私たちは自分自身がそのために派遣されている今日を生かされているということを再確認すべきなのです。また、教会が収穫のための働き手を送ってくださるように祈る祈りは、教会建設、教会教育に深く関わっている事柄であることを理解する必要があるように思います。収穫の主は、キリスト者を働き手として派遣される御心をおもちです。それゆえ、教会は完成を目指す歩みにおいて派遣する教会を建て上げ、派遣意識をもったキリスト者を、次世代を育んでいく必要があるのではないでしょうか。定期的に宣教の必要性を訴える集会をもつことも大切でしょう。しかし、教会が、キリスト者一人、一人が毎日派遣されているという意識をもって「働き手を送りたまえ」との祈りの中に、職場で、家庭で、学校で生きることの方がどれほど大切なことでしょうか。収穫という言葉は、魂の刈り取り、救いを必要としている魂のことを意味していると理解できるでしょう。同時に、旧約聖書においては、世の終わり(終末)の審判を指し、神のさばきを指しています。終わりの時に向かう今を生きる私たちは、悠長に終わりの時を待っていてはなりません。時は迫っているのです。それゆえ、熱心になって働き手の派遣のための祈りをささげるべきでしょう。「ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように」と。

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編集後記

編集者 谷井 涙賀

JBBF初の海外宣教師として斉藤雄典先生ご家族が沖縄の地へ遣わされたのは、1971年5月、今から約半世紀前のことです。私事になりますが、主の恵みにより生まれて初めて沖縄の地を訪れる機会が与えられました。JBBF初の宣教師が降り立った地に足を付けた瞬間、感慨深いものがあり、熱いものが込み上げてきました。海外宣教員の一員として奉仕させていただくようになり、49年経った今も、沖縄の地で福音宣教の働きが継続されていることを目の当たりにして、主の御名を崇めました。齋藤雄典先生を天に送り、牧師不在の沖縄教会には、主を愛し忠実に礼拝を捧げておられる兄弟姉妹の生きた信仰の姿がありました。そして、JBBF初の宣教師が派遣されてから半世紀となる今、私たちの群れに新たな宣教師が起こされたことを思い、宣教のバトンが次世代へと渡されたのだと実感しました。9:38チャレンジを覚えておられるでしょうか。鈴木しのぶ宣教師は、主が私たちの祈りに応えて下さった証拠です!次なる働き人のために祈りを絶やしてはならないのです。9:38チャレンジ(マタイ9:38)は、いつの時代も主からのチャレンジであることを覚え、主がおいでになる日まで祈り求め続けようではありませんか!収穫に主に大いに期待して!

宣教師志願者学校のご案内

海外宣教委員会

「また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、即ち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝える為に、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。『神を畏れ、神を崇めよ。神の裁きの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。』」 黙示録13章6〜7節

コロナ騒動をはじめ、過去に例を見ない異常事態が相次ぎ、主の再臨と全ての人の裁きの時がますます近づいている事を覚え、いよいよ、全世界宣教の重要な使命をさらに熱心に果たすべき事を示されています。

そのような中、JBBF海外宣教委員会は、下記のような要領で、宣教師志願者学校を行う事に致しました。この志願者学校は、過去にも数回、新たな宣教師を送り出す時に開催してまいりました。その目的は、これから海外に行こうとしている新宣教師に、これから起こる可能性のある実際的な諸問題に備えるための学びを授けるためのものです。

しかし、それだけではなく、神学生や献身者の中で、宣教師となる導きを示されて主の御心を祈り求めている方々が、宣教師の実際的な状況を知る事より、より確かな召命の確信に導かれる助けになることも目的としております。

さらに、海外宣教を支援する諸教会の先生方や信徒の方々にも、宣教師の立ち向かう諸問題を知る事によって、よりよい支援が行えるようになるための情報を伝えさせて頂く目的もあります。

今回は、昨今の状況を踏まえ、ZOOMによる会議形式で、毎週火曜夜に行います。

この様な趣旨をご理解頂き、多くの方々が参加されるようにご案内致します。

実施期日・10月6日から12月15日まで(10回の講義)毎週火曜日 夜7時~8時半

講義内容・下記の「講義内容」を参考に

参加資格・宣教に重荷を覚えて献身されている方で、牧師の推薦の頂ける方

申込方法・牧師から海外宣教委員長にメールで

受 講 料・無料

講義内容

1部:世界宣教の聖書的理念
1)聖書全体に見る世界宣教(バーゲット師)
内容:世界宣教は、主の御心であり、全ての信徒にとって最も要な使命であることを聖書全体から学ぶ

2)世界宣教の主体である地方教会(山宮師)
内容:宣教師と派遣教会、支援教会、海外宣教委員会との関りや役割等の諸原則について聖書から学ぶ

3)世界宣教に携わる宣教師(石川実師)
内容:世界宣教に派遣される宣教師自身の召命の確信を保つ方法や、祝福された働きをするために必要な理念や原則、悩みや困難などを乗り越える秘訣などを聖書から学ぶ

2部:世界宣教の実践面
4)派遣準備と諸教会訪問(上久保師)
内容:派遣の全体像を掴む。デピュテーションを具体的に解説。訪問先の諸教会への配慮や注意点などを学ぶ

5)現地宣教活動のアウトライン(吉田師)
内容:宣教地での働きの初期、中期、後期(退任も含めて)の長期計画的な全体アウトラインの流れを掴み、それぞれの段階での課題や目標、注意点などを学ぶ。

6)宣教師個人の霊性(エバンズ師)
内容:宣教地で起こりやすい問題は何か、また、それに対する対処法、自分自身の霊性管理、維持、学びの継続法などへの実際的なアドバイスを学ぶ。

7)異文化理解(広瀬師)
内容:日本人的な考え方と現地の人の世界観、価値観との違いとその乗り越え方を理解する。言語だけでなく歴史文化、地域の習慣、宗教、キリスト教への理解の違いや反発などを学ぶ。

8)人間関係(佐藤師)
内容:家族と自分、そして信者や地域社会との関わり合いを考える。プライベートでは、子育て問題、教育、母国に残してきた家族との関係など。パブリックでは、教会員との関係、他教会、他宣教師との関係、地域社会との関係、派遣教会との関係、日本の諸教会との関係などを学ぶ。

9)宣教活動(田村師)
内容:宣教地での効果的な宣教活動を具体的に取り上げる。伝道の実際では、国によって伝道法や知恵がかなり異なることにどう対処するか。教会形成では、宣教師依存に陥りやすい状況の中、どう組織を作り上げていくか。弟子訓練は現地人主導型の教会形成をする上で大切な働きであり、どのように後継者にバトンタッチしていくかなどを学ぶ。

10)独身女性宣教師のお働き(ルツ・キング師、デニーン・エイカーズ師)
内容:JBBFで今回、初めて独身女性宣教師を送り出すに当たり、独身女性宣教師特有のお働きの恵みと直面する諸問題、また、支援する側から必要な配慮や具体的援助等は何か、などを学ぶ。

リモートミーティング2020の恵み

ハレルヤバプテスト教会牧師 谷井 涙賀

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、攻め、戒め、また勧めなさい。」2テモテ4章2節

去る7月16〜17日、「リモートミーティング2020」がZoomを介したオンライン上で開催されました。パソコンを開けば、なんとそこは行ったこともない宣教地、お名前は伺っていても、お会いしたことのない現地の牧師たちでした。これは、インドネシア宣教師、広瀬先生の発案により行われたMM18(メダンミーティング2018)と、昨夏の台湾ミーティングに次ぐ企画でした。今回は、前回までの参加者を対象に呼びかけられ、日本とアジア、米国から35名の教役者(日本20名、東アジア7名、香港3名、メダン5名)が参加しました。コロナ禍にあっても、中止という選択ではなく、インターネットを活用して福音宣教の学びと課題を分かち合い、祈り合う機会が与えられたことは、大変感謝なことであり、上記の「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」のおことばを思い起しました。

今回のテーマは、私たちの群れだけでなく、日本のキリスト教会全体の急務と言える「若者伝道と牧師継承」でした。2回の講義の他、宣教師や牧師たちによるテーマに沿った証しが成されました。講義を通して、日本でも海外でも教会から子供達がいなくなっている現状をデータで見せられた時、次世代への伝道と育成が急務であることを再認識させられました。米国でも若者が教会に行く意義を見出せず、教会から離れて行っているそうです。10年後、20年後の教会存続の危機に関わる極めて重要な課題です。「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」(箴言22:6)。今、教会に与えられている子供達一人ひとりを愛し、祈り育ててゆくこと、また良き模範となり導いてゆくことから取り組むことを教えられました。そして、ハレルヤ教会では、8月から早速、実践として教会の小学生と中学生との聖書の学びをスタートすることが出来ました。また、先生方からのテーマに関する証や報告を通して、恵みや課題を分かち合うことが出来て励ましをいただきました。

コロナ禍にあっても、主の働きである「みことばを宣べ伝える」福音宣教の働きが各国各地で脈を打って、確かに前進していることを実感することができた感謝なひと時でした。準備して下さった先生方と主に心から感謝いたします。

祝福された宣教の集い

仁戸名BBC伝道師 小林 太秀

8月19〜22日にかけて3泊4日の日程で青少年のための宣教の集いが行われました。毎年、青少年宣教キャンプが開催されてきましたが、今年はコロナ騒動のため開催はできないだろうと考えられていました。ところが主催者である吉田正治宣教師には、数々のキャンプが中止になって残念に思っている青少年に何とかしてキャンプを通して恵まれる機会を設けてあげたいという熱い思いがありました。またスタッフの一人である大木英雄師、小林秀夫師も同じ思いで一致しており、このような先生方の若い魂に対する情熱によって今年も開催することになりました。

そのような中で行われた宣教の集いのテーマはMission is the Answer(宣教は答え)というものでした。宣教は一体、どのような問題に対しての答えになるのか、それは私達が今直面している問題への答えにもなりうるのか、またなぜ宣教が答えといえるのかなど、非常に興味深いテーマでしたが、講師の先生方はどなたも素晴らしく御言葉を語って下さいました。6回の集会がありましたが「宣教の集い」と銘打つだけあり、講師の多くは宣教師の先生方でした。田村宣教師、広瀬宣教師、上久保宣教師、吉田宣教師といった宣教師に加えて元ウガンダ宣教師の佐藤先生、そして複数の宣教師を派遣している滝山教会を牧会されていた大木先生が講壇のご奉仕を担って下さり、豊かな恵みあふれた集会となりました。どの先生のメッセージにも共通していることは、困難な中でも宣教し続けることが答えになるのだということでした。時として私は「この困難が終息したら、また宣教できるようになるだろう」と考え、困難が終息することを第一に求めてしまいがちですが、初代教会の弟子達は困難の中でも宣教し続ける力を求めていました。困難な状況を打開するための主の答えは困難の中でも宣教し続けることにあるのだと教えられ、大きな力を頂きました。

さて宣教キャンプの第一の目的は御言葉によって変えられることにありますが、クリスチャンの楽しいレクリエーションもキャンプの大切な要素の一つです。今回の会場は八ヶ岳のふもとにある施設だったので施設職員のおすすめに従って高原の風を感じるハイキングを行いました。ハイキングというと比較的なだらかな道を楽しく歩いていくイメージがありますが、実際は山登りといってよいほど険しい道を進む探検のようなものでした。といっても辛く苦しいものではなく、大自然のアスレチックを進んでいるかのような楽しさがあり、参加者はステイホームと言われ続けてきたこれまでのストレスを発散することができたようで、心身ともにリフレッシュできました。

また宣教体験も行うことができました。香港で行われていた時は覚えたての広東語を使って道行く人にチラシを渡す体験をしていましたが、今回はハレルヤ教会のご厚意によりハレルヤ教会周辺のポスティングを行うことができました。しかしながら南アルプス市の夏は大変暑く20分も屋外にいたら熱中症になってしまうほどで、とても長時間のビラ配布ができるような環境ではありません。中には「自分達は沖縄よりも南にある香港の過酷な暑さの中でもやってきたから大丈夫だ」と自信たっぷりに言っていた者もいましたが、20分も経たずして香港よりも南アルプス市の暑さの方が厳しいことを身をもって知ったのでした。時間的にそれほど多くの枚数を配れたわけではありませんが、わずか20分の配布のために谷井涙賀先生が道案内をはじめ様々な準備をして下さり大変感謝しています。

集会のみであるならオンライン参加でも十分、恵みに与かれますが、ハイキングなどのレクリエーションの交わりや宣教体験といった活動はオンラインでは味わえないキャンプならではの素晴らしい体験です。こうしてコロナ騒動下にありながらも主の憐れみによって、このような貴重な集まりが持て、また一人も感染者がでずに最後まで守られたことを心より主に感謝しています。これからもますます青少年の宣教の炎が熱く燃やされていきますよう祈りに覚えていただけると幸いです。

感謝と祈祷

ハワイ派遣宣教師 上久保 崇

上久保先生

● 近況報告 ●

ハワイでは、8月中旬よりコロナウィルス感染者が増えた(陽性反応者が8%を超えた)ために、8月27日より二回目の都市閉鎖となりました(今回は延長の可能性のある二週間の予定。3月の一回目は約二か月でした)。経済的には観光関係が最も大きな影響を受けています。現地のニュースによれば、7月の旅行者は昨年と比べて98%減ったという事です。学校も新学期が始まっていますが、対面式とオンラインなどの規定の変更が続いています。

そのような中ですが、今回は教会の閉鎖は除外されているので、決められたルール(マスク着用、距離をあける、歌わないなど)に従って、礼拝や祈り会などは持たれています。礼拝と日曜学校には、これまで忠実に出席していたみんなが戻って来ています。9月6日には教会の20周年記念礼拝(記念式典は無期延期)をおささげ出来ました。現在は礼拝を二つに分けていますが、当日は祈りと備えをして一堂に会して主の御名をほめたたえました。最近集い始めた婦人や再来会者の出席もありました。礼拝の最後には、これまでの恵みの感謝とこれからの宣教の拡大をみんなで祈る時を持ちました。この状況の中で「今できる最善を主におささげする」を祈っています。(1コリント15:58)。

● 祈りの課題 ●

① 秋から年末に向けての様々な伝道の計画のために
10月の夜の子供会の導き、11月の宣教大会の準備、感謝祭礼拝(11月末)とクリスマスの伝道の機会を用いることが出来るように
② 2020年20周年を迎えて
さらなる祝福に(25年、30年…)向かうための成長と一致核となる教会員が加えられること、新なる伝道を始めるために協力伝道師の招聘の導き

 

インドネシア派遣宣教師 田村 成幸

田村先生

● 近況報告 ●

ビザの為にお祈り下さり感謝致します。コロナの影響で諸官庁が軒並み閉鎖状態になり手続きが全く進んでいませんでした。既に5月末の期日からオーバーステイの状態が続き、政府の許容期間も迫る中で国外退去になる10日前に無事に更新に至りました。神様のお働きと恵みゆえです。また、今回から1年の短期ビザから5年の長期ビザに変更になりました。これまで以上に時間的な助けになります。

礼拝は、3月からずっとウエブ礼拝を続けておりいつ集合して礼拝が持てるか分からない状態です。スラバヤは、インドネシア国内でも感染が酷く、ブラックゾーンになって長いのですが、先日、やっとオレンジゾーンになったと聞きました。しかし、感染者は増加の一途で予断を許しません。

お祈り頂いています家内の状況ですが、これまで3ヶ月おきの定期健診だったのですが、これが今後は4ケ月おきで良いとの事で完治へ向けて導かれています。お祈りとご支援に感謝致します。

● 祈りの課題 ●

① インドネシア宣教の祝福と拡大
② スラバヤ南バプテスト教会の組織独立
③ クランジ・バプテスト教会の祝福
④ ネンゴラン師、タンブーナン師の為
⑤ 田村家族の守りと親兄弟の救いの為
⑥ 経済的祝福と守りの為
⑦ スラバヤ後の働きが具体的に示されるように

 

インドネシア派遣宣教師 広瀬 憲夫

広瀬先生

● 近況報告 ●

スタバッ伝道所は4月から集会はほとんど教会員のみで行っていたが、8月(学校の新年度開始は7月)から、近隣の人たちの参加が出始めている。子供会も、教会員家庭の子供以外に、5、6人が復帰、また新来者も与えられている。

礼拝の他、各集会もライブ配信を行うようになった。それぞれ、100-200人の閲覧者があり、集会への問い合わせも来ている。

ビンジェイ教会、スタバッ伝道所の中学生以上の青年が、証しの動画を作成して、YouTubeにアップし始めた。救いの証しを一人一人が録画した第一弾が終わり、現在、信仰箇条に沿ったポイントごとの信仰の証し動画を作成中。

これらの動画を見てコンタクトをとってきてくれた華僑の青年宅への訪問、礼拝出席が継続している。福音にこれまで全く触れたことのない家庭・親戚宅に、今後、続けて訪問していきたいと願っている。

メダン北部伝道も、 SNSを通じてのメッセージ送信だけだったが、 月一度の訪問を再開。その中で、子供の集い、青年の集いも行い、そこにビンジェイ・スタバッの青年二人が参加、救いの証しをしてもらった。大人の説明よりも真剣に聞き入ってくれていた。

● 祈りの課題 ●

① 青年たちの信仰の成長、福音宣教の働き人として整えられていくように
② メディアを通した「証し」作成を通じても、教会の伝道力が向上するように
③ メダン北部伝道が教会形成に向けて進展できるように

主なる神様からの問い

インドネシア派遣宣教師 田村 成幸

田村先生

「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」 ローマ書8章18節

私達は、今世界中で何故こんな事が起きているのかと、誰かに問いたいと思っているかも知れません。世界の状況は非常事態で大変な事になっています。しかし、聖書や世界の歴史から見てもこれらの事は度々起きており、大変な事ではありますが特別な事ではありません。そして、実は、この様な中で、主なる神様が我々に問うておられる事があるのではないかと示されています。

全てのクリスチャンの「礼拝」に関する問い

まずは、全てのクリスチャンに対する「礼拝」に関する問いです。その事が大切なものなのかどうか、失って初めて分かると言われています。今まさに、これまであった礼拝の機会が失われており、いつ通常通りに戻れるのかどうか見通しが立ちません。これまで普通に礼拝出来る事がいかに大きな祝福であり恵みであったか、と言う事です。

多くの教会がどうやって礼拝するのか、どの場所でどういった形式でするのか頭を痛めています。これは、日本でもインドネシアでも同じ様な問題です。感謝な事は、使徒の時代では会堂のある場所に行かなければ礼拝出来ませんでしたが、今ではウエブサイトでメッセージを聞く事も出来ますし、ネット上で複数の方との交わりも可能になっています。

礼拝の形式も勿論大事なのですが、より大事な事は「礼拝そのもの」ではないか、と言う事です。
今まで当たり前のように行われて来た礼拝が、主の前に正しかったのか、主に喜ばれるものだったのか、主の御前で最上の事としてささげられて来たのか、礼拝よりも奉仕が優先されていないか、と言う問いです。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23-24)

何度もお聞きになっている通り、礼拝は、ささげる行為であって受ける行為ではありません。自分が教会に来るのは、神様から祝福され恵まれる為(受動的)なのか或いは、神様へ自分自身をささげる為(能動的)なのか、ベクトルが全く違う事にお気付きでしょうか。前者は、まことの礼拝がささげられた結果であって目的ではありません。そして、自分をささげる事が礼拝であり目的であるなら霊とまことによってささげられているか、と言う事も問われています。

そこには献身の思いも大事です。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

主が、私達の救いの為にご自身の命をおささげになったのですから、同様に私達も自分をささげる事こそがまことの礼拝である、と言う事です。

更に、イエス様の身代わりの十字架と復活によって救われた、と言う事実がより鮮明に覚えられるならば、時が良くても悪くても喜んで礼拝をおささげする事が出来るのではないでしょうか。これら全てを考えた時、果たして今までの自分の礼拝がどうだったのか自然と見えてくるのではないか、また今後どう臨めば良いのかも分かるのではないかと言う事です。

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか‐‐あなたがたがそれに不適格であれば別です。」(2コリント13:5)

全人類の「命」に関する問い

次に挙げられるのが、全世界の人々の「命」に関する問いです。今、全世界は非常事態で大変な状況です。多くの方が病に陥り亡くなっています。その様な中で考えさせられるのが「命」に関してです。我々が生きている時代に於いてこれ程までの危機はありませんでした。まさしく「命」の危機です。現在、医療機関、医療従事者の方々は不眠不休で働きを続けていますが、それが無ければ甚大な被害に至ります。命の為の素晴らしいお働きで心から感謝申し上げます。しかし、霊的な命の危機は、世界がどの様な状況下にあっても毎日多くの方が失われている状態で火急の時です。

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:26)

ですから、死によってもたらされる事は霊的に命が失われている事を覚えて下さい。救い主イエス・キリストを個人的な救い主として信じていない人は、それが例え全世界を手に入れたとしても永遠の滅びであり、天国への道は、イエス・キリストのみです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

この「命」の危機にあって、如何に魂に向き合うかが課題だと思いますが、現実は、思う様な状況になっていません。3密を避けよ、ソーシャル・ディスタンスを守れ、多くの人と集まるな等と、むしろ機会が減っており難しくなっています。また過去もそうであったように、未来に関しても、困難な時代に人々は主の元に来ないと言われており、却って主に反発するとあります。その様な苦難の中でも我々は全世界の為に祈る必要があります。祈らなければ事は始まらず、祈り無くして祝福も成功も勝利もありません。よって、外への行動が制限されているなら、今はより一層祈るべき時なのではないかと言う事です。祈りを積み重ねる事により、時が来れば多くの実を結ぶ事になり、また祈りと共に御言葉により自身の信仰と霊的成長にもつながります。そして、時が良くても悪くても感謝して主にお仕えする事が出来ます。教会に於ける二本柱は「礼拝」と「宣教」です。霊的にも世的にも困難な時代の中で、これらの事がより一層我々の肩にかかっています。

結論

故に、我々は、御言葉により信仰に立つ。御言葉により悔い改める。これらは全てのクリスチャンが出来る事です。そして、御言葉により自分の罪を悔い改め、主イエスキリストを救い主として信じて救われる事は、全世界の人々が出来る事です。これらの事を主は望んでおられるので、主の御心と御旨に沿った歩みをしたいものだと思うのではないでしょうか。皆様の上に、神様の豊かな祝福がありますようにお祈り申し上げます。

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編集後記

編集担当 谷井 涙賀

BC(ビフォアコロナ:コロナ前)とAC(アフターコロナ:コロナ後)という言葉を最近よく耳にします。BCとACでは、世の中が大きく変化していくことでしょう。海外宣教委員会でも、コロナの影響で以前から懸案事項であったオンライン会議をスタートしました。移動時間がなく、経費も削減でき、大変良い変化だと実感しています。さて、そのような中ACでも変わらないスピリットをお持ちの方が私たちの群れにはいます。それは紛れもなく群れの初代宣教師、ラバン・ラージャス師です。師は、1950年5月5日、エバレン夫人と共に戦後の日本に主の救いを携えて来てくださいました。祖国アメリカを離れて、どんなにか大きな変化を経験されたことでしょう。今年で来日70年。93才になられる今でも日本人を心から愛し、大きなヴィジョンを語り、力強くみことばを語るスピリットは70年前も今も同じです。先日、御代田でお会いした時は、コロナの影響でいつもの力強いハグは御預けとなりました。私も先生のスピリットに倣いACの時代を生きる者でありたいです。最後にこの場をお借りして、「ラージャス先生はじめ宣教師の先生方、日本に来て下さり本当にありがとうございます。」と主にあって感謝申し上げます。

ラージャス先生

ラージャス先生

ラージャス先生

ラージャス先生、エバレン先生

「デピュテーション」って?

