過去の宣教メッセージ
深いあわれみの心を
港北ニュータウン聖書バプテスト教会牧師 鹿毛 愛喜

また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。 マタイの福音書9章36節
3月に牧師職を引き継ぎ、新米牧師として歩み始めた矢先、新型コロナウイルス感染拡大に伴う様々な対応に迫られ、戸惑いの連続でした。牧師として招聘されてから今日まで、次の3つのことを思わされています。第一に、教会の主はキリストご自身であるということです。そして、第二に、教会に住んでおられる御霊によって兄姉を取り扱い、内的に造り変えることを通して、日毎に教会を建設されているということです。第三に、牧師交代は教会としての宣教の働き(国内、海外)の継承であるということです。新型コロナウイルスを経験し、私たちは一つの時代の分岐点に立たされていると言えるでしょう。宣教の働きにおいても大きな分岐点に立たされている中で、先立ってくださる宣教の主に「私たちはどのようにお仕えさせていただけば良いでしょうか」と祈らされるのです。
羊飼いのいない羊
今回、マタイの福音書9章35節から38節のみことばに着目したいと思います。大変よく知られた箇所です。イエス様ご自身のガリラヤ地方における伝道活動の中で、イエス様ご自身は人々をどのようにご覧になられたのでしょうか。「彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」(36節)羊飼いのいない羊の群れという表現は、旧約聖書に見られます。エゼキエル書34章では、牧者とされる権威をもった民の指導的立場にあった者たち(王、預言者、祭司ら)が、民を養わず、世話をせず、かえって自らを養うゆえに民を虐げる姿を、牧者不在の状態としているのです。羊にとって、最も深刻で危機的状態とはどのような状態でしょうか。「彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣餌食となった。こうして彼らは散らされた。」(エゼキエル書34章5節)牧者がいないという状態です。羊である民は、外敵に脅かされ、絶えず自らでは満たし得ない欠乏に苦しみ、傷つき弱り果て、養われないゆえに死んだも同然の瀕死の状態に陥るのです。羊にとって、羊飼いがいないということほど悲惨なことはありません。まさに、イエス様がご覧になられたイスラエルの民も、現代を生きるキリストから遠く離れている人々も羊飼いのいない羊なのです。羊飼いのいない羊が、真の羊飼いのもとに帰ることができるならば、羊はいのちを得ることになるのです。教会の目に、キリスト者一人、一人の目に、羊飼いのいない羊の群れが映っているでしょうか。日本のみならず、世界にも羊飼いのいない羊が今も倒れているのです。
イエス様の深いあわれみ
イエス様ご自身は、羊飼いのいない羊の群れを見て深くあわれまれた。見ることによって深いあわれみが生じるのです。私たちの教会は若い世代がこの世界との接点の中で自分の人生を祈り、世界における宣教の現状を知り、羊飼いのない羊を見ることができるように、という祈りからビジョントリップという取り組みを行っています。若い世代が、イエス様がご覧になっているこの世界を実際に見るためです。全ての若い世代が宣教師になるべきであるとは思いません。しかし、全ての若い世代がイエス様の深いあわれみに触れ、それを自らの心とし、派遣されている場所において羊のいのちのために生きることは大切なことではないでしょうか。教会はどのような動機で宣教の働きを担うべきでしょうか。しばしば、イエス様から「良くやった良い忠実なしもべだ」と言われるために、という言葉を聞くことがあります。もちろん、やがてイエス様の御前において、このように言われる教会、キリスト者であるならば素晴らしいことです。私も結果そうありたいと願います。しかし、宣教の働きを担う動機としては、非常に自分本位な動機のように思われないでしょうか。結局、私が称賛されることを求めているかのようです。教会は、イエス様の深いあわれみを動機として、宣教の働きを担うべきでしょう。イエス様の深いあわれみとは、口先だけのあわれみではありません。内臓まで揺り動かされる、激しく疼くほどの同情心です。その深いあわれみは、積極的な関わりを生む、実際に行動を起こさずにはいられなくなるほどのあわれみです。羊飼いのいない死に絶える羊に対して、いのちを得るように、いのちを差し出された真の牧者なるイエス様ご自身の姿に表される愛に他なりません。ある程度信仰歴が長いキリスト者であれば、命じられている福音宣教の緊急性、必要性は繰り返し教えられてきていますし、当然理解されていることでしょう。では、教会はどれほどこの深いあわれみの心によって宣教の働きに突き動かされているでしょうか。このイエス様の深いあわれみに触れることによって、国内において、そして世界へと広がりをもって宣教の働きは前進していくのではないでしょうか。羊飼いのいない羊をご覧になり深くあわれむイエス様の深いあわれみによって、教会は羊のいのちのために派遣されていることを忘れてはなりません。
