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ホーム 2017-11-17T18:29:38+00:00

ようこそ

JBBF海外宣教のウェブサイトにお寄りくださった事を感謝いたします。海外宣教委員会の私たちは当ウェブサイトを通して、諸教会の皆様方に世界宣教をより身近に感じていただけたらと願っておりますので、大いにご活用下さい。また、皆様のご意見、ご要望などを参考にしながら、ウエブサイトの充実を目指しておりますので、よろしくお願いいたします。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 マタイ28章18〜20 節

小さな教会の宣教

枚方聖書バプテスト教会牧師 當麻 眞平

アンテオケ教会のように

 「そこで一同は、断食と祈りをして、手をふたりの上においた後、出発させた」(使徒13:3)。アンテオケの教会は、聖霊の導きでサウロを宣教に送り出しましたが、その時のアンテオケの教会はどのような状態だったでしょうか。宣教を始めるにふさわしい、十分に成長していた教会だったのでしょうか。アンテオケの教会は、ステパノのことで起った迫害のために散らされた人々が伝道して始まった教会です(参照、使徒11:19−21)。まだまだ始まったばかりの教会ではなかったでしょうか、しかし彼らはパウロ達を宣教に送り出しました。
 枚方で開拓伝道を始めてから、もうすぐ40年になります。小さな教会です。会堂は与えられていますが、土地の取得や建物の建築のために多額の費用がかかり、経済的に苦しい時代が長く続きました。今まで教会を継続することができたのは、主の守りと祝福があったこと、そしてしっかりした目標を持っていたからと信じています。それは世界宣教に参加することです。枚方の教会は、母教会から送り出され、多くの姉妹教会に支えられて開拓が始まりました。人々が集まり、救われる人も起こされ、教会としての形が見えてきました。
 アンテオケの教会はどうだったでしょうか。アンテオケにまで進んできた「散らされた人々」は主イエスを宣べ伝えました。「そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった」(使徒1:19−21)とあるように、アンテオケに教会が出来たのです。しばらくしてアンテオケの教会は、聖霊に導かれてパウロとバルナバを宣教に送り出しました。アンテオケの教会と同様に、私たちも、パウロとバルナバはいませんが、信仰約束宣教献金と祈りをもって参加することに決め、すぐに開始しました。

開拓伝道開始と同時に世界宣教に参加

 枚方教会は、開拓を始めてすぐに世界宣教の働きに参加しました。その時教会は、母教会や姉妹教会から祈りと献金の支援を受けている最中でしたが、「宣教の大命令」を実行しない教会はあり得ないと思っていました。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として・・・」(使徒28:19)。これは第一に世界宣教をせよと示すものと考えます。もちろん、開拓伝道ですから、足元の伝道が最優先です。地元の伝道をせずして信徒を得ることは出来ません。この足元の伝道は、当然行うものであって、必然的に行います。では、世界宣教はいつ始めるのが最善でしょうか。教会が成長して自立し、教会員も十分に確保できた時が世界宣教を始める時でしょうか。私は、開拓伝道を始めた時こそが、世界宣教を始める時であると信じています。教会が成長してから始めようとしても、かえって色々な必要や問題が教会内にあって、外に出て行く教会の力である世界宣教は、しづらくなるのではないでしょうか。しかし、開拓期から始めているなら、世界宣教は教会の働きの一つとして定着するので、教会が経済的に苦しくなっても、何か問題が起こっても、世界宣教に捧げることは当然のこととして継続が可能です。それは足元の伝道をやり続けるのと同じことです。

教会と世界宣教

 私は、この小さな教会が今も維持できているのは、礼拝を行い、伝道を続け、同時に世界宣教に参加しているからと信じています。つまり、主の宣教の大命令を守ってきたことで、教会は主の恵みをうけて守られているのです。私たちは教会の成長を願う時、私たちの思いは内側に向かいがちです。設備のため、伝道のために力もお金も必要ですから、外に出すことは無駄遣いに思えます。海外宣教は大切ですが、教会が第一でしょうとなるのです。しかし、主の命令は、第一に「あなたがたは行って」宣教することです。教会の成長のために、外に向かうことは決して損失ではなく、海外宣教は教会の力の源泉となるものです。流れ出ますが、枯れることはありません。宣教は、教会の力であり守りであると思います。教会はつねに一致して守られます。宣教をやめて、その力を教会のために使うなら当座は繁栄があるかもしれません。しかし、教会の基礎は緩み、亀裂もおこり、いつしか教会は傾いてしまうことでしょう。宣教は、教会の霊的な恵みです。

信徒と世界宣教

 普通の教会の普通の信徒の働きは、世界宣教にどれほど貢献しているでしょうか。使徒行伝には、多くの聖徒の働きが記されています。使徒たちの働きは特に興味深いものです。その中でもパウロの働きはとくに素晴らしいものです。海外宣教をしている宣教師の働きには、心躍らせるものがあります。普通の信徒の働きと比べることは出来ません。しかし、使徒行伝において、最も注目しなければならない宣教師たちがいますが、ほとんど注目されません。彼らは、実際は使徒でも伝道者ではなく、普通の信徒たちです。
 ステパノが殉教し天に召された後、「エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った」(使徒8:1)のです。「さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた」のです。その中にいたピリポはサマリヤに下っていき、人々にキリストを宣べはじめると、彼らはピリポの話に耳を傾けます。その結果、サマリヤの人々は神の言を受け入れたのです。そしてエルサレムにいる使徒たちは、ペテロとヨハネをそこに遣わして、主イエスを信じた人々にバプテスマを施したのです。これらの名もなき信徒たちは、エルサレムを追い出された人々ですが、福音を町々に宣べ伝えた宣教師です。彼らの働きが各地の教会の基礎となったのです。
 一人の信徒の働きは、ある意味でわずかな献金と祈りであるかもしれませんが、その働きの一つ一つが集って世界宣教を動かすのではないでしょうか。その一つ一つは、目立たなくても、なくてはならない働きなのです。宣教の地を訪問し伝道を助けることもなく、ただ宣教報告を聞いて、祈るだけかもしれませんが、その小さな働きがなければ、大きな世界宣教の働きは始まらず、また継続できないのです。世界宣教は本当に大切です。宣教師の先生方の犠牲に心から感謝します。そして、その働きを支えている信徒の働きにも心から感謝します。続けて世界宣教のために祈り、またささげましょう。