海外宣教委員長 マイケル・バーゲット

「デピュテーション」とは一般的に聞きなれない言葉ですが、どういう意味でしょうか。海外宣教委員会発行の宣教ハンドプックには次のようにあります。「デピュテーションとは宣教師が自分の召命と宣教地への重荷を示すため、母国の諸教会を廻って歩く旅行に関する表現である。」さらに「その目的は宣教地での働きのため、神の民の祈りと経済的援助を求める事にある。成功する時、宣教師の召命の実現のみならず、地方教会もまた大命令を実行する事が可能になり、その結果、地方教会の働きに対する神の祝福が与えられる。」と記されています。

この言葉は英語の deputation から来ています。また、それは deputize(代理に任命する)から来ています。すなわち、デピュテーションとは派遣教会はもちろん、サポートする諸教会も宣教師を自分たちの代理として宣教地に任命される事から使われるようになったようです。

そのような訳で、デピュテーション中の宣教師は宣教地に遣わされる前に金銭的なサポートと祈りのサポートを募ります。金銭的サポートは重要ですが、祈りのサポートもそれ以上に重要です。宣教師が地方教会を訪問し、サポートをお願いし、主の与えてくださった重荷についてアッピールします。このアッピールは経済的援助よりも、重荷を共有する事を第一の目的としています。地方教会も宣教師の重荷を共有し、心からサポートできるようになる事が目的です。また、しばしばこの重荷を共有することを通して新たな働き人も起こされるのです。

デピュテーション中の宣教師には保障された給料はなく、交通費も自己負担です。ぜひ、そのことを考慮して、お迎えくださると幸いです。また、可能であれば、宣教地に出かける前からサポート開始をしてくださるようお願いします。というのは、日本もそうですが、宣教師ビザ審査の一つには収入源の保証が必要であり、ある程度のサポートを証明できないと、宣教師ビザの申し込みもできないからです。

私たち夫婦も今から36年前にデピュテーションで多くの米国の教会を訪問しました。困難もありましたが、それをはるかにまさる素晴らしい多くの祝福に恵まれました。何よりも覚えた事は主の備えです。派遣教会も小さく、人間的には何の保証もなかったものの、金銭的には一度も困った事がありませんでした。主は訪問先の先生はじめ、兄弟姉妹を通して絶えず必要を豊かに満たしてくださったのです。日本宣教の重荷に押し出された未熟な私たちにとって貴重な体験となり、その後の日本での働きにおいても大きな励ましともなりました。

新しく遣わされようとしている鈴木しのぶ先生の証もぜひお読みください。先生のデピュテーションがまもなく始まりますので、それが守られ、恵まれるよう、お祈りください。鈴木先生が少しでも早く台湾また東アジアに派遣されるよう、祈りつつお迎えくださると幸いです。

鈴木しのぶ宣教師の諮問会の参加者

1月20日・鈴木しのぶ先生の諮問会の参加者

関西合同宣教集会より

吉田宣教師ご夫妻をお迎えしての恵み

亀岡BBC牧師夫人 西牟田 栄

西牟田栄先生

香港から先生ご夫妻をお招きする過程において

昨年関西牧師伝道者会で2020年1月に宣教集会を行うと決まりました。亀岡教会が窓口となりました。私たち夫婦は、香港におられる吉田先生ご夫妻にメールや電話をして関西合同宣教集会や関西諸教会訪問についての詳細やプランについて連絡をさせていただきました。

宣教師ご夫妻と直接何度も連絡する機会が与えられたことは恵みでした。宣教クォータリーやレポートに記載されていることをリアルタイムでお聞きすることができたのです。吉田先生は「私の入院中、同室の坂井さんが救われました!祈ってください」淳子先生は「病気も完全にいやされました。わたしも一緒に行きます!」と連絡して下さいました。

淳子先生とは約20年ぶりの再会となり、ご夫妻の来教と交わりを嬉しく思いました。先生ご夫妻が関西合同宣教集会と諸教会訪問をされるにあたり、私たちが窓口となり、宣教師と連絡し合えることはめったにない恵みで「私にできる宣教」でした。

先生ご夫妻の宿泊地として亀岡教会が用いられて

先生ご夫妻は約18日間関西に滞在し、その間、約10日間は亀岡教会に滞在して諸教会へ移動されました。

吉田先生ご夫妻の滞在中、先生達と食卓の交わりの中で、神学校時代を共に過ごした時の様々な記憶がよみがえり、又お互いの子供たちが牧師・宣教師家庭だからこそ経験した恵みや悩みも共有しました。又、神学校に献身者が起こされ海外宣教師が起こされることを共に願いました。

亀岡教会の三階(和室、トイレ、浴室等)は、現在、講師、宣教師の先生方に自由に気兼ねなく滞在していただいています。教会の皆さんは三階が来教される先生方の滞在の場として用いられたらと願っています。これは「亀岡教会ができる宣教」です。

亀岡教会での宣教集会で得たこと

「涙をもって種をまく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出ていく者は、束を携え、喜びの手をあげて・・」詩篇126篇5-6節

吉田先生はこのみ言葉を通して、日本伝道・福音のための種まきは種まきの前に土をたがやかさなければならない。種まきの前にたくさんの働きがあり大変です。しかしその働きをしなければ人は救われない。

パウロも中国への宣教師も神様に従うのをやめないで涙を流しながら出て行って喜びの声をあげることができたのです。私たちも少し先しか見えないでどうしてこんな結果になるのだろうと思うことがあります。神様の御心が分かるのに一年、あるいは十年以上かかることも教えて下さいました。

吉田先生のメッセージは教会形成や伝道の働きにおいて慰めをいただきました。「遣わされている所で(イザヤ6章8節)忠実に主の業に励むこと」これが「わたしのできる宣教と伝道」と教えられました。

私と教会ができる宣教

吉田先生は関西合同宣教集会(高槻聖書バプテスト教会安満会堂)でメッセージをして下さいました。私は、私も含めて亀岡教会が宣教師のために祈り献げることができるようにと、チャレンジをいただき淳子先生と共にお祈りをさせていただきました。

私たちの教会は各信徒が献金する宣教約束献金のみで宣教師、神学校、委員会に支援していますが、今年度わずかですがアップすることができました。亀岡教会と私も小さな働きですが、宣教の働きのために祈りささげる業に加わりたいと願います。

最後に、昨年11月より婦人会のみですが、出席を続けて下さっている婦人がおられます。淳子先生は1月の婦人会メッセージの後、その方と交わってくださり、その婦人の土を柔らかくして下さり、翌週救いを受けることができました。現在はコロナ感染予防の為にしている、婦人のライングループ通話での学びに参加し喜んで学んでおられることを主に感謝します。

関西合同宣教集会

関西合同宣教集会の様子

 

主の与えられた大いなる祝福

高槻BBC伝道師  株本 和英

株本和英先生
敬愛なる、諸教会の先生方はじめ、兄姉の皆さまいつも関西諸教会のためにお祈りに覚えて下さり感謝いたします。また、このように証の場を与えてくださいました主をほめたたえます。

さて、1月13日、高槻聖書バプテスト教会の安満会堂において、吉田宣教師ご夫妻をお招きし、宣教報告、証、賛美、「わたしができる宣教」というテーマで、吉田正治師にメッセージを取り次いでいただきました。午前の部では、ヨハネ12章20~26節より。「両足で走る」といタイトルで、午後の部では、申命記15章5~6節より、「この世に課している」というタイトルでメッセージがなされました。

国内外問わず、「宣教」は、教会が正しい歩みをし、成長するために欠かすことのできないものであること。また、教会にとって、「出すこと」聖書的にだすことで祝福となり、「与えること」主の栄光のために手放すことが、クリスチャンの祝福の基本であると宣教を熱く語ってくださいました。

宣教は、一人でできるものではありません。宣教に遣わされる者がいて、宣教の働きを支える教会、兄姉たちの犠牲、祈りがあり、はじめて宣教の働きが成り立つものだと思います。今回の、吉田先生のメッセージを通して宣教の大切さ、必要性を再認識いたしました。

教会によっては、宣教のほかに取り組まなければならない、さまざまな課題があります。老齢化、後継者問題、新たな計画などすべきことが山のようにあると思います。また、教会の大、小に関わらず、教会が宣教に力を入れるということは、大きな犠牲、労力、時間を費やします。しかし、イエス・キリストは、弟子たちに言われました。「そして彼らに言われた、全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」(マルコ16章15節・口語訳)。これは、大宣教命令です。

わたしたちは、主の僕です。僕は主人の命令に従います。但し、主の命令は、ただの命令ではなく、約束が伴っている命令だということをわたしたちは覚えなければならないのではないでしょうか。(ヨハネ12章26節)

今回の宣教集会は、関西諸教会にとって初の試み(わたしの記憶では)だったと思われます。どのようになるのかさえ、わかりませんでした。しかし、主はメッセージを通し、大いなる祝福、宣教の大切さ、主の命令には、約束が伴っているということを教えてくださいました。

最後になりましたが、イザヤ6章8節を引用し、宣教集会の証を閉じさせていただきます。

「わたしはまた主の言われる声を聞いた、『わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか』。その時わたしは言った、『ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください』。」(イザヤ6章8節・口語訳)

 

関西合同宣教集会

関西合同宣教集会参加者

主の与えてくださった重荷

台湾/派遣宣教師 鈴木 しのぶ

私は救われて、仕事をしながら中高の教員免許を取得しました。学校の教員になれば、多くの子どもたちの名前を知り、子ども達の救いを祈れると考えたからです。「子ども達にイエス様のことを伝えたい」と願ったのは、17歳で初めて福音を聞いて感動したからです。高校時代アメリカに11か月留学し、田舎の素朴なクリスチャンの夫婦に愛してもらい、身をもってキリストの愛を味わいました。神様が私にしてくださったこの素晴らしいことに、時が経つほど感謝しています。

私が「宣教」「伝道」について初めて聞いたのは、2007年9月に滝山BBCで行われたJBBFの宣教大会でのことです。「子ども達にイエス様のことを伝えたい」という願いは、「宣教」というもので、私には宣教の重荷が与えられていると合点しました。この集会で神様の招きに私は応え、前に出て祈りました。

その後、私は教員としてキリスト教系の私立中高一貫校に3年間勤めました。2014年8月から神学校で学びと訓練をいただき、卒業論文を通して与えられた召しに向き合いました。神学校を卒業した後、2017年11月に吉田正治宣教師ご夫妻を通して香港とY市の教会に連れて行っていただきました。そこで信仰を働かせるクリスチャン達には格別な喜びがあるのを見ました。これを機に、主は私に東アジア宣教の重荷をくださいました。

2018年4月から3か月間、米国フロリダ州にある私の牧師スミス先生の母教会で訓練をいただきました。私は、日曜学校で主に仕えるための知識や技術を求めましたが、むしろ神様と人への愛、子ども伝道の情熱をいただいて戻りました。また、働き手が足りないのは日本や東アジアだけではない、アメリカでもそうなのだということに衝撃を受けました。世界中どこでも、いつの時代も「収穫は多いが、働き手が少ない(マタ9:37)」のだという現実が胸に刺さりました。

2019年の4月から約2か月間、再び香港を訪ね、吉田宣教師ご夫妻にご指導いただきました。香港は正に東アジア宣教のハブでした。大陸に聖書を運ぶ人や、大陸で聖書の学びを導いている人たちに出会い、多くの教会が大陸の教会や宣教師をサポートしている姿を目撃しました。ある地域が閉ざされると香港に一時滞在し、その間、開けた地域を探して次はそちらに行く姿を見ました。東アジア宣教は表立って目には見えませんが、確実にうねりをもってしたたかに行われていました。また台湾の高雄にも1週間滞在し、吉田宣教師の台湾時代からのお知り合いの先生方とお会いしました。公立の幼稚園や小学校、特別支援の幼稚園を訪問して福音を伝えるのに同行しました。また一緒に高齢者施設を訪問し、台湾語話者や日本語話者の方々と私も交わり、賛美や証をする働きに加えていただきました。私と東アジアを結ぶものはないように見えましたが、確信を求めて祈ると、主は「主がお入用なのです」(ルカ19:31)というおことばで答えてくださいました。

2019年9月に若葉聖書バプテスト教会は、東アジア宣教の第一歩として台湾に私を宣教師として遣わすことを決議しました。まず台湾の地方教会で主にお仕えしながら北京語を学び、大陸の人々に福音をお伝えする道を探り、機会をとらえたいと願っています。私は何も特別なことはできず、何も成し遂げたこともありません。しかし神である主が人の救いのためにすべてを成し、JBBFの先生方が私をも愛し、その真実を私にも語ってくださいました。こんな私をも入用と言ってくださる主にお従いし、またお交わりをいただいているJBBFの諸教会の先生方や兄姉と共にこの道を進みたいと願っています。

鈴木しのぶ先生の台湾訪問

2019年の台湾訪問

 

感謝と祈祷

インドネシア派遣宣教師 広瀬 憲夫

広瀬先生

● 近況報告 ●

COVID-19肺炎の影響で2月に予定していた華僑社会向け中国語レッスン奉仕が中止、3月25日予定だった休日の福音学校も延期となりました。
1月から3月まで、福音学校で分級奉仕担当の青年たちが準備を重ねてきていました。彼らの成長を期待しています。すべての学校の休校措置が、すでに何度も延長措置となっていて、現在5月29日まで休校が決まっています。インドネシアの新学期は7月から始まります。ビンジェイ学園(幼稚園・小学校)も、3月中旬から休校措置です。貧しい家庭が多く、ネット授業が不可能なため、週に2度、教師たちが家庭訪問をして指導を続けています。
メダン北部伝道は、訪問もできない状態が続いています。携帯電話でのメッセージのやり取りをほぼ毎日行っています。

● 祈りの課題 ●

① 集会、訪問活動が制限される中で、教会が霊性を整えられるためのネットワークづくりに知恵が与えられるように
② 行政からの支援は期待できない中で、 教会員の生活が、健康面、経済面で、支えられるように。牧師・伝道者家庭が守られるように
③ ビンジェイ学園教師たちの健康が守られ、授業指導・子供の霊性指導が制約ある中で十分になされるように

 

ハワイ派遣宣教師 上久保 崇

上久保先生

● 近況報告 ●

ハワイでの新型コロナウィルスによる伝道への影響を報告させていただきます。(4月28日現在)ハワイ政府より、3月23日より自宅待機命令(これには、教会で集まることの禁止が含まれています。集まることは違法になります)が発令されたことにより、礼拝とすべての集会、訪問もストップとなっています。その中で日曜礼拝はオンラインによる「ライブ礼拝」を中心としてインターネットの環境のない方々には電話での音声配信と事前に礼拝メッセージとプログラムを郵送することで「異なる場所ですが、同じ時間に礼拝をおささげすること」を励ましています。その後、5月末までこの命令が延長されたためにオンラインでの祈り会やバイブルスタディーが始まります。この法律が発表されて執行されたのが翌日の夕方でしたので、それまでにいくつかの家庭(主にオンラインの環境のない方々)を訪問して共に祈る時を持ちました。
生活面においては、散歩や買物などの外出はできます。物流は止まっていませんので、ほぼ今まで通りに購入できます。観光業や飲食業、サービス業などは営業の縮小や休業、中には閉店するほどの影響を受けています。公立学校は3月中旬から5月の終業まで休校になりました。
この命令が長期化することでさらに混乱や困難、不安になる人が増えてくることと思います。人々にイエス様に在る平安と希望を証しする機会を祈っています。

● 祈りの課題 ●

① 今の状況の中での牧会と伝道の導き
② 自宅待機命令が解除されて礼拝が再開できるように

 

インドネシア派遣宣教師 入江 一義

入江先生

● 近況報告 ●

早速ながら、インドネシアに来てから約45年に成りますが、最近はこの国も私自身も、今迄に無かった体験の連続です。
昨年11月上旬には、文字通り「九死に一生を得る」自動車事故で全身打撲の複雑骨折でした。目には見えない後遺症ですが、入江流の自宅療養で、今日まで集会奉仕等継続されています。事故後の健忘症がひどい中で、12月のクリスマス・プログラムだけは精一杯奉仕できました。
マレーシアに続いてインドネシアにも戒厳令が敷かれた時は、家に閉じこもる日が続きましたが、最近は外出も出来るし、宣教師館で集会を続けています。今回は、近所の理解もあり、敷地も家も広く、数本のマホガニーの大樹や大きく成った庭木、土が見えない程に芝生の絨毯が敷き詰められて酸素を供給しています。教会での礼拝が許される迄宣教師館で集会は続けます。
4月12日イースターにアルド・サラギ兄(中二)のバプテスマ式が出来ました。アルド兄は、教会での集会が禁止される前に、「信仰告白し、新生の証としてバプテスマを受けたい」と礼拝で証言していましたが、事故後の私の体調が思わしくなく、伸ばしていたのです。
私自身は、老齢化に加えて、大事故の後遺症を抱えつつ、必要凡てを備えられて、この混乱の時勢を乗り切っています。

● 祈りの課題 ●

① 事故後の後遺症からの回復と働きの守り
② ケサワン教会の牧会者
③ 日本人伝道者とインドネシア人伝道者の必要

 

インドネシア派遣宣教師 田村 成幸

田村先生

● 近況報告 ●

家内の事でお祈り下さり感謝致します。その後、数ヶ月に1回の検査以外は通院せず手術前の生活に戻っています。見た目には大病をしたとは思えない感じです。しかし、やはり疲れやすく、部分的なリンパ切除の影響もありますので足の状態等を注意しながら生活しております。引き続き健康の為にお祈り頂けましたら感謝です。
インドネシアも感染者が出てから爆発的に広がり喫煙率の高さからか死亡率も高い状態です。スラバヤ市内もかなりの箇所で封鎖されており往来に不自由さを感じます。中国寄りの大統領が日本をスケープゴート化して、コロナ感染を日本の所為にした為にジャカルタでは邦人への嫌がらせもある様です。
スラバヤ南バプテスト教会でも、政府から教会等の宗教施設でも多くの人が集まる事を禁止されましたので、共に集う事を一時中断してウエブでのメッセージ配信を続けています。3月末に予定していたバプテスマ式も無期限延期になりました。刑務所訪問も一時中断です。早期の収束を祈るばかりです。