働き手の派遣のために
深いあわれみの心から、イエス様は弟子たちに次のことを命じられました。「収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(38節)弟子たちに祈ることを命じられているのです。その理由は、「収穫は多いが、働き手が少ない」(37節)というイエス様がご覧になられている現実にあります。まず、私たちキリスト者、一人、一人が収穫のための働き手であることを自覚する必要があります。私たちは自分とは関係のないところで、「働き手を送ってください」と祈るのではありません。「働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われた弟子たちが、次の章ではイエス様によって遣わされているのです。収穫のための働き手のために祈る時に、私たちは自分自身がそのために派遣されている今日を生かされているということを再確認すべきなのです。また、教会が収穫のための働き手を送ってくださるように祈る祈りは、教会建設、教会教育に深く関わっている事柄であることを理解する必要があるように思います。収穫の主は、キリスト者を働き手として派遣される御心をおもちです。それゆえ、教会は完成を目指す歩みにおいて派遣する教会を建て上げ、派遣意識をもったキリスト者を、次世代を育んでいく必要があるのではないでしょうか。定期的に宣教の必要性を訴える集会をもつことも大切でしょう。しかし、教会が、キリスト者一人、一人が毎日派遣されているという意識をもって「働き手を送りたまえ」との祈りの中に、職場で、家庭で、学校で生きることの方がどれほど大切なことでしょうか。収穫という言葉は、魂の刈り取り、救いを必要としている魂のことを意味していると理解できるでしょう。同時に、旧約聖書においては、世の終わり(終末)の審判を指し、神のさばきを指しています。終わりの時に向かう今を生きる私たちは、悠長に終わりの時を待っていてはなりません。時は迫っているのです。それゆえ、熱心になって働き手の派遣のための祈りをささげるべきでしょう。「ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように」と。
主なる神様からの問い
インドネシア派遣宣教師 田村 成幸

「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」 ローマ書8章18節
私達は、今世界中で何故こんな事が起きているのかと、誰かに問いたいと思っているかも知れません。世界の状況は非常事態で大変な事になっています。しかし、聖書や世界の歴史から見てもこれらの事は度々起きており、大変な事ではありますが特別な事ではありません。そして、実は、この様な中で、主なる神様が我々に問うておられる事があるのではないかと示されています。
全てのクリスチャンの「礼拝」に関する問い
まずは、全てのクリスチャンに対する「礼拝」に関する問いです。その事が大切なものなのかどうか、失って初めて分かると言われています。今まさに、これまであった礼拝の機会が失われており、いつ通常通りに戻れるのかどうか見通しが立ちません。これまで普通に礼拝出来る事がいかに大きな祝福であり恵みであったか、と言う事です。
多くの教会がどうやって礼拝するのか、どの場所でどういった形式でするのか頭を痛めています。これは、日本でもインドネシアでも同じ様な問題です。感謝な事は、使徒の時代では会堂のある場所に行かなければ礼拝出来ませんでしたが、今ではウエブサイトでメッセージを聞く事も出来ますし、ネット上で複数の方との交わりも可能になっています。
礼拝の形式も勿論大事なのですが、より大事な事は「礼拝そのもの」ではないか、と言う事です。
今まで当たり前のように行われて来た礼拝が、主の前に正しかったのか、主に喜ばれるものだったのか、主の御前で最上の事としてささげられて来たのか、礼拝よりも奉仕が優先されていないか、と言う問いです。
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23-24)
何度もお聞きになっている通り、礼拝は、ささげる行為であって受ける行為ではありません。自分が教会に来るのは、神様から祝福され恵まれる為(受動的)なのか或いは、神様へ自分自身をささげる為(能動的)なのか、ベクトルが全く違う事にお気付きでしょうか。前者は、まことの礼拝がささげられた結果であって目的ではありません。そして、自分をささげる事が礼拝であり目的であるなら霊とまことによってささげられているか、と言う事も問われています。
そこには献身の思いも大事です。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)
主が、私達の救いの為にご自身の命をおささげになったのですから、同様に私達も自分をささげる事こそがまことの礼拝である、と言う事です。
