すずらん聖書バプテスト教会牧師 エバンズ・トニー

evans「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」出エジプト記19:5-6

シナイ山で与えられたみことば

こ のみことばが与えられた時、イスラエルはシナイ山に到着していて、400年途切れていた神との関係が改められようとしていました。彼らはアブラハム、イサ ク、ヤコブを通して特別な契約をいただいていたわけではありますが、400年のエジプトでの生活によって、それに対する意識が薄くなっていました。天の神 よりもエジプトの偶像を日々見ていたでしょうから、彼らの『信仰』は、どれだけこの世に染まっていたことでしょう。

出エジプトであらわされた神の力

エジプトを出る前に、彼らの信仰が大きく試されました。モーセとパロとの間のやり取りが続く中で、天の神に対する信仰と大きな疑問が交互に続く状態でした。各災害がくることによって、エジプトの神々の無力さがはっきりと証明されました。

最後に、過ぎ越しの時、モーセを通して語られた神の言葉に従うことによって、天の神に対する信仰が徹底されました。子羊の血、そこだけに救いがあったのです。

他にも奇跡的なエジプトからの解放、紅海の横断、エジプト軍の全滅、シナイ山までの様々な試練もありました。

一つ一つを通して、神の愛、忠実や全能がはっきりと見せられました。

そして今、契約によって神は彼らの生き方を整えるだけでなく、一つの使命を与えようとされています。

イスラエルに与えられた使命

その使命とは?

祭司の王国になること、聖なる民となることでした。十戒を始め、与えられた律法は彼らに聖さを定義するものでした。神様の心、罪、贖い、和解、その他に多くの大事な概念が示されました。

「祭司の王国」の意味とは

しかし、祭司の王国とはどういう意味でしょうか。祭司とは、人と神の間の仲介の役を果たす人のことです。祭司職に任命されたアロンを含むレビ族は、他の十一部族と神との間の仲介を務めました。

同じように祭司の王国とは、全イスラエル人が祭司役を務めることによって、神のことが他の国民に伝えられる、という意味ではないでしょうか。

この使命を果たすために、まず彼らは自分を聖く保ちながら、自分の置かれた場所で、神に与えられた仕事を成し遂げるべきでした。すなわち、彼らの目の前にあるカナンの地に入り、そこの土地を征服し、そして初めて神の素晴らしさを伝え始めることができたでしょう。

しかし彼らは失敗してしまいます。完全な征服もできず、聖さも保てず、結局は自分と神様との間の関係が十分に構築できませんでした。基礎の部分で失敗したのですから、祭司の王国の役目が彼らの意識から消えたのも驚くようなことではありません。結果として彼らは自分たちの周りにいる敵に圧倒され、国内の一致や敵からくる攻撃に対処することだけが存在の目的になってしまい、外の必要に対する働きかけがほとんどできませんでした。

ダビデは詩篇で祭司の王国としての務めを謳っていた

しかし詩篇を見ると、イスラエルに与えられていたこの使命に関する様々なことをダビデはよく理解していたことがわかります。

①地獄の恐ろしさを。「悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も。」(詩編9:17)

②自分たちが得ている祝福によって、他の国々が神の救いを知るべきことを。「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。セラ それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。」(詩編67:1-2)

③神のご計画はイスラエルだけでなく、すべての国々まで至るものだと。 「 彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。」(詩編72:17)

残念なことに、ダビデの信仰とビジョンが後の世代に引き継がれることはなく、祭司の王国の働きは果たされませんでした。

エゼキエル書を読むと、「彼ら(もしくはおまえたち)は、わたしが主であることを知ろう。」のようなことばが70回以上繰り返されます。

神の切なる願いとは

神の切なる願いは、ご自分が神として知られ、神として崇められることでしたが、イスラエルはそのことに対する意識も失い、それに伴う使命も失っていました。

ですから何も驚くことではないのです。神様が、古い皮袋であるイスラエルに、新しいぶどう酒であるご聖霊を入れようとしなかったことは―(マタイ9:17)

また、神が異なった舌により、信じないイスラエルに語り、また裁かれたことは―(Iコリント14:21-22)

さらに、イスラエルに与えられた祭司の王国の責任が、今度は教会に移されたことは―(Iペテロ2:9)

この終わりの日にこそ、私たちはイスラエルの失敗から学び、自分に与えられた使命を果たそうではありませんか!

祭司の務めを自分の存在の意義として力強く握り、私たちにとってのエルサレムとユダヤ(日本)から始まり、サマリヤ(アジア)や地の果てにまで、福音の光を明るく輝かせようではありませんか!