● 祈りの課題 ●

① インドネシア宣教の拡大と祝福
② スラバヤ南バプテスト教会の今年中の組織独立
④ クランジバプテスト教会の祝福
⑤ ネンゴラン師、フランキー・タンブーナン師の為
⑥ 長く教会を離れている兄姉のリバイバル
⑦ 救われていない親兄弟の救いの為
⑨ 家内の健康と田村家族の守りの為
⑩ 新しい働き場が示されるように

 

香港/東アジア派遣宣教師 吉田 正治

吉田先生

● 近況報告 ●

3月29日の礼拝から1ヶ月、香港政府の発令で4人以上の集会を禁じられているので、YouTubeを用いて、オンライン礼拝、水曜日もオンライン祈祷会としています。ただ教会は閉じておらず、日曜日に教会に来る人は拒まず、という形です。4月19日までで、それ以降は通常の礼拝、日曜学校、水曜日の祈祷会に戻します。

● 祈りの課題 ●

① 3月に召された坂井兄の元奥様アキさんの救い
② コーナーストーン教会に、広い会堂が与えられるように
③ 香港のデモと、新型肺炎の影響で、半年間訪問できていない中国の家の教会での働きが再開できるように
④ 日本にいる吉田の母吉田俔子(ちかこ)、家内の父新井匡夫(まさお)、ほか家族の救い
⑤ 主から離れ気味の吉田基生の信仰がリバイバルされるように

コロナ感染中でも圧倒的な勝利者

海外宣教委員長 バーゲット・マイケル

バーゲット先生

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」ローマ8章37節

諸教会の世界宣教への尊い献金と熱い祈りを心から感謝いたします。

聖書によると主を信じる私たちは、圧倒的な勝利者です。でも、それはこのようなコロナパンデミックの中あってもそうなのでしょうか。冒頭の聖句を中心にそのことについて考えてみましょう。

まず、この箇所の「これらすべてのことの中にあっても」は何を指しているのでしょうか。それは、その先に記されている御言葉です。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。」(ローマ 8:35-36)。コロナパンデミックはまさにこの「困難、苦しみ」と言えるのではないでしょうか。だとすれば、この御言葉により主を信じる私たちには圧倒的な勝利が保証されているのです。

では、この勝利とは何を指しているのでしょうか。例えば、クリスチャンはコロナに感染しないとでも約束しているのでしょうか。もちろんそれは違います。主を信じる私たちは、この世において様々な困難に会います。主ご自身もそうであったように、私たちも主の御足跡に従うなら同じ体験をします。コロナ感染もそのような事例の一つにすぎません。

それでは、この勝利は何を意味するのでしょうか。同じ章の12節前にその答えが記されているように思います。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ 8:29)。私たちは神のお取り扱いにより、キリストの御姿に変えられるという神の素晴らしい御計画があります。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ8:30)とあるように、このことは神の定めと召しから始まり、さらには義認(神の御前に義と認めれる)と、聖化(私たちが聖められ、キリストの姿に歩み寄る)へと進み、最終的に栄化(私たちがやがてキリストと同じようになる)に終わるのです。

主はこのコロナという困難をも用いてくださり、私たちをキリストに似る者へと変えようとしておられるのです。だからこそ、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)と記されているのです。この「益」とは平凡な問題のない生活を意味するのでしょうか。一般的にはそのように考えるかもしれませんが、違います。この「益」とは、キリストに似ることを意味しており、私たちの聖化と最終的な栄化を指しているのです。神が主を信じる一人一人をキリストの御姿に変えられていくのが天の御父の願いです。それが神の御計画であり、御約束でもあります。ですから、やがて主を信じる私たちすべてが必ずキリストに似る者とされるのです。

この御約束を聞くとどのように感じるでしょうか。「私がキリストに似る?いや、それは無理!あり得ない!」そう感じるかもしれません。しかし、そのような神のご計画を保証するのは私たちの努力ではないのです。このご計画を完成させ、保証されるのは神ご自身です。

「無理!」と感じる私たちのために主は次の御言葉を用意してくださいました。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ 8:31-32)。神が私たち信者の味方なのです。その証拠に「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」事実があるのです。十字架上のイエス様の死がこの約束の保証です。最愛のひとり子を私たちの救いのために犠牲にしてくださった程ですから、私たちの救いの御業が未完成な状態のままで投げ出すようなことは決してなさらない。むしろ、その救いを最後まで見届けてくださるのです。あの最終的な栄化(私たちがキリストの御姿に変えられる)まで私たちに恵みを施し、そのことを成し遂げるために働きかけ続けてくださるのです。

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ 8:38-39)とあるように、私たちを神の変わることのない愛から引き離すことのできるものは何一つないのです。コロナパンデミックを含めた何一つです。主にある私たちは圧倒的な勝利者となるのです。

コロナパンデミック以前の世界でも、毎日16万人ほどの人々が亡くなっていたのです。また、その多くが主を知らずに滅びていました。これが世界宣教の現状なのです。

コロナ感染拡大により、世界中の人々が頼りにしていたものが一つ一つ奪われているように思います。経済にしろ、健康にしろ、明日の保証は何一つありませんが、平凡な生活に慣れてしまった者はそのことをついつい忘れてしまいます。結局、神がいなくても問題なく生きていけるように勘違いしてしまうのです。私たちの周りにこのような方々が実に多くおります。主を知らずに滅び行く魂が実に多いのです。

コロナパンデミックで感染者数や死者数を毎日見るようになりました。コロナで亡くなった人々が35万人(5月末現在)とWHOが発表しています。本当に大変な数字であり、悲しい話です。しかし、平年の世界の死者数はなんと5800万人です。そう考えると現段階のコロナ死者数は平年の死者数の52時間分にすぎないのです。言い換えれば、コロナパンデミック以前の世界でも、毎日16万人ほどの人々が亡くなっていたのです。また、その多くが主を知らずに滅びていました。これが世界宣教の現状なのです。コロナ感染の中、不要不急の自粛の呼びかけをよく耳にします。確かに不要不急の自粛は必要だと思います。しかしながら、福音宣教は不要不急の一つではなく、むしろ何よりも必要であり、緊急性の高いものです。

コロナ感染により、私たちの日常生活が様々な面で大きく変わりました。コロナ感染の恐怖に囚われている人も少なくありません。また、その気持ちもわからないわけでもありません。気を付けないと、この恐怖に主を信じる者もすくんでしまいます。しかし、今、世の中が必要とするのは麻痺したクリスチャンではなく、主を仰ぎ見つつ、ひたすら福音宣教に励み続けるクリスチャンなのです。主にあって、私たちは圧倒的な勝利者となれるのですから、コロナパンデミックの中にあっても主に頼りつつ、福音宣教の御業に最善を尽くして励んで行きましょう。

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救霊の愛を受け継いでいく

栢下献先生

札幌聖書バプテスト教会牧師 栢下 献

「すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。』と言って彼の右手を取って立たせた。」 使徒の働き3章6‐7節

冒頭のみことばは、ペテロとヨハネが神殿の「美しの門」の前で、生れつき足の不自由の男と出会った時に語った言葉です。ペテロたちは、主イエスと共に3年半を過ごし、その救霊のわざをすぐ側で見てきました。目の前の一人に目を留め関わるお姿、罪人たちや弱者を見捨てずに助ける主の愛を、幾度となく見て来ました。弱かった彼らですが、主の復活と昇天の後、聖霊に導かれて大胆に伝道を始めました。その時、弟子たちは主イエスと同じ目線をもって宣教を受け継いでいったのです。

失われた魂への関心

ペテロとヨハネたちは「毎日、心を一つにして宮に集まり」(2:46)とありますので、日常的にこの男のそばを通り過ぎていたかもしれません。しかしこの時彼らは、自分たちに施しを求める男を注意深く見つめました。その必要を強く覚えたのです。宣教は、自分の目の前にいる人、助けを求めている人々に関心を持つことから始まります。宣教は、救われて変えられた感謝と主の命令への応答によりますが、次にその思いは、目の前の一人の魂への関心に向かって行きます。羊飼いもなく弱り果てて倒れているような群衆を「主は深くあわれんで」(マタイ9:36)くださいました。ですから主に御手によって立ち上がった私たちも、同じように、身近にいる方々に目を向け、主イエスの御名を語るべきです。倒れていた人が立ち上がって、主を賛美する人生、礼拝する人生に変えられるのを見ることは、何と嬉しいことでしょうか。

私にあるものをあげよう

この時、ペテロたちは「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」と言って、彼の右手をとって立たせました。ペテロとヨハネ自身には、この男の求める金銀や足の問題を解決する力がありませんでしたが、「私にあるものを、あげよう」とイエス・キリストを指し示したのです。私たちには、全ての人の根本的な痛みと悲しみに十分に応える力はありません。命の問題や深い悩みに答える知恵も持っていません。辛い現実を前に励ましの言葉もない時があります。しかし、助けられない自分自身を知りながら、なおもペテロたちのように、キリストこそ人生を変え、生きる力を与えられるお方だと宣言できるのです。この「私にあるものをあげよう」という言葉こそ、教会の宣教の言葉です。またすべてのクリスチャンが共有できる救霊愛の一言、伝えるべき大切な言葉です。

救霊の愛を受け継いでいく

使徒たちのこのような働きと初代教会が始めた福音宣教は、今に至るまで途切れることなくつながり、世界中に広がり続けています。ペテロとヨハネが救霊の思いで差し出した手は、日本でも、全世界の宣教地でも、今も変わらず必要とされています。ですから、救いを頂いた者全てが、日常生活の中でこの愛の行為を受け継いでいくことが大切です。

私が神学生の頃、帰国されていた宣教師の先生に、効果的な伝道方法は何かお聞きしたことがありました。その先生は、『私の国では十分な聖書もなく、伝道の学びもありませんが、信じて救われた方はすぐに、家族、友人、知人にイエス様のことを話し出します。そしてそれが続いて行くのです。』と笑顔で答えてくださいました。それは人の思いを超えた神様のみわざです。しかし宣教師の救霊の愛が、救われた信徒たちに素直に受け継がれているのだと思います。たとえ魅力的な伝道プログラムや時間をかけた準備がされても、そこに救霊の愛がなければ、それは一時の満足だけで終わるのでしょう。

宣教師の思いと一つの地方教会の魂への真剣な祈りと支援があったからこそ、年月を経て、私もまたその思いを受け継ぐことができたのです。

私たちのフェローシップも、福音だけを携えて海を渡られた、数組の宣教師家族の熱い救霊の思いから始まりました。宣教師ご夫妻の日本への思いと犠牲は、主に豊かに用いられ、多くの伝道者が起こされ、今では北海道から九州、沖縄、さらに海外にまで宣教は広がっています。このフェローシップの群れが保たれ、前進してきた一つの理由は、諸教会が主イエスの命じられた宣教を大切に受け継いできたことにあります。

私自身は、牧師家庭に生れ育ち、福音を身近に聞いて信仰が与えられました。しかし、お寺に囲まれた京都で生まれ育った父は、大学生の時に初めて天幕集会で福音に触れました。仏教家庭に育ち仏壇に手を合わせる中で、真の神を知って大きな衝撃を受け、メッセージを聴いてキリストの救いを受け入れました。一人の宣教師の日本人を愛する救霊の叫びが、一人の青年を救いに導いたのです。その後、初期の名古屋教会で伝道奉仕をする中で、牧師と教会全体の救霊の愛に押し出されて伝道者へと導かれました。宣教師の思いと一つの地方教会の魂への真剣な祈りと支援があったからこそ、年月を経て、私もまたその思いを受け継ぐことができたのです。京都、名古屋、千葉を通って宣教のバトンは受けた私は、札幌で福音宣教にたずさわる恵みに与っています。すべて主のなされる御業は不思議です。最初は小さな点から始まったとしても、つながって線になり、やがて面となって発展していくのです。どの時代にあっても、先に救われたキリスト者とその教会が福音を途切れさせず、「わたしにあるものをあげよう」とキリストを証し、救霊を受け継いで行くならば、どんな宣教も点から線、さらに面へと進展しくのだと信じます。

たとえ今、わずかな点しかなく、将来の線や面への展開や道筋が見えない状況でも、ペテロたちのように目の前の一人と向き合い、手を差し出そうと思います。

宣教の実である私たちには、救霊の愛を保ち続け、主のお建てくださった地域教会を、次の世代にしっかりと引き継いで行く責任があります。教会が新しい実を結び、点が線になるよう、次の世代まで福音宣教をつなげていく使命があるのです。

教会に集まる小中学生たちに福音を伝える時に、「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」(エペソ5:16)。の御言葉を覚えます。だからこそ、「主のみこころ」(同17節)を正しく知り、私たちに与えられたどんな小さな機会も、十分生かすよう祈り求めています。今はまだ小中学生の子供たちも、将来、福音を固く握って、救霊の愛を受け継いでいく時が来ることを、私は主に期待して待ち望んでいます。たとえ小さくても、主のための尊い宣教の働きに携わせていただけるのです。すべてのクリスチャンが、目の前にいる誰かの右手をとって立たせる事が出来ます。

さらに、地方教会の足元の宣教を見つめながらも、それだけで終わりにせず、フェローシップ全体が次の世代にどのようにバトンをつないでいくのか、点で終わらせずに展開していくにはどうすればよいのかを、福音を受け継いだ者として、祈って行きたいと思います。

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「…さらに地の果てまで」!

調布聖書バプテスト教会名誉牧師 ラバン・ラージャス

ラージャス先生

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」 使徒1章8節

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)

宣教クォータリーにメッセージを執筆させていただけることは大きな喜びです。世界宣教はバイブル・バプテストの要です。BBFIではDNAとも言います。JBBFの草創期に私は関わらせていただきました。そしてこの70年間の祝福に感謝します。完全数である7の10倍です!お約束通りに、主は私とずっとともに歩んでくださいました!主よ、感謝します!

聖書には多くの偉大な人物、大事件が記されています。しかしイエス・キリストが死に勝利し、墓を征服してよみがえられたという福音ほど素晴らしい出来事はありません。

この出来事が世界中のすべての人に伝えられるべきです。だからこそイエス様は大命令をお与えになったのです。「地の果てにまで、すべての人に伝えよ!」これこそ、天に上げられ、父なる神の右の座に戻るときの主の最後のご命令でした。イエス様は世界中のすべての人に対してご自分のところに来て救われるように心から招いておられるのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」(Ⅰヨハネ2:2)

五旬節にエルサレムに集まっていたユダヤ人たちに、主は聖霊の証印と力を約束されました。その日、3000人が救われ、五旬節以前に建てられた教会に加えられたのです!この超自然的な力は今日の私たちの働きのための力でもあります!父、子、聖霊からなる三位一体のすべてが働かれたのです。

主の弟子たちは皆ユダヤ人で、アブラハムの時代からずっと、自分たちが一番であり神のご計画の中心であることを当然だと考えていました。五旬節の出来事の後もそのような考えを持っていたことでしょう。「天国はユダヤ人だけのものだ」ときっと彼らは考えていたのです。なぜなら、「さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった。」(使徒11:19)によると、彼らは五旬節からずっと後になってもユダヤ人にしかみことばを語っていませんでした。

これは大きな問題でした

主がサウル(後のパウロ)にお現れになり、異邦人に対する使徒とするために彼を立ち上がらせてくださったとき、このユダヤ人たちの間違った考えを正そうと主はすでに働いておられたのです。その後主はペテロに(頑固なリーダ)きよくない物(異邦人を表しているようです)が天から降りて来るという幻を3度見せられました。これらの物は四隅(地の果てを表すようです!)を吊るされた敷布に入れられていました。そして主はペテロに「立ち上がり、屠って食べなさい!」と命じられたのです。神様はペテロの考えを変えてくださり、すぐにペテロは異邦人に対してみことばを語り始めたのです。

次に主は、不思議な方法でペテロと百人隊長コルネリオを出会わせてくださり、その後サウル(パウロと改名しました)にも働いてくださり、異邦人に福音が宣べ伝えられるようにしてくださいました。これら一連の出来事が私たちの霊的なルーツなのです! 4000年もの間続いた内向きな「ユダヤ人のみ」という文化を、神様ははっきりと変えてくださったのです!今日、神が教会に求めておられるのは、外に向かって地の果てまで出て行くことです!これが主の祝福をいただく方法です。

私たちは若い人たちに、主にフルタイムでお仕えすることの素晴らしさとその豊かな報いをよく伝えなければなりません!
私たちも同じ問題を抱えていませんか?

ここ10年の間、教会数は増えていません。多くの教会ではバプテスマ式より、お葬式が多いのです。私たちは後ろ向きに進んでいます!このことに懸念を抱く人はいるでしょうか?なぜもっと多くの人が主の働きのために献身し、神学校に入学しないのでしょうか?

これは深刻な霊的問題であると私は申し上げます。神学校のカリキュラムから宣教学のコースが削減されたと聞いています。ひとこと言わせていただきます。神学校の創始者の一人としてその権利はあると思います。神学校に宣教学のコースを増やし、牧師と宣教師の職務を重視すべきです。パウロはローマ11:13でそうしました。その結果福音は広がり、異邦人すなわち皆さんと私に届いたのです!私たちは若い人たちに、主にフルタイムでお仕えすることの素晴らしさとその豊かな報いをよく伝えなければなりません!

宣教をあるべき形でしっかりと重要視し強調していくことが、祝福の秘訣です!私は70年間の日本での宣教でこのことを体験してきました!主に従ったことに対して1000倍もご褒美をいただいてきました!フルタイムで主にお仕えすることには大きな報いがあります!

カナラップ先生はマタイ9:38を引用し、働き手が起こされるよう毎日午前、午後9時38分に祈りましょうと呼びかけられました。私たちはこれを実行に移すでしょうか?私は働き手が与えられるよう祈るために携帯のアラームを午前と午後9時38分に合わせました。

私に加わってくださいませんか?このメッセージを皆さんへの愛をもって書いています。私たちがこのことに心を砕いていることを神様が見られ、喜んでくださるようにしましょう。主は答えてくださいます!

私は次のことをチャレンジします:

 毎日午前と午後9時38分に働き手が起こされるよう祈りましょう。神様は聞いてくださいます。

 救われていない友人や家族の救いのためにも祈りましょう。

 教会にリバイバルが起こされるよう祈りましょう。

 語る勇気が与えられ、主の証人となることができるよう求めましょう。

 主は聞いておられます!

「だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:38)

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下記のリンクをクリックし、2019年の青少年宣教キャンプの申し込み書をダウンロードしてください。申し込みをお待ちしております。

青少年宣教キャンプ申込書

余ある霊的祝福

滝山聖書バプテスト教会牧師 テイ・エイケン

テイ・エイケン先生

「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」 ピリピ4章17節

第二次伝道旅行の時、神様からのはっきりとしたビジョンに従って、使徒パウロ達は海を渡ってマケドニアへ向かいます。それがヨーロッパ大陸への福音宣教の始まりでした。初めて訪れた地で、経済的にも乏しい中、どのようにして、パウロ達が福音伝道を数十年間続けられたのでしょうか?聖書によれば、それは、初代教会のクリスチャンたちの沢山の祈りと共に、惜しまない物質的なサポートがあったからだとのことでした。その中でピリピ教会は、常にその重荷を担って、パウロ達を支援していた教会でした。「テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。」(ピリピ4:16)。パウロの感謝の気持ちが込められた言葉でした。パウロたちはそれ以後、次々と福音伝道を進められ、ヨーロッパ全土へと広げていきます。「私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。」(ローマ15:19)。

言うまでもなく、昔も、今も、福音宣教を拡大するために、物質的なサポートがとても欠かせない奉仕です。昔よりも、むしろ現代のほうがもっと必要なのかも知れません。なぜなら、近年世界各地で物価が高騰している中、宣教師が現地での働きのコストがさらに高くなっているからです。そのため、宣教師たちは、時にはやむを得ず車を手放したり、子供の教育を犠牲したり、集会の場所をもっと狭いところに引っ越ししたりすることもあるでしょう。しかし、その一方で、サポートする側の日本にある諸教会は、教会自身の厳しい財政の中、海外宣教のために精一杯犠牲を払っている状況です。おそらく、このような状況の中で、教会から海外に宣教師を送り出すことはまず現実的に難しいことでしょう。また仮に、教会の中に海外宣教に重荷がある献身者がいたとしても、経済的なことを配慮して、奉仕の場を日本国内を優先するかもしれません。

このように、世界宣教を拡大する働きは厳しい現状の中にあります。しかし、主イエスの宣教大命令、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」ということは、常に私たちに、力と希望を与えるべきです。ですから、より多くの方々が世界宣教の働きに関わり、その恵みに与るために、献金など物質的な奉仕の霊的な意味を知ることがとても大事です。

そもそも、なぜ、祈りなど霊的な奉仕だけでは十分ではないのでしょうか?「神様は全知全能なるお方ですから、私たちが物のやり取りをしなくても、心を込めて祈れば、神様が奇跡でも起こして、何かをしてくれるのでは。」と、あるいは、「霊的なことは神の力で、物質的な物は人間的な力だ」と思う方もおられるかもしれません。

確かに、御心であれば、神様ご自身の御業で、烏を用いて人を養うことも、五つのパンと二匹の魚を用いて5000人への給食をなさることもできます。しかし、聖書は、人類の歴史の中での神のお働きは、その方法だけではないことが明らかです。もし、霊的なことだけが神様の力の現れであれば、使徒パウロが福音宣教の時に、諸教会の祈りだけで、すべてが満たされたはずです。しかし、現実にはパウロも、「飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(第二コリント11:27)とあります。これは何を意味しているのでしょうか?主の働きは、物質的な奉仕は、霊的な奉仕と同じように重要だということです。神様は、霊的なことも、物質的なことを用いて、御力を現わされるのです。「地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。海は主のもの。陸地も主の御手が造られた。」(詩篇95:4-5)とあるように、天にある霊的な物だけでなく、地上にある物質的な物も神様に造られて神様のものですから、神様がこれらの物を用いられて、ご計画を進められることは当然なことです。ですから、もし、私たちが神様の御心にかなった信仰生活をするのであれば、祈りなど霊的な奉仕と同じように、物質的な奉仕も大事にしなければなりません。

主の働きのために、物質的な支出によって、私たちの霊的な祝福が償わせられて手に余るとのことです。つまり、物質の支出は、私たちの霊的な黒字につながることです。これが神の経済学です。

実は、ピリピ教会の惜しまない贈り物は、そのままピリピ教会にとって、霊的な祝福になるのだと、パウロは言っています。「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」(ピリピ4:17)。この箇所から、神の御手にある霊的な帳簿が見えるのです。神の帳簿の計上方法は私たち普段のやり方とはかなり違います。私たちは家計簿をつけることがあると思いますが、家計簿を通して、家計の状況を分かりやすく把握することができます。支出が多いと余裕がなくなり、支出をうまく抑えれば貯金が増えます。しかし、神の御手にある霊的な帳簿の計上方法はそれと真逆です。主の働きのために、物質的な支出によって、私たちの霊的な祝福が償わせられて手に余るとのことです。つまり、物質の支出は、私たちの霊的な黒字につながることです。これが神の経済学です。つまり、尊い物質的な犠牲は、豊かな霊的祝福をもたらすことになるとのことです。それが私たちの実として霊的な帳簿に計上されるのです。ですから、パウロの喜びは、自分の必要が満たされたことにあったのではなく、ピリピ教会が神様から余りある霊的な祝福を受けることにあったことがわかります。

おそらく、私たちは自分の霊的帳簿に結ぶ実がたくさん計上されることを願っていると思います。そうであれば、私たちは自ら進んで、自分の力に応じて、世界宣教に関わるべきではないでしょうか。思えば、私たち一人一人が世界宣教の恩恵を受けたのです。世界宣教によって霊的なものを頂いたのですから、物質的な奉仕をもって、その収支を償わせる義務があります。本来は、私たちの持ち物はすべて、神様から与えられたものですから、神様の働きのために使うべきです。それは当然のことであるにもかかわらず、神様は私たちに豊かに祝福してくださるのです。これこそ恵みではないでしょうか。

パウロは、ピリピ教会の贈り物を神様への礼拝行為だとして、このように言っています。「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」(ピリピ4:18)。このように、私たちの尊い祈りが神様の御前に届くのと同じように、私たちの世界宣教のための尊いささげものも、香ばしい香りの供え物として、天にある神様の御座にまで届いて、神様が喜んで受け入れられるのです。

神は全ての人の救いを待っておられる

港北ニュータウン聖書バプテスト教会牧師 鹿毛独歩

「すると、再び声があって、彼にこう言った。『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。』」使徒の働き10章15節

聖霊行伝

「使徒の働き」は、初代教会の宣教の歴史です。主イエスの昇天の後、聖霊がこの世界に降られ、全世界への福音宣教の力となられた歴史でもあります。それゆえに「聖霊行伝」とも言われたのです。聖霊なる神は、五旬節(ペンテコステ)の日、それまで恐れおののいていた弟子たちに降られました。その多くはガリラヤの田舎の出身でありました。その日、弟子たちは習ったこともない外国の言葉で、キリストの福音を証しし始めたのです。それは突然の大事件でした。人々はこの不思議な出来事に驚き「いったいこれはどうしたことか」と互いに話し合ったのです。

キリスト教信仰による魂の救いは、人の理性では計り知ることができない大きな驚くべき出来事です。人の心、生活、生き方、価値観さえも変えてしまう出来事だからです。それまで自分中心で常に損得勘定で行動していた人が、キリストを信じた時から、ただ神の愛によって生きることを選択するようになるのです。私たちは、ここに聖霊の豊かな働きを見るのです。しかし、多くの人々は「一時的な感情に酔っているのだ」「洗脳され、騙されているのだ」「それこそ損な生き方ではないか」と批判します。
神は、キリストによって人が最も必要としている「罪の赦し」と「永遠のいのち」の祝福を約束してくださいました。これこそ、神が全人類に与えられた最高の賜物(贈り物)です。しかし、人の心はかたくなで、聖書のみことばを知ろうとも、受け入れようともしません。そして、むなしい偶像に対しては、伝統、習俗として何のためらいもなく膝をかがめるのです。聖霊は、このような様々な文化の中から、キリストの教会をお立てになりました。教会は、キリストの福音を宣べ伝える神の福音の砦です。

教会は、このすばらしいキリストの福音を伝え続ける使命があります。しかし、時々、目の前の働きの忙しさの中で、神の命令と神のみこころを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。それは、神の救いの福音は、全世界の人々に提供されているということ、また、福音宣教の大命令は全世界に出て行くことが求められているということです。

ペテロへの幻は、彼らユダヤ人たちが持っていた古い律法的な価値観を打ち破る神のチャレンジでした。ペテロは幻の中で、これまで律法の中で「きよくない動物、汚れているとされた動物」が敷布に包まれ、天から降りてくるのを見たのです。そして、天から「ペテロ、さあ、ほふって食べなさい。」との声がしました。彼は「主よ。それはできません。私は、まだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」それは旧約聖書の神の定めだったからです。しかし、神は言われました。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」

神のみこころが変わったのでしょうか。神のみこころは決して変わってはいないのです。神はアブラハムに天の星を見上げさせ「あなたの子孫はこのようになる。」と語られました。また、預言者ヨナを敵国ニネベに遣わし、「わたしはこの大きな町ニネベを惜しまないでいられようか、そこには、右も左もわきまえない12万以上の人間と数多くの家畜がいるではないか。」と仰せられたのです。南ユダ王国を滅ぼしたバビロニアにおいてもダニエルを通して、神はご自身の栄光を現されました。神はすべての創造主であり、すべての造られた者を愛し、あわれんでおられるのです。

神の御子イエス・キリストによって神の救いのみわざは完成しました。そして、神は、イスラエルを通して、全世界にキリストの救いを明らかにされたのです。ハドソン・テーラーが中国の奥地に宣教をした時、救われた中国人は彼に尋ねました。「この福音が、イギリスに伝えられてから何年になるのですか。」ハドソン・テーラーは「数百年前になります。」と答えると、彼は言いました。「何ということです。この福音を数百年も前に知っていながら、今やっと伝えに来るなんて。私の父は20年以上も真理を求めていました。そして、見出せずに死にました。ああ、なぜ、もっと早く来て下さらなかったのです。」

国際社会の中で大きな経済力を持つ日本は、世界各地にビジネスマンを送り出し、メイド・イン・ジャパンの製品を世界へと輸出しています。しかし、「どれほど福音のために、人を送り出し、犠牲を払っていますか。」と問われるならば、私たちの手の中には、乏しいささげ物しかないのです。ペテロは、神のおことばを聞きながらも「主よ。それはできません。」と神の命令を拒みました。私たちも、その働きの乏しいことの理由をいくつも挙げることはできるでしょう。「教会がまだ小さいですから」「日本にはまだ救われていない人が多くいますから」「働き人がいませんから」。この幻が三回も繰り返し繰り返し示された時、ペテロは神がこの福音を異邦人にも宣べ伝えることを良しとされていることを知ったのです。

聖霊は、私たちに信仰の気づきを与えてくださいます。キリストの福音の宣教は、神の最大の願いであるということです。神はすべての滅び行く民をあわれみ、全世界への福音宣教の時、恵みの時を今もなお延ばしておられるということです。

考えてみるならば、日本の宣教も、世界宣教の大きなビジョンによって祈られ、遣わされた宣教師たちによって福音の種が撒かれてきたはずです。神は世界宣教の働きの中で、私たちを召し出し、それぞれのところに遣わしておられるのです。それが海外であるか、日本国内であるかという違いがあるだけです。神にとって、その一人の魂の重さは同じです。
救いを求める魂の叫びを聞きながら、共に祈り、まだ福音を知らずに滅びに向かう魂の救いのために仕える者となりましょう。

数年前、台湾に行かせていただいた時、台湾人の牧師夫人が「私の親は日本語世代であり、自分の親でありながら、日本語で福音を伝えることができません。日本から福音の働き人を送ってください。」その叫びは、今も私の心に響いているのです。

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真のフルタイム献身を目指して

岡崎聖書バプテスト教会牧師 疋田 健次

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」ローマ12:1

青年キャンプでの出来事

高校生のころからだったでしょうか。毎年5月に行われる青年フェロシップキャンプに参加するようになりました。キャンプに行くと、同じ世代のクリスチャンに会うことができます。それは私にとって、とても楽しいひと時でした。しかし、そんな楽しいキャンプのなかで、唯一、苦手な時間がありました。メッセージの後の招きの時間です。毎年毎年、講師の先生方は、決まってこのように言われます。「主のためにフルタイム献身の決心をする人はいませんか?」。

「フルタイム献身…」。この言葉は当時の私にとって、とても恐ろしい言葉でした。キャンプに参加する度に、この言葉が私の背中に重くのしかかってくるようでした。なぜなら私は、「牧師には、なりたくない!」と考えていたからです。そのような私が今、牧師として主と教会にお仕えさせていただいていることは、本当に不思議なことです。主のお取り扱いとしか言うことができません。

フルタイム献身への誤解

「フルタイム献身」という言葉は、牧師や宣教師などといった直接的に宣教の働きに携わる仕事に就くこと。あるいは、その道に進むこと…といった意味合いで用いられているかと思います。「フルタイム」という言葉を辞書で引くと、「全時間」「常時」「決まった勤務時間の全時間帯を働くこと」「常勤」と出てきます。ですから、職業(プロフェッショナル)として宣教の働きに携わること=フルタイム献身と呼ぶのは、正しいと言えるでしょう。

しかし、この言葉は、ある面において、誤解を生み出すことがあるのではないかと考えています。いや、私自身がまさに、長い間、誤解していた言葉なのです。
ここにありました。「牧師や宣教師になることがフルタイム献身ならば、それ以外の道に進むことはパートタイム献身なのだろう」。私はそのように考えていたのです。

「日曜日は教会に行って礼拝しているし、献金もしている。トラクト配布をすることもある。でも、他の日まで奉仕をすることはできない。私はフルタイム献身者ではないのだから」。さらに私は、次のように考えるようになっていきました。「伝道は牧師や宣教師がするもの。私の役割はサポートであって、直接的な働きは関係ない。私はフルタイム献身者ではないのだから」。私はフルタイム献身者ではないことを言い訳にして、自分自身を宣教の働きから遠ざけようとしていたのだと思います。しかしある時、この考えが間違っていることに気づかされたのです。

献身は誰に命じられているのか

そもそも聖書は、献身を「フルタイム」「パートタイム」というふうに分けているのでしょうか。あるいは、特別な人たちにだけ献身するよう命じているのでしょうか。ローマ12章1節には、このように書かれています。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」

これはまさに献身について教えている御言葉です。問題は、この御言葉が誰に向けて語られているかです。パウロは「兄弟たち!」と呼びかけています。牧師や監督、長老たちに呼びかけているのではありません。つまりパウロは、すべてのクリスチャンに対して、献身することを勧めているのです。

私自身も便宜上、フルタイム献身という言葉を使うことがあります。また、牧師や宣教師の道に進む人には、ある面において特別な献身が求められているということも事実でしょう。しかし、クリスチャンであるならば、たとえどのような道を歩むにしても、フルタイムの献身者であるべきだと聖書は教えているのではないでしょうか。

Ⅰコリント10章31節には、次のように書かれています。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」

真のフルタイム献身とは、その人が自分自身の人生のすべてをとおして、それこそ「食べること」や「飲むこと」などといった日常生活のほんの小さなことをとおしてさえ、主なる神様のご栄光をあらわしていくことなのだと思います。

全てのクリスチャンは伝道者として立てられている

昨年、発行された宣教クォータリーのなかで、信徒による宣教についてのメッセージが掲載されていました。使徒行伝のなかには、パウロやペテロといった使徒たちの宣教の働きが記されているだけでなく、普通の信徒たちによって町々に福音が宣べ伝えられていったことも記されている。そうした信徒たちの働きが各地の教会の基礎となっていった…と書かれていました。

これは、初代教会の時代だけの特別な出来事だったのでしょうか。現代の教会には当てはまらないのでしょうか。そうではありません。昔も今も、すべてのクリスチャンは、よみがえられたキリストの証し人であり、それぞれの場所において立てられた伝道者なのです。かつての私のような誤解があってはなりません。「伝道は牧師や宣教師だけの特別な働きで、自分とは関係ない」という誤解です。

私たちの人生は一人ひとり異なります。ある人は教師として、ある人は看護士として、ある人は大工として、ある人は営業マンとして、ある人は芸術家として…。他にもさまざまな職業や人生があるでしょう。これからどんな仕事に就こうかと考えている学生たちもいます。そのなかには将来、牧師や宣教師の道に進む人がいるのかもしれません(若い青年の皆さんはぜひ、このことについて真剣に祈ってください)。しかし、たとえどの道に進むにしても、私たちは皆、献身者であり、伝道者であることを覚えたいと思います。

教会の一人ひとりが、それぞれ立てられているところで、真のフルタイム献身者として歩んでいくとき、福音宣教の力はより豊かなものとなっていくのではないでしょうか。宣教とは、トラクトを配ること、訪問伝道や個人伝道をすること、伝道集会を行うことだけではありません。食べること、飲むことさえも、実は宣教につながっているのだと思います。究極的には、私たちの人生そのものが福音宣教のためにあると言えるでしょう。

なぜなら、私たちが救いに召されたのは、神様のご栄光をあらわすために生きる者となるためだからです。このことを覚え、教会全体が一丸となって、福音宣教の働きに与っていくことができれば幸いです。

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I Have No Man

小倉聖書バプテスト教会牧師 ケネス・ボード

「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」ヨハネの福音書5章7節

キリストは、38年もの間病気にかかっている人に会いました。キリストは彼に聞きました。「よくなりたいか。」7節に書いてあるその人の返事はとても悲しい返事です。「池の中に私を入れてくれる人がいません。」もし私は聖書に書いてある最も悲しい言葉のリストを作ったら、私はその病人の言葉をそのリストに入れます。「私を入れてくれる人がいません。」

英語の聖書に「I have no man.」と書いてあります。この箇所を読むたびに、私は聞きたくなります。「彼の親はどこですか。もう死んでいるでしょうか。」あるいは、「彼の兄弟はどこですか。いなかったでしょうか。」また、「彼を助けてくれる友達は一人もいませんか。」「I have no man.」と答えた彼は、なんとかわいそうな人であったでしょう!

新聞に、この人に似ている女性についての記事がありました。かなり年をとっている彼女は一人で住んでいました。彼女はよく近所の方達の助けに頼りました。ある日、彼女は死にました。数日後、彼女の状態を調べに行った人は彼女の死体を見つけました。警察が調べに来たとき、彼らは彼女の日記を見つけました。その日記の終わりのほうに同じ言葉がすべてのページに書いてありました。

「Today no one came.」 (今日だれも来なかった。) ヨハネの5章の男性の言葉「I have no man.」と新聞の記事の女性の言葉「Today no one came.」が日本とほかの国々にいる多くの人々の状態を表していると思いませんか。
彼らの街に伝道に熱心な教会がありませんから、彼らの魂に関心を持つ人がいません。昨日だれも彼らの町に福音を述べ伝えに来ませんでした。今日もだれも彼らの町に福音を述べ伝えに来ません。明日もだれも彼らの町に福音を述べ伝えに来ません。

キリストがこんな人たちを見たとき、彼は「彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)英語の聖書は「compassion」という言葉を使っています。英和辞書によると、「compassion」は哀れみと同情です。
しかし、「compassion」の本当の意味はもっと深い意味です。人たちの状態を見て、彼らをかわいそうに思うことと彼らを助けてあげたい気持ちを持つことです。
私たちはよく宣教師たちの経済的な必要を強調しますが、もし私たちが「I have no man.」と嘆いているたましいの声を心で聞いたら、私たちは彼らをかわいそうに思って、彼らを助けるためにできるだけのことをするでしょう。海外宣教の最も大切な必要は「money」 ではなくて、「compassion」です。問題は、私たちの財布にお金がありますかという事ではありません。私たちの心に「compassion」がありますかという問題です。なぜなら、私たちが福音を伝える宣教師がいない町に住んでいる数多くの魂をかわいそうに思って、彼らを助けたい心を持つようになるとき、私たちは喜んで財布を開けて、海外宣教のための献金を捧げるからです。

神様を知らない人に福音を

北九州聖書バプテスト教会牧師 三宅 宏昭

『ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』 ローマ1章15~17節

異文化と福音

昨今では神学校で学ぶ学生もクリスチャンホーム、牧師家庭で生まれ育った兄弟姉妹がほとんどとなっており、教会の働き方がこの数十年の間でずいぶん変化していることを感じさせられます。とはいえ教会に第一の使命として命じられている福音宣教は、神様を知らず救われていない人々に神様の御言葉を伝える働きであり、クリスチャン達の間での働きとは全く違って、まさに神様を知らないがゆえに平然と神様を侮る人々に向けて証しをすることです。福音を宣べ伝えるクリスチャンにとっても、福音を聞く人々にとっても、まったく異質な文化や言葉と出会う経験になることは避けられません。

私自身、家に仏壇や神棚があり、子供の頃から仏教には触れても聖書には触れたことは無いところで育ち、青年時代に聖書と神様に接したので、驚きと戸惑いは大きなものでした。その頃、私はきっとこの世界のどこかに真理と呼び得るものはあるのだろうと思っていましたが、それがどこにあるかは分からずに過ごしていました。真理があるなら、世の不条理、不公正、罪悪の勝利にも解決がなされるに違いないと期待していたのですが、それを見出せずにいたのです。
聖書との出会い
私の聖書との出会いは、無料で配布された小さな新約聖書によってでした。一度も読んだことが無かったけれども「聖書」という気高い名前の故に一目置いていた聖書を手にした私は早速それを開いてみました。
しかし聖書はちょっと読んだからといって理解できるような代物ではありません。ただ神様の憐れみをいただきました。聖書に書かれている裁きについての御言葉、そしてイエス・キリストが裁きを行なう方だという御言葉を読み、その点はすっきりと心に入りました。

「全人類について裁きを行なうとはっきり宣言されている。ならばイエス・キリストは確かに神であり、裁き主に違いない。私の望んでいた真理は確かにあった」と納得できたのです。それ以来、イエス・キリストは私にとって敬うべき神、裁き主として存在感を持つようになりました。もちろんその当時、私はイエス様を救い主と信じていたわけではないので、救われてはいません。私は自分の醜さ汚さには気づいていたので、自分もまた裁きを受けて地獄に落とされるものと認識していましたが、それでも納得できるから良いと思っていたのです。おそらくイエス様との出会い方としては、私の場合は少し奇妙な道筋だったのだろうと思います。

それから数年が経ち、私は自分の罪についての意識が強くなって「きっとこの罪の解決の道としての救いは教会にあるだろう」と思い立ち、教会を訪ねました。教会で聖書を開いて、イエス・キリストの福音を丁寧に何度も時間をかけて説明し教えてくれた牧師の恩は忘れることができません。