更に、イエス様の身代わりの十字架と復活によって救われた、と言う事実がより鮮明に覚えられるならば、時が良くても悪くても喜んで礼拝をおささげする事が出来るのではないでしょうか。これら全てを考えた時、果たして今までの自分の礼拝がどうだったのか自然と見えてくるのではないか、また今後どう臨めば良いのかも分かるのではないかと言う事です。
「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか‐‐あなたがたがそれに不適格であれば別です。」(2コリント13:5)
全人類の「命」に関する問い
次に挙げられるのが、全世界の人々の「命」に関する問いです。今、全世界は非常事態で大変な状況です。多くの方が病に陥り亡くなっています。その様な中で考えさせられるのが「命」に関してです。我々が生きている時代に於いてこれ程までの危機はありませんでした。まさしく「命」の危機です。現在、医療機関、医療従事者の方々は不眠不休で働きを続けていますが、それが無ければ甚大な被害に至ります。命の為の素晴らしいお働きで心から感謝申し上げます。しかし、霊的な命の危機は、世界がどの様な状況下にあっても毎日多くの方が失われている状態で火急の時です。
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:26)
ですから、死によってもたらされる事は霊的に命が失われている事を覚えて下さい。救い主イエス・キリストを個人的な救い主として信じていない人は、それが例え全世界を手に入れたとしても永遠の滅びであり、天国への道は、イエス・キリストのみです。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)
この「命」の危機にあって、如何に魂に向き合うかが課題だと思いますが、現実は、思う様な状況になっていません。3密を避けよ、ソーシャル・ディスタンスを守れ、多くの人と集まるな等と、むしろ機会が減っており難しくなっています。また過去もそうであったように、未来に関しても、困難な時代に人々は主の元に来ないと言われており、却って主に反発するとあります。その様な苦難の中でも我々は全世界の為に祈る必要があります。祈らなければ事は始まらず、祈り無くして祝福も成功も勝利もありません。よって、外への行動が制限されているなら、今はより一層祈るべき時なのではないかと言う事です。祈りを積み重ねる事により、時が来れば多くの実を結ぶ事になり、また祈りと共に御言葉により自身の信仰と霊的成長にもつながります。そして、時が良くても悪くても感謝して主にお仕えする事が出来ます。教会に於ける二本柱は「礼拝」と「宣教」です。霊的にも世的にも困難な時代の中で、これらの事がより一層我々の肩にかかっています。
結論
故に、我々は、御言葉により信仰に立つ。御言葉により悔い改める。これらは全てのクリスチャンが出来る事です。そして、御言葉により自分の罪を悔い改め、主イエスキリストを救い主として信じて救われる事は、全世界の人々が出来る事です。これらの事を主は望んでおられるので、主の御心と御旨に沿った歩みをしたいものだと思うのではないでしょうか。皆様の上に、神様の豊かな祝福がありますようにお祈り申し上げます。
コロナ感染中でも圧倒的な勝利者
海外宣教委員長 バーゲット・マイケル

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」ローマ8章37節
諸教会の世界宣教への尊い献金と熱い祈りを心から感謝いたします。
聖書によると主を信じる私たちは、圧倒的な勝利者です。でも、それはこのようなコロナパンデミックの中あってもそうなのでしょうか。冒頭の聖句を中心にそのことについて考えてみましょう。
まず、この箇所の「これらすべてのことの中にあっても」は何を指しているのでしょうか。それは、その先に記されている御言葉です。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。」(ローマ 8:35-36)。コロナパンデミックはまさにこの「困難、苦しみ」と言えるのではないでしょうか。だとすれば、この御言葉により主を信じる私たちには圧倒的な勝利が保証されているのです。
では、この勝利とは何を指しているのでしょうか。例えば、クリスチャンはコロナに感染しないとでも約束しているのでしょうか。もちろんそれは違います。主を信じる私たちは、この世において様々な困難に会います。主ご自身もそうであったように、私たちも主の御足跡に従うなら同じ体験をします。コロナ感染もそのような事例の一つにすぎません。
それでは、この勝利は何を意味するのでしょうか。同じ章の12節前にその答えが記されているように思います。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ 8:29)。私たちは神のお取り扱いにより、キリストの御姿に変えられるという神の素晴らしい御計画があります。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ8:30)とあるように、このことは神の定めと召しから始まり、さらには義認(神の御前に義と認めれる)と、聖化(私たちが聖められ、キリストの姿に歩み寄る)へと進み、最終的に栄化(私たちがやがてキリストと同じようになる)に終わるのです。
