救霊の愛を受け継いでいく

札幌聖書バプテスト教会牧師 栢下 献

「すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。』と言って彼の右手を取って立たせた。」 使徒の働き3章6‐7節

栢下献先生
冒頭のみことばは、ペテロとヨハネが神殿の「美しの門」の前で、生れつき足の不自由の男と出会った時に語った言葉です。ペテロたちは、主イエスと共に3年半を過ごし、その救霊のわざをすぐ側で見てきました。目の前の一人に目を留め関わるお姿、罪人たちや弱者を見捨てずに助ける主の愛を、幾度となく見て来ました。弱かった彼らですが、主の復活と昇天の後、聖霊に導かれて大胆に伝道を始めました。その時、弟子たちは主イエスと同じ目線をもって宣教を受け継いでいったのです。

失われた魂への関心

ペテロとヨハネたちは「毎日、心を一つにして宮に集まり」(2:46)とありますので、日常的にこの男のそばを通り過ぎていたかもしれません。しかしこの時彼らは、自分たちに施しを求める男を注意深く見つめました。その必要を強く覚えたのです。宣教は、自分の目の前にいる人、助けを求めている人々に関心を持つことから始まります。宣教は、救われて変えられた感謝と主の命令への応答によりますが、次にその思いは、目の前の一人の魂への関心に向かって行きます。羊飼いもなく弱り果てて倒れているような群衆を「主は深くあわれんで」(マタイ9:36)くださいました。ですから主に御手によって立ち上がった私たちも、同じように、身近にいる方々に目を向け、主イエスの御名を語るべきです。倒れていた人が立ち上がって、主を賛美する人生、礼拝する人生に変えられるのを見ることは、何と嬉しいことでしょうか。

私にあるものをあげよう

この時、ペテロたちは「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」と言って、彼の右手をとって立たせました。ペテロとヨハネ自身には、この男の求める金銀や足の問題を解決する力がありませんでしたが、「私にあるものを、あげよう」とイエス・キリストを指し示したのです。私たちには、全ての人の根本的な痛みと悲しみに十分に応える力はありません。命の問題や深い悩みに答える知恵も持っていません。辛い現実を前に励ましの言葉もない時があります。しかし、助けられない自分自身を知りながら、なおもペテロたちのように、キリストこそ人生を変え、生きる力を与えられるお方だと宣言できるのです。この「私にあるものをあげよう」という言葉こそ、教会の宣教の言葉です。またすべてのクリスチャンが共有できる救霊愛の一言、伝えるべき大切な言葉です。

救霊の愛を受け継いでいく

使徒たちのこのような働きと初代教会が始めた福音宣教は、今に至るまで途切れることなくつながり、世界中に広がり続けています。ペテロとヨハネが救霊の思いで差し出した手は、日本でも、全世界の宣教地でも、今も変わらず必要とされています。ですから、救いを頂いた者全てが、日常生活の中でこの愛の行為を受け継いでいくことが大切です。

私が神学生の頃、帰国されていた宣教師の先生に、効果的な伝道方法は何かお聞きしたことがありました。その先生は、『私の国では十分な聖書もなく、伝道の学びもありませんが、信じて救われた方はすぐに、家族、友人、知人にイエス様のことを話し出します。そしてそれが続いて行くのです。』と笑顔で答えてくださいました。それは人の思いを超えた神様のみわざです。しかし宣教師の救霊の愛が、救われた信徒たちに素直に受け継がれているのだと思います。たとえ魅力的な伝道プログラムや時間をかけた準備がされても、そこに救霊の愛がなければ、それは一時の満足だけで終わるのでしょう。

宣教師の思いと一つの地方教会の魂への真剣な祈りと支援があったからこそ、年月を経て、私もまたその思いを受け継ぐことができたのです。

私たちのフェローシップも、福音だけを携えて海を渡られた、数組の宣教師家族の熱い救霊の思いから始まりました。宣教師ご夫妻の日本への思いと犠牲は、主に豊かに用いられ、多くの伝道者が起こされ、今では北海道から九州、沖縄、さらに海外にまで宣教は広がっています。このフェローシップの群れが保たれ、前進してきた一つの理由は、諸教会が主イエスの命じられた宣教を大切に受け継いできたことにあります。

私自身は、牧師家庭に生れ育ち、福音を身近に聞いて信仰が与えられました。しかし、お寺に囲まれた京都で生まれ育った父は、大学生の時に初めて天幕集会で福音に触れました。仏教家庭に育ち仏壇に手を合わせる中で、真の神を知って大きな衝撃を受け、メッセージを聴いてキリストの救いを受け入れました。一人の宣教師の日本人を愛する救霊の叫びが、一人の青年を救いに導いたのです。その後、初期の名古屋教会で伝道奉仕をする中で、牧師と教会全体の救霊の愛に押し出されて伝道者へと導かれました。宣教師の思いと一つの地方教会の魂への真剣な祈りと支援があったからこそ、年月を経て、私もまたその思いを受け継ぐことができたのです。京都、名古屋、千葉を通って宣教のバトンは受けた私は、札幌で福音宣教にたずさわる恵みに与っています。すべて主のなされる御業は不思議です。最初は小さな点から始まったとしても、つながって線になり、やがて面となって発展していくのです。どの時代にあっても、先に救われたキリスト者とその教会が福音を途切れさせず、「わたしにあるものをあげよう」とキリストを証し、救霊を受け継いで行くならば、どんな宣教も点から線、さらに面へと進展しくのだと信じます。

たとえ今、わずかな点しかなく、将来の線や面への展開や道筋が見えない状況でも、ペテロたちのように目の前の一人と向き合い、手を差し出そうと思います。

宣教の実である私たちには、救霊の愛を保ち続け、主のお建てくださった地域教会を、次の世代にしっかりと引き継いで行く責任があります。教会が新しい実を結び、点が線になるよう、次の世代まで福音宣教をつなげていく使命があるのです。

教会に集まる小中学生たちに福音を伝える時に、「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」(エペソ5:16)。の御言葉を覚えます。だからこそ、「主のみこころ」(同17節)を正しく知り、私たちに与えられたどんな小さな機会も、十分生かすよう祈り求めています。今はまだ小中学生の子供たちも、将来、福音を固く握って、救霊の愛を受け継いでいく時が来ることを、私は主に期待して待ち望んでいます。たとえ小さくても、主のための尊い宣教の働きに携わせていただけるのです。すべてのクリスチャンが、目の前にいる誰かの右手をとって立たせる事が出来ます。

さらに、地方教会の足元の宣教を見つめながらも、それだけで終わりにせず、フェローシップ全体が次の世代にどのようにバトンをつないでいくのか、点で終わらせずに展開していくにはどうすればよいのかを、福音を受け継いだ者として、祈って行きたいと思います。