福音を聞くことと、信じることの違い

人が福音を聞くことと、信じて受け入れることとの間には大きな距離があります。人は1回、福音を聞けば聖書の教えていることが分かり、罪を悔い改め、喜んでイエス・キリストを信じることができる、という者ばかりではありません。
私にとってイエス・キリストの十字架は大き過ぎました。私は以前聖書を読んで、イエス・キリストが神であること、正義をもって全ての人を裁く裁き主であると知り、この点は受け入れていました。イエス・キリストは天の高き所におられる、栄光に輝く聖なる神であって、この方を直接見上げることにも恐れを感じるほど特別な方だと思っていました。

そのイエス・キリストを自分の罪のために十字架にかけて殺した、と言われて簡単に納得できるものではありません。私は自分の罪だけでも重くて苦しいほどなのに、その上にイエス・キリストの死まで自分の責任として負えるかと考えると、とてもではないけれど十字架は重すぎました。この恐れについて私は自分では解決できませんでした。
ところが神様は私に解決を与えて下さいました。私が一人でイエス・キリストの十字架について考えていた時、『完了した』(ヨハネ19:30)というたったひと言の御言葉を神様は私の心に浮かび上がらせ、教えて下さいました。今さら私が恐れたり悩んだりしても無意味なこと、イエス・キリストの十字架による救いの御わざは既に成し遂げられ完成されているのだと。この御言葉によって私は神様に対して抵抗していた心を砕かれてひれ伏し、イエス・キリストを私の救い主、私の主として信じました。こうしてようやく私も救われました。

救いにいたるまでの道のり

神様を知らないで生きて来た人間が聖書の御言葉に触れ、神様を知り、救い主イエス・キリストを信じるということは簡単なことではありません。聖書を手にしてからも何年もかかる、そういう場合もあるのです。福音を宣べ伝えるとは、そういう人々、或いは更に難しい事情を持つ人々の間に聖書の御言葉を携えて行くということです。福音を伝えている間にも一人の人が福音に耳を傾けたり、反発したり、離れたり、戻ってきたり、という紆余曲折を経ることもあります。

福音宣教は神様の御わざ

まして海外宣教の場合、異なる言語、異なる文化を持つ人々の中に福音を宣べ伝えに行くのですから、その働きの複雑さと困難さは想像を越えます。ただ福音宣教と人の救いは、人間の力による働きではなく、神様の御わざです。人の心を開いて信仰に導くのは神様の恵みなのです。ですから福音を宣べ伝える者は、神様のお働きに従う者として遣わされ、神様に用いていただきます。

まだ神様を知らず、救われていない人々が世界に数多く残されていることを覚えて、日本でも海外でも、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えていきましょう。

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小さな教会の宣教

枚方聖書バプテスト教会牧師 當麻 眞平

アンテオケの教会のように

「そこで一同は、断食と祈りをして、手をふたりの上においた後、出発させた」(使徒13:3)。アンテオケの教会は、聖霊の導きでサウロを宣教に送り出しましたが、その時のアンテオケの教会はどのような状態だったでしょうか。宣教を始めるにふさわしい、十分に成長していた教会だったのでしょうか。アンテオケの教会は、ステパノのことで起った迫害のために散らされた人々が伝道して始まった教会です(参照、使徒11:19−21)。まだまだ始まったばかりの教会ではなかったでしょうか、しかし彼らはパウロ達を宣教に送り出しました。

枚方で開拓伝道を始めてから、もうすぐ40年になります。小さな教会です。会堂は与えられていますが、土地の取得や建物の建築のために多額の費用がかかり、経済的に苦しい時代が長く続きました。今まで教会を継続することができたのは、主の守りと祝福があったこと、そしてしっかりした目標を持っていたからと信じています。それは世界宣教に参加することです。枚方の教会は、母教会から送り出され、多くの姉妹教会に支えられて開拓が始まりました。人々が集まり、救われる人も起こされ、教会としての形が見えてきました。

アンテオケの教会はどうだったでしょうか。アンテオケにまで進んできた「散らされた人々」は主イエスを宣べ伝えました。「そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった」(使徒1:19−21)とあるように、アンテオケに教会が出来たのです。しばらくしてアンテオケの教会は、聖霊に導かれてパウロとバルナバを宣教に送り出しました。アンテオケの教会と同様に、私たちも、パウロとバルナバはいませんが、信仰約束宣教献金と祈りをもって参加することに決め、すぐに開始しました。

開拓伝道開始と同時に世界宣教に参加

枚方教会は、開拓を始めてすぐに世界宣教の働きに参加しました。その時教会は、母教会や姉妹教会から祈りと献金の支援を受けている最中でしたが、「宣教の大命令」を実行しない教会はあり得ないと思っていました。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として・・・」(使徒28:19)。これは第一に世界宣教をせよと示すものと考えます。もちろん、開拓伝道ですから、足元の伝道が最優先です。地元の伝道をせずして信徒を得ることは出来ません。この足元の伝道は、当然行うものであって、必然的に行います。では、世界宣教はいつ始めるのが最善でしょうか。教会が成長して自立し、教会員も十分に確保できた時が世界宣教を始める時でしょうか。私は、開拓伝道を始めた時こそが、世界宣教を始める時であると信じています。教会が成長してから始めようとしても、かえって色々な必要や問題が教会内にあって、外に出て行く教会の力である世界宣教は、しづらくなるのではないでしょうか。しかし、開拓期から始めているなら、世界宣教は教会の働きの一つとして定着するので、教会が経済的に苦しくなっても、何か問題が起こっても、世界宣教に捧げることは当然のこととして継続が可能です。それは足元の伝道をやり続けるのと同じことです。

教会と世界宣教

私は、この小さな教会が今も維持できているのは、礼拝を行い、伝道を続け、同時に世界宣教に参加しているからと信じています。つまり、主の宣教の大命令を守ってきたことで、教会は主の恵みをうけて守られているのです。私たちは教会の成長を願う時、私たちの思いは内側に向かいがちです。設備のため、伝道のために力もお金も必要ですから、外に出すことは無駄遣いに思えます。海外宣教は大切ですが、教会が第一でしょうとなるのです。しかし、主の命令は、第一に「あなたがたは行って」宣教することです。教会の成長のために、外に向かうことは決して損失ではなく、海外宣教は教会の力の源泉となるものです。流れ出ますが、枯れることはありません。宣教は、教会の力であり守りであると思います。教会はつねに一致して守られます。宣教をやめて、その力を教会のために使うなら当座は繁栄があるかもしれません。しかし、教会の基礎は緩み、亀裂もおこり、いつしか教会は傾いてしまうことでしょう。宣教は、教会の霊的な恵みです。

信徒と世界宣教

普通の教会の普通の信徒の働きは、世界宣教にどれほど貢献しているでしょうか。使徒行伝には、多くの聖徒の働きが記されています。使徒たちの働きは特に興味深いものです。その中でもパウロの働きはとくに素晴らしいものです。海外宣教をしている宣教師の働きには、心躍らせるものがあります。普通の信徒の働きと比べることは出来ません。しかし、使徒行伝において、最も注目しなければならない宣教師たちがいますが、ほとんど注目されません。彼らは、実際は使徒でも伝道者ではなく、普通の信徒たちです。
ステパノが殉教し天に召された後、「エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った」(使徒8:1)のです。「さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた」のです。その中にいたピリポはサマリヤに下っていき、人々にキリストを宣べはじめると、彼らはピリポの話に耳を傾けます。その結果、サマリヤの人々は神の言を受け入れたのです。そしてエルサレムにいる使徒たちは、ペテロとヨハネをそこに遣わして、主イエスを信じた人々にバプテスマを施したのです。これらの名もなき信徒たちは、エルサレムを追い出された人々ですが、福音を町々に宣べ伝えた宣教師です。彼らの働きが各地の教会の基礎となったのです。

一人の信徒の働きは、ある意味でわずかな献金と祈りであるかもしれませんが、その働きの一つ一つが集って世界宣教を動かすのではないでしょうか。その一つ一つは、目立たなくても、なくてはならない働きなのです。宣教の地を訪問し伝道を助けることもなく、ただ宣教報告を聞いて、祈るだけかもしれませんが、その小さな働きがなければ、大きな世界宣教の働きは始まらず、また継続できないのです。世界宣教は本当に大切です。宣教師の先生方の犠牲に心から感謝します。そして、その働きを支えている信徒の働きにも心から感謝します。続けて世界宣教のために祈り、またささげましょう。

異邦人・異民族伝道と教会

〜文化の違いを超えて出て行くときに気づかされたこと〜

インドネシア派遣宣教師 広瀬 憲夫

「また、こうも言われています。『異邦人よ。主の民とともに喜べ。』さらにまた、『すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。』ローマ15章10〜11節

異民族との向き合い方

世界中の「難民」問題で関係者はそれぞれに難しい対応を迫られています。私たちの近隣にもミャンマーからロヒンギャ族難民が押し寄せてきていて、いくつかの難民キャンプが作られているそうです。
難民到着後、この9月、スタバッ伝道所の近くのモスクから、拡声器を通して周辺住民にも聞こえるように伝えられた説教が、「帰って闘え!」でした。この説教者の個人的な見解でしょうが、今の時代、違う民族、違う文化、違う宗教の人々の間の対立が、ますます深くなってきていることが肌で感じられる言葉です。
そのような状況の中で、私たちは異民族に対してどうするようにと主から命令を受けているのでしょうか。

旧約聖書において、「主の民」(ローマ15:10)とは割礼を受けてアブラハム契約に入った者であり、「異邦人」は、それ以外の割礼を受けていないすべての人々を指しています。パウロの手紙ではそれを受けて、「すべての異邦人」「もろもろの国民」も福音によって主をほめるようになることをビジョンとしているのです。
使徒時代のローマ帝国同様、インドネシアも多民族国家です。インドネシアで隣人は、共通語としてインドネシア語を話すことができても、多くの場合、日常ではそれぞれの民族語で会話をする、さまざまな民族です。その数はインドネシア全体で、300以上とも700以上とも言われます。インドネシアにおいて、隣人への伝道は、本来なら異民族への伝道のはずです。

民族の違いによる障壁

ここで障壁になるのが、その民族の違いでした。北スマトラ州では、一般に「キリスト教=バタック民族宗教」と思われるほどに、バタック民族教会が多く存在します。バタック・トバ族の場合、国勢調査の統計上、95パーセントがキリスト教。そして、私たちの教会でも、メンバーの9割はバタック族です。そのため日常の交流も伝道の相手も、バタック族が多くなります。バタック民族教会はプロテスタントを標榜しているにもかかわらず、救いは善行によるとする教理なので、彼らへの伝道は「信じるだけで救われる」というところに力が入ってしまいます。

実は、宣教地に来た最初のうちは彼らが何をどのように信じているかに、あまり注意を払っていませんでした。イエス・キリストを信じると言うのは、私たちにとってはなによりもまず贖いを個人的に受け入れ信じることです。それに対し、「彼らは贖い信仰50%プラス善行50%としていて、信じるだけでは救われないと考えている」と私たちは考えていたのです。
けれども、「信じた、救われた」はずの人々のその後の成長がどうもはっきりしない。そのうちに少しわかってきたのが、彼らの言う「キリストを信じた」とは、数ある宗教の中からキリスト教を選んだことであり、数ある神々の中からキリストを選んだ、生まれながらの家の宗教がキリスト教だった、ということにすぎなかったわけです。バタック民族教会で十戒や使徒信条を毎週のように唱和してもキリストの死が「自分のため」という自覚はなかったのです。

贖いの理解が不十分なままに「イエスは主である」と信じて告白し(させ)ても、信仰生活はせいぜい律法主義にしかなりません。加えて、年長者を尊重することが何よりも重要とされる部族社会の伝統の中で、年長者の権威に強制力を持たせる権威付けのための聖書の教えにとどまってしまいがちです。ですから、そのような状態の人々に、「信じるだけで救われる」という点だけを強調して伝えても、実は、空を打つような拳闘をしていたに過ぎなかったと言えます。

他宗教の異民族に福音を伝える際には、もちろん、「信じるだけで救われる」というところだけを強調するような「伝道」はしません。そこは、自分でも無意識に、相手によって伝え方を変えていたわけです。

特定の民族文化が教会の習慣となってしまう

教会メンバーが「隣人」に証しをするにも、バタック人への伝道がどうしても多くなり、「異民族」、すなわち他民族、他宗教の人々への伝道は二の次になってしまいがちになります。さらに、教会内のさまざまな行事、話し合いのやり方、等々、気づかぬままにバタック民族文化が濃厚になってしまいます。教会内の雰囲気が、多数派であるバタック民族の色になるのは、仕方ないことかもしれません。けれども、まさにこのことが「異民族」伝道の障壁になっているように考えられるのです。
地域に根ざす教会として地域での証しに励むとき、周辺の人々を区別することはあってはなりません。しかも、宣教の大命令は、「すべての国民」を目指すように明記されているのです。そこで、私たちは教会のあり方の原点、教会の宣教の原点を考える必要があると気づかされました。教会の宣教原理の第一歩を、同胞に向けるのか異民族に向けるのか、ということです。「出て行って、すべての国民を弟子とし」との命令を聞くとき、どこに目標を置くべきでしょうか。どのような教会を目指していくべきでしょうか。

教会本来のあるべき姿を取り戻すには

バタック民族が多数になってしまっている私たちの教会の状況の中に自分を置いている時、このことには気がつきませんでした。いつも付き合っている人たちが、御言葉を語る対象になり、その友人、家族がおもな伝道の対象となる。
そこをあえて、自覚的に異邦人、異民族と接触し、伝道することに心を向けることから、他者の理解を深める機会も与えられてくることになり、さらには、教会でなされるべき教え、特に青年に対する指導が、異民族どうしの集まりとして学ぶべき聖書の教えを追及することから始まることになるのではないでしょうか。
このように、異邦人・異民族伝道が、必然的に、教会本来のあるべき姿、本質を明らかにしてくれるように思われるのです。

教会の本質に触れる話し合いへの招き

今年の6月、東アジア宣教師O師にビンジェイに来ていただいた折、教役者の交流の必要性を強く感じ、雑談の中から、「各国の伝道者が集まって交流会を開こう」、という計画が持ち上がりました。互いの宣教地のために祈りあい、理解しあい、さらにはやがて宣教師を送り出すための力を得るための交わりを目的とする集いです。東アジア内地から、何名かの若い伝道者が、メダンに来ることが可能かもしれません。それに合わせて、日本の伝道者の皆さんにも、ぜひ、積極的に、この交わりに参加していただきたいと思います。東アジアの参加者と忌憚なく語り合うためにも、特に若い伝道者の皆さんにお願いしたいと思います。期日は、2018年5月14日(月)から18日(金)まで。場所はメダン、ビンジェイ。

ここで、教会の本質に触れる話し合いが進められ、地の果てにまで出て行き異民族の隣人となって福音を伝える教会がますます力強く成長することを、心から期待しています。

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宣教の力は「復活信仰」

太田聖書バプテスト教会牧師 佐藤 一彦

「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるからです。」1コリント15章12〜19節

キリスト教のイメージ 十字架

皆さん今年のイースター復活祭はいかがだったでしょうか?きっと祝福された事と思います。
最近は日本でも随分と「イースター」という言葉が浸透しつつあります(教会発信でないのが残念ですが)
しかし、どれだけの人が、それがイエス様の復活と繋がって理解されているでしょうか?

一般にキリスト教のイメージと言えば「十字架」を多くの人々が思い起こすことでしょう。確かに教会には必ずイエス様の十字架がシンボルとして飾られています。
正当な学者たちや多くの人々はイエス様が約2000年前この地球に存在していた歴史的人物であり、偉大な教師であり、奇蹟を行い、冒涜罪のために十字架で死んだことを否定していません。
そして、更に十字架の死の意味も、私たちの罪の身代わりに死んでくださり、それを信じる時に罪の重荷から解放される。この辺りまでなら、強く全否定する人はそう多くはありません。誰かが自分の命を投げ出して愛する者のために死ぬ・・・なんという美談でしょう。そのような物語や出来事は今まで歴史の中でたくさんあったことでしょう。この事実を多くの人々は信仰がなくても理解できますし、感動を与えるでしょう。しかし、それとイエス様の死とを同等に置くことは出来ません。

ある日本人宗教観アンケートで、様々な宗教の中で実はキリスト教に対する好意層が増えているという結果が出ています。結婚式はキリスト教式の教会が60%、信仰を持つとすればキリスト教が実は一番多く約30%、そしてキリスト教は好しい宗教だと答えた人が23%。このようにクリスチャンは「まじめで、信頼でき、暖かい。」と良いイメーシがあるのに、どうして未だ日本はクリスチャン人口1%の壁が破れないのでしょうか?きっとキリスト教は好ましいと思っている人々の中には、キリスト教をある種のブランドイメージで見ているのだと思います。十字架(デザインとしての形)、教会堂(素敵な外観)、愛の宗教(寛容さ)、イエス様(あるいはマリヤ様)の人物像(アイドル的存在)などが他の宗教に比べて受け入れやすいのではないでしょうか?きっとイエス様の十字架の死でさえ、最高の人間愛的な視点で見るならば好ましいのでしょう。

復活信仰がなければ信仰をもてない

しかし、私たちは知っています。それだけでは決して信仰を持つには至らないのです。イエス様の十字架に感動し、ある程度理解することは信仰が無くてもできるかもしれませんが、問題はイエス様が死んで3日目に甦ったという復活の事実を認めることだけは、信仰がなければどうしても受け入れることはできません。
なぜなら復活という真理は、人々が好む世の中の道徳、ヒューマニズムの許容範囲を遙かに超えるからです。このイエス様の復活こそ、信仰を必要とする核の部分であり、揺るぎない確信の土台となるのです。私たちの信仰は復活信仰なのです。

「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」
1コリント15章14節

パウロは15章で「イエス様の復活は事実であり、イエス様の十字架を信じた者は、すべて罪赦され、信仰によって義とされ、神の子とされます(十字架の力)。しかし、それだけではなく永遠の命が与えられ、最後にはイエス様と同じように復活の体に甦らされ、主イエス様と共に全ての祝福を得て、神の御国で永遠に生きるには復活の信仰が必要である。」と説明し、単なる地上での幸せ論ではなく、その遙か向こう側の天的な領域にまで達する祝福があることを、空想上の虚しい希望ではなく、イエス様が実際に死からの復活をもって人類に示されたのです。

しかし、パウロはこの大切な福音の真理を未信者でなく、教会に対して確認しているのです。信者でありながら、復活はあるかもしれないし、もしかしたらないかもしれないと曖昧な理解だけで終わってしまっているのであれば、それはとても惨めな人たちですと言うのです(19節)。
皆さんはどうお考えでしょうか。「復活はあれば儲けもの、無ければないでも、素敵な宗教だからいいや」と言う程度で信仰されているのでしょうか?
私はかつてウガンダの宣教師でした。現地の人々の生活は大変貧しく、物質的な豊かさを経験できる希望はほとんどありません。毎日が自給自足、或いは「無い」という生活を過ごしています。宣教師はその人々に十字架の赦しと復活という希望を伝え、多くの人々が信仰を持ちイエス様を信じ救われ、教会生活が始まります。だからといって彼らの生活水準が上がることも無く、相変わらず貧しいままです。彼らの生活を何とか少しでも助けたいと宣教師も必死になりますが、出来ることには限界があるとすぐに気づきますし、現地の彼らもそれを知っています。しかし、それでも彼らは感謝をもって教会に来て主を賛美します。なぜなら彼らは地上での生活向上に期待しているのではなく、天上の豊かさを楽しみにしているからです。彼らは復活があれば儲けもの、無くてもいいやという信仰ではなく、地上での生活(貧しい生活)が終わったら、やがて復活して天国へ行き、主にある豊かさを頂くことが必ず出来るのだという希望をもって信仰生活を過ごしているのです。

復活への期待

しかし、私たち日本では、ほぼ全ての人がある程度の生活レベルの保証があります。それに満足していないかもしれませんが、社会やシステムがそれを支援してくれますし、生活をより快適に便利にするハード面でも様々な工夫が充実しています。そのような状況の中で、復活後の天の御国にしか私の本当の幸せ、解決は無いのだという期待感をどれだけの人が抱いているでしょうか?
「イエス様に復活があった事は信じているが、私にも同じ事が起こるのかは分からないけれど、毎日神様を信じて平穏に過ごせているし、教会での交わりも素晴らしいし、いいじゃないですか!」という人の宣教には、地上での幸せな生き方を勧める宣教であって、人々の魂を揺り動かすほどの霊的宣教ではなく「私たちの宣教は実質のないものになり」(14節)得てしまいます。

私たちがイエス様の復活を信じるのは、それが「キリスト教の教えのひとつだから」だとか「もし本当なら、それは素晴らしい」と復活を客観的に見る程度のものでもなく、私たちの人生そのものに影響を与え、基盤となり、日々の生活に力を与えるものなのです。復活の事実を、遠い世界のこととしてではなく、私たちにとって意味のある、力のあるものとして生かすことが「復活の信仰」なのです。この信仰の証しを先輩のクリスチャンたちは世界に宣教してきました。それは過去の事実と現在の生活、そして将来の希望を繋ぎ合わせて人々を変える力があります。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(20節)あなたは「復活」をあなた自身の希望としてとらえ、信仰しておられますか?それを人々に宣教していますか?