主はこのコロナという困難をも用いてくださり、私たちをキリストに似る者へと変えようとしておられるのです。だからこそ、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)と記されているのです。この「益」とは平凡な問題のない生活を意味するのでしょうか。一般的にはそのように考えるかもしれませんが、違います。この「益」とは、キリストに似ることを意味しており、私たちの聖化と最終的な栄化を指しているのです。神が主を信じる一人一人をキリストの御姿に変えられていくのが天の御父の願いです。それが神の御計画であり、御約束でもあります。ですから、やがて主を信じる私たちすべてが必ずキリストに似る者とされるのです。
この御約束を聞くとどのように感じるでしょうか。「私がキリストに似る?いや、それは無理!あり得ない!」そう感じるかもしれません。しかし、そのような神のご計画を保証するのは私たちの努力ではないのです。このご計画を完成させ、保証されるのは神ご自身です。
「無理!」と感じる私たちのために主は次の御言葉を用意してくださいました。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ 8:31-32)。神が私たち信者の味方なのです。その証拠に「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」事実があるのです。十字架上のイエス様の死がこの約束の保証です。最愛のひとり子を私たちの救いのために犠牲にしてくださった程ですから、私たちの救いの御業が未完成な状態のままで投げ出すようなことは決してなさらない。むしろ、その救いを最後まで見届けてくださるのです。あの最終的な栄化(私たちがキリストの御姿に変えられる)まで私たちに恵みを施し、そのことを成し遂げるために働きかけ続けてくださるのです。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ 8:38-39)とあるように、私たちを神の変わることのない愛から引き離すことのできるものは何一つないのです。コロナパンデミックを含めた何一つです。主にある私たちは圧倒的な勝利者となるのです。
コロナパンデミック以前の世界でも、毎日16万人ほどの人々が亡くなっていたのです。また、その多くが主を知らずに滅びていました。これが世界宣教の現状なのです。
コロナ感染拡大により、世界中の人々が頼りにしていたものが一つ一つ奪われているように思います。経済にしろ、健康にしろ、明日の保証は何一つありませんが、平凡な生活に慣れてしまった者はそのことをついつい忘れてしまいます。結局、神がいなくても問題なく生きていけるように勘違いしてしまうのです。私たちの周りにこのような方々が実に多くおります。主を知らずに滅び行く魂が実に多いのです。
コロナパンデミックで感染者数や死者数を毎日見るようになりました。コロナで亡くなった人々が35万人(5月末現在)とWHOが発表しています。本当に大変な数字であり、悲しい話です。しかし、平年の世界の死者数はなんと5800万人です。そう考えると現段階のコロナ死者数は平年の死者数の52時間分にすぎないのです。言い換えれば、コロナパンデミック以前の世界でも、毎日16万人ほどの人々が亡くなっていたのです。また、その多くが主を知らずに滅びていました。これが世界宣教の現状なのです。コロナ感染の中、不要不急の自粛の呼びかけをよく耳にします。確かに不要不急の自粛は必要だと思います。しかしながら、福音宣教は不要不急の一つではなく、むしろ何よりも必要であり、緊急性の高いものです。
コロナ感染により、私たちの日常生活が様々な面で大きく変わりました。コロナ感染の恐怖に囚われている人も少なくありません。また、その気持ちもわからないわけでもありません。気を付けないと、この恐怖に主を信じる者もすくんでしまいます。しかし、今、世の中が必要とするのは麻痺したクリスチャンではなく、主を仰ぎ見つつ、ひたすら福音宣教に励み続けるクリスチャンなのです。主にあって、私たちは圧倒的な勝利者となれるのですから、コロナパンデミックの中にあっても主に頼りつつ、福音宣教の御業に最善を尽くして励んで行きましょう。
救霊の愛を受け継いでいく

札幌聖書バプテスト教会牧師 栢下 献
「すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。』と言って彼の右手を取って立たせた。」 使徒の働き3章6‐7節
