働き手を送っていただく祈り

横浜聖書バプテスト教会宣教牧師 山宮 利忠

yamamiya「そのとき弟子たちに言われた。収穫は多いが働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」  マタイ9章36〜38節

「あなたがたは、「刈り入れ時が来るまでに、未だ四か月ある」と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて刈り入れるばかりになっています」  ヨハネ4章35節

交わりのある諸教会が、世代の交代の時期を迎え、確かに働き手としての伝道者の少なさを痛感させられている時であり、各地で「働き手を送ってください」という声を聞く事が多くなりました。海外に遣わされた宣教師からも、「もっと多くの宣教師を送り出してください。」という願いや、現地の教会の牧会を委ねる牧師の必要があって、その養成のためにご苦労されている現状をお聞きします。

今後、ますます福音宣教の為、主のお体なる教会の養いの為に仕える牧会者としての働き手の必要が増すことになるでしょう。

主は、ここに働き手が少ないと言う事と、畑は既に刈り入れる時が来ているという、二つの重要な点を指摘しておいでです。

第一に、畑は既に色づいて刈り入れるばかりになっている。

働き手を送り出していただく為に、「収穫は多い」と言う主のおことばに、しっかり耳を傾ける必要があります。

確かに、巷を見れば数え切れない群集が滅びに向かって突進している姿を目にし、それとは逆に救われる魂の少なさが目立ちます。しかし、畑は既に色づいて刈り入れるばかりになっていると言う認識が、私にあったかと言うとそうではありませんでした。

実を結ばない現状に、疲れ果て、収穫の少なさに落胆が先立ち、収穫の少なさに多くの理由をつけては自らを納得させようとする自分がありました。

主の御目からご覧になれば、魂は、救いの必要が既に満ちて色づき、救いを待っている多くの魂があることになります。

パウロは、堕落の町コリントにおいて、その伝道の困難さの故に「弱く、おそれおののいていた」(1コリント2:3)時、主は、「恐れないで、語り続けなさい。黙っていてはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、私の民がたくさんいるから。」(使徒18:9)と励まされました。主の約束の中に「この町には、わたしの民が多くいる。」と言うお言葉はなんと大きな励ましになるお言葉でしょうか。私の見る目では、救われるものが少なく、事実、救われるものは、少ないのです。しかし、刈り取らない魂が多くあると、主はおっしゃるのです。

収穫の主から見れば、刈り取られない穂は、やがて腐って役立たないばかりか、害になり、漁る魚が沢山いながら取り入れない魚が沢山あれば、なんと主のみ心を痛めることでしょう。

実を結ばない現状に、疲れ果て、収穫の少なさに落胆が先立ち、収穫の少なさに多くの理由をつけては自らを納得させようとする自分がありました。主の御目からご覧になれば、魂は、救いの必要が既に満ちて色づき、救いを待っている多くの魂があることになります。・・・願わくは、主のお声を聞いて、収穫の畑に遣わされる者が多く、召し出され、主の御心に従う方が起こされますように。

私は、静岡県の清水で子供の頃過ごしました。清水港は貿易港であると共に、漁港でもあり、私の近所には漁師の方が多く、威勢の良い声が毎晩のように聞こえてきたものです。特に漁の多い大漁の時には、その威勢は、際立って大きいものでした。しかし,漁がない時の彼らは、一声も発することなく、真に静かなもので、「ああ、今日は、漁がなかったのだな。」と、すぐに判ったものです。天候にも左右され、漁の場所にも左右されるのでしょう。しかし、漁がなければ、彼らの死活問題なのです。なんとしても魚をとらなければなりません。

人を漁どる漁師とされた伝道者が、漁をする事をもって喜びとし又、生きる糧を得る事が出来ます。刈り入れるばかりになっている畑、多くの魚が群れている海、そこに必要なのは、この主のおことばでありましょう。未だ早い、ここは魚がいない、少ない、難しいと言えば、主のおことばに反する事になります。

私は、畑が色ずいていることは感じていても、収穫は、多いという強い確信をもって主に御仕えしてきたかと問われると、真に怪しいものです。私の目には収穫は少ないと見えても、主の御目には多いのです。収穫の多さを信じて働くことこそが、御心にかなった働き方なのでしょう。

第二に、働き人が少ないのです。

主の働きと、魂の刈り入れのための働くにつく人が少ないと、主は仰います。収穫は多く、刈り入れるものも多いのに刈り取る仕事をする人がいないということは、大問題です。

私は、これまでの牧会で、働き人を送ってくださいと真剣に祈ってきただろうかと振り返ってみると、そうではなかったなと、反省せざるをえません。

もちろん献身者の召しは人が与える事の出来ないものです。さらに、献身者の指導は、多くの時間と手間と犠牲が必要となります。いきおい、真剣に働き人を送ってください、私の教会から働き人を起こしてください、と祈ることが消極的になります。

主が働き人を起こしてくださるのであれば、主がお守りくださると信じる事こそが、私のあるべきあり方なのでしょう。主が責任を持ってくださると信じる事は知っていてもなかなか出来なかったのが現実でした。伝道者の働きの困難さを知れば知るほど、働き人を送って下さいと祈ることが難しくなったと言うわけです。

涙を流して出て行く、泣きながら束を抱えて出て行くことばかりに心を捉えられて、喜び、叫びながら帰ってくることへの強い思いと信仰が必要でした。また、喜び叫びながら帰ってくる働き人の姿と模範を多く見てこなかったことも、その原因の一つかもしれません。

「涙と共に種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ,喜び叫びながら帰ってくる。」(詩篇126:5)

第三に、祈ることです。

魂を主の御元にお導きする事のために、私達のできることは、まず、祈ることだと主は仰います。遣わしてください、と祈ることの中に、私の教会から誰かをと言う事だけではなく、わたくしも刈り入れの畑に遣わしてくださいと、祈る聖徒が一人でも多く必要ではありませんか。もしあなたが、主のおことばを受けて、多くの刈り入れが待っている、はや色づいて刈り入れるばかりだと言う事を信じる事ができれば、真剣に祈らねばなりません。誰かではなく私も刈り入れの畑に遣わしてください、と祈る必要があります。

「私は、だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。と言っておられる主の声を聞いたので、言った。ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6:8)

願わくは、主のお声を聞いて、収穫の畑に遣わされる者が多く、召し出され、主の御心に従う方が起こされますように。