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「これにむかって叫べ」

横浜聖書バプテスト教会牧師 長江 忠司

『アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」』ヨナ書1章1~2節

宣教の働きに召され用いられるのは整えられた立派な人物であると考えがちです。しかし、全てがそうとは限らないことがヨナ書を見るとわかります。

主はふさわしくないヨナを召された

主はヨナに、ニネベに行って神のみことばを伝えるようにと命じられました。ニネベは当時大きな勢力を誇っていたアッシリヤの都市で、主に対する悪巧み、略奪、残虐行為、偶像礼拝、淫行、呪術という邪悪で残酷な人々の住む町であったとナホム書に記されています。

ヨナからすれば、「どうしてそんな悪い町の人々を救う必要がありますか」と言いたかったのでしょう。もしくは、「そんな町に行くなら、自分も何をされるかわからない」と恐れたのかもしれません。それで彼は主の御顔を避けて逃れようとしたのです。

ヨナほどにあけすけで、自分の思いに固執する人は、聖書にあまり出てこないのではないでしょうか。この後も、ニネベの人が悔い改めた時に神に対して怒りました。非常に扱いにくい預言者だったのです。仮に企業であれば、彼のような社員は真っ先に外されることでしょう。自己中心的で、上司の言いつけを無視する。怒る。文句ばかりを言う。主は全知なるお方ですので、ヨナがそのような頑なな人物であることをご存知でした。しかも主は他に幾らでも従順な預言者を立てることができたのです。にもかかわらず、主は相応しくないヨナを選び用いようとされたのです。

私達も同じではないでしょうか。私達も選ばれるに相応しくない者でした。神の前に同じように自己中心的で頑なで不従順な者でした。しかし主はそんな私達を愛し選んで下さいました。十字架の死と復活により、私達を救いへと導いて下さったのです。そして私達をも、主の働きの為に用いようとして下さっているのです。

『しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。』1コリント1章27~28節

『「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」』ヨナ3章2節

主はヨナに特別な使命を与えられました。彼は主が言われた通り、「あと40日すると、ニネベは滅ぼされる」と伝えたのです。そうした所、民は悔い改めました。主は彼らの悔い改めの心をご覧になられて、わざわいを思い直されたのです。ニネベの民はヨナを通して語られた主のおことばによって悔い改め、滅びから免れることができたのです。

今も神を無視して滅びに向かっている魂が大勢おられます。その彼らが救われる方法はただ1つだけです。福音のおことばを信じることを通してのみ、救いをいただくことができるのです。

そして主がヨナにおことばを伝える使命を与えられたように、主は救われた私達にその使命を与えて下さっています。出て行って福音を宣べ伝える宣教の使命が与えられているのです。それは教会に与えられている使命であり、同時に全てのクリスチャンに与えられている使命でもあります。そして、主はあなたにも個人的に御声を掛けておられることを知って頂きたいのです。

ヨナの間違っていた点

1・利己主義に陥った

自分が救われているなら、他の人は滅んでしまっても別に構わないという考え方です。仮に彼がニネベの民の一人だったとしたら、喜んで伝えに行ったことでしょう。しかし、自分とは異なる民であり、ひどい民であり、遠く離れている民なので、自分には関係ないと考えたのです。私たちも同じように考えてはいないでしょうか。自分が救われているからいい。他の地域や国のことは自分には関係ない。もしそうだとしたら、ヨナと同じ過ちを犯していることになります。

2・自分が受けた神の恵みを覚えていなかった

彼ほど頑なで扱いにくい人物は少なかったでしょう。そんな彼が選ばれること自体、不思議なことでした。しかし彼は選ばれ用いられようとしていたのです。彼はそんな神の恵みを覚えていませんでした。自分こそさばかれて当然であったことを自覚していなかったのです。

私達は自分が受けた神の恵みを覚えているでしょうか。その恵みを覚えるならば、主に対する感謝が溢れ、主が託して下さった宣教の使命を果たそうという思いが与えられるのです。

3・神の愛のまなざしを理解していなかった

『また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。』マタイの福音書9章36節

イエス様は群衆を見られて、魂が弱り果てているのを知り深い憐みを持たれました。主はニネベの民に対しても、同様の眼差しで見つめておられました。そして今も、主は私達の周りや全世界の魂を同様に深い憐みをもって見つめ、救いたいと願われています。その為に、私達救われた者に宣教の働きを託して下さっているのです。どんなに愚かで神から離れている民であっても、主が造られた魂です。全ての民が主の愛の対象にあるのです。

私達もこの3つの点で間違わないことが大切です。あらためて自分自身の眼差しを点検しましょう。ヨナの様に利己主義と裁く目をもって魂を見つめてはいないだろうか。

そうではなく、私達も見つめて頂いたように、イエス様のような愛と憐みに満ちた眼差しで魂を見つめましょう。そして主の御声に耳を傾けましょう。

主はかつてヨナに語られたように私達にも語られています。「これに向かって叫べ。」相応しくない者ですが、主はそんな私達を遣わし用いようとされているのです。与えられている生涯は一回限りであり二回はありません。御顔を避けないで、宣教の為に立ち上がる者でありましょう。

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目を上げて前を見なさい

調布バプテストテンプル協力牧師 所 悠

tokoro

「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出そう。」伝道者の書11章1節

私が、今、ここにこうして立っていることができるのはなぜでしょうか?それは今から66年前に、テキサス生まれ、テキサス育ちの宣教師夫妻が、30日間、貨物船に乗って太平洋を渡り、この福音をたずさえて私たちの国に来て下さったからです。この場にその宣教師がおられます。ラバーン・ラージャス先生、どうぞお立ち下さい。

「目をあげて畑を見なさい。」サマリヤの町スカルで、主は弟子たちにそう命じられました。しかし、その時、目を上げて畑を見たのは、弟子たちでしたか?いいえ。弟子達は買ってきたランチを食べることだけしか考えていませんでした。では誰が目を上げたのでしょうか?誰が畑を見たのでしょう?サマリヤの女自身です。主のおことばによって彼女の霊の目が開かれたのです。彼女は「水桶」をその場に放り出しました。水桶は彼女にとっていのちの次に大事なものの筈です。ところがそれをそこに置いたまま、町に向かって走り出しました。そして町の人々に「来て、見て下さい!」「来て、見てください」と、弟子のピリポが叫んだように、メシヤの到来を告げ知らせたのです。

彼女はイエス様とお会いして、後ろを見る人生 (backward) から前を見る人生 (forward) に変えられました。サマリヤはイエスさまにとって大切な宣教地でした。しかし弟子たちにとっては、残念ながら、ガリラヤに行くための通過点にすぎなかったのです。

私たちは、今、宣教の視野を出来る限り広げなければならないのではないでしょうか。世界中に広がる主の畑を360度の視野で見渡そうではありませんか。主はアブラハムに「さあ、目を上げて、あなたがいるところから北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう」(創世記13:14)とお命じになりました。それは「宣教の大命令」の予表です。主にとって宣教地でない場所は世界中、どこにもありません!

私の長男は、今、Cカントリーの一つの町にJBBFの宣教師として遣わされています。私は、彼にこの集会に来るように誘いました。しかし、彼の返事はこうでした。「この国には56の民族があります。漢民族はその中の最大の民族です。しかし、ほかにも55の少数民族があります。漢民族にはすでに福音が伝わっています。しかし、いくつかの少数民族は、福音が全く届いていない福音未踏達地域なのです。」彼はさらに続けて言いました。「私たちは丁度その時期に、まだ福音が全く伝えられていない少数民族の地域をリサーチのため訪ねたいと願っています。どうぞお祈りください。」

カナンの地を見渡したアブラハムは、ロトが選んだソドムとゴモラに住む人々のためにも祈りました。「神さま、あなたの義とはどのようなものですか」とチャレンジしました。(創世記18:23-25)

主は何と答えましたか?(創世記18:26)「もしソドムで、わたしが50人の正しい者を町の中にみつけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」アブラハムは言いました。「では正しい人が45人いたら?40人いたら?30人いたら?20人いたら、そしてもしや10人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その10人のために。」

アフリカのウガンダに遣わされていた宣教師はJBBFの宣教クォータリーの中で次のように書いています。「アブラハムがソドムのために執り成しの祈りを切に願っている姿は、世界宣教の働き、即ち、宣教地で働く宣教師と宣教師を遣わす国の働きの姿を表わしているように思えます。私たち宣教師は、ソドムとゴモラの町のような、罪深い国々で宣教しています。そして、今や、主のさばきの日は間近です。そのようななかで、私たちは正義を為しているでしょうか。裁きに会うのは彼らの罪の責任です。しかし、それをただだまって見過ごしているのであれば、私たちの正義も問われるのです。」

世界人口は、推定で72億9900万人を超えました。間もなく73億です。1年で7000万人増えています。もしも今、世界の人口を10人で代表してもらい、「イエスとは誰ですか?」という質問に答えてもらうとしたら一体どんな答えが返ってくるでしょうか?10人は次の4つのグループに分かれます。第1のグループからは「イエス様は私の主であり、救い主です」という答えが返ってきます。10人のうちの一人(世界人口の10%)はイエスさまを信じ、従っている人たちです。第2のグループの人々は「彼は、良い教師ですね。でも、私は私のやり方で行きます」と答えます。10人のうちの2人(20%)は、自分たちのことを、クリスチャンというかもしれませんが、彼らがイエスさまに従っているかどうかは疑問です。第3のグループの人々は「え、イエスさまですか?いいえ要りません!」と答えます。4人の人(40%)は何らかの方法で福音に接しているかもしれませんが、彼らはイエスさまを受け入れていないか、または、イエスさまに従おうとしていません。第4のグループからは、「イエスさまですか?それは誰ですか?知りません」との答えが返ってきます。3人の人たち(30%)は実際、福音に接したことが一度もないのです。

宣教の大命令を真に宣教の大命令として実践していくためには、これからのBBFIの宣教地は、これまでの第3グループに加えて「イエスって誰のこと?知りませんよ」という世界人口の30%を占める第4のグループに焦点を当てなければならないのではないでしょうか。30%とは約20億人です。彼らに福音を伝える人は誰もいません。彼らが福音に接するための、いかなるリソースも持ちません。そればかりではありません。彼らはキリストの福音宣教に激しく抵抗しています。彼らは「来なくていいよ!」「来ないでくれ!」と叫んでいるのです。

私たちの目の前の現実は厳しさを増しています。サタンは大きく働いています。宣教師の入国を許可しない国は1974年には32か国でしたが、2000年には77か国に増えました。2015年にはさらにどれだけ増えるでしょう?入国を許可している国もきびしい条件を付けるようになっています。宣教は閉ざされつつあるように見えます。兄弟姉妹の皆様、だからこそ、だからこそ!目を上げて前方を見ましょう。主はフィラデルフィアの教会に何と約束しておられますか!黙示録3:8で主は言われます。「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれにも閉じられることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」「主よ、この「あなた」というところに、どうぞ、ここに集っているすべての主の僕たちの名前をあてはめさせてください。BBFIに属するすべての国のすべての教会の名前をあてはめさせて下さい!」

宣教の働きは宣教師だけでは出来ません。世界宣教の働きを凧揚げにたとえて見ましょう。凧は誰ですか?BBFIの宣教師たちです。でもだれかが凧を上げようとしなければ凧はあがりません。それは誰ですか?BBFIに属する地方教会です。そして凧が高く、遠く上がるためには丈夫で切れない、長い糸が必要です。それは教会の祈りとささげものです。でも、もし風が吹かなかったら、凧は上がりません。風は聖霊なる神のお働きです。

みんなが力を合わせて、今、各国の宣教地に揚がっているBBFIの凧をひとつも落とさないように、糸が切れてどこかにとんでいかないようにするためには何が必要でしょうか?そして、もっと多くの凧をもっと遠くまで上げるために何が必要でしょうか?

キーワードは4つあります。第一に、全世界規模のパートナーシップです。第二に、全世界的な連帯の努力です。第三は、互いに力を合わせる精神です。そして第四は、世界規模の共同事業への協力です!そして、そのために今一番必要なのは、お互いの間の情報の共有ではないでしょうか!

しかし、360度の世界宣教にチャレンジするために、私はもう一つアピールしたいことがあります。それは、使徒パウロを助けた「アクラとプリスキラたち」のような働きがBBFIの中で広がることへのヴィジョンです。パウロはローマ人への手紙16章で、「プリスキラとアクラ」から始まって、「オルンパおよびその人たちと一緒にいるすべての聖徒たち」まで、30組以上の信徒同労者たちの名前をあげて、感謝しています。今や政治の世界、経済の世界はグローバル化の一途をたどっています。BBFIの諸教会から、世界宣教の現場で、宣教師を助け、生活を共にしながら奉仕する、アクラとプリスキラたちが起こされるように祈ろうではありませんか。

さあ,皆さん!前を見ましょう!皆さんの目に何が見えますか?黙示録22章20節でイエスさまは何と仰っていますか? 聖書66巻の最後のおことばです。「これらのことを証しする方がこう言われる。しかり、わたしは直ぐに来る。」そうです。主は約束しておられます。「しかり、わたしはすぐに来る。」では、私たちは何とお答えするのでしょう。「アーメン、主イエスよ、来て下さい。」そうです。御一緒に叫びましょう!「アーメン、主イエスよ、来てください。」さあ、皆さん、前を見ましょう。そしてBBFIに集う世界中の仲間たちが手を携え、心を一つにして、宣教の大命令を実現するために共に前進しようではありませんか。 Let’s Go Forward! アーメン!

グローバル・ミーティング2016でのメッセージの抜粋

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フェローシップの目的とは?

若葉聖書バプテスト教会牧師 ジェームズ スミス

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2014年9月、アメリカBBFIの理事長が「BBFIとは何のためのものか?」と言うメッセージをされました。それに応えてあるJBBFの牧師はJBBFメーリング・リストを通して次のように聞いたのです。「『JBBFは何のためのものか?』ということを議論する事は、皆の参考になるのではないでしょうか。」

私は答えを待ちましたが、私の知る限りでは誰も答えてくれませんでした。私は、私達JBBF諸教会と牧師と宣教師の交わりは何の為のものなのかということを知ることは重要だと思いますので、この質問に答えてみたいと思います。

若葉教会の証し

私はまだ若いだけでなく、ある面では日本に来たばかりの者であり、実はこのことを説教したくはないのですが、私の経験と知恵の足らない所はお許しを求めつつ、神様がどのように私の心に働かれて、この質問にある一つの答えを与えて下さったかを分かち合いたく思います。</p >

私が若葉聖書バプテスト教会の2016年のテーマを祈って考えていた時に、去年の10月までの神の御言葉を中心にするべきだと示されました。私の教会は、基本的な真理を中心にすることを通して教会の霊的基礎を強く建てるという5年間ビジョンを持っています。

祈ることが去年のテーマでしたので、今年は聖書の学びにフォーカスをあてようと考えました。しかし、去年の10月に他に何か違うことが必要だと気付きました。若葉教会には交わりをテーマにする必要があると思ったのです。実は、若葉教会は交わりが欠如しているわけではありません。「もう交わりを止めて、また聖歌隊練習をし始めましょう」と言わなければならない時がよくあります。

沢山交わることは良いことだと思いますが、古い教会員と一緒にもっともっと深く交わる必要がある新来者と新しいメンバーが何人もいるのです。だから、交わりというテーマを祈り始めました。

交わりのしるしとして手を差し伸べる

祈っていた時、私がまだ霊的に幼かった時に母教会の先生から何回も言われたフレーズを思い出しました。そのムリス師のフレーズは次のようでした。「交わりの右手を差し出しましょう。」

特に集会の最後の招きで誰かがイエス様を救い主として信じて前に出て来た時や、教会メンバーになることを承認された時には、集会の後でムリス師はその人が教会員の皆の前に来るように勧めました。そして、教会のメンバーは皆並んで、一人ずつその人の右手を握手しながらお祝いの言葉を伝えました。

このフレーズを思い出した時、「このことは、交わることを強調するのに素晴らしいテーマではないだろうか。このフレーズは聖書にはないのだろうか」と思いました。

聖書を調べたら、ガラテヤ人への手紙2章9節が見つかりました。

「そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。」

私は「素晴らしい!このテーマの聖書箇所がちゃんとあるんだ」と思いました。確かにこの節を過去に何度か読んだことがありましたが、今までこの御言葉の真理とムリス師の適用とを繋げることが出来ないでいたのです。

使徒達の交わり

それで、ガラテヤ2章9節を詳しく学びました。この箇所の5人の間の交わりを表した握手は、それぞれが異なる場所であっても、福音を宣べ伝える奉仕を協力して行う為にとても重要だったのです。

使徒ヤコブとケパ(ペテロ)とヨハネは続けてユダヤ人に福音を宣べ伝えることになり、パウロとバルナバは続けて異邦人に福音を広める奉仕をすることになりました。ヤコブとペテロとヨハネがパウロとバルナバに交わりの右手を差し出したことは、パウロとバルナバが福音を宣べ伝える奉仕に神様から導かれたことを賛成して承認した事と、互いに協力することを約束しあった事を意味しました。

この5人はそれぞれが出発した後、どこに行ってもレーザーのようなフォーカスを持って福音を宣べ伝え、教会を開拓し続けました。そして必要な時は互いに助けあったのです。

交わりの目的

このことを理解した時、私は、若葉教会は教会員が互いに交わる事よりもっと深い目的が必要であることに気付きました。つまり、私達が互いに交わることとお互いをキリストにある兄姉として受け入れることは、単に皆が楽しい気持ちになる為だけではありません。福音を宣べ伝える為に協力して働くという最終的な目的の為に交わりに加わるのです。

私の牧師のムリス師が教会員の皆に「交わりの右手を差し出そう」と言ったのは、それを教える為でした。相手の右手を握手することは、このことを意味しました。

「私達カルバリー・バプテスト教会の兄姉は、あなたが自分の罪からの救い主イエス様を信じて救われたことと、この教会のメンバーに神様から導かれたこととを認め、あなたをこの教会を通して福音を宣べ伝える同労者として受け入れます。」

福音宣教のための交わり

このように、私達JBBFの牧師と宣教師は、ヤコブとペテロとヨハネとパウロとバルナバと同じように、私達が神様に救われてそれぞれの奉仕に召されたことを互いに確認するために、また福音を宣べ伝える奉仕に一緒に協力するように契約するために交わりに加わっているのです。

1950年にアメリカBBFIの創始者達はあるテキサス州のホテルの中に集い、同じような趣旨でBBFIを始めました。そして、創始者達はレーザー光線のようなフォーカス(熱烈な目的意識)を持って、どこに行っても福音を宣べ伝え、教会を開拓し、宣教師を送り出し続けました。これらの宣教師達も同じような交わりであるフェローシップをそれぞれの国内の牧師と一緒に始め、そのようにしてJBBFも始められたのでした。

私達のフェローシップの交わり

私のチャレンジ、伝えたい結論はこれです。今こそ私達JBBFは何のためのものであったかを思い出すべきです。私たちのフェロシップの目的は、イエス・キリストの福音を広める為に協力し合うことです。

私達は創立者達と同じようなレーザー光線のようなフォーカス(熱烈な目的意識)を持ちましょう。

そして、日本でも世界中でもどこに行っても福音を広める働きをし、教会を開拓し始めるために更に協力しあうための交わりをしましょう。

その目的を覚えて、今まで以上に熱心に協力していこうではありませんか。

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宣教の拡大のために

名古屋聖書バプテスト教会牧師 上田 廣行

上田廣行先生

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえて励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」ヘブル書10章25節

前回の春号の巻頭説教で6人の群れで宣教師の派遣教会となった証に感銘を受けました。わずかのパン種が大きくパンを膨らまします。小さくともそこに活力が内包されているからです。わずかの人、わずかの群れが、宣教を拡大させて行く、そこには神の力と命があることがわかりました。膨らまないパンへの警告でもありました。

広がる祈り

宣教は人に向かい、礼拝は神に向かうものだと、分離させるよりも、礼拝は宣教への動力であり、宣教へと押しやるものであると考えます。たとえば、毎週の礼拝において代表が祈りをします。