冒頭のみことばは、ペテロとヨハネが神殿の「美しの門」の前で、生れつき足の不自由の男と出会った時に語った言葉です。ペテロたちは、主イエスと共に3年半を過ごし、その救霊のわざをすぐ側で見てきました。目の前の一人に目を留め関わるお姿、罪人たちや弱者を見捨てずに助ける主の愛を、幾度となく見て来ました。弱かった彼らですが、主の復活と昇天の後、聖霊に導かれて大胆に伝道を始めました。その時、弟子たちは主イエスと同じ目線をもって宣教を受け継いでいったのです。
失われた魂への関心
ペテロとヨハネたちは「毎日、心を一つにして宮に集まり」(2:46)とありますので、日常的にこの男のそばを通り過ぎていたかもしれません。しかしこの時彼らは、自分たちに施しを求める男を注意深く見つめました。その必要を強く覚えたのです。宣教は、自分の目の前にいる人、助けを求めている人々に関心を持つことから始まります。宣教は、救われて変えられた感謝と主の命令への応答によりますが、次にその思いは、目の前の一人の魂への関心に向かって行きます。羊飼いもなく弱り果てて倒れているような群衆を「主は深くあわれんで」(マタイ9:36)くださいました。ですから主に御手によって立ち上がった私たちも、同じように、身近にいる方々に目を向け、主イエスの御名を語るべきです。倒れていた人が立ち上がって、主を賛美する人生、礼拝する人生に変えられるのを見ることは、何と嬉しいことでしょうか。
私にあるものをあげよう
この時、ペテロたちは「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」と言って、彼の右手をとって立たせました。ペテロとヨハネ自身には、この男の求める金銀や足の問題を解決する力がありませんでしたが、「私にあるものを、あげよう」とイエス・キリストを指し示したのです。私たちには、全ての人の根本的な痛みと悲しみに十分に応える力はありません。命の問題や深い悩みに答える知恵も持っていません。辛い現実を前に励ましの言葉もない時があります。しかし、助けられない自分自身を知りながら、なおもペテロたちのように、キリストこそ人生を変え、生きる力を与えられるお方だと宣言できるのです。この「私にあるものをあげよう」という言葉こそ、教会の宣教の言葉です。またすべてのクリスチャンが共有できる救霊愛の一言、伝えるべき大切な言葉です。
救霊の愛を受け継いでいく
使徒たちのこのような働きと初代教会が始めた福音宣教は、今に至るまで途切れることなくつながり、世界中に広がり続けています。ペテロとヨハネが救霊の思いで差し出した手は、日本でも、全世界の宣教地でも、今も変わらず必要とされています。ですから、救いを頂いた者全てが、日常生活の中でこの愛の行為を受け継いでいくことが大切です。
私が神学生の頃、帰国されていた宣教師の先生に、効果的な伝道方法は何かお聞きしたことがありました。その先生は、『私の国では十分な聖書もなく、伝道の学びもありませんが、信じて救われた方はすぐに、家族、友人、知人にイエス様のことを話し出します。そしてそれが続いて行くのです。』と笑顔で答えてくださいました。それは人の思いを超えた神様のみわざです。しかし宣教師の救霊の愛が、救われた信徒たちに素直に受け継がれているのだと思います。たとえ魅力的な伝道プログラムや時間をかけた準備がされても、そこに救霊の愛がなければ、それは一時の満足だけで終わるのでしょう。
宣教師の思いと一つの地方教会の魂への真剣な祈りと支援があったからこそ、年月を経て、私もまたその思いを受け継ぐことができたのです。
私たちのフェローシップも、福音だけを携えて海を渡られた、数組の宣教師家族の熱い救霊の思いから始まりました。宣教師ご夫妻の日本への思いと犠牲は、主に豊かに用いられ、多くの伝道者が起こされ、今では北海道から九州、沖縄、さらに海外にまで宣教は広がっています。このフェローシップの群れが保たれ、前進してきた一つの理由は、諸教会が主イエスの命じられた宣教を大切に受け継いできたことにあります。
私自身は、牧師家庭に生れ育ち、福音を身近に聞いて信仰が与えられました。しかし、お寺に囲まれた京都で生まれ育った父は、大学生の時に初めて天幕集会で福音に触れました。仏教家庭に育ち仏壇に手を合わせる中で、真の神を知って大きな衝撃を受け、メッセージを聴いてキリストの救いを受け入れました。一人の宣教師の日本人を愛する救霊の叫びが、一人の青年を救いに導いたのです。その後、初期の名古屋教会で伝道奉仕をする中で、牧師と教会全体の救霊の愛に押し出されて伝道者へと導かれました。宣教師の思いと一つの地方教会の魂への真剣な祈りと支援があったからこそ、年月を経て、私もまたその思いを受け継ぐことができたのです。京都、名古屋、千葉を通って宣教のバトンは受けた私は、札幌で福音宣教にたずさわる恵みに与っています。すべて主のなされる御業は不思議です。最初は小さな点から始まったとしても、つながって線になり、やがて面となって発展していくのです。どの時代にあっても、先に救われたキリスト者とその教会が福音を途切れさせず、「わたしにあるものをあげよう」とキリストを証し、救霊を受け継いで行くならば、どんな宣教も点から線、さらに面へと進展しくのだと信じます。
