滅び行く人々への情熱と責任
沖縄聖書バプテスト教会伝道師 張替 道雄
「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪しき者に『悪しき者よ、あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もし、あなたがその悪しき者に、その道から離れるように警告しないなら、その悪しき者は自分の咎のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。」エゼキエル33章7〜8節
私たちが今生かされているこの世界は、「この世の神」である悪魔が支配している世界です。多くの人々は、造り主であられる真の神を認めず、自分自身の罪ゆえに永遠の滅びに向かっています。この現状に心を留めるとき、先に救われた私たちキリスト者が、改めて覚えるべきことは何でしょうか。
滅び行く人々への情熱
「というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」(ピリピ3:18)
ここでパウロは、「多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる」という事実を、「たびたび」「涙ながらに」語っています。これは、今の時代も同じです。今なお、多くの人が、特に日本では99%以上の人々(少なくとも統計上)が、キリストの十字架の敵として歩んでいるのです。世界に目を向けても、実に多くの人々が、真の救いを知らずに、日々滅びに向かっているのです。私たちは、この事実に、どれほど関心を寄せているでしょうか。日々の自分の歩みが忙し過ぎて、或いは、目の前にある様々な問題が大き過ぎて、「滅び行く人々への情熱」を失ってしまってはいないでしょうか。私たちは、先に救われたキリスト者として、この素晴らしい御救いに与った者として、何のためにここに生かされているのか、その意味を改めて確認する必要があるのではないでしょうか。
イエス様は、ご自分のもとにやって来る大勢の群衆を見て、あわれまれました。[内臓がよじれる]ほどに、心を痛め、深くあわれまれたのです。このイエス様のあわれみの心が、私たちのうちにあるでしょうか。このあわれみによって、救いに与った私たちが、今度は、このあわれみの心をもって、滅び行く人々に向き合っているでしょうか。神のみこころは、「すべての人が救われて、真理を知るようになること」(1テモテ2:4)ですから、私たちは、「世界の人々」の救いを祈るべきです。しかし、それは同時に、私たちにとって、漠然とした「世界の人々」ではなくて、今、私たちの目の前にいる人こそ、イエス様のあわれみが、イエス様の救いが必要な存在ではないでしょうか。彼らの救いのために、情熱をもって祈っているでしょうか。伝道の機会が与えられるように、主に、本気で祈り求めているでしょうか。今、私たちが置かれている場所は、主によって遣わされた収穫の畑と言えるのではないでしょうか。職場、地域、家庭、学校、或いは様々な人間関係の中で、私たちはどのような心で過ごしているでしょうか。彼らと私たちは、「救い」という点で決定的な違いがあります。これは、由々しき事態です。イエス・キリストを信じない人があまりに多いので、私たちはこの危機的状況に慣れてしまっていないでしょうか。「あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4:35)と主は語られます。私たちは、目を上げて畑を見ているでしょうか。人々の救いに、どれほど関心をもっているでしょうか。伝えても伝えても、なかなか信じる人が起こされない現実があるかもしれません。多くの人々はイエス・キリストに無関心かもしれません。しかし、私たちの側が、その人の救いに無関心であってはいけないのです。私たちは、滅び行く人々への情熱をもって、主イエス様からいただいたあわれみの心をもって、関わり続ける必要があることを覚えたいのです。
福音を宣べ伝える責任
「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪しき者に『悪しき者よ、あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もし、あなたがその悪しき者に、その道から離れるように警告しないなら、その悪しき者は自分の咎のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。」(エゼキエル33:7〜8)
これは、主が、預言者エゼキエルに語られたみことばですが、私たちキリスト者一人ひとりに対しても語られているみことばと捉えるべきではないでしょうか。救われた私たちには責任があるのです。滅びがあることを知っている者として、それを警告する責任、滅びからの救いを知っている者として、その福音を宣べ伝える責任があるのだということを改めて覚えたいのです。主イエス様は、昇天される際、弟子たちに次のように言われました。
「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:19〜20)
いわゆる「宣教の大命令」です。信仰の先人たちが、主イエス様からのこのご命令に、時に命がけで従い通してくださったゆえに、こうして、地の果てに住む私たちにも、この福音が届けられたのです。この事実を覚えるとき、そして、自分が頂いている救いの価値に気付かされるとき、私たちは、自分さえ救われたのだからいい、とはならないはずです。脈々と受け継がれてきた「責任」、この「福音を宣べ伝える責任」が、今を生きる私たちキリスト者にも問われているのです。福音は、信じない者には厳しい死の宣告です。福音を宣べ伝える者は、福音の力を信じ、依頼者である神と警告すべき相手を愛し、相手の反応を恐れない勇気とご聖霊が御言葉を通して働かれるという信仰が必要でしょう。私たちは、もっと真剣に、このことに向き合わなければならないのではないでしょうか。
こんなにも情報が溢れている社会にありながら、多くの人々は、真の福音に辿り着けていません。「この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしている」(2コリント4:4)のです。私たちは、このような世界にあって、福音の光を届けるようにと、責任を委ねられた一人ひとりです。神は、「宣教のことばの愚かさ」(1コリント1:21)を通して滅びゆく人々を救おうと定めておられます。本当に不思議なことですが、私を筆頭に、愚かで知恵のない、無に等しい者を、神は用いてくださるのです。「責任」を委ねてくださった神は、私たちがその[責任]に生きることができるように、知恵と力を備えていてくださるお方です。
私たちは、先に救いに与った者として、改めて、この恵みに感謝し、喜んで、滅び行く人々の救いのために、自分自身をおささげする者でありたいのです。