大切な祈りの場で何を祈るか。求道者の救い、家族や友人の救い、地域の人々、名古屋、愛知県、他府県の開拓伝道所、そして沖縄から北海道に至る日本の諸教会の伝道の働きの拡大を祈ります。海を渡りアジアに派遣されている宣教師たちの国々を祈ります。福音の門戸を閉ざしている北朝鮮は、アジアの痛みなので祈り続けています。最後には遠くアフリカの宣教地を覚えて祈ります。その祈りに聖徒たちがアーメンをもって答える時、世界宣教拡大への一致が育まれて行きます。

この祈りは、主のビジョンを共有し、教会に託された大切な使命を確認し続けて行くものです。これは欠けてはならない事と考えます。祈りには広がりが求められています。1891年に、不信仰者のラフカデオハーン(小泉八雲)が米国から島根県松江に来て住み、日本文化を広めます。

まったく同じ年に同じ松江に、英国人宣教師が来て移り住みます。主の御名を広めるために、その弟子たちに月曜日の過ごし方を指導しています。各地域のために名前を挙げて祈るように。そこには、私の生まれ故郷、木次(きすき)の名があげられています。宣教拡大のためには、祈りにおける広がりが大切であることを知っていたのです。あれから100有余年がたち、ここに救を受けた一人がいます。

ひとりの祈りの人が言った言葉を思い起こします。「祈りは世界旅行です。」派遣されている宣教師のために祈ることで、思いは、世界をかけ巡ったわけです。一度、来会された宣教師の家族全員の名前を憶えていて、たびたび祈るのを聞きました。誰がこの方の抜けた穴を埋めるかが問われました。

福音を広める祈り

「天にいます。私たちの父よ。」主の教えられた祈りは、私たちのちっぽけな世界観を広げます。我らの父は天の御国の主です。栄光の御座につき、御使いたちは、絶えることなく「聖なるかな・聖なるかな・聖なるかな」と、賛美を捧げています。真白い衣を来た数多き星のごとき聖徒たちがいて、御座に向かい霊的礼拝を捧げています。そこには、不従順なものや反抗的で罪を犯すものはいません。神の御心に喜んで従うものたちの国で、そこが我らのあこがれの世界です。

目を転じて、地上を見ると罪に満ちた世界があります。天の御使いの軍勢も、「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)と願わずにおれない世界です。

神はこの現実の世界を愛されました。御子イエスをこの世界に送り、人の間に住まわせられました。御子は、十字架において我らの罪の贖いの代価として命をささげ。血を注ぎ出して犠牲となられました。神は、このイエスを死者の中から甦らせられました。ここに福音があります。贖いを通して神と和解し、信じた者には永遠の命が与えられます。天の御国の民となり、偉大なる神を天の父とお呼びする特権に与ります。

この福音を広め、悔い改めて御子イエスを信じ、神と和解せよと語る人が必要です。キリスト者は、その使命を与えられました。「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(Ⅱコリント5:18)まるで天の御国の大使のようです。「御名があがめられますように。御国が来ますように。」いずれも、福音宣教を隅に置いては、考えられない祈りです。

祈りの一致

「わたしたち」と呼び合う兄弟姉妹と、心を合わせて祈ることが求められています。新約聖書「使徒の働き」には、世界宣教開始の前に、心を一つにして祈る聖徒たちの姿を見出します。約束の聖霊が来られて、一人一人の上にとどまり、弟子たちは聖霊に満たされました。一つの福音を宣教するために、一つとなりました。霊的一致を聖霊が授けられました。

宣教の前進と拡大のために一致が必要です。その一致とは、真理に互いに立っていることで初めて成り立ちます。聖霊は真理の御霊とも呼ばれています。私たちの宣教協力関係も、真理に互いに立っていることにあります。主の道を外れて行くならば、互いの協力関係は壊れて行きます。(1ヨハネ8)

祈りの場から宣教へ

異邦人世界の最初の教会で、かつ最初の宣教師バルナバとパウロを派遣したのはアンテオケ教会です。聖霊が「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかさせない。」(使徒13:2) そう告げられた時というのは、「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、」(使徒13:2)と説明されています。礼拝において主の召しが語られます。礼拝において手を置き、働き場へと祈り、送り出します。

やがて、バルナバとサウロは伝道の派遣の旅路を終えて戻って来て宣教報告集会を開きます。(使徒14:26-27)主の聖徒たちの集い、主への礼拝の場こそが、召しと派遣と帰還とがなされる世界宣教の砦となっています。そのような場が、教会でありたいと願います。

宣教と賛美

旧約聖書で、世界中に御名を広める気概に満ちていたのは、ダビデ、アサフ、ソロモンの時代です。この時代は、礼拝がもっとも盛んであった時です。シオンから世界にむかって賛美の歌声が響き渡りました。栄光の主にふさわしい、心からの賛美が捧げられました。

詩篇の中に、あらゆる国民が主をあがめるようにとの歌が、数多くあります。「すべての国々の民よ。手を叩け。喜びの声をあげて神に叫べ。」(詩篇14:1) 「すべての国々の民よ。これを聞け。世界に住む者よ、耳を傾けよ。」(詩篇49) 賛美と世界宣教とは密接に結び付いていました。世界宣教をテーマにした賛美の歌が今も生まれています。

宣教の拡大のために

JBBFの交わりの豊かさのひとつのしるしは、共に集まる特色ある集会の数々です。全国聖会、ジュニアキャンプ、青年キャンプ、宣教大会、国内開拓セミナー、神学校でのプログラム、海外での諸集会、その他にもたくさんあります。共に集まることの大切さを知っています。

終末の時代には、あらゆる良い習慣が損なわれる傾向にあります。主の集会に集うことは、良い習慣です。そこで、救いを受け、献身し、派遣され、主の御業を聞く幸いな場です。

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえて励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」ヘブル10:25

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この問題をどうしよう

アガペー聖書バプテスト教会宣教師 マイケル・バーゲット

Burgett

世界宣教には問題がつきもの

世界宣教には問題がつきもの。忠実に主に仕え、福音宣教に励もうとすればするほど問題に直面します。イエス様の場合も、パウロの場合もそうでした。現代もそうです。しかし、肝心なのがそれらの問題をどう考えるか、どう取り組むかです。

パウロも世界宣教に取組中、様々な問題に直面しました。今回の箇所の背景がそのような問題の一覧です。「・・・牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」(Ⅱコリント11:23-28)と、パウロのあげた多くの深刻な問題を考えると、驚きませんか。パウロがこれほどまでに大変な問題に直面しつつも、なぜ福音宣教を更に前進できたのかと、疑問に思いませんか。

その秘訣がそれに続くパウロの問題への考え方、取り組み方にあるように思います。これらの多くの問題を紹介した後、「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」とパウロが言っています。

でもなぜ、パウロは自分の弱さを誇りにしているのでしょうか。その答えが次の章にみられると思います。

パウロが自分の弱さを誇りにしている理由

「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Ⅱコリント12:9,10)

弱さそのものを変に誇る者もいますが、「誇る者は、主を誇りなさい。」(Ⅱコリント10:17)とも言っているので、パウロは決して自分の弱さそのものを誇りにしているのではありません。むしろ自分の弱さを自覚することによって与えられる主の力を誇りにしているのです。世界宣教前進には主の力が必要不可欠です。だからこそ、パウロがこれらの問題に甘んじたのではないでしょうか。

問題を通して主が働いて下さる

世界宣教には問題がつきものです。これが主の御旨であり、ご計画です。これらの問題を通して主が働いてくださるのです。でも、私たちは荒野のイスラエルの民のように問題と直面するとき、主に頼るより、つぶやいてしまいがちです。しばしば、問題そのものに心が奪われ、主を仰ぎ見る事をすっかり忘れてしまいます。しかし、パウロは違います。直面する問題を世界宣教の妨げとは考えていません。いや、むしろ、これらの問題を通して、自分自身の弱さをより自覚し、主からの力を更に求める機会としているのです。これこそがパウロの福音宣教の前進の秘訣の一つではないでしょうか。

パウロがピリピの町でむち打たれ、獄に入れられても、賛美をして夜を過ごします。そのような中、主が大いに働かれ、獄吏とその家族が救いにあずかり、パウロが釈放されました。主は問題を通して私たちに宣教の機会を与えようとして下さるのです。確かに世界宣教に問題はつきものです。 しかし、それで悩み、落ち込んではなりません。いやむしろ、福音宣教の前進のため、主が備えた貴重な機会としてとらえるべきです。聖書を読んでも、教会史を学んでも、世界宣教の更なる前進のときとは、案外問題の多いときです。

世界宣教は人の力によるものではない

でも、しばしば福音宣教前進の秘訣を勘違いします。近年、世の信頼や好意をえる事が宣教前進の秘訣と勘違いする人も少なくありません。世の信頼と好意をえようとするのは大きな罠です。パウロの時代もその罠に陥った偽教師も少なくありませんでした。この箇所もそのような偽教師へのパウロの反論です。この偽教師は高慢で、パウロの弱さを軽んじています。しかし、世界宣教は人の力に寄るものではないとパウロは確信しています。

「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」(Ⅱコリント10:4)

とあるように、世界宣教を前進するには神の力が必要不可欠です。だからこそ、「『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』」(使徒1:8)。と主が世界宣教に必要な力を私たちに約束して下さいました。

しかしながら、時として私たちは高慢になり、自分の弱さを忘れ、自分の努力により、福音宣教を前進させようとします。だからこそ主が私たちに弱さを思い知らせるため、様々な問題をお与えになるのです。

不信仰なつぶやきはやめよう

いつの時代も私たちの手に及ばない問題を主が備えて下さるのです。現代もそうです。どの教会、伝道所も、どの牧師、伝道師、宣教師も、どの兄弟、姉妹もが問題を抱えています。しかし、私たちがその問題をどうするかが真の問題です。問題についてつぶやくのか、それとも主に感謝しつつ、助けを求め、主の力を得るのかが問われているのです。その選択次第で、後の結果が大きく変わります。「◯◯兄が教会を去った」、「伝道が思うように行かない」、「献金が足りない」、「奉仕者が少ない」、「病気で苦しんでいる」、「人に裏切られた」等々、福音宣教には問題がつきもの。確かに私たちは弱い。このような大変な問題の中、パンクしそうです。でも、主は今も御座に座しておられます。主がこの問題をも許され、用いようとしておられるのです。不信仰なつぶやきを止めよう!

むしろ、パウロと一緒に

「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Ⅱコリント12:9,10)

と言おうではありませんか。心からそのように言えるようになれば、主は私たちを益々祝福し、世界宣教が尚も前進するに違いありません。

上記のメッセージを誤解しないで下さい。著者が読者を見下して、書いているのではありません。著者自身の経験から書いたものです。残念ながら著者も時として直面する問題についてつぶやいたり、自らの力で宣教を前進させようとします。著者にも必要なメッセージでしたので、そのようにご理解下さるよう、お願いします。

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ピリピ教会の目線

佐倉聖書バプテスト教会牧師 奥村 明郎

okumura

今年の第91回箱根駅伝で青山大が優勝しました。第1回大会から出場しているチームながら、初優勝でした。例年にない驚きをもって話題を独占しています。その理由は初優勝ながら、新記録で最も速く走り、完全優勝したからです。一時は廃部になろうかという時もあったほどに部員の意識は落ちていたそうです。その意識を変えたのが現監督だったのです。監督は部員の目線を変えるために力を注ぎ、練習も工夫し、14年で頂点に立ったのです。

その目線はまだ予選で敗れ、本選(正月に箱根駅伝に出場できるチームは20チームだけ)に出られない時から、本選に出場し、優勝する事を意識させてあらゆる努力をしていたのです。

目線(目標)をどこに置くかによって、意識が変化し、積極的に練習に励むようになっていったそうです。

パウロの目線

伝道者パウロはイエス・キリストの御計画、すなわち福音を広める事(全世界に福音が語られる)が必ずイエス・キリストの日までに完成することを確信していたのです。2000年も昔の世界です。パウロの目に入っていた世界はどこまでだったでしょうか。21世紀の今日の地球全体が入っていたとは考えにくいのですが、少なくともパウロが知っていた世界はローマ帝国の支配範囲は見えていたでしょう。彼はイスパニア(ローマ15:23 編集者注・スペインのこと)まで行こうとしていたのです。

しかしパウロの目線は自分が見えている範囲だけでなく、イエス・キリストが語られた「全世界、造られた全てに」という信仰による目線を持っていたのです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)

ピリピ教会の目線

パウロは、自分自身の目線はピリピ教会にも主によって与えられていることを喜びました。「あなた方が最初の日から、今日まで福音を広めることに、あずかってきたことを感謝しています(ピリピ1:5)」

ピリピ教会はパウロがヨーロッパに渡って最初に福音を語った町でした。(使徒16:12)まだまだ小さな群れだったと思われます。しかし彼らは遠く離れたパウロ、しかも囚人として捕えられていたパウロのために心を配り、祈り、援助し、彼を助けるために伝道者エパフロデトを遠いローマに派遣したのです。地理的に見ればヨーロッパの東の果てであるピリピから、西の果てであるローマに常に目は向けられていたのです。これは、キリストにある信仰によらなければ持つことはできないでしょう。

パウロの証しによればピリピ教会と同じ様な援助をしてくれた教会は他はになかったと告白しています。(ピリピ4:15)ピリピ教会の志はパウロの志と一致していたのです。すなわち、同じところを見ていたのです。

私達の教会の目線

箱根駅伝は10人でタスキをつないで走ります。それぞれの困難さは違うけれども10人が一致して同じ目線を持ちながら自分の役割りを果たすのです。一人でも立ち止まってしまうとそこで終わりなのです。そこには、互いの確信が必要です。彼らも同じ思いで走ってくれると信じるのです。パウロは「完成」を確信していました。しかし、自分一人で完成できないことも知っていました。パウロは教会に同じ志を与えて下さることを信じて、自分の役目を果たそうとしたのです。「自分の走るべき道のり」を知っていました。

佐倉教会は小さな群れですが、同じ目線をもって自分お役目を果たそうと歩んできました。入江宣教師を派遣したとき、わずか6人の群れでした。会堂も弑さな借家でした。経済も小さな規模でした。このような状況で宣教師を派遣するのですから、これから継続して支援できるだろうか不安がありました。しかし、この働きは主が導いて下さったのなら、完成してくださると信じて自分の役目を果たそうと歩んでまいりました。

主は支えて下さいました。教会内でも様々な議論がありました。しかし、主は実際、目に見える形で励まして下さいました。会堂が与えられ、牧師館も備えられ、墓地を持ち、昨年11月には宗教法人の認可を受ける所まで整えて下さいました。そして千葉ニュータウン開拓伝道所を出し、献身者をお起こし、伝道の最前線に遣わして下さっています。御言葉の約束通り、福音を広げて下さっているのです。

私達佐倉教会はパウロの見ていた完成を同じ様に見させて頂き、先人からタスキを受け、次の走者にタスキを渡すためにひたすら前を見て走り続けたいと願っています。

平和の器

主よ 私をあなたの器とし憎しみしかないところに
愛の種子を蒔かせて下さい
痛みしかないところに 赦しを
疑いしかないところに 信仰を
絶望しかないところに 喜びを
どうかみなぎらせて下さい

慰められることを願うのではなく
慰める者となりますように
理解されることではなく 理解することを
愛されることではなく 愛することを
心から求める者となりますように

私たちは与えることにおいて受けるのです
赦すときにみずからも赦されるのです
そして死において永遠の生命に目覚めるのです

―フランチェスコの祈り ― 「祈りの花束」より

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次の旅に送り出す責務

平塚聖書バプテスト教会牧師  三谷 浩司

mitani

「愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行なっているいろいろなことは、真実な行ないです。彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました。あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです。彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。」 第3ヨハネの手紙5〜8節

JBBFの宣教師は、概ね4年に一度「ファーロー」すなわち宣教報告および祈りと支援の要請のための諸教会訪問のために本国に帰国することが海外宣教規約で決められています。しかしファーローの目的はそれだけでなく、宣教師および宣教師家族の健康管理と休息という大切な目的があるのです。

宣教師の困難

海外宣教地での生活は、「宣教ハンドブック」にも掲載されているように、日本にいる私たちには分かりにくい多くの困難があります。

まず第一に、生活環境の違いです。宣教地の気候・食べ物・臭い・騒音等により、身体的にも精神的にも相当な負担がかかります。

インドネシアのように一年中暑い国や、反対にロシアのように冬は極寒になる国では、健康管理が非常に難しいです。食べ物の味付けの違いで美味しく食べられないとか、衛生面において安心して食べられないこともあります。発展途上国では生ごみや汚物が散乱して、ひどい臭気が漂っている地域もあります。イスラム教国ではモスクから「コーラン」の朗読がスピーカーから大音量で流れてきます。私たちはそうした地域に旅行で数日間滞在しただけで、うんざりしてしまうものですが、宣教師は何年もそこに留まって生活し続けなければならないのです。

第二に、言葉や思考や常識の違いです。現地の人と意思疎通が取りにくいことや、日本では考えられない慣習や良識の大きな差はかなりのストレスになります。

たとえば、日本人は時間に割と正確ですが、ウガンダのように時間にルーズなところもあります。「ボランボラン(急がないでゆっくり)」と言って、礼拝開始時間になってもほとんど人が集って来ず、30分以上遅れて礼拝が始まることなど日常茶飯事だそうです。きっと私の性格だったらイライラして我慢できないと思います。

また以前インドネシアの入江宣教師から、教会の備品を信徒が勝手に持ち帰ることが良くあると聞きました。それは、持てる者は持たざる者に分け与えるのは当然だという考え方があるからだそうです。

第三に、経済的な問題です。宣教師は現地でアルバイトすることはできないため、すべて諸教会からのサポートに拠り頼んでいます。まさに「異邦人からは何も受けていません」です。

しかし毎月のようにサポート額の増減や為替の変動があるため、経済管理が非常に大変です。この2年間で20%以上円安になりましたが、サラリーマン的に考えると20%の減収は死活問題です。それに医療制度の違い、食料品や生活必需品の外国人価格などで、思わぬ出費を強いられることもあります。

実際、かつての円高の時に経済的な問題で日本から本国に戻ったアメリカ人宣教師もいたと聞きます。

第四に、子弟の教育の問題です。宣教地ではよほどの大都市でないと日本人学校がないケースが多く、もしあったとしても学費がとても高いです。ホームスクールという方法もありますが、おもに勉強を教える立場になる宣教師夫人は、そのために週日は毎日数時間を消費する上に家事と宣教の働きもあるため、その負担の大きさは計り知れません。

宣教師およびその家族は、そうした多くの様々な身体的・精神的な負担による疲れや経済的な不安を抱えつつファーローのために一時帰国していることを、受け入れる教会は良く理解しなければなりません。

ガイオのもてなし

そしてガイオのように、キリストの御名のために出て行った宣教師たちを「神にふさわしいしかた」で次の宣教の旅に送り出さなければなりません。

当時の宣教師(あるいは巡回伝道者)は、パウロが「幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(第二コリント11:26-27)と証しているように、非常に困難な中で宣教の働きをしていました。ガイオはそのような宣教師たちの労苦を良く知っていたので、「いろいろなこと」を行なって彼らをもてなしたのです。

それがどのようなもてなしかは記されていませんが、きっと、彼らのために美味しくて栄養価があり体に良い食事を用意したり、ぐっすり眠れるように細やかな宿泊の配慮をしたり、気分転換できるような楽しいイベントに連れて行ったり、時には彼らの抱えている悩みや苦しみをじっくり聞いて重荷を少しでも軽くさせたりしたことでしょう。そうしたガイオの愛のこもったもてなしは、その兄弟たちが他の教会の集まりであかしせずにはいられないほどの、忘れがたく感謝に満ちあふれるものでした。おそらく彼は、自分も宣教地にいるような気持ちで彼らを思いやり(ヘブル13:3)、キリストの愛と真実をもって誠心誠意もてなしたに違いありません。

宣教師も私たちと同じ弱さをもった人間ですから、身体的・精神的な疲れや経済的な心配から、「もう宣教地に戻りたくない」とファーロー中に思う時もあるでしょう。

しかし、そんな状態のまま宣教地に旅立つならば、疲れ果ててリタイアする危険性が高くなります。ですからファーローを受け入れる教会は、ガイオがしたように宣教師が身体的にも精神的に十分な休息を取って霊的な力を充足できるように愛と思いやりをもってもてなし、また経済的な不安を抱えずに次の宣教の旅に出られるように必要を満たすことにより(テトス3:13)、ファーローに来訪した宣教師が「よし、また宣教地に行くぞ!」と思うことができるように力づけ、励ます責任と義務があるのです。

そして、その責務を果たすことにより、私たちは真理であるキリストの福音を宣べ伝えるために全世界に出て行く宣教師たちの「同労者」すなわち「ともに行って働く者」となる恵みにあずかることができるのです。

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祭司の王国

すずらん聖書バプテスト教会牧師 エバンズ・トニー

evans「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」出エジプト記19:5-6

シナイ山で与えられたみことば

こ のみことばが与えられた時、イスラエルはシナイ山に到着していて、400年途切れていた神との関係が改められようとしていました。彼らはアブラハム、イサ ク、ヤコブを通して特別な契約をいただいていたわけではありますが、400年のエジプトでの生活によって、それに対する意識が薄くなっていました。天の神 よりもエジプトの偶像を日々見ていたでしょうから、彼らの『信仰』は、どれだけこの世に染まっていたことでしょう。

出エジプトであらわされた神の力

エジプトを出る前に、彼らの信仰が大きく試されました。モーセとパロとの間のやり取りが続く中で、天の神に対する信仰と大きな疑問が交互に続く状態でした。各災害がくることによって、エジプトの神々の無力さがはっきりと証明されました。

最後に、過ぎ越しの時、モーセを通して語られた神の言葉に従うことによって、天の神に対する信仰が徹底されました。子羊の血、そこだけに救いがあったのです。

他にも奇跡的なエジプトからの解放、紅海の横断、エジプト軍の全滅、シナイ山までの様々な試練もありました。

一つ一つを通して、神の愛、忠実や全能がはっきりと見せられました。

そして今、契約によって神は彼らの生き方を整えるだけでなく、一つの使命を与えようとされています。

イスラエルに与えられた使命

その使命とは?