たとえ今、わずかな点しかなく、将来の線や面への展開や道筋が見えない状況でも、ペテロたちのように目の前の一人と向き合い、手を差し出そうと思います。
宣教の実である私たちには、救霊の愛を保ち続け、主のお建てくださった地域教会を、次の世代にしっかりと引き継いで行く責任があります。教会が新しい実を結び、点が線になるよう、次の世代まで福音宣教をつなげていく使命があるのです。
教会に集まる小中学生たちに福音を伝える時に、「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」(エペソ5:16)。の御言葉を覚えます。だからこそ、「主のみこころ」(同17節)を正しく知り、私たちに与えられたどんな小さな機会も、十分生かすよう祈り求めています。今はまだ小中学生の子供たちも、将来、福音を固く握って、救霊の愛を受け継いでいく時が来ることを、私は主に期待して待ち望んでいます。たとえ小さくても、主のための尊い宣教の働きに携わせていただけるのです。すべてのクリスチャンが、目の前にいる誰かの右手をとって立たせる事が出来ます。
さらに、地方教会の足元の宣教を見つめながらも、それだけで終わりにせず、フェローシップ全体が次の世代にどのようにバトンをつないでいくのか、点で終わらせずに展開していくにはどうすればよいのかを、福音を受け継いだ者として、祈って行きたいと思います。
「…さらに地の果てまで」!
調布聖書バプテスト教会名誉牧師 ラバン・ラージャス

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」 使徒1章8節
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)
宣教クォータリーにメッセージを執筆させていただけることは大きな喜びです。世界宣教はバイブル・バプテストの要です。BBFIではDNAとも言います。JBBFの草創期に私は関わらせていただきました。そしてこの70年間の祝福に感謝します。完全数である7の10倍です!お約束通りに、主は私とずっとともに歩んでくださいました!主よ、感謝します!
聖書には多くの偉大な人物、大事件が記されています。しかしイエス・キリストが死に勝利し、墓を征服してよみがえられたという福音ほど素晴らしい出来事はありません。
この出来事が世界中のすべての人に伝えられるべきです。だからこそイエス様は大命令をお与えになったのです。「地の果てにまで、すべての人に伝えよ!」これこそ、天に上げられ、父なる神の右の座に戻るときの主の最後のご命令でした。イエス様は世界中のすべての人に対してご自分のところに来て救われるように心から招いておられるのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」(Ⅰヨハネ2:2)
五旬節にエルサレムに集まっていたユダヤ人たちに、主は聖霊の証印と力を約束されました。その日、3000人が救われ、五旬節以前に建てられた教会に加えられたのです!この超自然的な力は今日の私たちの働きのための力でもあります!父、子、聖霊からなる三位一体のすべてが働かれたのです。
主の弟子たちは皆ユダヤ人で、アブラハムの時代からずっと、自分たちが一番であり神のご計画の中心であることを当然だと考えていました。五旬節の出来事の後もそのような考えを持っていたことでしょう。「天国はユダヤ人だけのものだ」ときっと彼らは考えていたのです。なぜなら、「さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった。」(使徒11:19)によると、彼らは五旬節からずっと後になってもユダヤ人にしかみことばを語っていませんでした。
これは大きな問題でした
主がサウル(後のパウロ)にお現れになり、異邦人に対する使徒とするために彼を立ち上がらせてくださったとき、このユダヤ人たちの間違った考えを正そうと主はすでに働いておられたのです。その後主はペテロに(頑固なリーダ)きよくない物(異邦人を表しているようです)が天から降りて来るという幻を3度見せられました。これらの物は四隅(地の果てを表すようです!)を吊るされた敷布に入れられていました。そして主はペテロに「立ち上がり、屠って食べなさい!」と命じられたのです。神様はペテロの考えを変えてくださり、すぐにペテロは異邦人に対してみことばを語り始めたのです。
次に主は、不思議な方法でペテロと百人隊長コルネリオを出会わせてくださり、その後サウル(パウロと改名しました)にも働いてくださり、異邦人に福音が宣べ伝えられるようにしてくださいました。これら一連の出来事が私たちの霊的なルーツなのです! 4000年もの間続いた内向きな「ユダヤ人のみ」という文化を、神様ははっきりと変えてくださったのです!今日、神が教会に求めておられるのは、外に向かって地の果てまで出て行くことです!これが主の祝福をいただく方法です。
私たちは若い人たちに、主にフルタイムでお仕えすることの素晴らしさとその豊かな報いをよく伝えなければなりません!