祭司の王国になること、聖なる民となることでした。十戒を始め、与えられた律法は彼らに聖さを定義するものでした。神様の心、罪、贖い、和解、その他に多くの大事な概念が示されました。

「祭司の王国」の意味とは

しかし、祭司の王国とはどういう意味でしょうか。祭司とは、人と神の間の仲介の役を果たす人のことです。祭司職に任命されたアロンを含むレビ族は、他の十一部族と神との間の仲介を務めました。

同じように祭司の王国とは、全イスラエル人が祭司役を務めることによって、神のことが他の国民に伝えられる、という意味ではないでしょうか。

この使命を果たすために、まず彼らは自分を聖く保ちながら、自分の置かれた場所で、神に与えられた仕事を成し遂げるべきでした。すなわち、彼らの目の前にあるカナンの地に入り、そこの土地を征服し、そして初めて神の素晴らしさを伝え始めることができたでしょう。

しかし彼らは失敗してしまいます。完全な征服もできず、聖さも保てず、結局は自分と神様との間の関係が十分に構築できませんでした。基礎の部分で失敗したのですから、祭司の王国の役目が彼らの意識から消えたのも驚くようなことではありません。結果として彼らは自分たちの周りにいる敵に圧倒され、国内の一致や敵からくる攻撃に対処することだけが存在の目的になってしまい、外の必要に対する働きかけがほとんどできませんでした。

ダビデは詩篇で祭司の王国としての務めを謳っていた

しかし詩篇を見ると、イスラエルに与えられていたこの使命に関する様々なことをダビデはよく理解していたことがわかります。

①地獄の恐ろしさを。「悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も。」(詩編9:17)

②自分たちが得ている祝福によって、他の国々が神の救いを知るべきことを。「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。セラ それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。」(詩編67:1-2)

③神のご計画はイスラエルだけでなく、すべての国々まで至るものだと。 「 彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。」(詩編72:17)

残念なことに、ダビデの信仰とビジョンが後の世代に引き継がれることはなく、祭司の王国の働きは果たされませんでした。

エゼキエル書を読むと、「彼ら(もしくはおまえたち)は、わたしが主であることを知ろう。」のようなことばが70回以上繰り返されます。

神の切なる願いとは

神の切なる願いは、ご自分が神として知られ、神として崇められることでしたが、イスラエルはそのことに対する意識も失い、それに伴う使命も失っていました。

ですから何も驚くことではないのです。神様が、古い皮袋であるイスラエルに、新しいぶどう酒であるご聖霊を入れようとしなかったことは―(マタイ9:17)

また、神が異なった舌により、信じないイスラエルに語り、また裁かれたことは―(Iコリント14:21-22)

さらに、イスラエルに与えられた祭司の王国の責任が、今度は教会に移されたことは―(Iペテロ2:9)

この終わりの日にこそ、私たちはイスラエルの失敗から学び、自分に与えられた使命を果たそうではありませんか!

祭司の務めを自分の存在の意義として力強く握り、私たちにとってのエルサレムとユダヤ(日本)から始まり、サマリヤ(アジア)や地の果てにまで、福音の光を明るく輝かせようではありませんか!

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尊い救い主の御名を賛美いたします。

いつも台湾宣教の祝福と前進、そして私たちを覚えてお祈り下さり心から感謝致します。

ガス爆発事故

日 本でも報道されたのでご存じかと思いますが、8月1日未明、ここから1キロほど離れたところで大規模なガス爆発事故がありました。爆発時は地震かと思うよ うな衝撃波がここまで届きその威力に驚きました。市内の幹線道路の地下に敷設されていた石油化学製品の原料になるガスを圧送するパイプから更にその下に設 置されている排水路にガスが漏れ出て、死傷者350人以上、爆発で破壊された道路の全長6キロ、被害範囲3平方キロ、復旧まで少なくとも半年以上はかかる 大事故になりました。幸い、教会に来られている方、以前来られていた方も含め被害はなく、安否や被害を心配し電話やメールを下さった方に感謝しています。 しかし、直接被害に遭った方々、爆発でライフラインが破壊され生活できない方々は暑い中、学校の体育館での避難生活を余儀なくされ、更に最近の連日の大雨 で爆発で道路に出来た巨大な溝は川のようになっているので、二次被害を案じています。

事 故被害そのものは時間が経てば元通りになりますが、問題は被害に遭った人、そうでない人も含め、心に残った傷です。この事故の少し前、高雄から離島に飛び 立った飛行機の墜落事故があったこともあり、爆発事故後出会う皆さんが発する言葉から心にどれほどの傷を受けたか分かります。折しもこちらは「鬼月」(グ エユエ)。日本のお盆のようなものですが、こちらでは鬼が出てきて災いをもたらすと言われていて、今年は例年になく熱心に祭祀が行われ、今回の事故は人々 の心をますます真の神から遠ざけるものとなっています。どうぞ、災害復旧のみならず、主が私たちの働きを用いて下さり、一人でも多くの台湾の人々が真の神 を知り、救いの恵みに与ることが出来るようお祈り下さい。「神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってく ださい。」 コロサイ4:3

お母さんと娘さんのためにお祈り下さい

一人の女性は教会案内をを見て、今年初めから教会に来 て下さっています。以前台北の教会に行かれていましたが、教会の人間関係に傷つき、実家がある高雄へ戻ってきました。最近ようやく仕事が与えられました が、土日出勤しなければならないこと多く、職場の人間関係もあり、祈らされています。

先日、70才になるお母さんを誘って教会に来られました。お母さんは以前カトリック教会に行かれていたことがありますが、今は民間信仰を持たれています。どうぞ、救いの為にお祈り下さい。

御教会の上に主の祝福が豊かに注がれますように

2014年8月

堺  秀 一

働き手を送っていただく祈り

横浜聖書バプテスト教会宣教牧師 山宮 利忠

yamamiya「そのとき弟子たちに言われた。収穫は多いが働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」  マタイ9章36〜38節

「あなたがたは、「刈り入れ時が来るまでに、未だ四か月ある」と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて刈り入れるばかりになっています」  ヨハネ4章35節

交わりのある諸教会が、世代の交代の時期を迎え、確かに働き手としての伝道者の少なさを痛感させられている時であり、各地で「働き手を送ってください」という声を聞く事が多くなりました。海外に遣わされた宣教師からも、「もっと多くの宣教師を送り出してください。」という願いや、現地の教会の牧会を委ねる牧師の必要があって、その養成のためにご苦労されている現状をお聞きします。

今後、ますます福音宣教の為、主のお体なる教会の養いの為に仕える牧会者としての働き手の必要が増すことになるでしょう。

主は、ここに働き手が少ないと言う事と、畑は既に刈り入れる時が来ているという、二つの重要な点を指摘しておいでです。

第一に、畑は既に色づいて刈り入れるばかりになっている。

働き手を送り出していただく為に、「収穫は多い」と言う主のおことばに、しっかり耳を傾ける必要があります。

確かに、巷を見れば数え切れない群集が滅びに向かって突進している姿を目にし、それとは逆に救われる魂の少なさが目立ちます。しかし、畑は既に色づいて刈り入れるばかりになっていると言う認識が、私にあったかと言うとそうではありませんでした。

実を結ばない現状に、疲れ果て、収穫の少なさに落胆が先立ち、収穫の少なさに多くの理由をつけては自らを納得させようとする自分がありました。

主の御目からご覧になれば、魂は、救いの必要が既に満ちて色づき、救いを待っている多くの魂があることになります。

パウロは、堕落の町コリントにおいて、その伝道の困難さの故に「弱く、おそれおののいていた」(1コリント2:3)時、主は、「恐れないで、語り続けなさい。黙っていてはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、私の民がたくさんいるから。」(使徒18:9)と励まされました。主の約束の中に「この町には、わたしの民が多くいる。」と言うお言葉はなんと大きな励ましになるお言葉でしょうか。私の見る目では、救われるものが少なく、事実、救われるものは、少ないのです。しかし、刈り取らない魂が多くあると、主はおっしゃるのです。

収穫の主から見れば、刈り取られない穂は、やがて腐って役立たないばかりか、害になり、漁る魚が沢山いながら取り入れない魚が沢山あれば、なんと主のみ心を痛めることでしょう。

実を結ばない現状に、疲れ果て、収穫の少なさに落胆が先立ち、収穫の少なさに多くの理由をつけては自らを納得させようとする自分がありました。主の御目からご覧になれば、魂は、救いの必要が既に満ちて色づき、救いを待っている多くの魂があることになります。・・・願わくは、主のお声を聞いて、収穫の畑に遣わされる者が多く、召し出され、主の御心に従う方が起こされますように。

私は、静岡県の清水で子供の頃過ごしました。清水港は貿易港であると共に、漁港でもあり、私の近所には漁師の方が多く、威勢の良い声が毎晩のように聞こえてきたものです。特に漁の多い大漁の時には、その威勢は、際立って大きいものでした。しかし,漁がない時の彼らは、一声も発することなく、真に静かなもので、「ああ、今日は、漁がなかったのだな。」と、すぐに判ったものです。天候にも左右され、漁の場所にも左右されるのでしょう。しかし、漁がなければ、彼らの死活問題なのです。なんとしても魚をとらなければなりません。

人を漁どる漁師とされた伝道者が、漁をする事をもって喜びとし又、生きる糧を得る事が出来ます。刈り入れるばかりになっている畑、多くの魚が群れている海、そこに必要なのは、この主のおことばでありましょう。未だ早い、ここは魚がいない、少ない、難しいと言えば、主のおことばに反する事になります。

私は、畑が色ずいていることは感じていても、収穫は、多いという強い確信をもって主に御仕えしてきたかと問われると、真に怪しいものです。私の目には収穫は少ないと見えても、主の御目には多いのです。収穫の多さを信じて働くことこそが、御心にかなった働き方なのでしょう。

第二に、働き人が少ないのです。

主の働きと、魂の刈り入れのための働くにつく人が少ないと、主は仰います。収穫は多く、刈り入れるものも多いのに刈り取る仕事をする人がいないということは、大問題です。

私は、これまでの牧会で、働き人を送ってくださいと真剣に祈ってきただろうかと振り返ってみると、そうではなかったなと、反省せざるをえません。

もちろん献身者の召しは人が与える事の出来ないものです。さらに、献身者の指導は、多くの時間と手間と犠牲が必要となります。いきおい、真剣に働き人を送ってください、私の教会から働き人を起こしてください、と祈ることが消極的になります。

主が働き人を起こしてくださるのであれば、主がお守りくださると信じる事こそが、私のあるべきあり方なのでしょう。主が責任を持ってくださると信じる事は知っていてもなかなか出来なかったのが現実でした。伝道者の働きの困難さを知れば知るほど、働き人を送って下さいと祈ることが難しくなったと言うわけです。

涙を流して出て行く、泣きながら束を抱えて出て行くことばかりに心を捉えられて、喜び、叫びながら帰ってくることへの強い思いと信仰が必要でした。また、喜び叫びながら帰ってくる働き人の姿と模範を多く見てこなかったことも、その原因の一つかもしれません。

「涙と共に種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ,喜び叫びながら帰ってくる。」(詩篇126:5)

第三に、祈ることです。

魂を主の御元にお導きする事のために、私達のできることは、まず、祈ることだと主は仰います。遣わしてください、と祈ることの中に、私の教会から誰かをと言う事だけではなく、わたくしも刈り入れの畑に遣わしてくださいと、祈る聖徒が一人でも多く必要ではありませんか。もしあなたが、主のおことばを受けて、多くの刈り入れが待っている、はや色づいて刈り入れるばかりだと言う事を信じる事ができれば、真剣に祈らねばなりません。誰かではなく私も刈り入れの畑に遣わしてください、と祈る必要があります。

「私は、だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。と言っておられる主の声を聞いたので、言った。ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6:8)

願わくは、主のお声を聞いて、収穫の畑に遣わされる者が多く、召し出され、主の御心に従う方が起こされますように。

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太田聖書バプテスト教会牧師 能 吉雄

no1. 私が初めて「海外宣教」について知り学んだのは神学生の3年の時で、一年早く卒業された丸山一郎師が教鞭をとって下さいました。主の大命令はすべての教会・すべての教役者・すべての信徒に対するもので、教会の大小に係わらず、その義務・責任・命令から逃れる事が出来ない事を知らされました。今考えると、神学校における海外宣教教育がどんなに大切か、しみじみと感じさせられます。

2. その頃は、数名のアメリカからの宣教師が熱心に活動しておられましたが、なぜ宣教師が日本におられ、どのような動機で、どのような目的で活動しておられるのか、またその支援体制がどうなっているのか全くと言ってよいほど知りませんでした。ましてや、この群れには海外宣教委員会もなければ、日本人の宣教師もおられず、自分とどんな関わりがあるのかもつかめておりませんでした。「海外宣教」がどんな意味があるのかを悟るにはまだまだ時間と訓練が必要でした。

3. この未知な海外宣教に対して理解が余りにも不十分であっても、海外宣教が主によって与えられた生涯の自分の責任として捉える事が出来たのは、自分の「信仰の質の変化」が大きな要因であったと思っております。信徒時代から神学校に入学して一年の夏休みまでの間、私はローマ7:14-24、特に「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである」・「私はなんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死の体から、私を救ってくれるだろうか」との自覚に苦しんでおりました。と言うのも、イエス様がマルコ7:20-23「人の心から悪しき思いが出てくる…」と言われた罪の自覚は小学生の時からあり、神学校に入ってからはますます罪の自覚が増し加わり、ひたすら十字架の主を仰ぎ見るばかりでした。「おお主よ!お赦しください。もう一度、頑張ります」の連続。「信仰とは苦しむものなり」。当時の母教会の牧師に告げた心の内でした。個々の罪が問題なのではない。私自身がいけないのだ。しかし、この問題に対して根本的な解決の時がやってきました。Ⅱコリント4:10~11に触れた時、大きなショックを受けました。これらの罪に対してどうしようもない私であるからこそ、栄光の主は私の心の中に宿り、私の新しい命となっておられるのだと悟らされた事です。栄光の主の命は私の命そのもの。その時から「私が頑張ります」と自分の力で何かをやるのではなく、「やらせて頂く」と言う自覚に変化しました。もはや自分の無力さ・愚かさに悩むのではなく、こんな私だからこそ、栄光の主は私の内側に宿って下さるのだという大きく意識の変化がありました。この時から「信仰とは喜び・やすらぎ・恵みなり」となったのです。その結果、主の権威は自然な形で私の中に形つくられてきました。個々の罪の自覚しかなかった頃とは比較のしようがないくらい、主への信頼は深められていきました。この観点から私の海外宣教を見つめなおしてみると、主の大命令は、私の理解の深さや体験と関係なく、当然な主のみ心として私の内に定着しておりました。

主の大命令にあるように目を外に、特に海外宣教に向けるようにしましょう!そこにおのずから「終末の時代」にもかかわらず活力に満ちる教会の残される道が開かれていくと確信します。

4. 海外宣教が主により私に課せられた生涯の私の使命としてゆるぎなく自覚された事の次の大きな要素は、副牧師時代の10年間の個人伝道・訪問伝道の徹底的な訓練を受けた事でした。魂を捕らえた時の喜び・感動は「水汲みし僕は知れり」でした。この魂の収穫の喜びと共に苦しさ・辛さ・悲しさ・困難さ・辱め・孤独感を数知れず体験した事でした。この体験が国内開拓ばかりか宣教師の異国での苦労の如何ばかりかを肌で感じ取るものとなりました。

5. 太田教会の会堂には私が牧師として就任して以来、掲げておりますスローガンがあります。「私達の教会の最高の働きは世界の宣教である」。これはカナダ・トロントの故オスワルド・スミス師の言葉です。主の大命令の精神を的確に表現しているものとして、私の生涯の座右の銘として受け入れると共に、牧会の基本姿勢としております。このスローガンを掲げるに当たり、海外宣教に関わる一つの大切な決断を経験しました。主の大命令に応答するために、私は具体的にどうすべきなのかという点でした。すべての教会・すべての信徒は、誰しもこの大命令と向き合わなければならないのだけれど、私はどうすべきなのだろうかと問われた事です。この大命令に対して二種類の応答があります。一つは、私自身が宣教師として出て行くという点で、この事は長い間の祈りの課題でした。そして得た答えは国内に留まる事でした。その代わり私が国内に留まるのは、自分の好みに関係なく海外で労する宣教師を経済的にも霊的にも支援する事でした。その働きを誠実に取り組む教会を養い育て、かつ私に替わって出て行く宣教師を育てる事。これが国内に留まる私の責務であると確信しました。この決断がスローガンを掲げた理由です。それ故、就任して間もない頃、開拓伝道以上に困難な状況の中にあって教会会計が赤字になった時に牧師給を削っても宣教師への約束献金を護り続ける事の出来た理由でした。後程、教会会計が満たされるようになってから補填させてもらいましたが。その重荷の延長線上に娘の献身がありました。

6. 最後に取り組んだのが、教会として宣教師の働きに対する「執成しの祈り」を継続させる事でした。当初、諸集会の中の数々の祈りの中に、宣教師の事も加えさせて頂いておりましたが、宣教師の数が増し加わるに従い、それが困難である事に気がつきました。JBBFの海外宣教委員会に出席したおり、祈りのグループを作る事の大切さを知らされ、教会内において「MPBの時間」を設ける事にしました。毎月第4主の日の午後の礼拝を海外宣教の祝福を求める時としました。幸いにも教会内に宣教委員会がありましたので、委員達が協力分担して毎月の宣教師からの報告を整理し、祈りの表としてまとめ、口頭による補則説明を加えながら、宣教師の現状をなるべく詳しく理解出来るように心を尽してくれました。その忠実な労苦により、教会としての海外の情熱を育て、継続させると共に、信徒たちはその報告の裏に秘められた苦しみや問題点にも思いを馳せるようになりました。この祈りの形が出来てから早や20年以上になりますが、今も教会としての海外宣教への情熱の原動力となっております。

7. これらの事柄を顧みて、海外宣教がキリスト教界全体でいよいよ盛んとなるためには、自分の神体験が如何なる深みのものであるかをもう一度考え、栄光の主が自分の命であることを一人一人が自覚する事ではないでしょうか。ガラテヤ2:19,20は、私の体験・証しだと自覚する処から主のみ心へのゆるぎない服従と忠誠が養われていくのではないでしょうか。そして教会の中に個人伝道・訪問伝道の何であるかを体験しなおす処から、海外宣教への情熱は新たにされてくるのではないでしょうか。これらは教会の若返りと成長・信仰の伝承そのものへと波及していくと確信しております。

諸教会の皆さま!これからの祖国は、様々な混乱の時代へと巻き込まれていくと思われます。北朝イスラエルのように偶像崇拝がますます盛んになり、福音宣教の困難は度を増していく事が予測されます。だからこそ明確な聖書信仰を確立し、個々の教会・信徒が「私は自分の救い主を知っている」と告白し、主の大命令にあるように目を外に、特に海外宣教に向けるようにしましょう!そこにおのずから「終末の時代」にもかかわらず活力に満ちる教会の残される道が開かれていくと確信します。

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