私たちも同じ問題を抱えていませんか?
ここ10年の間、教会数は増えていません。多くの教会ではバプテスマ式より、お葬式が多いのです。私たちは後ろ向きに進んでいます!このことに懸念を抱く人はいるでしょうか?なぜもっと多くの人が主の働きのために献身し、神学校に入学しないのでしょうか?
これは深刻な霊的問題であると私は申し上げます。神学校のカリキュラムから宣教学のコースが削減されたと聞いています。ひとこと言わせていただきます。神学校の創始者の一人としてその権利はあると思います。神学校に宣教学のコースを増やし、牧師と宣教師の職務を重視すべきです。パウロはローマ11:13でそうしました。その結果福音は広がり、異邦人すなわち皆さんと私に届いたのです!私たちは若い人たちに、主にフルタイムでお仕えすることの素晴らしさとその豊かな報いをよく伝えなければなりません!
宣教をあるべき形でしっかりと重要視し強調していくことが、祝福の秘訣です!私は70年間の日本での宣教でこのことを体験してきました!主に従ったことに対して1000倍もご褒美をいただいてきました!フルタイムで主にお仕えすることには大きな報いがあります!
カナラップ先生はマタイ9:38を引用し、働き手が起こされるよう毎日午前、午後9時38分に祈りましょうと呼びかけられました。私たちはこれを実行に移すでしょうか?私は働き手が与えられるよう祈るために携帯のアラームを午前と午後9時38分に合わせました。
私に加わってくださいませんか?このメッセージを皆さんへの愛をもって書いています。私たちがこのことに心を砕いていることを神様が見られ、喜んでくださるようにしましょう。主は答えてくださいます!
私は次のことをチャレンジします:
毎日午前と午後9時38分に働き手が起こされるよう祈りましょう。神様は聞いてくださいます。
救われていない友人や家族の救いのためにも祈りましょう。
教会にリバイバルが起こされるよう祈りましょう。
語る勇気が与えられ、主の証人となることができるよう求めましょう。
主は聞いておられます!
「だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:38)
余ある霊的祝福
滝山聖書バプテスト教会牧師 テイ・エイケン

「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」 ピリピ4章17節
第二次伝道旅行の時、神様からのはっきりとしたビジョンに従って、使徒パウロ達は海を渡ってマケドニアへ向かいます。それがヨーロッパ大陸への福音宣教の始まりでした。初めて訪れた地で、経済的にも乏しい中、どのようにして、パウロ達が福音伝道を数十年間続けられたのでしょうか?聖書によれば、それは、初代教会のクリスチャンたちの沢山の祈りと共に、惜しまない物質的なサポートがあったからだとのことでした。その中でピリピ教会は、常にその重荷を担って、パウロ達を支援していた教会でした。「テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。」(ピリピ4:16)。パウロの感謝の気持ちが込められた言葉でした。パウロたちはそれ以後、次々と福音伝道を進められ、ヨーロッパ全土へと広げていきます。「私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。」(ローマ15:19)。
言うまでもなく、昔も、今も、福音宣教を拡大するために、物質的なサポートがとても欠かせない奉仕です。昔よりも、むしろ現代のほうがもっと必要なのかも知れません。なぜなら、近年世界各地で物価が高騰している中、宣教師が現地での働きのコストがさらに高くなっているからです。そのため、宣教師たちは、時にはやむを得ず車を手放したり、子供の教育を犠牲したり、集会の場所をもっと狭いところに引っ越ししたりすることもあるでしょう。しかし、その一方で、サポートする側の日本にある諸教会は、教会自身の厳しい財政の中、海外宣教のために精一杯犠牲を払っている状況です。おそらく、このような状況の中で、教会から海外に宣教師を送り出すことはまず現実的に難しいことでしょう。また仮に、教会の中に海外宣教に重荷がある献身者がいたとしても、経済的なことを配慮して、奉仕の場を日本国内を優先するかもしれません。
このように、世界宣教を拡大する働きは厳しい現状の中にあります。しかし、主イエスの宣教大命令、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」ということは、常に私たちに、力と希望を与えるべきです。ですから、より多くの方々が世界宣教の働きに関わり、その恵みに与るために、献金など物質的な奉仕の霊的な意味を知ることがとても大事です。
そもそも、なぜ、祈りなど霊的な奉仕だけでは十分ではないのでしょうか?「神様は全知全能なるお方ですから、私たちが物のやり取りをしなくても、心を込めて祈れば、神様が奇跡でも起こして、何かをしてくれるのでは。」と、あるいは、「霊的なことは神の力で、物質的な物は人間的な力だ」と思う方もおられるかもしれません。
確かに、御心であれば、神様ご自身の御業で、烏を用いて人を養うことも、五つのパンと二匹の魚を用いて5000人への給食をなさることもできます。しかし、聖書は、人類の歴史の中での神のお働きは、その方法だけではないことが明らかです。もし、霊的なことだけが神様の力の現れであれば、使徒パウロが福音宣教の時に、諸教会の祈りだけで、すべてが満たされたはずです。しかし、現実にはパウロも、「飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(第二コリント11:27)とあります。これは何を意味しているのでしょうか?主の働きは、物質的な奉仕は、霊的な奉仕と同じように重要だということです。神様は、霊的なことも、物質的なことを用いて、御力を現わされるのです。「地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。海は主のもの。陸地も主の御手が造られた。」(詩篇95:4-5)とあるように、天にある霊的な物だけでなく、地上にある物質的な物も神様に造られて神様のものですから、神様がこれらの物を用いられて、ご計画を進められることは当然なことです。ですから、もし、私たちが神様の御心にかなった信仰生活をするのであれば、祈りなど霊的な奉仕と同じように、物質的な奉仕も大事にしなければなりません。
主の働きのために、物質的な支出によって、私たちの霊的な祝福が償わせられて手に余るとのことです。つまり、物質の支出は、私たちの霊的な黒字につながることです。これが神の経済学です。
実は、ピリピ教会の惜しまない贈り物は、そのままピリピ教会にとって、霊的な祝福になるのだと、パウロは言っています。「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」(ピリピ4:17)。この箇所から、神の御手にある霊的な帳簿が見えるのです。神の帳簿の計上方法は私たち普段のやり方とはかなり違います。私たちは家計簿をつけることがあると思いますが、家計簿を通して、家計の状況を分かりやすく把握することができます。支出が多いと余裕がなくなり、支出をうまく抑えれば貯金が増えます。しかし、神の御手にある霊的な帳簿の計上方法はそれと真逆です。主の働きのために、物質的な支出によって、私たちの霊的な祝福が償わせられて手に余るとのことです。つまり、物質の支出は、私たちの霊的な黒字につながることです。これが神の経済学です。つまり、尊い物質的な犠牲は、豊かな霊的祝福をもたらすことになるとのことです。それが私たちの実として霊的な帳簿に計上されるのです。ですから、パウロの喜びは、自分の必要が満たされたことにあったのではなく、ピリピ教会が神様から余りある霊的な祝福を受けることにあったことがわかります。
おそらく、私たちは自分の霊的帳簿に結ぶ実がたくさん計上されることを願っていると思います。そうであれば、私たちは自ら進んで、自分の力に応じて、世界宣教に関わるべきではないでしょうか。思えば、私たち一人一人が世界宣教の恩恵を受けたのです。世界宣教によって霊的なものを頂いたのですから、物質的な奉仕をもって、その収支を償わせる義務があります。本来は、私たちの持ち物はすべて、神様から与えられたものですから、神様の働きのために使うべきです。それは当然のことであるにもかかわらず、神様は私たちに豊かに祝福してくださるのです。これこそ恵みではないでしょうか。
パウロは、ピリピ教会の贈り物を神様への礼拝行為だとして、このように言っています。「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」(ピリピ4:18)。このように、私たちの尊い祈りが神様の御前に届くのと同じように、私たちの世界宣教のための尊いささげものも、香ばしい香りの供え物として、天にある神様の御座にまで届いて、神様が喜んで受け入れられるのです。